• ベストアンサー

未来は、存在していると証明できますか

マクタガートのA系列(過去・現在・未来)の三様相のうち、特に、未来という時間概念を論理的に探究する前に、そもそも未来は、存在していると証明できているのでしょうか?と思ってしまいます。僕たちが日常生活している現在とは断絶していて、決して現在の側からはその中に飛び込めない未来という「あの世」のような概念は、語り得ない、記述し得ない、親近感のない、超体験であるがゆえに、つかみどころがないように思うのです。未来という想定の確かさについて、教えてください。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
noname#80116
noname#80116
回答No.66

 No.64です。  かんたんですよ。  ★ 非現実・虚構としての《ゲーム・遊戯・劇》であって、〈絶対〉としての《ゲーム・遊戯・劇》ではないようです。  ☆☆  《〈絶対〉のもとで夢見る非現実ないし未来》  ☆ これが 《迂回路》を含んでいるからです。  ○ 《〈絶対〉 ≫という無根拠≪ のもとで ≫一人ひとりが それぞれ 主観として≪ 夢見る非現実ないし未来》  ☆ と読んでください。そうすれば 次のごとく 各自が それぞれ自由に アンガージュマンをおこなうというのが 基本になっています。  ★ ・・・「所与の絶対的な規範」に基づくのではなく、未来の現実の状況に向けて各自がアンガーシュ(拘束)されている「行為者」「役者」であると読み解く  ☆ ですよね?  ★ 各自が過去を反省し、現在の自己を否定し、未来に対して自己をプロジェ(投企-投げ入れ)する。  ☆ 《自己否定》は 一時 流行りましたが――そして それとして 自省は大事ですが―― この文では 《現在の自己》に対して 《否定》だけをおこなうかに見えますので その点だけが 気になりました。     科学哲学としては こちらは 相変わらずで 進展しませんが 大きく 《言語ゲーム》としての 未来論は その基本が見えて来たようですね。

qsxdrfvgyh
質問者

お礼

一般的に、企業の採用人事担当職が、面接で応募者の採用を決定する重要な要素の一つとして、「当社における将来的な貢献度」をその応募者の言葉と行動から、今実感できるかどうかという点があると思います。 「未来に対して自己をプロジェ(投企-投げ入れ)する」その応募者の状況が、その言葉と行動から想像でき、面接者がそれを納得できるかどうかが重要であろうと思われます。 「まだない未来」だけれども、そうなる努力(たとえば資格取得)、資質向上方策の実践、業界や経済情勢などの情報収集・現状認識・応募者独自の判断から、応募者の将来像がイメージできるかどうか次第で、合否が決すると思うわけです。 >《〈絶対〉のもとで夢見る非現実ないし未来》 これが 《迂回路》を含んでいる > ○ 《〈絶対〉 ≫という無根拠≪ のもとで ≫一人ひとりが それぞれ 主観として≪ 夢見る非現実ないし未来》  ☆ と読んでください。 このような《言語ゲーム》としての「未来論」を持つ人物では、採用人事担当職としては、全く、その応募者に魅力を感じません。夢見るだけでは弱すぎます。「所与の絶対的な」模範解答のような借り物を持ち出してもだめです。自分の言葉で語り、自分の能力に対するできるだけ客観的な現状認識に基づき、何ができ何ができないのか、明確に理解した上で、会社や社会にどのように貢献できるのかを熱く語り、「未来に対して自己をプロジェ(投企-投げ入れ)」した将来像がイメージできるような応募者でないと合格にしません。 その意味で、現実味を帯びた未来を熱く語れるかどうかは、その応募者の人間力に通じると思うのです。 そろそろ未来論を総括できる時期が近づいたようです。ここ数日、どのような例示がいいか悩みましたが、分かりやくいものにできたと思います。そして、「未来という想定の確かさ」は現時点(幅のある今)における個々人の言葉と行動・実践の差異によって、それぞれ全く違うと分かりました。自信のない人の未来は、全く確かではないようです。また、根拠のない自信過剰の未来は、完全なる虚構になっていると思います。根拠のある、実行・実践の事実の裏づけのある、未来の想定は、説得力があり、確かなものだと言っていいと思うのでした。これが結論になると思います。長い間、ありがとうございました。

その他の回答 (72)

  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.73

物理学のカテの方がいいかもしれないですが、、、 昔、<モモ>を書いたエンデがナビゲーターしていた<アインシュタイン・ロマン>をビデオで観た事があるんですね。 ちなみに、モモって小説は、時間泥棒から時間を取り戻すという物語。 現在、光より早いものは見つかっていません。 この一番早い光を越した時、時空がゆがんで? 例えば電車のこっち側と、向こう側が同時に見えるとか、なんとか 説明されていました。 多重空間だったか量子だったか忘れましたが、ブルーバックスのある本の中では、地球自体がブラックホールだとかなんとか書かれていた。 簡単に言えば、我々が立っていたとして、頭のところと、足のところの時間の流れは違うのだとか。 実際 そうなのか 実験をやった人がいました。 ビルの何階だったか忘れましたが、そこに時計を置いて、地上に時計を置いて、時が経過して、二つの時計に誤差が出れば、地球はブラックホールだとなるとして、実験したところ、時差があったらしい。 私は、単純にどうやって同時に二つの時計を計測したのか想像がつきませんし、「そりゃ どんな精巧な時計でも、狂いは出てきて、全く同じ時を刻む時計なんて2個も無いだろう とか いろいろ思ったのですが、その疑いを解決した上で、何度もやって 同じ結果が出たから、そう言っているんじゃないかと。 ともかく差が出た。 確か高層ビルの上にある時計の方が、早かったんだったと思います。 ってことは、、、頭の部分の方が足の部分より早く時間が流れるってことになる。 じゃあ しゃがんだら、未来から来たってことになるかというと、、、、 確かにそうなのかもしれませんが、なんたって、人間の知覚で認識できる時差じゃないんです。 時間は連続しているし、差よりづっと遅い速度で人間はしゃがむ。 ボールを上に放り投げて <ボールは未来に向かっていって、未来から今の時にボールが戻ってきた。戻ってきたってことは未来はある> とはわたしゃ到底思うことはできない。 数秒後の未来はあるとわかったとして、明日は? あさっては? 1月後は、1年後は? うーーーーん。 どっかの星に行って1年後に地球に戻ってきてみる。 地球では100年たっていたりして、、、、、 この場合、宇宙船に乗った人は、何歳ってことになるんだ? 地球上では100歳を超えていることになるが、時の流れが違う空間にいたので、、、まだ100才になっていないことになり、、、、、 地球の人からみれば、宇宙船に乗ってはるかかなたに行ってた人は、あの世にいってたってこと? 「あの世じゃ 年とらんのかい」のうらしま太郎状態。 うーーん わ、わ わからない。 物理のカテの人なら、どう答えるでしょうね。

qsxdrfvgyh
質問者

補足

>時間は連続しているし ここが違うかもしれません。連続なんかしていないのではないか。 >宇宙船に乗って「はるか」かなたに行ってた人は、あの世にいってたってこと? 異なった慣性系にある時空は、相互に断絶した時間経過をしているのではないか。高速移動体(ジェット飛行機)の乗客でも、地上の人々よりも短い時間経過で済んでいるはずです。

