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未来は、存在していると証明できますか

マクタガートのA系列(過去・現在・未来)の三様相のうち、特に、未来という時間概念を論理的に探究する前に、そもそも未来は、存在していると証明できているのでしょうか?と思ってしまいます。僕たちが日常生活している現在とは断絶していて、決して現在の側からはその中に飛び込めない未来という「あの世」のような概念は、語り得ない、記述し得ない、親近感のない、超体験であるがゆえに、つかみどころがないように思うのです。未来という想定の確かさについて、教えてください。

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noname#80116
noname#80116
回答No.66

 No.64です。  かんたんですよ。  ★ 非現実・虚構としての《ゲーム・遊戯・劇》であって、〈絶対〉としての《ゲーム・遊戯・劇》ではないようです。  ☆☆  《〈絶対〉のもとで夢見る非現実ないし未来》  ☆ これが 《迂回路》を含んでいるからです。  ○ 《〈絶対〉 ≫という無根拠≪ のもとで ≫一人ひとりが それぞれ 主観として≪ 夢見る非現実ないし未来》  ☆ と読んでください。そうすれば 次のごとく 各自が それぞれ自由に アンガージュマンをおこなうというのが 基本になっています。  ★ ・・・「所与の絶対的な規範」に基づくのではなく、未来の現実の状況に向けて各自がアンガーシュ(拘束)されている「行為者」「役者」であると読み解く  ☆ ですよね?  ★ 各自が過去を反省し、現在の自己を否定し、未来に対して自己をプロジェ(投企-投げ入れ)する。  ☆ 《自己否定》は 一時 流行りましたが――そして それとして 自省は大事ですが―― この文では 《現在の自己》に対して 《否定》だけをおこなうかに見えますので その点だけが 気になりました。     科学哲学としては こちらは 相変わらずで 進展しませんが 大きく 《言語ゲーム》としての 未来論は その基本が見えて来たようですね。

qsxdrfvgyh
質問者

お礼

一般的に、企業の採用人事担当職が、面接で応募者の採用を決定する重要な要素の一つとして、「当社における将来的な貢献度」をその応募者の言葉と行動から、今実感できるかどうかという点があると思います。 「未来に対して自己をプロジェ(投企-投げ入れ)する」その応募者の状況が、その言葉と行動から想像でき、面接者がそれを納得できるかどうかが重要であろうと思われます。 「まだない未来」だけれども、そうなる努力(たとえば資格取得)、資質向上方策の実践、業界や経済情勢などの情報収集・現状認識・応募者独自の判断から、応募者の将来像がイメージできるかどうか次第で、合否が決すると思うわけです。 >《〈絶対〉のもとで夢見る非現実ないし未来》 これが 《迂回路》を含んでいる > ○ 《〈絶対〉 ≫という無根拠≪ のもとで ≫一人ひとりが それぞれ 主観として≪ 夢見る非現実ないし未来》  ☆ と読んでください。 このような《言語ゲーム》としての「未来論」を持つ人物では、採用人事担当職としては、全く、その応募者に魅力を感じません。夢見るだけでは弱すぎます。「所与の絶対的な」模範解答のような借り物を持ち出してもだめです。自分の言葉で語り、自分の能力に対するできるだけ客観的な現状認識に基づき、何ができ何ができないのか、明確に理解した上で、会社や社会にどのように貢献できるのかを熱く語り、「未来に対して自己をプロジェ(投企-投げ入れ)」した将来像がイメージできるような応募者でないと合格にしません。 その意味で、現実味を帯びた未来を熱く語れるかどうかは、その応募者の人間力に通じると思うのです。 そろそろ未来論を総括できる時期が近づいたようです。ここ数日、どのような例示がいいか悩みましたが、分かりやくいものにできたと思います。そして、「未来という想定の確かさ」は現時点(幅のある今)における個々人の言葉と行動・実践の差異によって、それぞれ全く違うと分かりました。自信のない人の未来は、全く確かではないようです。また、根拠のない自信過剰の未来は、完全なる虚構になっていると思います。根拠のある、実行・実践の事実の裏づけのある、未来の想定は、説得力があり、確かなものだと言っていいと思うのでした。これが結論になると思います。長い間、ありがとうございました。

その他の回答 (72)

