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未来は、存在していると証明できますか

マクタガートのA系列(過去・現在・未来)の三様相のうち、特に、未来という時間概念を論理的に探究する前に、そもそも未来は、存在していると証明できているのでしょうか?と思ってしまいます。僕たちが日常生活している現在とは断絶していて、決して現在の側からはその中に飛び込めない未来という「あの世」のような概念は、語り得ない、記述し得ない、親近感のない、超体験であるがゆえに、つかみどころがないように思うのです。未来という想定の確かさについて、教えてください。

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noname#80116
noname#80116
回答No.66

 No.64です。  かんたんですよ。  ★ 非現実・虚構としての《ゲーム・遊戯・劇》であって、〈絶対〉としての《ゲーム・遊戯・劇》ではないようです。  ☆☆  《〈絶対〉のもとで夢見る非現実ないし未来》  ☆ これが 《迂回路》を含んでいるからです。  ○ 《〈絶対〉 ≫という無根拠≪ のもとで ≫一人ひとりが それぞれ 主観として≪ 夢見る非現実ないし未来》  ☆ と読んでください。そうすれば 次のごとく 各自が それぞれ自由に アンガージュマンをおこなうというのが 基本になっています。  ★ ・・・「所与の絶対的な規範」に基づくのではなく、未来の現実の状況に向けて各自がアンガーシュ(拘束)されている「行為者」「役者」であると読み解く  ☆ ですよね?  ★ 各自が過去を反省し、現在の自己を否定し、未来に対して自己をプロジェ(投企-投げ入れ)する。  ☆ 《自己否定》は 一時 流行りましたが――そして それとして 自省は大事ですが―― この文では 《現在の自己》に対して 《否定》だけをおこなうかに見えますので その点だけが 気になりました。     科学哲学としては こちらは 相変わらずで 進展しませんが 大きく 《言語ゲーム》としての 未来論は その基本が見えて来たようですね。

qsxdrfvgyh
質問者

お礼

一般的に、企業の採用人事担当職が、面接で応募者の採用を決定する重要な要素の一つとして、「当社における将来的な貢献度」をその応募者の言葉と行動から、今実感できるかどうかという点があると思います。 「未来に対して自己をプロジェ(投企-投げ入れ)する」その応募者の状況が、その言葉と行動から想像でき、面接者がそれを納得できるかどうかが重要であろうと思われます。 「まだない未来」だけれども、そうなる努力(たとえば資格取得)、資質向上方策の実践、業界や経済情勢などの情報収集・現状認識・応募者独自の判断から、応募者の将来像がイメージできるかどうか次第で、合否が決すると思うわけです。 >《〈絶対〉のもとで夢見る非現実ないし未来》 これが 《迂回路》を含んでいる > ○ 《〈絶対〉 ≫という無根拠≪ のもとで ≫一人ひとりが それぞれ 主観として≪ 夢見る非現実ないし未来》  ☆ と読んでください。 このような《言語ゲーム》としての「未来論」を持つ人物では、採用人事担当職としては、全く、その応募者に魅力を感じません。夢見るだけでは弱すぎます。「所与の絶対的な」模範解答のような借り物を持ち出してもだめです。自分の言葉で語り、自分の能力に対するできるだけ客観的な現状認識に基づき、何ができ何ができないのか、明確に理解した上で、会社や社会にどのように貢献できるのかを熱く語り、「未来に対して自己をプロジェ(投企-投げ入れ)」した将来像がイメージできるような応募者でないと合格にしません。 その意味で、現実味を帯びた未来を熱く語れるかどうかは、その応募者の人間力に通じると思うのです。 そろそろ未来論を総括できる時期が近づいたようです。ここ数日、どのような例示がいいか悩みましたが、分かりやくいものにできたと思います。そして、「未来という想定の確かさ」は現時点(幅のある今)における個々人の言葉と行動・実践の差異によって、それぞれ全く違うと分かりました。自信のない人の未来は、全く確かではないようです。また、根拠のない自信過剰の未来は、完全なる虚構になっていると思います。根拠のある、実行・実践の事実の裏づけのある、未来の想定は、説得力があり、確かなものだと言っていいと思うのでした。これが結論になると思います。長い間、ありがとうございました。

その他の回答 (72)

回答No.12

たびたびおじゃまします。 人間が現在だと認識している<今>は、ちょっと前の幅のある過去です。 おかしな言い方ですが、この<今>を体感している真の現在は、その<今>の時の真の現在が既に流れた後なのです。 人間知性は、この真の現在の本来の性質である”変化”を使って<今>を錯覚し続けているのです。実生活に支障がない程度に遅れているのです。 そしてこの<今>側には、一定の幅があります。 真の現在は、まさに脳内現象を起こしている”変化”そのものであって、<今>とは全く異質です。 そう言う意味では、真の現在は存在するが、 人間にとって、過去も、<今>も、未来も、真の現在から遊離した存在であると結論づけられます。 なぜなら、<今>は、既に過去だからです。真の現在と<今>は全く違うものです。 真の現在には、過去も未来も一滴たりとも含まれていません。

qsxdrfvgyh
質問者

お礼

一瞬遅れの現在を<今>として認識し、その<今>は、過去化した現在と言えそうですね。 >真の現在には、過去も未来も一滴たりとも含まれていません。 >この<今>側には、一定の幅があります。 過去を思い出す、未来を想像する、という現実そのものとは違う、二次加工情報のような過去や未来として、<今>つまり「過去化した現在」の中に混在してくる感じが、時間の実感ではないかと思いました。<今>つまり「過去化した現在」においては、「事実」としての未来は存在するわけが無く、「想像」としての未来しか在り得ないと思いました。ありがとうございました。