回答No.72

こんにちは、qsxdrfvgyhさん。 歴史のカテで織田信長云々の話をつらつら遡ってみてたのね。 で、みてくうちにふいっと目に入ったのが 【〔質問番号:4489472〕どうして歴史を勉強するのですか?】の質問。 PCの画面見ながらものおもい。 理系と関係する事柄と絡めてみていけばいいんじゃないのかな?と。 たとえば、織田信長が本能寺でなんで焼き討ちにあって亡くなったんだろう?と。本能寺の変が起きたのは…天正10年6月2日(1582年6月21日)。ねえ、ねえ、よくみてみて日付が違うでしょ。さてさて、これはなんじゃ?和暦と西暦。1582年といえば、天正10年9月19日(1582年10月15日)ユリウス暦が改定されグレゴリオ暦が制定された年。織田信長が亡くなって3ヶ月余り過ぎたあたりでグレゴリオ暦制定。織田信長ー明智光秀ー豊臣秀吉。明智光秀,三日天下と。織田信長が亡くなってからグレゴリオ暦へ換わるまでの期間は3ヶ月余り、“3”という奇妙な数の符合。ちょこっとミステリーぽくなってきた?あっ!?そうそう、グレゴリオ暦考案に際して、数学者のクリストフェル・クラヴィウスと天文学者のアロイシウス・リリウスがかかわってたんだって。クリストフェル・クラヴィウスさんは“ユークリッド原論”の注解書を記した人物とか。http://wpedia.goo.ne.jp/wiki/%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%89%E5%8E%9F%E8%AB%96 同年(天正10年旧暦1月28日:1582年2月20日)天正遣欧少年使節団がローマへ向けて出立してるのよね。織田信長って、キリスト教を保護しつつ南蛮貿易を通じて海外の情報・情勢を収集・把握してたみたいね。世界に目を向ければ、日本は小国。いつ、何処かの国の植民地になるやもしれない。それだけに危機意識も高かったんだろうね。はやくから世界に目を向けてたのも危機感のあらわれだったかもしれないね。 『海外貿易から読む戦国時代』武光 誠 (著) PHP研究所 http://www.amazon.co.jp/%E6%B5%B7%E5%A4%96%E8%B2%BF%E6%98%93%E3%81%8B%E3%82%89%E8%AA%AD%E3%82%80%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3-PHP%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E6%AD%A6%E5%85%89-%E8%AA%A0/dp/4569635237 【なぜグレゴリオ暦では100で割り切れる年に閏年をやめることになったのですか。西...】 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1214336827?fr=rcmd_chie_detail 歴史ミステリー。織田信長は本能寺でなんで焼き討ちにあって亡くなったんだろう?“(第六天)魔王”と人に畏れられるような人物が何故?あっけなく死ぬかね???疑問だ。“自作自演”の「死」の演出だったんじゃないのかな?何のため?小国をまもるためととは考えられやしないか?日本って国にはめっぽう恐ろしい“魔王”織田信長という者がいると噂が海を越え伝わっていたとする。中には、腕っし試しに侵略を練る者も、そんなご時世の中にあって織田信長は討たれ、それを討ったのが日本国内の者、その者もまた三日とたたないうちに討たれるとなれば、日本にはどれだけ猛者がいるのかと迂闊に手出しできなくなる。“本能寺の変”火柱上がったことだろう。 【安土城復元案】 http://www1.asitaka.com/ http://www1.asitaka.com/ihs/index.htm 【国会から見た経済協力・ODA(1)】 http://www.sangiin.go.jp/japanese/annai/kounyu/20060629/2006062927.pdf

qsxdrfvgyh
質問者

補足

時事的に村山談話を出したせいで、関心が歴史や賠償に脱線してしまっていますが、大変面白く読ませていただきました。ありがとうございました。でも、歴史的な事件の解釈も元事務次官殺害事件の解釈も深読みはだめでしょう。用意周到であったとしても、動機はもっと単純だと思います。気に食わない者を抹殺したいという動機でしょう。 ところで、暦も面白いですね。128年に一度閏年にしない新暦法も、なかなかいいと思いました。ただ、暦法と未来とは、あまり関係ないようです。未来に関して、その周辺・近接領域からアプローチしていきたいだけです。 マクタガートのA・B・C系列やホーキングの虚時間やウィットゲンシュタインの言語ゲーム/劇という迂回路を試みてきました。劇については、大変有意義なリンク先を教えていただき、感謝しています。おかげで、ひとつのルートを発見できたように思います。まだ、別のルートがあればいいなあと思います。

noname#80116
noname#80116
回答No.71

 国家の時代を 現在過程として その以前が過去 以後が未来 こういう歴史観をご存じないですか?

qsxdrfvgyh
質問者

補足

未来に関して考察し、探究し、多くの方々から様々な指摘やアドバイスをいただいてきたわけです。歴史観は主題ではありません。いろいろの歴史観があっていいので、それはそれでいいのです。ある種の歴史観だけを否定しているわけではありません。主題に直接的な関係がないだけです。未来に関心の中心があるのです。その一つのルートは判明しました。別の有望なルートがあれば、歓迎します。それだけです。

