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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:長州藩の力)

長州藩の力を知る

tasukarimaの回答

回答No.4

なんかおかしいですね まず家定ではなく家茂でしょう和宮の相手は もちろん公武合体のための結婚です 確かに長州藩は朝廷の攘夷派と結んで朝廷を牛耳り あらかさまに幕府と敵対しますが それによって 力をつけたわけではないでしょう  公武合体は朝廷権威による幕府専制をおさえるためのひとつですから 家定ではなく家茂は攘夷派を抑えるため圧力をかけるためと 朝廷を無視しませんよという意思表示で京都へいきましたよね 船ではなく陸で 長州は攘夷論といより 倒幕怨念でしょう 力をつけたというか起爆剤は  この藩は正直好きになれませんよ 関が原で負けて 消えてなくなるところをどうにかいきのこったわけで まずはよかったよかったとかんがえなけりゃねと思います 戦に負けこの時代どれほど多く消えてなくなった国があったでしょう 逆恨みもいいとこ こんな話があったかどうか まことしやかに語られている話があります それは 元旦の夜明け前 一人の家来が殿様の前で こういいます 徳川を撃つ準備が整いましたと そしたら殿様が いやまだ早いと 怨念300年間つづけたそうです みんな足を江戸に向けて寝たともいいます 急進的な尊皇攘夷 倒幕から 池田屋事件  蛤御門の変で朝敵にされ二度にわたる幕長戦争によって ボロボロ 最悪  攘夷派でない倒幕組の右派が藩権力奪取をへて 薩長同盟がなってしまったものだから この藩の狂信的な力がうまい具合に作用し大きな時代の変革につながったように思います やはり薩摩だったんですよねキーボイントは  また 経済的には宝暦の改革が大きいでしょうね そのなかでも独自の制度(撫育方)は改革で得た増収を元手に 湾港および産業をを推進する組織 これが幕末長州の資金的原動力となったことは確かでしょう 余談ですが このあと戊辰戦争の戦後処理で会津藩を目のカタキのように人に対するものかとおもえるような処置した狂信性はなんかそののちの陸軍へとつづいていってような気がしますがどうでしょう   

suns
質問者

補足

回答ありがとうございます、すいません家定ではなく家茂ですね。。 間違えました。 <朝廷を無視しませんよという意思表示で京都へいきましたよね 船ではなく陸で>と書かれていましたが、これは男の人が婿養子に行くようなもの?ですかね?すいません、短絡的で、、、それまで幕府は江戸で権力をもっていたと思うのですが、家茂と和宮の結婚(幕府の策略??それとも長州藩の策略?)することによって、攘夷派が朝廷を支配しないようにした、ということですよね? また、意思表示と書かれていましたが、本当でしょうか? 最後に、船ではなく陸で京に行ったということですが、そこはどういうことでしょうか?船と陸の違いというのは? 質問多いですが、お願いします。

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