回答No.11

カントの「理性の証明」をお借りして、質問者様が未来はあるのかと質問する、未来の回答を信じている揚げ足を取って「未来の証明」を試みて見ましたが、お気に召さなかったようで。 正直、時間論には首を突っ込みたくない(笑。難しいし頭が痛くなりますね。 マグダカートも主観的時間と客観的時間に分離して、時間の実在を論理的に否定した人、ぐらいの事しか知らないんですね。そこで、時間論そのものはおいて置いて、未来について。 さて、未来について書き込むまえに、一言、言い分けしておきます。 私の場合、存在と言う言葉に疑問を持っているんです、物質と精神と言うのでしょうか、或いは、表象、社会、道徳のように存在の有り様が違うものに、同じ存在と言う言葉を使うのは、混乱の元だと思っています。また、存在・実在・実存と言った言葉も、どうも人によって解釈が違うと考えないと整合性が維持できないのです。そんな訳で、以下では、一般的な存在と言う言葉だけを使う事にします。 未来の存在を証明するのが難しいとすると、未来は存在しないと言う仮説にたって考えて、矛盾が無ければ、未来は存在しませんが、矛盾が存在すれば、排中律によって、未来の存在を証明できると思いますが、どうでしょうか。 この現在に置いては、ご返事は期待できませんので、その前提で話を進めます、過去・現在・未来の中で、未来だけが存在しない事は可能でしょうか。そこで、最も存在の可能性の高い「現在」を酒の肴に分析してみましょう。 さて、現在とはなんでしょう、客観的現在ってあまり聞きませんね、私の場合どちらかと言えば独我論的な立場ですから、現在と言うと主観的な意識の状態としか言いようがありませんね。それでも、独断論に陥らないように、ベルクソンとかフッサール、或いはデリダの差延なんかを参考にすると、「現在」には「持続」が存在するようですね、要するに差異を知覚するためには、前項と後に続くものの存在抜きに、差異は知覚できませんね。そこで、私のいい加減な知識の中では、上記の哲学者は現在の中に「過去」と「未来」の存在を主張したと思っているんです。 と言うことは、現在に過去と未来が含まれていると言う結論になりますが、その中で、未来が存在しないとすると、現在も存在しないと言う矛盾に陥りますね、これで、証明できたでしょうか。 さて、蛇足ですが念のために補足します。 私たちの意識の現在を、例えば、キャッチボールをしている時の事を考えてみましょう。 ボールを投げる為には過去の経験によってどうすればボールを投げる事が出来るかと言う、過去が現在に浸透又は混合しています、同時に、投げられた結果、ボールが相手の取りやすい所に行くと言う未来に触れているはずです。 今日は、自転車でのんびりと美術館巡りをしながら、考え事をしようかと思ったのですが、6時間ほど走っているあいだ、考え事が出来ない、自動車を運転している時、つまり、馬上では考え事が出来るはずなのに・・・ 楽しい質問に感謝いたします。

qsxdrfvgyh
質問者

お礼

再度のご回答、ありがとうございます。 マクタガートの時間の非存在証明は、必ずしも正しいわけではなく、批判的に検討されていますので、修正の必要ありです。その際に、矛盾の有無で証明しようとしても、なかなかうまくいかないように思います。 >上記の哲学者は現在の中に「過去」と「未来」の存在を主張したと思っているんです。 他の回答者の中にも、幅のある現在観を書いていますし、僕もそう思います。しかし、三時排他性かつ三時同時性という矛盾を内包してしまい、そんなもんだよと妥協せざるを得ない状況に陥ります。数千年に及ぶ時間論の最初からある矛盾問題ですが、今回は未来に限定しています。未来を想定するには、永続する無限の時間が前提となる必要があるのかないのか、あるいは、実数ではなく、虚数として例示できるのかどうか、様々なアプローチを他の回答者からも期待したいと思いました。

回答No.10

 ANo.6での、お書き込みに対して、・・。  ☆現在と未来、そして過去も、相互に排除性があるという意味で、断絶していると表現してみました。まだ起きていない状態ともう起きた状態って、断絶してるでしょう。同時性がないからです。 (回答投稿者)仰せのことは時間が断絶していること、或いは相互に排除しているこの説明としては少し弱いような気がするのですが。それはその人にとっての一定の区分でして、時間そのものにおける相互排除性でもないし、断絶でもないような気がしますが。 >現在って、瞬間的に、時間もなく「未来」かと思っていました。 ☆ここが、僕の感覚との差異です。同時性がないと思うのです。 (回答投稿者)時間という観念はどのようにして人間の意識の中にでてきたのでしょうね。私たち、まったく無邪気であると、時間ってないような気がするのですが。  過去・現在・未来の区分やそれぞれの内容って何なんでしょうか。  私自身は、それらの全部は全て知覚・経験の結果でしかないと存じますが。つまり、その記憶内容で確認しているに過ぎないのだなと、存じますが。通常私たちが過去・現在・未来と言っても、私たちは知覚・経験している主格でもないし、過去・現在・未来を知覚も出来ていないと存じますが。現在として何かがある知覚・経験した過去の、その内容集積が現在だと思っている。瞬間に過去それ自身であり、もう未来である。(私の自己流の主観の気持ちです。) >未来は「あの世」だとは知りませんでした。 ☆僕の感覚では、「あの世」って、過去でも現在でもないのです。「この世」と並存する現在同時進行の別世界ではなく、隔絶した「未来」しか連想できないので、そのように割り当てました。実は良く分からないので、教えてください。 (回答投稿者)上の通り、私は「未来」を隔絶としては感じておりません。日本語で「あの世」というと、普通は、「死後の世界」を指示しますが、敢えてこれをお使いの独自性は評価に値します。  「未来」は「あの世」でもいいのですが、「現在」である、「この世」が「今」だというのはも「過去」たる「前世」、そして瞬間に未来である「あの世」となっていると存じます。私たち、ヒンドゥの学び者はこういう側面から輪廻転生を説明される場合もあります。  無論肉体というものの中に入ってきて、呼吸し、また肉体を脱いでいくという側面での輪廻転生も同じだと説明されております。  私はその説明を納得しております。  つまりこういう用語のなかでも時間はある主格(根底意識)の、唯一の現在しかない、主格とその意識を、知覚や経験内容という過去の結果とは別に意識できる(根底)意識の時間しかない。その意識の、現在という一つの経験しかない。という理解を説明されています。  螺旋であろうと、同時並行であろうと。平面を一望している、根源の意識の現在しかない。  という理解が私には一番、しっくりしておりますのです。  >時間という何かがある  ☆時間を実体化しているわけではないのです。「想定の確かさ」について教えていただきたいのです。 (回答投稿者)これについては、上の拙説明にてご容赦ください。  門外からの、一信仰精進者の駄弁でして、論理性や緻密性はどうかお許しください。  ことばや用語が違うかも知れませんが、どうか何とかご理解くださるようお願いします。