noname#80116
noname#80116
回答No.70

 新しい社会へ向けて インタムラ(村)イスムを提唱します。 §1 《スサノヲ(S)-アマテラス(A)》連関 人間は 《スサノヲーアマテラス》連関主体であると思います。 《スサノヲ(S)》とは 《市民》を言い 《わたくし》の領域です。 《アマテラス(A)》は 《公民》《おほやけ》の領域です。 強いて分ければ S者(S領域)は 《精神》なるA者(A領域)に対して 《身体》です。S者なるわたくしの身体の運動は 一般に社会的な生活の中で 自己のA者なる精神によって 記憶され知解(了解・意識)されまた 記憶にもとづき 知解されたものごとを 人はこの身体の運動とともに 意志する。 《S-A》連関は 《身体‐精神》および《市民‐公民》のそれぞれ連関構造となります。 わたしたち一人ひとりが 市民であることにおいて 公民の領域を兼ね 公民としての役割を普通に果たすのですが 社会のなかで 外形的に・職務として 公民の役割を担う者も 制度として 存在します。いわゆる公務員として《もっぱらのA者》でありこれは 《アマテラス社会科学主体》のことです。 これに対する概念は 《スサノヲ社会主体》です。一般の市民としてのスサノヲ社会主体は むろんそのままでA者・公民の役割を自己のもとに留保します。ここで 差し支えない限り 一般の市民を 単にスサノヲと言ったり 従って もっぱらの公民のことを アマテラスと簡略に呼ぶこともあろうかと思います。  次に初めに帰って S者が 身体の運動をその基礎とし A者が特には S者に対するかたちで 精神を表わすとすると このA者は S者〔のさまざまな運動過程つまり一般に社会生活〕の中から抽象されて ある種の普遍的な概念をかたちづくるものと見られます。これを わたしたちは アマテラス概念 A概念・A語・A語客観などと呼ぶことができ これに対する意味では S者は 主観であり 人間語です。 §2 主観としての《S‐A連関》から出発する 主観というとき わたくしなる存在が 身体(S)を基体とし 一般にその身体と連動する精神(A)を伴っていると思われます。十全な意味での主観ないし主体とは やはり《S者ーA者連関》なる一個の存在です。 すでにここで 客観は 主観に対立すべきものではなく 主観の中にあって主観により把握されたものであり 主観から表現(=外化=疎外)されたときにも それを主観・主体が 用いるべき概念だということに注目しておくことができます。 このA語客観が 自己からまさに疎外されたかたちの概念は ことに《観念》であると見ます。もしくは それが初めに一応 客観であったことより 《共同の観念》であると見ます。 主体的な生きたA語客観は 主観として殊に 《共同主観(common sense=常識)》と考えます。より正確には この常識=共同主観は 生活ないし行為そのものを言うほうがふさわしく これをA語客観でとらえたものは その何らかの思想的な形態または理論というほどの意味です。 主観が 社会的に共同化されて 共同主観となるばあいには このように S者がA者(A語・A概念)をとおして 生活の共同性を見ている・築いているということであり この共同性が 協働性を含むことは 言うまでもありません。 §3 共同主観と共同観念 さらに このA者(A語・A概念・A語客観)は それだけが取り出されるときには 精神をちょうど言葉によってのみ捉えたというように 単なる観念ないし観念的な現実というまでのものになりえます。 たとえば 《和(やわらか)》とは まず肉眼でとらえられうる・そして感性で理解されうるモノ(質料)や身体(質料より成る)のそのような一つの属性である。しかるに 《和を以って貴しと為す》というときの《和》は すでに 観念であり共同観念であります。それは S者・身体の運動から切り離しても 語られたり論じられたりするからです。つまり 抽象的でもあります。 したがって 初めに 素朴にあたかもムラ(村)イスムなる共同の生活において この《和》が 主体的に・つまり《S者ーA者連関存在》おのおのの行為をとおして 過程的・現実的に見られるとき それは すでに言った共同主観であります。 これが ある種の仕方でこれらの現実から切り離されて 掟・道徳・律法などとして 論じられ規範的にも訴えられるとき それは 共同の観念 観念の共同性 つまり 共同観念をつくりあげることが 可能です。 この別種の《常識》は あたかも第二次的な・仮象的な共同主観であり たとえば《ムライスム》と名づけられる以前に存在する常識が 感性的で・かつ主体的な共同主観であったとするなら このムライスムと名づけられた語・概念・客観じたいが 共同観念ということになるでしょう。 共同主観は より一層 S者市民的であり これに対して共同観念は A語客観的であることによって ムライスム(《和》)あるいは ナシオナリスム(《大和=やまと》)といった次元で 社会的です。 しかも 必ずしも感性的でないことによって 観念的であり 時に幻想的となりえます。観念的・幻想的な共同性が 感性的でないと言っても あたかも慣性の法則によってのように 情緒的・情念的となりえないとは言えません。もともとは S者・スサノヲ語に発しているのですから。 もっとも 第一次的な・生活日常的なスサノヲ者の寄り集まるムラ〔イスム〕の次元での 感性的なつながりと そして 第二次的でより多く非日常性の機会に接するナシオン(ナシオナリスム)の次元でのそれとは 基本的に異なる。 つまり 後者での感性的なつながり(たとえば愛国心)は むしろ スサノヲ者の感性とは 一旦 基本的に切れているから そのナシオナリスムといった共同の観念が すでに外から・または上から 一人ひとりのスサノヲ者に おおいかぶさっているというようなしろものです。 また 第一次の共同主観を その第二次的なものである共同の観念の中で 理念的に――つまり A語客観精神においてということですが――保ち これを表現したものが 憲法をはじめとする法律であるかとも思います。これは 共同観念である限り やはりおおいかぶさって来るものにちがいないのですが 理性的に――経験合理的に――スサノヲ者の内面において ほぼそのまま 見出されるそれであるということになるでしょうか。 §4  記憶・知解・意志(愛) 身体の運動なるS者に対する A者=精神のうちの《記憶〔行為〕》は 言わばわれわれの精神の秩序であり 存在の内なる組織であります。 同じく《知解行為》は 記憶に基づいてのように ものごとを知解する すなわちそれはそのまま 労働・生産行為へとつながってゆくものと思います。社会的な生活のなかで これらが働くとまず初めに見たのですから。 何を・どのように生産するかそして生活するかは 同じく第三の行為能力である《意志》に基づくでしょう。 精神の秩序たる記憶行為に基づいて 意志はまず 自己の愛ないし他者の愛(愛とは 自治・共同自治)であり 労働・協働の場においては それぞれの《自己の愛》の意志共同というほどに 経営行為につながるでしょう。また《記憶》の共同性は この生産・経営の態勢(会社)における組織行為にかかわります。 記憶し知解し意志する《S-A連関主体》は――もし経済活動が 現実の生活の土台であるという限りでは―― このように《組織-生産-経営》の共同(協働)性の場で 先の共同主観を形成しつつ生きることになります。 また 第二次的に〔あたかも この初発の共同主観の古くなったものの残像であるとか それらの社会なる鏡に映ったA語概念としての古い掟であるとかといったように つまりはいわゆる前例・先例としてのように〕観念の共同を ある種 不可避的に持ちつつ やはり生活を送ります。 従って言いかえると 一般に 新しい共同主観と旧い共同観念との葛藤のなかで 人は 生きることになります。 新しい共同主観は 一般に S者・市民の中から生起します。共同観念を保守しようとするのは 一般に公民たるA者です。それぞれそのように生活しています。 そこで この区別のかぎりでは 社会形態(国家のことです)は S者の共同体である市民社会と A者の共存圏である狭義の社会形態とから成り立つと考えられます。それぞれを S圏(スサノヲシャフト)とA圏(アマテラストゥーム)というふうに呼ぶことにしたいと思います。 いま《スサノヲ-アマテラス連関主体》たる人間について考えてきて 社会としては S者共同体である市民社会が 基礎であり あたかも身体(S)の上に精神(A)が 乗っているように S圏の上にもA圏が乗って 全体としてちょうど二階建ての家を形成しています。 次に これらの分析用語を整理します。 §5 概念・用語の整理(1) 《スサノヲ--------アマテラス》 連関主体 Susanowo・・・・・・・・・・・・・・Amaterasu S者・S語(人間語)・・・・・・・・A者・A語・A語概念 身体・感性・・・・・・・・・・・・・精神(記憶-知解-意志) 《わたくし》・・・・・・・・・・・・・・《おほやけ》 市民(homme/bourgeois)・・・・・公民(citoyen) 社会主体・・・・・・・・・・・・・・・・社会科学主体 政治経済主体・・・・・・・・・・・・政治経済学主体    * 象徴としての国王・元首はアマテラシテAmaterasite; Amaterasity; Amaterasitaet §6 概念整理(2) 《 スサノヲ--------アマテラス 》連関形態 スサノヲシャフト------アマテラストゥーム Susanowoschaft--------Amaterasutum S圏------------A圏 市民社会---------〔狭義の〕社会形態 《まつり》---------《まつりごと》 ヤシロ Yasiro-------スーパーヤシロ Superyasiro 自治態勢および生産態勢---行政府・立法府・司法府 ムラ mura----------国家:イエ・ナシオナルihe national エクレシアecclesia(eglise)---- 社会形態;キュリアコンkuriakon(church)  §7 概念整理(3) スサノヲ( S )・・・アマテラス( A ) 身体〔の運動〕・・・・・精神・概念(記憶・・・・・知解・・・・・意志) ・・・・・・・・・・・・・・・・・↓・・・・・・・(↓・・・・・・・↓・・・・・・・↓) [S者/S圏] 個体・・・・・・・・・・・・家  族 ( 秩序・・・・・労働・・・・・・愛) 社会主体・・・・・・・・自治態勢(自治組織・・〔生産〕・・共同自治) 経済主体・・・・・・・・生産態勢(組織・・・・・・生産・・・・・・・経営 ) 政治主体・・・・・・・・・↓ ・・・・・・・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓  [A者/A圏] ・・・・・・・↓・・・・・・ ・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓ 社会科学主体・・・・・社会形態(社会組織・・経済活動・・・政治 )  〃・・・・・・・・・・・・・(国 家 : 司法・・・・・立法・・・・・・・行政 ) §8  スサノヲイスム(インタスサノヲイスム)およびインタムライスムへ向けて スサノヲイスム: 自治(個体の自己経営・愛)を基礎とする社会 インタスサノヲイスム: 愛=共同自治  ;A圏主導支配ではなく S圏主導(民主主義)による《S圏-A圏》連関の社会 インタムライスム: 国境を超えたスサノヲイスト市民社会連合。(たとえば 南京と名古屋とが 相互に議員を選出し 送り合う。むろん 市民相互の経済的および文化的な交流も)。これによって やがて 国家を揚棄する。  中身は たしかに おっしゃるように  ★ ただし、《現在としての未来》と《過去としての現在》との《断絶》は、《未来を孕む現在》と《過去を想起している現在》との《断絶》と《混在》の相互転換的・動態的な様相とでも言うべきかなと勝手に解釈してしまいました。  ☆ このとおりだと思います。そのつど 具体的な共生と そのための政策・施策を考え 実施していくという単純な方針です。無根拠に基づきますから 特別に固定的な描像はありません。常識(共同主観)にもとづいて行ってよいと考えます。  数々の《余計》を投稿しましたが 大目に見てやってください。

qsxdrfvgyh
質問者

お礼

質問に関係のない「自説披露」的な回答は、書き込まないでください。という意味です。質問に関係があれば、もちろんいいのですが。

qsxdrfvgyh
質問者

補足

たくさん書いていただきましたが、「国境無き共同体社会の提唱」で通じます。プレゼンの基本は、A4一枚です。それにしても、「説得力のない、根拠のない、口先だけの言動」のように感じました。理想なのかもしれませんが、実現可能な未来指針にはまだなっていません。採用人事の言語ゲーム/劇とも通じますが、「事実として行為・実践の裏付けのある、説得力のある言動」ここに、実現可能な未来指針なのかどうかが関係しています。もっと単純に言えば、どのような「行為・実践」をしているのか次第です。それにしても、国家の消滅は穏やかではありません。ですから、次善の策として、国家は維持されるべきと共通認識されているのでしょう。この質疑は、未来論なので、国家論は不必要です。以後、書き込まないでください。

noname#80116
noname#80116
回答No.69

 No.68です。  ★ 「未来論の舞台」の一例を設定しましたので、ここでどのように「絶対」が関係してくるのか記述し易くなったと思うのですが。いかがでしょうか。  ☆ 《絶対》は 人間にとっては 人間のおこないとしては 非思考という態度です。そのように受け容れられることになる想定です。ですから 舞台のための脚本やその演技には 直接には かかわりません。  ★ 非現実・虚構たる「絶対」の出る幕はないと思いませんか。  ☆ ですから 舞台の土台として 縁の下の力持ちであると同時に 登場人物としては 名を連ねてはいません。(土台であることが 広くは 登場者であることになるなら 別になります。要するに キリストのキの字も言わないという意味です)。  この基礎が――つまり 石工たちが捨ててしまった《隅の親石》としての基礎が――あれば 井戸端会議で いいのです。津津浦浦にまで伸びた民主自主会議が 名のある人も名もない人も 中身で勝負する話し合いとして 自由に参加するかたちで 生きていれば それでいいのです。  ★ 説得力のない、根拠のない、口先だけの言動では虚無・虚構の未来になってしまっていると感じるわけです。  ☆ これでいいのです。そこから出発します。規範・道徳律・禁忌・やがて権威や権力など いっさい 要りません。それらの過去からの伝統にのっとったところの  ★ 事実として行為・実践の裏付けのある、説得力のある言動  ☆ からは 完全に 自由になってください。そのための土台です。その土台たる舞台の上でおこなう劇なのです。この《現在としての未来》は 《過去としての現在》とは 《断絶》しているとも言えます。要するに 弁証法過程であって すべての過去は 未来の舞台へと 揚げて棄てられていきます。  そのことだけを述べてきたのです。

qsxdrfvgyh
質問者

お礼

(上の補足欄からの追加です。) 最近、「絶対・確実な未来」と「自由意志」の質問が立っていますが、意思だけで未来は語れませんし、絶対・確実な未来なんて、この有為なる相対世界にあるはずがないと、先々分かる時も来るでありましょうとだけ書いておきたいと思いました。

qsxdrfvgyh
質問者

補足

(お礼欄に書ききれませんでしたので、こちらに書きました。) 度重なる丁寧なご回答に感謝します。なるほど、よく分かりました。 非現実・虚構たる「絶対」が、《言語ゲーム》/劇の舞台の土台・基礎という喩えは、分かりやすい表現ですね。「縁の下の力持ちであると同時に 登場人物としては 名を連ねてはいません。」という部分もそのとおりだと思います。僕が気に入っている表現の「無為なる絶対」も有為なる相対世界の土台・基礎だと思います。 ★ 説得力のない、根拠のない、口先だけの言動では虚無・虚構の未来になってしまっていると感じるわけです。 ☆ これでいいのです。そこから出発します。規範・道徳律・禁忌・やがて権威や権力など いっさい 要りません。 一般社会生活では、「説得力のない、根拠のない、口先だけの言動」で溢れていて、そんな人も多いのですが、一般論に論点をずらさずに、直球で返してもらいたかったのです。採用人事の《言語ゲーム》/劇では通用しません。 ★ 事実として行為・実践の裏付けのある、説得力のある言動 ☆ からは 完全に 自由になってください。そのための土台です。その土台たる舞台の上でおこなう劇なのです。この《現在としての未来》は 《過去としての現在》とは 《断絶》しているとも言えます。要するに 弁証法過程であって すべての過去は 未来の舞台へと 揚げて棄てられていきます。 ここも、採用人事の《言語ゲーム》/劇を避けた一般論になっていますが、一般論としては良く分かります。ただし、《現在としての未来》と《過去としての現在》との《断絶》は、《未来を孕む現在》と《過去を想起している現在》との《断絶》と《混在》の相互転換的・動態的な様相とでも言うべきかなと勝手に解釈してしまいました。意味合いが変わったかな? これで「未来の想定の確かさ」は、充分検討できました。「事実として行為・実践の裏付けのある、説得力のある言動」の採用応募者からは、企業への将来貢献という想定の確かさを実感できるので、採用人事の《言語ゲーム》/劇においては、自信を持って内定を出せるわけです。ここに、「未来の想定の確かさ」の実例を見ることができます。「説得力のない、根拠のない、口先だけの言動」の採用応募者からは、企業への将来貢献という想定の確かさを実感できません。結局、人物次第で未来や将来の確かさはあったりなかったりです。近日中に締め切りにしたいと思います。皆様ありがとうございました。

noname#80116
noname#80116
回答No.68

 ANo.66で  ☆☆ 大きく 《言語ゲーム》としての 未来論は その基本が見えて来たようですね。  ☆ と言ったのは   ○ 未来論の 舞台  ☆ のことです。終始一貫して そのように投稿して来ています。    つねに的を外すわざにたくみな方だとお見受けしました。

qsxdrfvgyh
質問者

お礼

>つねに的を外すわざにたくみな方だとお見受けしました。 そのような意図はないつもりでした。そう思わせたとしたら、申し訳ありません。 「未来論の舞台」が《言語ゲーム》/劇であるというように僕は読み取っているのですが、そのようなbrageloneさんの投稿内容については、全くそのとおりだと同意しますし、異論はありません。 ただ、非現実・虚構たる「絶対」と未来との関係について、異論があるわけです。未来が虚無でも虚構でもなく、意義を見出せる未来となるのは、採用面接の例で示したように、事実として行為・実践の裏付けのある、説得力のある言動をする応募者の場合だと思うわけです。企業への将来的な貢献に関して、説得力のない、根拠のない、口先だけの言動では虚無・虚構の未来になってしまっていると感じるわけです。非現実・虚構たる「絶対」の出る幕はないと思いませんか。採用人事担当者の《言語ゲーム》/劇においては、応募者の比較的に確かな可能性を実感したいという内容になると思うわけです。はっきりしない、ぼんやりとした可能性とか、虚構に過ぎない可能性では、合格にできないと思いませんか。「未来論の舞台」の一例を設定しましたので、ここでどのように「絶対」が関係してくるのか記述し易くなったと思うのですが。いかがでしょうか。