qsxdrfvgyh
質問者

お礼

再度のご投稿、ありがとうございました。 アドバイスではなく、回答になっていると思いました。 過去・現在・未来を主に現在(基準点)において想像・夢想しようとする場合、相互排除性もなく、断絶もないという感覚は、あると思いますし、その感覚はよく分かります。また、現実的には、近未来でもまったく予想外で断絶しているという思いもあります。想像する場合と現象認識する場合など、状況次第で、A系列でも多様な様相を持ちうると言えそうです。つまり、常に、過去だ未来だと区別せず、漠然と今という幅に収めてしまう感覚が、普通だと言えそうですね。ただし、輪廻転生は、やはり、物語であって、ノンフィクションではないと思いました。それは、論点ではないのですが。「未来」が「あの世」というのも、物語だと僕は思いますし、結構、気に入っているのです。しかし、毒された「あの世」観と同じ意味では、使用していないのです。ここも、論点ではないのですが。「死後の世界」とか天国・地獄ではなく、あらゆる可能性が一如化した唯一・絶対領域という想定であり、妄想です。

  • masa2211
  • ベストアンサー率43% (178/411)
回答No.9

マクタガートのA系列・B系列ですが、 A系列:主観的時間  B系列:客観的時間 であり、 物理学(古典物理)でいう時間はB系列。で、マクタガートはB系列を否定しているわけですよね? B系列かつ古典物理なら話は簡単で、現在とは、時間軸の任意点を時間=0とおいた点 なので、当然、未来は存在。(これは公理であり、公理は証明できないが議論の前提なので正しいとするしかない。) で、物理的意味を考えた場合、 たとえば、2010年1月1日に宇宙全体が破滅(空間そのものが破滅)しても、それでも時間は経過(古典物理ではそうなる。)するから、 未来は存在。 この時点で、A.No.1のお礼 >未来が確かにあるためには、宇宙が永続するという前提が必要なように思う が意味わかりません。 宇宙が破滅しても時間は継続する(古典力学では。)し、そうでないにしても、 宇宙が破滅する寸前までは時間は継続しているはずなので、 未来は(永遠ではないにしろ)存在しています。 ここは、 >未来が無限の長さにわたってあるためには、宇宙が永続するという前提が必要 でないと意味がとおりません。(あくまで、B系列で考えた場合。) また、自分自身が明らかに存在できない環境の時間に、A系列で何か意味があるの? (主観時間を考える場合には、自分自身の存在が大前提となる。) で、A系列に移りますが、B系列の用語を用いると、 時間座標t=0の位置がドンドン動いていく状態だから、 絶対にt>0にならないわけで、 たとえば、 ・○○政権は1年後に崩壊する と言った場合、B系列なら1年後にコレが正しいか普通の意味で決着がつくけど、 A系列なら、崩壊していなかったときに正しい(正しいためには、その時点から1年後に崩壊する必要があるため、既に崩壊しているなら1年後に崩壊することは不可能。) あはははは。いつまでたっても1年後。変化を、どうあらわせばいいの? (※B系列なら話は簡単で、「座標変換」です。でも、それが否定されてる。) ですので、マクタガートのようにB系列を否定してしまえば、 「未来とは、事象Aが永遠に続くこと」 であって、 ・事象Aが時間経過(B系列で言う時間経過)で変化する場合の表現手段が無い。 ということを意味しているのにすぎないのでは? つまり、 「人間が時間を認識(=表現)できるのはB系列のみである」 いいかえれば、 ・A系列においては、変化を記述する手段が無い (記述手段の有無と存在の有無は別モノであり、記述できないから存在しないとい論理は成立しない) と、それ以上の意味は無いのでは? あと、公理・定理・法則・理論 が、どう違うか、その辺は判っていますか? 判っていれば、 >未来は、存在していると証明できますか >未来という想定の確かさについて、教えてください などという矛盾した質問はしないと思うけど。 (証明とは、正誤が明確であること。確かさとは、正誤が明確でなく確率評価されるということ。この2つは明らかに区別しないとならない。) 公理:議論の大前提。正しいとするしかない。 定理:公理が正しければこうなるという結論。証明可能。 法則:経験上こうなるという結論。(絶対正しい保証は無いため証明不可能。) 理論:経験上たぶんこうなるであろうという結論。法則よりアヤフヤ。 証明できるのは定理のみ。法則や理論は、いつ例外に出くわすかわからないという意味で、証明できないのです。 ですから、科学には法則や理論はあっても定理は無いので、当然、証明できません。

qsxdrfvgyh
質問者

お礼

大変論理明晰ですが、回答部分がないのが残念に思いました。 質問文では、マクタガートのA系列「における」未来ではなくて、「それを探究する前に」未来という想定の確かさや「言葉の幅」を質問しています。 また、僕はマクタガートの時間論を批判的に探究していますから、マクタガートの時間論の失敗部分から学びたいと考えていますが、そこは今回の質問のテーマではありません。つまり、A系列は、枕言葉です。ただ、少しだけ書くと、A系列とB系列は独立した別系列ではなく、一つの出来事のA特性と複数の出来事のB特性が、結局は地続きなのであって、切り分けられないという入不二基義氏の説には、まったく納得しています。ですから、マクタガート信者ではありません。 公理・定理・法則・理論の定義は、大変参考になりました。 主観的時間の未来という想定は、法則や理論ではないので、つまり、科学ではないので、証明できないと明言していますね。 でも、ここは、哲学カテなので、論理的な思索を展開していただきたいわけです。たとえば、これこれなので「証明問題ではない」と。 ゆえに、「未来は存在している」は、公理なので、「証明問題ではない」というアドバイスでは、哲学になってないのです。存在論は、哲学の一分野なので、存在を論じていただきたいわけです。 >「未来とは、事象Aが永遠に続くこと」 ここが、意味不明です。日常言語ゲームで、未来は、一事の永続だと言う人をかつて一人も知りません。そのような用法があったとは、驚きです。何か特殊な用法でしょうか。たとえば、何かのアニメとかで。僕には理解できないのです。

qsxdrfvgyh
質問者

補足

>宇宙が破滅しても時間は継続する(古典力学では。)し、 これは、だめでしょう。公理である時間・未来を自説に反して科学的に展開しようとしていませんか。でも、消滅後の継続となると、ある種の信仰のようにも読み取れそうです。注意深く読むと、明晰なる誤りが多々見えてくるので、読者のために、追記します。