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.67

これだけ沢山の方が回答なさっているのですから、これから私の言うことは何方かがもうすでに述べられているかもしれません。全ての回答を読んではいませんので、重複してたら悪しからず。 質問者さんの >決して現在の側からはその中に飛び込めない未来という「あの世」のような概念、 と言う立場からすると、未来ばかりでなく過去も「あの世」とような概念と言うことになりますね。過去は我々の記憶と言う形で脳が認識していますが、未来も将来の夢や予測としてやはり脳が認識しています。ですから 未来を、 >語り得ない、記述し得ない、親近感のない、 と言う主張は受け入れられません。質問者さんが自分の言質に対して自己矛盾に陥らないためには、未来ばかりではなく過去の存在も疑問にするべきです。 蛇足: 物理学の因果律では、過去は現在に影響を与えることができるが、未来は現在に影響できないと主張しています。しかし、それは極端に単純な現象に限った場合に限ります。事実、我々の行動は物と物の間の直接的な作用ばかりで次の行動を決めているわけではなく、脳の中で認識している過去についての記憶にも影響されます。それのみならず、未来についての予測にも影響されます。したがって、予測される未来の結果が現在の原因に影響し、その原因の変化がまた予測に影響しと、ぐるぐると回りながら過去、現在、未来が互いに影響しながら次の行動を決めています。そう言う意味で未来が現在に影響を及ぼすことができるのです。このようなグルグルと回りながら影響を及ぼす現象を「非線形現象」と言います。

qsxdrfvgyh
質問者

お礼

ご回答、ありがとうございました。 なるほど。No.7と同様の論点のようですね。 そのお礼欄で、未来と同様に過去もないと書きました。 「まだない未来」も「もうない過去」も、どちらも「ない」点においては同じなのは自明のことです。 ただ、>語り得ない、記述し得ない、親近感のない、と言う主張は受け入れられません。 という批判的な指摘部分は、そのとおりだと思います。 「まだない未来」を語り、記述し、親近感を抱き、「非線形現象」という影響下で、我々は行動しているのも事実ではないかと思いました。適確なご指摘に重ねて感謝いたします。

回答No.65

こんにちは。 今、出先からです。 朝出かけに時間なくて、とりあえず夕べ目を通していたところの 参考URLを回答番号:No.63にあげたんです。 うーん、なんだかうまく開かなかったみたいで お手数をおかけしてます。 m(_ _)m ども 他人の空似というあたりで 似て非なるもの 非なれど似るもの “翠川”と“犀川”からひとつ 『θは遊んでくれたよ』 森博嗣著 http://blogs.dion.ne.jp/veniko_sezaimaru/archives/1351613.html

qsxdrfvgyh
質問者

お礼

>うーん、なんだかうまく開かなかったみたいで 後から再度クリックしてみると開きました。なぜあの時、開かなかったのか?全く分かりません。 >似て非なるもの 非なれど似るもの “翠川”と“犀川”からひとつ 『θは遊んでくれたよ』 森博嗣著 “翠川”さんによるサルトルの劇に関する分析は、大変参考になりました。ありがとうございました。 登場人物の“犀川”さんの方は、「幻想と虚構」がキーワードのようですね。こちらも、大変参考になりました。ありがとうございました。

noname#80116
noname#80116
回答No.64

 《対話化されたモラル》を読みました。横からですが 回答の一環として投稿いたします。  ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  東北大学大学院文学研究科 / 博士学位論文 論文タイトル:対話化されたモラル サルトルの演劇作品における「対話」を巡る考察 提出者:翠川 博之 http://209.85.175.104/search?q=cache:2SHhCDgVqLgJ:www.sal.tohoku.ac.jp/French/document/doctrat-midorikawa.html+tohoku.doctrat-midorikawa&hl=ja&ct=clnk&cd=1&gl=jp ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 横着にも わたしの結論のみを記します。  ▲ (《3.結論》の最後の最後の箇所です)~~~~~~~~  8.2. 「遊戯的対話」は世界直観に通じる( 原理 7.2.)が,しかし人間的理性を超越した「世界運動」そのものではなく,あくまでも世界内存在による内世界的活動であることによって,完全な不条理に還元されることはない.したがって,「遊戯的対話」は,現実的価値に依拠しないことによって「遊戯」的であるが,遊戯の枠組みにおいては,自律的な目的,意味といった「現実」とは別の次元での諸価値を必然的に創出しつつ展開される( 原理 4 「規則のある活動」 ).・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ と言っていますが そして サルトルの作品とその評論という形式においては そのとおりとして結論づけられるのだと思いますが 要するに 次のように 大胆に 言ってしまってよいのだと考えました。  ○ 《遊戯的対話 dialogue de jeu 》は――《 jeu 》は《 game /play 》のことですから 《ゲーム / 劇》であり したがって―― 言語ゲームのことだ。  ○ 《言語ゲーム》のほうから 《いわゆる現実》に迫るという行き方もあるだろうし その逆の方向での 思惟や理論の構築ということもあるだろうが 要するに これら《遊戯的対話=言語ゲーム》と《いわゆる現実=もしくは いわゆる現在という時空間》は 同じ概念だと言ってよいのではないか。  ○ 論者も これら双方の相互交通ないし交錯関係を 次のように指摘している。  ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  「遊戯的対話」において創出された諸価値は,「遊戯」と「現実」の相補性に基づき,現実的次元で遂行される現実の超出に向けた「行為」に一定の「契機」を提供する.したがって「遊戯的対話」は,定義により,それ自体現実的価値の生産によって規定されないが,現実の次元に留まっては到達されず,しかも,現実的行為の枠組みにも移行可能な,いわば遊戯的価値を創出する潜在性を内包している. (承前) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ○ もし《遊戯・ゲーム・劇》が 《絶対》の想定という虚構から出てきたのであれば――サルトルを離れて あたかも ヰ゛トゲンシュタインのごとく そうだと見るとすれば―― 《語り得ぬ絶対》にとっての《移ろいゆく現在過程》は そのまま全体として それつまり《遊戯・ゲーム・劇》であるというふうに 導かれる。  ☆ 要するに 《〈アンガージュマン〉として 巻き込まれたなら=つまり おのれの自由意志によって 巻きこまれていったなら》 その《現在過程》は そもそもとして《ゲーム・遊戯・劇》でありつつ 実際問題として《意識された現実》となると思われます。  《現実》が 《〈絶対〉の非現実》に摂り込まれたとも言えるし 現実が 《〈絶対〉のもとで夢見る非現実ないし未来》を みづからの現在時に摂り込もうとしているのだとも言える このように考えます。  横入りながら。

qsxdrfvgyh
質問者

お礼

大変、適確な解説をしていただき、ありがとうございます。 ☆ 要するに 《〈アンガージュマン〉として 巻き込まれたなら=つまり おのれの自由意志によって 巻きこまれていったなら》 その《現在過程》は そもそもとして《ゲーム・遊戯・劇》でありつつ 実際問題として《意識された現実》となると思われます。  《現実》が 《〈絶対〉の非現実》に摂り込まれたとも言えるし 現実が 《〈絶対〉のもとで夢見る非現実ないし未来》を みづからの現在時に摂り込もうとしているのだとも言える このように考えます。 なるほど、そのように要約してもいいようですね。 「共同の現在」における《ゲーム・遊戯・劇》 各自が巻き込まれたアンガーシュマン(拘束)の状況を自覚し、各自がその自由な選択によって「自己が果たすべき「役割」を他者との関わりにおいて明晰に自覚」し、「その「役割」を主体的に引き受け」、「所与の絶対的な規範」に基づくのではなく、「他者との対話を通じて創造される共同の価値によって律せられる」と論文から引用できます。この認識には異論ありません。共通の土台にできる表現だと思いました。 各自が過去を反省し、現在の自己を否定し、未来に対して自己をプロジェ(投企-投げ入れ)する。各自が未来を創造しようとする中で自らの本質を(変革的に)作り出すので、その意味で各自が現実の状況から解放されると同時に、「所与の絶対的な規範」に基づくのではなく、未来の現実の状況に向けて各自がアンガーシュ(拘束)されている「行為者」「役者」であると読み解くと、アンガーシュ(拘束)されている「行為者」「役者」が、brageloneさんの表現した「《〈絶対〉のもとで夢見る非現実ないし未来》を みづからの現在時に摂り込もうとしている」と解釈していいのかどうかは、微妙なようです。非現実・虚構としての《ゲーム・遊戯・劇》であって、〈絶対〉としての《ゲーム・遊戯・劇》ではないようです。

回答No.63

おはようございます、qsxdrfvgyhさん。 いっここんなのあったよ。 『対話化されたモラル』 http://www.sal.tohoku.ac.jp/French/document/doctrat-midorikawa.html

qsxdrfvgyh
質問者

お礼

右下の「見る/開く」をクリックすれば、見られるようです。 http://ir.library.tohoku.ac.jp/re/handle/10097/14249

qsxdrfvgyh
質問者

補足

なぜか、リンク先に行けないようです。残念。

関連するQ&A

  • 確定した未来は現在時制か未来時制か

    TOEIC 問題集 [新TOEICテスト でる模試 もっと600問] No.141 の穴埋め問題について質問させていただきます。 NOTICE: All Tenants of River-View Office Towers DATE: Feb. 28 We would like to inform all tenants that renovations on the building's underground parking garage __ on March 5. (A) commence (B) will commence 告知: River-View オフィス・タワーの全テナント様へ 日付: 2月28日 テナントの皆様へ、当ビルの地下駐車場の改修が3月5日に始まることをお知らせいたします。 これは、1週間後の未来の予定が すでに確定し、テナントに告知している内容です。未来では あるものの、すでに予定が確定しています。そうでなければ、テナントに告知しません。また、地下駐車場のため、天候にも左右されません。そのため、"確定した未来" であり、現在時制にできると想定されます。念のため文法書を調査しました。 ---------------------------------------- MAINTOP 総合英語、P76、現在時制についての説明 確定している予定、計画 予定表や時刻表などで現在すでに確定している、未来の予定・計画を表す。通例、未来を表す副詞(句)を伴う。 Classes begin next Tuesday. (授業は来週の火曜日に始まる) ---------------------------------------- また、インターネット上で "英語 現在時制 確定した未来" などで検索しましたが、上記と同様の説明が多数存在しました。 いじょうの理由により、確定した未来は、現在時制で記述することができます。ただし、どこにも "未来時制は禁止" とは記述されていませんでした。よって、この問題の答は "現在時制、または未来時制" になると想定されます。つまり、この問題の答は (A), (B) の両方であり、TOEIC の問題としては不適切です。問題集が間違っています。 上記の考え方で間違いないでしょうか。自信がないため質問させていただきます。よろしくお願いいたします。

  • systemCの抽象度とは

    大変お世話になります。 現在、HDL言語を勉強し初めており、systemCなる言語があると知りました。 内容を見ると良く「抽象度が高い」との記述があるのですが、「抽象度が高い」というのは、論理設計において具体的にはどのようなことになるのでしょうか。色々なHPを見ているのですが、概念はなんとなくわかるのですが、具体例が判りません。論理設計における具体例を用いて説明出来る方いらっしゃいましたら、どうか回答お願い致します。

  • 未来から来たことを証明

    未来から来たことを証明するには、どうすれば良いですか? 持ち物はなく、裸で来たとします。証明する相手は、大衆でお願いします。 以下に、適当に場合分けしました。どれでも構いませんので、教えてください。 1.現代から江戸へ 2. a-5年後の未来から現代へ b-30年後の未来から現代へ c-100年後の未来から現代へ

  • 存在証明

    デカルトなどが行ったと思いますが、神の存在証明を言うものがあると聞いた事があります。(私は哲学か科出ではないので、詳しくは知りませんが…) デカルト以外に神の存在証明をした人がいたら教えていただけないでしょうか。 お願いします。 アリストテレスもかな?

  • 《絶対》という概念を使いこなすようにならねばと

     ・・・思います。そのことをめぐって 問います。  おそらく互いのやり取りをつうじて 《絶対》は 互いのあいだに浮彫りになる。そういった問い求めのすがたが想い描かれますが そうであるかどうかは 発進してみなければ分かりません。  すでに幾度も問うていますが そういう意味でさらにすすめたいと考えました。  たたき台です。  1. ひとは おのれの存在が永遠ではないにもかかわらず 《永遠=無限=絶対》という言葉を持つに到り これを使っています。  1-1.  その意味で 《神》ということばも――そして《無い神》も―― 用います。  2. すなわち この経験世界を超えたところに《永遠=無限=絶対》を想定して それにもとづき言葉として・ゆえにそれなりに概念として使いこなしています。  2-1. 《経験世界を超えた》という意味は 経験事象における因果関係から自由だという意味です。  3. ですから 不思議なことにひとつの逆説のごとくに 《ことばそして概念》としては 《絶対=無限=永遠》は、経験世界に属します。  3-1. 経験世界を超えた《非経験の場》が 経験世界の内側において用いられています。  4. もうひとつに この《想定》のもとに 一人ひとりの主観の内にあっては あたかも《絶対なる者が この相対的で経験的な世界に 降りて来た》といった派生的な・第二次の想定をも持つことが自由であり これは ゆるされています。  4-1. 良心・信教の自由あるいは表現の自由という公理であるようです。  5. 繰り返しですが 《絶対=永遠=無限》は 非経験の場であり 《非在》です。定義(想定)において こう確定します。  5-1. 存在するか存在しないか どちらとも人間にとっては分からない場であり 場としてのチカラだと思われます。  5-2. ゆえに 神としては 有神論か無神論かは どちらも――自由に――あり得て 互いに同等ないわゆる信仰の立ち場です。  6. 同じく確認として言えば 或るひとりの人間の主観のうちにあっては 定義とそこからの派生的な想定として 《絶対=永遠=無限》は 二重構造となって過程しています。  6-1. 《絶対》の二重構造:   ・ 《非経験の場》そのものとしてのわが心の庭〔なる神〕:無根拠   ・ 《神》という言葉としてまた概念として用いられる《絶対》:因果       関係などの合理的な根拠を科学的に明らかにする場合に       すら用いられることがある。        たとえとして都合がよいのだと思われる。        6-2. すなわち 《無根拠で非在なる非経験の場》が 主観の内なる経験世界に 《定義としてのまぼろし(非思考の庭)》と《仮りにでも姿かたちを表わしたその現実(精神と思考の緑野ないし密林)》との《二重構造》を呈しています。     以上です。ご批判をつうじて精緻なものにして行きたいと考えます。  ちなみに 《絶対》をめぐる次のような文章もありますので ご紹介します。  ● (司馬遼太郎:絶対について) ~~~~~~~~  近代以後の日本の文学者が、西洋の小説を読み、読みおえてから小説を書きはじめたことは、いうまでもありません。  ただ日本には「絶対」という思想、慣習、あるいは日常の気分がなかったということが、決定的に不利でありました。・・・  むろん、絶対などは、この世にありはしません。宇宙にも、科学の中にも、存在しないのです。  しかしある、と西洋人は、千数百年をかけて自分に言いきかせつづけました。  絶対、大宇宙の神は存在する、うそではない、ということを、哲学として、神学として、論理をきわめ、修辞をきわめ、思弁のかぎりをつくして説きに説きつづけてきたのです。  ヨーロッパの荘厳さというべきものであります。(開高健への弔辞)    http://www.asahi-net.or.jp/~pb5h-ootk/pages/S/sibaryotaro.html  ~~~~~~~~~~~~~~