回答No.8

「秋の夜はつるべ落とし」でしたか、 歳を取ると記憶も曖昧で、 私の様にお天道様が昇っている中にお酒など飲んではいけない、 と、思っているものにとっては、秋の夜長も良いものですね。 のんびりとお酒など飲んで、此処の質問を酒の肴にするのも良いかも。 とわいえ、こうしているうちに、 回答の内容を忘れて泥酔に陥りそうなので、一言。 >未来は、存在していると証明できますか と、質問した行為自体が、ご質問者様が未来が存在している事を信じている事を証明できます。 信じている事を証明する必要がある・・・ 酒の肴にならなくなるので、この辺で失礼します。

qsxdrfvgyh
質問者

お礼

>ご質問者様が未来が存在している事を信じている 信じているとは限らないのです。むしろ逆です。証明などできないのではないかと思うのです。霊魂は存在しますか?という問いと同様の問題だと思うのです(回答が同じという意味ではありません)。しかし、証明できなくても、日常の言語ゲームでは、気軽に使用していて、これらの概念は、厳密にはどのような深みがあったり、矛盾があったり、他の類似概念と整合したりするのかを教えてもらおうとしています。「秋の夜長」にぴったりでしょう。意外と、論理的に広がりをみせてきて、一歩一歩、未来概念の近接領域を照らし出すことがあると思うのです。

回答No.7

>未来は、確実にないと証明できますか? 如何なる概念もその限界内でしか証明できません。 この時空間が、縦、横、高さ、そしていわゆる時間→変化 である限界内において、未来はありません。 なぜならば、現在があるからです。 現在と同時(←おかしな言い方ですが解って下さい。言語がありません。)にいわゆる未来は存在し得ません。 以上で証明は終わりです。 しかし、その限界外・・・・ 現在が多層的に存在することを可能とする次元を加えれば未来はあります。 過去、現在、未来は、そこに厳然として存在します。 人間存在は、その多層的宇宙をいわばスイープして、 現在を変化として認識する存在となります。 この場合、変化しているの人間存在側となります。 その区別を我々は知ることができません。 しかし、未来があるとする立場に立つと 未知の次元があると言うことになります。  他に、人間が作った時間としては、心理学?認識学?では その分野で1万円と同じように時間(現在過去未来)を定義するんだと 思います。 >数千年の人類の歴史的な記録を見ると、その間は、未来がたまたまあっただけでしょうか?未来がないのなら、世界は太古の昔に静止したままのように思うのですが。  過去も未来と同じように一切ありません。  化石と記憶(記録)があるにすぎません。  過去のある時点から見て、現在を、未来であるとする  こともの全部を人間側が作っています。  第一段落記載の限界時空間宇宙には現在と変化しかありません。

qsxdrfvgyh
質問者

お礼

なるほど、大変適確な回答だと思います。未来がないという場合、やはり、過去もないと言わなければ、一貫しません。その意味で、まったく正しい論理展開です。また、現在と未来の非同時性も、そのとおりです。同時にあっては、矛盾します。一方があって、他方がないという状況では、同時性は可能です。つまり、未来は幻想・想像・フィクション・虚構・・・という場合です。有意義な展開になっているようです。ありがとうございました。

回答No.6

 ☆僕たちが日常生活している現在とは断絶していて、   ⇒断絶している未来って、存在が途切れているのですね?    そんな未来ってありえるも、何もないのでしょう?    それにしても≪僕たち≫ってどういう存在なのでしょうね。  ☆決して現在の側からはその中に飛び込めない未来という「あの世」   未来は「あの世」だとは知りませんでした。   現在から飛び込めないと「未来」ではないのですか?   現在って、瞬間的に、時間もなく「未来」かと思っていました。   「あの世」っていうご表現でしか「未来」はご観念できないとは存じませんでした。この「現在」は、同時に意識内容・存在自体たる過去でしかなく、それは「未来」でしかないとしか、この老人は思えませんでして。  ☆時間概念を論理的に探究する   ??時間って、対象が客体として存在する(意識され、紡がれる)意識が存在を見る単なる属性なのかと思っていました。そういうものではない、時間という何かがあるとは存じませんでした。そんなものあったのですね。面白いというより、何の意味もないような感じがしてくるのですが。   論理的な、回答でなければいけないのですか?   時間のそういう区切り名称って、論理の世界のテーマでしかなかったのですか?論理的説明は帰納、演繹、何かありましたね。そういうような、人間の論理方式でジャスティファイできないと、お誉めに与れないのでは、ご訪問の皆様もご回答が難しいですね。  時間がそういう区切りでなければならないということを前提される趣旨は、どういう意味なのかお教えください。どうかお願い申しあげます。   

qsxdrfvgyh
質問者

お礼

大変鋭い、ご指摘、ありがとうございます。 現在と未来、そして過去も、相互に排除性があるという意味で、断絶していると表現してみました。まだ起きていない状態ともう起きた状態って、断絶してるでしょう。同時性がないからです。 >現在って、瞬間的に、時間もなく「未来」かと思っていました。 ここが、僕の感覚との差異です。同時性がないと思うのです。 >未来は「あの世」だとは知りませんでした。 僕の感覚では、「あの世」って、過去でも現在でもないのです。「この世」と並存する現在同時進行の別世界ではなく、隔絶した「未来」しか連想できないので、そのように割り当てました。実は良く分からないので、教えてください。 >時間という何かがあるとは存じませんでした。 時間を実体化しているわけではないのです。「想定の確かさ」について教えていただきたいのです。 ☆時間概念を論理的に探究する ここに焦点があるのではありません。むしろ逆です。「論理的に探究する前に」未来という想定の確かさについて、思うところを教えていただきたいのです。もちろん、論理的な方が好きですが。