  • in the past / the future

    past とfutureになぜtheがつくのかについて質問します。私の説明を述べていきます。おかしいところがあればご指摘下さい。 まず、時間の枠組みを2種類提示します。一つは{past, present, future}という概念の枠組みです(枠組Aと呼んでおきます)。言語主体によって客対物として設定されたもので、それぞれが独自の時間領域を持ちます。 past, present, futureのそれぞれは、枠組みを構成するデフォルト要素(もともと存在するはずの要素)として組み込まれたわけですから、文中で使用される際は定冠詞がつきます。この時間領域においては、具体的な行為や出来事が表現されることはありません。3つの時間領域について抽象的な言明が行われるだけです。--Don't think of the past. Mind the present and the future. もう1つの枠組みは、現実に何かが存在したり起こったりすることが表現される場です。これを枠組B {past, present, future}と呼んでおきます。---She's busy at present, but will be free in the future. 枠組Bは生活者(言語使用者)によって日常常識的に把握されるべきものです。ところが、そこに、物理学的な時間の考えが混入してくると混乱を招くので、物理学的な時間の考えを排除しようと思います。  例えば、物理学では、無限にのびる時間直線tを引き、線上の任意の点を現在と定めます。ここでは現在が瞬間の時間とされます。(我々の日常常識的な考えでは、現実の現在の時間は瞬間ではありません。それは比較的短めの時間であって、その時間幅は言語主体の思惑に応じてよって伸び縮み可能なものです)。それだと、現在は人が生きる時間ではなくなってしまうので、物理学的な時間は今回の考察から一切排除するものとします。 なお、過去が現在より以前のことであり、未来が以後のことであるとすることは、第一義的に日常常識的な時間の考えだと思われるので、この考えは残します。 これから日常のありのままの時間について考察を進めたいと思います。  さて、人間は時間というものを考える時、まず「今」を基準に考えようとします。「今」が唯一、現実に生きられる時間だからです。「今」より以後の時間を未来とし、「今」より以前の時間を過去としました。 では、未来は永久に存在し続けるかということですが、厳密に言うと、未来という概念を作ってその定義に沿って理解を行うしかない人間にとって、未来は言語共同体が存続する(人類が生存し続ける)かぎりでの永久的な存在物です。でも、実際は、人々は何となく無限の彼方の未来(および過去)というふうにとらえられているのではないかと思います。 Aの枠組みにおける{past, present, future}という概念要素はそれぞれがつながりを持たない抽象的なものととらえられていますが、言語主体とのあいだにも隔たりができていて、主体によって客体的にとらえられています。  一方、Bの枠組みにおいてはそれぞれの概念はつながりを持ちます。生きられる時間(人が生きたり、何かが起きたりする時間)なので人間(言語主体)との間にもつながりがあります。ここでは言語主体は時間を客体的にとらえることはできません。 言語主体は今の瞬間にも言語を使っているわけだから、現在という時間と直接のつながりを持っています。言語主体が概念と直接のつながりと持つ時、概念は客体化されないので冠詞はつきません。よって、現在は冠詞のつかないpresntで表します。  pastもfutureも同様です。なぜなら、我々の実感として現在の体験はやがて過去の体験と見なされるようになり、未来の体験はやがて現在の体験と見なされるようになります。3者を区切る境界線はありません。先ほども言ったようにそれぞれの時間概念はつながりを持ちます。  だから、pastとfutureにも冠詞はつきません。これが枠組B{past, present, future] です。ところで、これらの表現は、誰かが何かをした、何かが起きる、といったようなことを表す背景として使われるものなので副詞句として使います。(過去・現在・未来自体が主題として扱われるのは枠組Aにおいてです)。すなわち、定冠詞登場以前では、{in past, at present, in future}という実践的な枠組として使われたはずです。  過去と現在はその境目付近において非常に流動的です。だとすれば、過去に起きたことが 現在とつながっていてもおかしくはないと言えます。それゆえ、過去に始まって現在も続く表現(現在完了)が可能だということになります。過去の表現は「現在より以前のある時(時期)、および過去から始まって今に続く時間」を表すことが可能です。よって(定冠詞登場以前の時点では)現在完了の文中でin pastという語句の使用が可能です。 ところが、ある時期に定冠詞が登場しました。結果から言うと、現在ではこの2番目の枠組みは文中で使われるときは、{in the past, at present, in the future}となりますが、では、なぜ{in past, at present, in future}ではないのか、これが2つ目の論点です。 よく言われることですが、過去のことは確定しているから定冠詞がつくと。本当にそうなのでしょうか。未来はというと不確定のことばかりなのにどういうわけか定冠詞がついています。このことからして<過去のことは確定しているから定冠詞がつく>という言い方は怪しそうだという気がします。  過去の出来事について語る話し手にしてみれば<その過去の出来事が確かに過去に起きたことだと聞き手に確認可能なのでなければ>定冠詞の使用は許されないはずです。確認および検証が不可能な場合、その出来事がたしかに過去の出来事だと聞き手が同意するはずだという確信が話し手の側になければなりません。ただし、そうした確信が得られないことはいくらでもあります。  現実には、多くの場合において、過去の出来事が聞き手によって確認されようがされまいが、また、聞き手の同意の有無に関わりなく、過去をあらわすpastにはtheがつきます。というわけで、<過去のことは確定しているから定冠詞がつく>と言う言い方に根拠がないことは明白です。 pastにtheがつくことには別の根拠があるはずです。 そもそも、過去の出来事を確定していると聞き手が確認することはいかなる体験なのでしょうか。当然のことですが、過去は厳然たる過去なのであって、それは人間の思惑と無関係に存在するので確認など不要だとする考え(素朴実在論)は成り立ちません。確定したはずの過去を確認しようとする人間は確認のための作業を行わなければなりません。聞き手がある過去の出来事について聞くか読むかするとき、聞き手は過去を間接的に体験するにすぎません。ところが、その出来事を心の中で想起するとき、後悔や嘆きや懐かしさなどを感じます。少なくとも何らかの関心を抱くはずです。その瞬間に、聞き手は過去を直接的に体験していると言えます。  未来についても同じことが言えます。予想行為においてわくわくしたり、ゆううつになったり、ここでも直接的な体験がなされます。 すなわち、聞き手は想起や予想において、過去に対しても未来に対しても直接のつながりを持ちます。言語使用者と概念とのつながりは言うまでもなく心の働きとしてのつながりです。よって、presentだけでなくpastとfutureにも冠詞はつきません。たとえ、過去の確定した出来事(歴史的に評価が定まっているとか)であっても同じことです。theがつくことはありません。 ここで話が振り出しに戻りました。なぜpastとfutureにtheがつくのでしょうか?  pastとpresentおよびpresentとfutureは明確な切れ目を持ちませんが、pastとfutureは離れていますから対立関係をなしていると見なせます。なぜそう言えるのかを考察します。  我々が未来を予想する時、我々の意識は未来の方に向きます。逆に、我々が過去を想起する時、我々の意識は過去の方に向きます。意識の方向性は<今>を境にしてちょうど互いに逆向きのベクトルをなしています。つまり、我々にとって(生きられる時間として)存在する時間は<今>と、想起の対象となる<過去>と、予想や意志の働きの対象となる<未来>で構成されているわけです。時間が過去から未来へと流れてゆくという発想は(おそらく何かのメタファーから生まれた)思いこみにすぎません。  この時、<人間の意識→過去>と<人間の意識→未来>はちょうど正反対のベクトルを持っていて対称形をなしています。明白な二項対立です。この場合のpastとfutureが文中で使われる時定冠詞が使われるのは当然のことと思われます。ちょうど、{right, left}や{front, back}のような概念集合枠組みの各要素が文中での使用時において定冠詞が使われるのと同じことだと思います。 定冠詞の登場以降、枠組Bの実践バージョンは{in the past, at present, in the future}というふうになったと考えられます。いかがでしょうか。

  • 論理データモデリングの作業時間見積

    現在下記の条件で論理データモデリングを実施する予定です。 顧客側に想定する期限がすでにあるのですが、データのボリュームを見た所その期間ではとても終わりそうもないと感じ、その想定のもと作業見積後顧客と話をしたいと考えています。 そこで、モデリングの観点で作業にかかる時間を見積する指標や方式はあるのでしょうか? 要員:2名 データ:DBテーブルスキーマ抽出済、帳票等収集済、業務の概念モデリング済 顧客側での想定スケジュール:11月末まで(約40日間) 現状のテーブル合計カラム数:約33,000 例えば1カラムあたりのエンティティ判別・属性判別を平均5分と考えて、 343.75人日(1日当たり8時間=480分)/2人で一人当たり171.875営業日 とか。 過去の経験に基づく内容もお聞かせいただければ幸いです。 よろしくお願いいたします。

  • 最強のオリキャラを作りました。勝てますか?

    最強のオリキャラを作りました。勝てますか? 名前:シィナ 【能力概要】 シィナの異能 ・過去と未来の連続性で存在し、これは現在(いま)という概念に依存しない。現在の概念を超越した非存在。あらゆる全てに連続性が存在する為、それら全てを司る事が可能でもある。 ・記述した事実が既に過去の一部である為、現在というものは存在せず、証明が可能であっても証明した事実も過去の一部である。 ・自己を自己を足らしめるのは己自身という考えを根幹に持っており、他のあらゆる影響を受け付けず、その考えを世界改変という形で表している。 常に世界改変し続けられ、シィナの確立された強さを相手に押し付け、相手と相手を構成する要素を常時殺し続ける。 【能力概要】 ・主観帰結 万物の根底にあるのは主観である。どこまで行っても必ず主観が存在する為、世界の真理の1つでもある。 シィナは主観を司ってると同時にあらゆる主観の集束点である為主観的側面を持ったあらゆる全てはシィナのあらゆる強さになる。 また、全ての客観は主観に帰結する為、それもまたシィナの根源に帰結する。 能力、考察、存在、記述、表現性、可能性、創作、設定、法則、世界、人間などこれら全ての根底にあるのは主観である。 故に創作人や考察人ですらこれに囚われ、逃れられない。私達が存在する根源もまた主観なのだから。 シィナは主観を司っており、主観的側面を持つ何かではシィナに干渉する事も倒す事も出来はしない。

  • at present とin futureについて

    at present とin futureについて 少し長くなりますが、私が示した考えが正しいと思うかどうか、回答頂けるとありがたいです。 一般に無冠詞の名詞は概念を表すとされています。又、概念に冠詞がつかないということは、その概念の表すものが言語使用者にとってひとまとまりのものと見なされないことを示します。ということは概念は、そのもの自身がひとまとまりのものとして単独で存在するのではなく、別の概念との何らかの結びつきを持つと考えられます。または、言語使用者との結びつきを持つと考えられます。 ここで時間の3様態であるpast, present, futureについて議論を展開してみます。これら3つの概念が言語使用者との結びつきを持たず(ということは言語使用者からは客体的に-対象物として-とらえられて)、3つの相互の結びつきが強まると、一つの枠組みを構成するに至ったと推測されます。相互の対立関係から特定化されるので、文中で使われる際にはtheがつきます。枠組みの要素である{past, present, future}は枠組みを作ることによって言語使用者の便宜を図るという点で共通点を持ちます。  それらは概念的なものではあっても、言語使用者にとっては客体的なものなので、それぞれが独自の時間領域(過去領域、現在領域、未来領域)を持ちます。言語使用者の便宜を図るという観点からもそうした時間領域を持つことになります。永遠に続く時間という考えはここでは成り立たなくなっています。発話者が現実に生きている(と感じられる)時間ではありません。 一方、past, present, futureは(pastを例外として)概念として無冠詞でも使われます。例えばat presentという使い方があります。theがついていないということは、presentは他の時間概念であるpresentとfutureと結びついて枠組みを作ったりなどせずに、言語使用者と結びついたということだと思われます。  at presentは「現在の時点では」というふうに現在の短めの時間を表すことに用いられるようです。言語使用者が気持ちの上で現在という時間と切り離されていないようなニュアンスが感じられます。発話者が現実に生きる<今>を表すのだと思います。in the presentの方は現実に生きている(ことを実感できる)時間ではありません。 未来のことで言えばin futureという言い方があります。無冠詞つまり概念として使われているということは、発話者とのつながりがある、すなわち発話者が現実に生きている<今>とのつながりがある未来を表すはずです。辞書で調べるとfrom now onの意味がありました。 She often makes mistakes, so I will ask her to be more careful in future. ---など ということは、in the futureは「未来のある時点において、または未来のある期間において」を表し、in futureは「これから先ずっと」を表すことで役割分担をしているのだろうと考えました。 ここまでの記述内容に疑問な点があればご指摘をお願いします。  さて、問題はここからです。発話者が現実に生きる<今>とのつながりがある未来を言い表すためにin futureという言い方があるのであれば、発話者が現実に生きる<今>とのつながりがある過去を表すためにin pastと言い方があって、その意味は「今までずっと」の意味であるはずです。 ところが、現実にはin pastは使われていません。その理由を推測するに、おそらく過去の出来事は確定してしまっていることなので、概念の持つ漠然性と相容れないのではないかと思います。しかし、過去と言っても、例えば現在完了時制を使えば現在とつながりのある過去を表せます。調べてみると現在完了とin the pastが共起する文はいくらでもあります。 Our country has tried to absorb Western culture in the past. ---など  こここで疑問が生じます。in the pastにおけるthe pastは枠組みとして現在という時間帯(the present)から明確に区別されるはずなのに実際には現在完了形の文中で使われています。 ここで私の仮説です。in pastという表現を作るべきだったのに作らなかったので、幻のin pastが仮に存在していたら持っていたはずの働きをin the pastが肩代わりしたのではないかということです。いかがでしょうか。  ネイティブが言うには、in the pastは「過去のある時点において、または過去のある期間において」を表すが、同時に「ある過去の時点からこれまでずっと」の意味も持つそうです(そういうふうに考えない人もいます)。 in the pastとin the futureの意味について数人のネイティブに尋ねてみましたが、各人が好き勝手なことを答えて、どれが正しいのかよくわからないのです。そこで、彼らの回答を整理し、合理的な説明が可能であるように私なりに解釈し直したものを提示することにしました。(よって私の主観的な考え方が混入しています)  次のin futureとin the futureについても同様です。 さて、in futureですが、やっかいなことに地域差があって、イギリスではin futureが好まれる傾向にあり(in the futureも使います)、アメリカではin the futureが好まれます。地域によっては両方とも使うことがあるようです。 どのような使い分けがなされているかということですが、先ほども言ったとおり、彼らの異なった、あるいは互いに矛盾し合う回答を整理し、合理的な説明が可能であるように私なりに解釈し直したものを提示します。 in futureしか使わない地域では、in futureが文脈に応じて「これから先ずっと」の意味と、「未来のある時点において、または未来のある期間において」を表す。in the futureしか使わない地域でも同様です。 両方とも使われている地域では、in futureが「これから先ずっと」を表し、in the futureが「未来のある時点において、または未来のある期間において」を表す。 この考えに賛同するネイティブスピーカーもいますが、異論を唱える人もいます。いかがでしょうか。ご意見を伺えるとありがたいです。

  • 永遠?の未来の存在に貴方は何が出来ますか?

    私は人間は存続して来たから 今ここに存在すると考えます アイデンティティというやつです。自分は長いこと存続して来ました。 それは私を存在させる環境や存続に必要な数多の性質が在ったからです(存在性)。 そして私は存在を守り抜く為に 息をし 食べ 歩き 学び 道具を使いいろんな苦難にも耐えて来ました。 存在こそが目的であり、存在こそが価値であり、存在が意味の根拠になるものと思って来ました。 人間は精神であり 精神は性質であり エネルギーをコントロールするものだと思います。 人間は環境のエネルギーをコントロールして存在を求めて進化発展して行くものだと思います。 存在の定義は「(個性ある)性質を持ったエネルギー」です。それが単位です。 エントロピーの増大と存在性が複雑な系の中で存在をせめぎ合っていると思います。 人間は生存競争の動物ではないので 経験・学習・想像・創造などを通して進化して行くと思います。 真善美を求めながら 四苦や悪を避けながら 世界平和・調和に至れないものかと思います。 他にもありますが この考えで間違ってる点はどこでしょうか?完全な筈はありません。 当方障害者のため長文が苦手で できれば短文でご指摘願えればありがたいです。 もちろんご賛同のご意見も歓迎です。どうか宜しくお願い致しますm(_ _)m