回答No.5

未来はありません。確実にありません。 ないものをあると想定しても確かさは追求できませんよね。 唯一、変わらないものと言えば、変化する と言うことでしょう。 これを観察して、未来を作ったのは人間であって、 1万円札と同じ色をしています。こっちは経済学か。

qsxdrfvgyh
質問者

お礼

なるほど、未来という存在しないことを想定しても、確実性を問えないという論理展開は正しいと思います。存在しないものに確実な存在性など、論理的にあるはずがありません。では、絶対的な不存在性はどうでしょうか?未来は、確実にないと証明できますか?数千年の人類の歴史的な記録を見ると、その間は、未来がたまたまあっただけでしょうか?未来がないのなら、世界は太古の昔に静止したままのように思うのですが。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.4

[未来という想定の確かさについて、教えてください。] 因果の理法(因果律=原因・結果の連鎖)はくらませられないのが「絶対法則」ですから、未来は100% 存在するのですね。因果律で考えれば時間的な現在の状態は「起きたこと」「今やっていること」「今考えていること」の大きく3つに分類できますね。これを時系列に並べると過去、現在、未来になるだけですね。時間は因果律に含まれる物理的概念ですね。時間は皆さんが便利なように一様な変化を示しますが、時間の方向性を論じるものがありませんね。物理学もまだ幼稚だからですね。時間の方向というのは矢のような直線だけではありません、螺旋とかくねくね曲がったようなものもあります。特に時間が螺旋のような方向性を持つているような場(時空間)では時間的な過去、現在、未来が同じ場所に存在することがあります。この場合は時系列的な見方は意味をなさないのですね。因果律で物事を見るしかなくなるということですね。それゆえ「因果律」という絶対法則があるということです。話は多少前後してますが、つまり「因果律」により時間的未来は100%保証されているということですね。 ちょっと難しすぎかな。

qsxdrfvgyh
質問者

お礼

なるほど、因果律ですか。因果律で、未来は100%保証されているということだとすると、因果律が破綻すると未来も破綻してしまいそうですね。つまり、因果律の完全性を証明しないと、未来の確実さも証明できないのでしょう。ゆえに、因果律の完全性を証明する問題に変質してしまったようです。その方法は、難しすぎです。質問の主旨としては、未来の永続性を保証していただきたいのです。ある時点で、宇宙・時空が停止したり、消滅したりするのかどうかです。因果の作用によっては、停止や消滅もあるとすれば、未来は100%保証されているということにはならないと思うのです。

qsxdrfvgyh
質問者

補足

量子論では、因果律は崩れるそうです。

  • ruehas
  • ベストアンサー率68% (816/1194)
回答No.3

こんにちは。 我々は過去の結果を基に未来を予測します。 「今日」といいますのは「昨日」に対しては未来でしたが、今現在に存在しています。我々はこの体験を基に「明日」が存在することを予測します。 では、明日が存在しないとしますならば、それは過去に無数に繰り返された全ての結果と尽く矛盾することになります。従いまして、立証できないというのは明らかな事実ではありますが、だからといいましても、未来は存在しないと仮定する方がよほど困難です。 A系列は主観的観察を扱うものです。現在における主体にとって「過去」と「未来」は必ずやこの関係を結ぶということですね。A系列における「未来の確かさ」といいますのは、我々の経験知によって裏付けられるものです。

qsxdrfvgyh
質問者

お礼

なるほど、帰納法及び演繹法の発想ですね。「今までは、明日が翌日には確認できてきた(「経験知によって裏付けられる」帰納法)から、未来はあったし、これからもある。」の「これからもある。」かどうかが、疑わしいわけです。また、(演繹法)「未来は存在しないと仮定する方がよほど困難です。」だから、未来の存在は否定できないだろうという消極的な証明でも未来の存在は疑わしいと思うのです。「未来の永続性を確認できないだろうか」と思うのです。かなりの無理筋だとは、思うのですが、ヒントが見えてくるといいなあという期待を込めているわけです。

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    デカルトなどが行ったと思いますが、神の存在証明を言うものがあると聞いた事があります。(私は哲学か科出ではないので、詳しくは知りませんが…) デカルト以外に神の存在証明をした人がいたら教えていただけないでしょうか。 お願いします。 アリストテレスもかな?

  • 《絶対》という概念を使いこなすようにならねばと

     ・・・思います。そのことをめぐって 問います。  おそらく互いのやり取りをつうじて 《絶対》は 互いのあいだに浮彫りになる。そういった問い求めのすがたが想い描かれますが そうであるかどうかは 発進してみなければ分かりません。  すでに幾度も問うていますが そういう意味でさらにすすめたいと考えました。  たたき台です。  1. ひとは おのれの存在が永遠ではないにもかかわらず 《永遠=無限=絶対》という言葉を持つに到り これを使っています。  1-1.  その意味で 《神》ということばも――そして《無い神》も―― 用います。  2. すなわち この経験世界を超えたところに《永遠=無限=絶対》を想定して それにもとづき言葉として・ゆえにそれなりに概念として使いこなしています。  2-1. 《経験世界を超えた》という意味は 経験事象における因果関係から自由だという意味です。  3. ですから 不思議なことにひとつの逆説のごとくに 《ことばそして概念》としては 《絶対=無限=永遠》は、経験世界に属します。  3-1. 経験世界を超えた《非経験の場》が 経験世界の内側において用いられています。  4. もうひとつに この《想定》のもとに 一人ひとりの主観の内にあっては あたかも《絶対なる者が この相対的で経験的な世界に 降りて来た》といった派生的な・第二次の想定をも持つことが自由であり これは ゆるされています。  4-1. 良心・信教の自由あるいは表現の自由という公理であるようです。  5. 繰り返しですが 《絶対=永遠=無限》は 非経験の場であり 《非在》です。定義(想定)において こう確定します。  5-1. 存在するか存在しないか どちらとも人間にとっては分からない場であり 場としてのチカラだと思われます。  5-2. ゆえに 神としては 有神論か無神論かは どちらも――自由に――あり得て 互いに同等ないわゆる信仰の立ち場です。  6. 同じく確認として言えば 或るひとりの人間の主観のうちにあっては 定義とそこからの派生的な想定として 《絶対=永遠=無限》は 二重構造となって過程しています。  6-1. 《絶対》の二重構造:   ・ 《非経験の場》そのものとしてのわが心の庭〔なる神〕:無根拠   ・ 《神》という言葉としてまた概念として用いられる《絶対》:因果       関係などの合理的な根拠を科学的に明らかにする場合に       すら用いられることがある。        たとえとして都合がよいのだと思われる。        6-2. すなわち 《無根拠で非在なる非経験の場》が 主観の内なる経験世界に 《定義としてのまぼろし(非思考の庭)》と《仮りにでも姿かたちを表わしたその現実(精神と思考の緑野ないし密林)》との《二重構造》を呈しています。     以上です。ご批判をつうじて精緻なものにして行きたいと考えます。  ちなみに 《絶対》をめぐる次のような文章もありますので ご紹介します。  ● (司馬遼太郎:絶対について) ~~~~~~~~  近代以後の日本の文学者が、西洋の小説を読み、読みおえてから小説を書きはじめたことは、いうまでもありません。  ただ日本には「絶対」という思想、慣習、あるいは日常の気分がなかったということが、決定的に不利でありました。・・・  むろん、絶対などは、この世にありはしません。宇宙にも、科学の中にも、存在しないのです。  しかしある、と西洋人は、千数百年をかけて自分に言いきかせつづけました。  絶対、大宇宙の神は存在する、うそではない、ということを、哲学として、神学として、論理をきわめ、修辞をきわめ、思弁のかぎりをつくして説きに説きつづけてきたのです。  ヨーロッパの荘厳さというべきものであります。(開高健への弔辞)    http://www.asahi-net.or.jp/~pb5h-ootk/pages/S/sibaryotaro.html  ~~~~~~~~~~~~~~

  • in the past / the future

    past とfutureになぜtheがつくのかについて質問します。私の説明を述べていきます。おかしいところがあればご指摘下さい。 まず、時間の枠組みを2種類提示します。一つは{past, present, future}という概念の枠組みです(枠組Aと呼んでおきます)。言語主体によって客対物として設定されたもので、それぞれが独自の時間領域を持ちます。 past, present, futureのそれぞれは、枠組みを構成するデフォルト要素(もともと存在するはずの要素)として組み込まれたわけですから、文中で使用される際は定冠詞がつきます。この時間領域においては、具体的な行為や出来事が表現されることはありません。3つの時間領域について抽象的な言明が行われるだけです。--Don't think of the past. Mind the present and the future. もう1つの枠組みは、現実に何かが存在したり起こったりすることが表現される場です。これを枠組B {past, present, future}と呼んでおきます。---She's busy at present, but will be free in the future. 枠組Bは生活者(言語使用者)によって日常常識的に把握されるべきものです。ところが、そこに、物理学的な時間の考えが混入してくると混乱を招くので、物理学的な時間の考えを排除しようと思います。  例えば、物理学では、無限にのびる時間直線tを引き、線上の任意の点を現在と定めます。ここでは現在が瞬間の時間とされます。(我々の日常常識的な考えでは、現実の現在の時間は瞬間ではありません。それは比較的短めの時間であって、その時間幅は言語主体の思惑に応じてよって伸び縮み可能なものです)。それだと、現在は人が生きる時間ではなくなってしまうので、物理学的な時間は今回の考察から一切排除するものとします。 なお、過去が現在より以前のことであり、未来が以後のことであるとすることは、第一義的に日常常識的な時間の考えだと思われるので、この考えは残します。 これから日常のありのままの時間について考察を進めたいと思います。  さて、人間は時間というものを考える時、まず「今」を基準に考えようとします。「今」が唯一、現実に生きられる時間だからです。「今」より以後の時間を未来とし、「今」より以前の時間を過去としました。 では、未来は永久に存在し続けるかということですが、厳密に言うと、未来という概念を作ってその定義に沿って理解を行うしかない人間にとって、未来は言語共同体が存続する(人類が生存し続ける)かぎりでの永久的な存在物です。でも、実際は、人々は何となく無限の彼方の未来(および過去)というふうにとらえられているのではないかと思います。 Aの枠組みにおける{past, present, future}という概念要素はそれぞれがつながりを持たない抽象的なものととらえられていますが、言語主体とのあいだにも隔たりができていて、主体によって客体的にとらえられています。  一方、Bの枠組みにおいてはそれぞれの概念はつながりを持ちます。生きられる時間(人が生きたり、何かが起きたりする時間)なので人間(言語主体)との間にもつながりがあります。ここでは言語主体は時間を客体的にとらえることはできません。 言語主体は今の瞬間にも言語を使っているわけだから、現在という時間と直接のつながりを持っています。言語主体が概念と直接のつながりと持つ時、概念は客体化されないので冠詞はつきません。よって、現在は冠詞のつかないpresntで表します。  pastもfutureも同様です。なぜなら、我々の実感として現在の体験はやがて過去の体験と見なされるようになり、未来の体験はやがて現在の体験と見なされるようになります。3者を区切る境界線はありません。先ほども言ったようにそれぞれの時間概念はつながりを持ちます。  だから、pastとfutureにも冠詞はつきません。これが枠組B{past, present, future] です。ところで、これらの表現は、誰かが何かをした、何かが起きる、といったようなことを表す背景として使われるものなので副詞句として使います。(過去・現在・未来自体が主題として扱われるのは枠組Aにおいてです)。すなわち、定冠詞登場以前では、{in past, at present, in future}という実践的な枠組として使われたはずです。  過去と現在はその境目付近において非常に流動的です。だとすれば、過去に起きたことが 現在とつながっていてもおかしくはないと言えます。それゆえ、過去に始まって現在も続く表現(現在完了)が可能だということになります。過去の表現は「現在より以前のある時(時期)、および過去から始まって今に続く時間」を表すことが可能です。よって(定冠詞登場以前の時点では)現在完了の文中でin pastという語句の使用が可能です。 ところが、ある時期に定冠詞が登場しました。結果から言うと、現在ではこの2番目の枠組みは文中で使われるときは、{in the past, at present, in the future}となりますが、では、なぜ{in past, at present, in future}ではないのか、これが2つ目の論点です。 よく言われることですが、過去のことは確定しているから定冠詞がつくと。本当にそうなのでしょうか。未来はというと不確定のことばかりなのにどういうわけか定冠詞がついています。このことからして<過去のことは確定しているから定冠詞がつく>という言い方は怪しそうだという気がします。  過去の出来事について語る話し手にしてみれば<その過去の出来事が確かに過去に起きたことだと聞き手に確認可能なのでなければ>定冠詞の使用は許されないはずです。確認および検証が不可能な場合、その出来事がたしかに過去の出来事だと聞き手が同意するはずだという確信が話し手の側になければなりません。ただし、そうした確信が得られないことはいくらでもあります。  現実には、多くの場合において、過去の出来事が聞き手によって確認されようがされまいが、また、聞き手の同意の有無に関わりなく、過去をあらわすpastにはtheがつきます。というわけで、<過去のことは確定しているから定冠詞がつく>と言う言い方に根拠がないことは明白です。 pastにtheがつくことには別の根拠があるはずです。 そもそも、過去の出来事を確定していると聞き手が確認することはいかなる体験なのでしょうか。当然のことですが、過去は厳然たる過去なのであって、それは人間の思惑と無関係に存在するので確認など不要だとする考え(素朴実在論)は成り立ちません。確定したはずの過去を確認しようとする人間は確認のための作業を行わなければなりません。聞き手がある過去の出来事について聞くか読むかするとき、聞き手は過去を間接的に体験するにすぎません。ところが、その出来事を心の中で想起するとき、後悔や嘆きや懐かしさなどを感じます。少なくとも何らかの関心を抱くはずです。その瞬間に、聞き手は過去を直接的に体験していると言えます。  未来についても同じことが言えます。予想行為においてわくわくしたり、ゆううつになったり、ここでも直接的な体験がなされます。 すなわち、聞き手は想起や予想において、過去に対しても未来に対しても直接のつながりを持ちます。言語使用者と概念とのつながりは言うまでもなく心の働きとしてのつながりです。よって、presentだけでなくpastとfutureにも冠詞はつきません。たとえ、過去の確定した出来事(歴史的に評価が定まっているとか)であっても同じことです。theがつくことはありません。 ここで話が振り出しに戻りました。なぜpastとfutureにtheがつくのでしょうか?  pastとpresentおよびpresentとfutureは明確な切れ目を持ちませんが、pastとfutureは離れていますから対立関係をなしていると見なせます。なぜそう言えるのかを考察します。  我々が未来を予想する時、我々の意識は未来の方に向きます。逆に、我々が過去を想起する時、我々の意識は過去の方に向きます。意識の方向性は<今>を境にしてちょうど互いに逆向きのベクトルをなしています。つまり、我々にとって(生きられる時間として)存在する時間は<今>と、想起の対象となる<過去>と、予想や意志の働きの対象となる<未来>で構成されているわけです。時間が過去から未来へと流れてゆくという発想は(おそらく何かのメタファーから生まれた)思いこみにすぎません。  この時、<人間の意識→過去>と<人間の意識→未来>はちょうど正反対のベクトルを持っていて対称形をなしています。明白な二項対立です。この場合のpastとfutureが文中で使われる時定冠詞が使われるのは当然のことと思われます。ちょうど、{right, left}や{front, back}のような概念集合枠組みの各要素が文中での使用時において定冠詞が使われるのと同じことだと思います。 定冠詞の登場以降、枠組Bの実践バージョンは{in the past, at present, in the future}というふうになったと考えられます。いかがでしょうか。

  • 論理データモデリングの作業時間見積

    現在下記の条件で論理データモデリングを実施する予定です。 顧客側に想定する期限がすでにあるのですが、データのボリュームを見た所その期間ではとても終わりそうもないと感じ、その想定のもと作業見積後顧客と話をしたいと考えています。 そこで、モデリングの観点で作業にかかる時間を見積する指標や方式はあるのでしょうか? 要員:2名 データ:DBテーブルスキーマ抽出済、帳票等収集済、業務の概念モデリング済 顧客側での想定スケジュール:11月末まで(約40日間) 現状のテーブル合計カラム数:約33,000 例えば1カラムあたりのエンティティ判別・属性判別を平均5分と考えて、 343.75人日(1日当たり8時間=480分)/2人で一人当たり171.875営業日 とか。 過去の経験に基づく内容もお聞かせいただければ幸いです。 よろしくお願いいたします。

  • 最強のオリキャラを作りました。勝てますか?

    最強のオリキャラを作りました。勝てますか? 名前:シィナ 【能力概要】 シィナの異能 ・過去と未来の連続性で存在し、これは現在(いま)という概念に依存しない。現在の概念を超越した非存在。あらゆる全てに連続性が存在する為、それら全てを司る事が可能でもある。 ・記述した事実が既に過去の一部である為、現在というものは存在せず、証明が可能であっても証明した事実も過去の一部である。 ・自己を自己を足らしめるのは己自身という考えを根幹に持っており、他のあらゆる影響を受け付けず、その考えを世界改変という形で表している。 常に世界改変し続けられ、シィナの確立された強さを相手に押し付け、相手と相手を構成する要素を常時殺し続ける。 【能力概要】 ・主観帰結 万物の根底にあるのは主観である。どこまで行っても必ず主観が存在する為、世界の真理の1つでもある。 シィナは主観を司ってると同時にあらゆる主観の集束点である為主観的側面を持ったあらゆる全てはシィナのあらゆる強さになる。 また、全ての客観は主観に帰結する為、それもまたシィナの根源に帰結する。 能力、考察、存在、記述、表現性、可能性、創作、設定、法則、世界、人間などこれら全ての根底にあるのは主観である。 故に創作人や考察人ですらこれに囚われ、逃れられない。私達が存在する根源もまた主観なのだから。 シィナは主観を司っており、主観的側面を持つ何かではシィナに干渉する事も倒す事も出来はしない。

  • at present とin futureについて

    at present とin futureについて 少し長くなりますが、私が示した考えが正しいと思うかどうか、回答頂けるとありがたいです。 一般に無冠詞の名詞は概念を表すとされています。又、概念に冠詞がつかないということは、その概念の表すものが言語使用者にとってひとまとまりのものと見なされないことを示します。ということは概念は、そのもの自身がひとまとまりのものとして単独で存在するのではなく、別の概念との何らかの結びつきを持つと考えられます。または、言語使用者との結びつきを持つと考えられます。 ここで時間の3様態であるpast, present, futureについて議論を展開してみます。これら3つの概念が言語使用者との結びつきを持たず(ということは言語使用者からは客体的に-対象物として-とらえられて)、3つの相互の結びつきが強まると、一つの枠組みを構成するに至ったと推測されます。相互の対立関係から特定化されるので、文中で使われる際にはtheがつきます。枠組みの要素である{past, present, future}は枠組みを作ることによって言語使用者の便宜を図るという点で共通点を持ちます。  それらは概念的なものではあっても、言語使用者にとっては客体的なものなので、それぞれが独自の時間領域(過去領域、現在領域、未来領域)を持ちます。言語使用者の便宜を図るという観点からもそうした時間領域を持つことになります。永遠に続く時間という考えはここでは成り立たなくなっています。発話者が現実に生きている(と感じられる)時間ではありません。 一方、past, present, futureは(pastを例外として)概念として無冠詞でも使われます。例えばat presentという使い方があります。theがついていないということは、presentは他の時間概念であるpresentとfutureと結びついて枠組みを作ったりなどせずに、言語使用者と結びついたということだと思われます。  at presentは「現在の時点では」というふうに現在の短めの時間を表すことに用いられるようです。言語使用者が気持ちの上で現在という時間と切り離されていないようなニュアンスが感じられます。発話者が現実に生きる<今>を表すのだと思います。in the presentの方は現実に生きている(ことを実感できる)時間ではありません。 未来のことで言えばin futureという言い方があります。無冠詞つまり概念として使われているということは、発話者とのつながりがある、すなわち発話者が現実に生きている<今>とのつながりがある未来を表すはずです。辞書で調べるとfrom now onの意味がありました。 She often makes mistakes, so I will ask her to be more careful in future. ---など ということは、in the futureは「未来のある時点において、または未来のある期間において」を表し、in futureは「これから先ずっと」を表すことで役割分担をしているのだろうと考えました。 ここまでの記述内容に疑問な点があればご指摘をお願いします。  さて、問題はここからです。発話者が現実に生きる<今>とのつながりがある未来を言い表すためにin futureという言い方があるのであれば、発話者が現実に生きる<今>とのつながりがある過去を表すためにin pastと言い方があって、その意味は「今までずっと」の意味であるはずです。 ところが、現実にはin pastは使われていません。その理由を推測するに、おそらく過去の出来事は確定してしまっていることなので、概念の持つ漠然性と相容れないのではないかと思います。しかし、過去と言っても、例えば現在完了時制を使えば現在とつながりのある過去を表せます。調べてみると現在完了とin the pastが共起する文はいくらでもあります。 Our country has tried to absorb Western culture in the past. ---など  こここで疑問が生じます。in the pastにおけるthe pastは枠組みとして現在という時間帯(the present)から明確に区別されるはずなのに実際には現在完了形の文中で使われています。 ここで私の仮説です。in pastという表現を作るべきだったのに作らなかったので、幻のin pastが仮に存在していたら持っていたはずの働きをin the pastが肩代わりしたのではないかということです。いかがでしょうか。  ネイティブが言うには、in the pastは「過去のある時点において、または過去のある期間において」を表すが、同時に「ある過去の時点からこれまでずっと」の意味も持つそうです(そういうふうに考えない人もいます)。 in the pastとin the futureの意味について数人のネイティブに尋ねてみましたが、各人が好き勝手なことを答えて、どれが正しいのかよくわからないのです。そこで、彼らの回答を整理し、合理的な説明が可能であるように私なりに解釈し直したものを提示することにしました。(よって私の主観的な考え方が混入しています)  次のin futureとin the futureについても同様です。 さて、in futureですが、やっかいなことに地域差があって、イギリスではin futureが好まれる傾向にあり(in the futureも使います)、アメリカではin the futureが好まれます。地域によっては両方とも使うことがあるようです。 どのような使い分けがなされているかということですが、先ほども言ったとおり、彼らの異なった、あるいは互いに矛盾し合う回答を整理し、合理的な説明が可能であるように私なりに解釈し直したものを提示します。 in futureしか使わない地域では、in futureが文脈に応じて「これから先ずっと」の意味と、「未来のある時点において、または未来のある期間において」を表す。in the futureしか使わない地域でも同様です。 両方とも使われている地域では、in futureが「これから先ずっと」を表し、in the futureが「未来のある時点において、または未来のある期間において」を表す。 この考えに賛同するネイティブスピーカーもいますが、異論を唱える人もいます。いかがでしょうか。ご意見を伺えるとありがたいです。

  • 永遠?の未来の存在に貴方は何が出来ますか?

    私は人間は存続して来たから 今ここに存在すると考えます アイデンティティというやつです。自分は長いこと存続して来ました。 それは私を存在させる環境や存続に必要な数多の性質が在ったからです(存在性)。 そして私は存在を守り抜く為に 息をし 食べ 歩き 学び 道具を使いいろんな苦難にも耐えて来ました。 存在こそが目的であり、存在こそが価値であり、存在が意味の根拠になるものと思って来ました。 人間は精神であり 精神は性質であり エネルギーをコントロールするものだと思います。 人間は環境のエネルギーをコントロールして存在を求めて進化発展して行くものだと思います。 存在の定義は「(個性ある)性質を持ったエネルギー」です。それが単位です。 エントロピーの増大と存在性が複雑な系の中で存在をせめぎ合っていると思います。 人間は生存競争の動物ではないので 経験・学習・想像・創造などを通して進化して行くと思います。 真善美を求めながら 四苦や悪を避けながら 世界平和・調和に至れないものかと思います。 他にもありますが この考えで間違ってる点はどこでしょうか?完全な筈はありません。 当方障害者のため長文が苦手で できれば短文でご指摘願えればありがたいです。 もちろんご賛同のご意見も歓迎です。どうか宜しくお願い致しますm(_ _)m