回答No.22

 ANo.18へのお書き込みのご参考に:  人それぞれのお歩みや世界があり、同じことばもことなる世界をごらんになるものですよね。  一概にいえませんが、矮小な私の僅か70年過ぎほどの遍歴で漸く、まぁこれが今自分にお勧めかなというのは以下のものです。  「顕現」:『バガヴァッド・ギータ』(Self-Realization Fellowship http://www.yogananda-srf.org/)  「ユガ」:『聖なる科学』ギャナアヴァタラ・スワミ・スリ・ユクテスワ・ギリ 森北出版株式会社  「サマディ」:『英文レッスン』(Self-Realization Fellowship http://www.yogananda-srf.org/) *日本語レッスンと日本語の臨時レッスンもありますが、英文が一応全文です。  そのほかこの機構は幾つかそういうものを出版し、欧米では評価されております。日本は未だ道遠し、ですが。  

qsxdrfvgyh
質問者

お礼

最後の括弧が余計なので、見れませんでした。 http://www.yogananda-srf.org/

qsxdrfvgyh
質問者

補足

ヒンデゥーの世界周期について、おおよそ分かりました。ありがとうございました。

回答No.21

>2008年金融恐慌で、今あった状態(過去)が1929年世界大恐慌 100年に一度の金融恐慌ですか。 全く幅のない<今>において、他の永遠が経過します。 極端には、この二つの事象は、全く幅のない他の停止状態から見ると同時に発生していることになります。無論、幅のない停止状態からこれらを観測することは不可能ではあります。 その現象の中にあってこそ、その差分があるから、それが数十年に相当するわけですね。 その数十年は、それを実感する側の他の事象の<差分>を物差しに、数十年と判断されるわけです。1億年の差分しか感知出来ない観測者(生物)にとっては、これらは同時に起こっていると思うでしょうね。 その物差しを有しない森羅万象側には時間はありません。時間は、森羅万象の中においてのみその同一場の森羅万象を使って、その差分を知覚し実感し想定されるその同一場の生物独特の世界だと思いますよ。 <今>は真の「現在」が違うところに断絶があって、<今>は幅のあるちょっと前の過去ですから、過去と断絶しているとは言えなくなってしまってます。 時間が経過する?  それは、観測側がそのようになっているだけであって、 森羅万象において時間が経過しているのではありません。

qsxdrfvgyh
質問者

お礼

>全く幅のない<今> 瞬間概念だと行き詰まるので、論理的に失敗・破綻するでしょう。 >差分を知覚し実感し 知覚も実感もなく、人類滅亡後も、時間は淡々と経過していくでしょう。 ><今>は真の「現在」が違うところに断絶があって、<今>は幅のあるちょっと前の過去ですから、過去と断絶しているとは言えなくなってしまってます。 意味が分かりません。<今>は、幅があるのですか、ないのですか。<今>は過去の一形態なのでしょう。現在とも未来とも、同時性は無いでしょう。つまり、断絶しているでしょう。 >時間が経過する?・・・森羅万象において時間が経過しているのではありません。 時空は、一体として変化していると思いますが。時間は経過(推移)するで通じるでしょう。

qsxdrfvgyh
質問者

補足

全く分かりません。

noname#80116
noname#80116
回答No.20

 No.17です。  ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ではこの二つの時間 過去と未来とは どのようにしてあるのでしょうか。  過去とは《もはやない》ものであり 未来とは《まだない》ものであるのに。また現在は もしいつもあり 過去に移りさらないならば もはや時ではなくて 永遠となるでしょう。  ですから もし現在が時であるのは過去に移りさってゆくからだとするならば 《現在がある》ということも どうして言えるのでしょうか。  現在にとって それが《ある》と言われるわけは まさしくそれが《ないであろう》からなのです。すなわち 私たちがほんとうの意味で《時がある》と言えるのは まさしくそれが《ない方向に向かっている》からなのです。 (アウグスティヌス:告白 第十一巻第十四章 山田晶訳) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これと同じような趣旨で これまでも qsxdrfvgyhたちは 主張しておられると思うのですが まづわたしの疑問は それだけでは どうして 足りないのか です。  アウグスティヌスは この《告白》の第十一巻から第十三巻までにおいて古代人としてのかれなりの時間論を展開していますが ほかに 導入の部分として 次のような文章もあります。秋の文化活動として 気長にまいりましょう。  ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  昼はあなたのもの 夜もあなたのもの。それぞれの瞬間は あなたの御意(みこころ)のままに飛び去ってゆきます。あなたの法の深くかくれた意味を熟考しようと思う私たちに おしみなくそこから時間を取り出して与えたまえ。戸を叩く者に 法の戸を閉ざしたもうな。・・・ (同上 11・2) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ まづは たとえば このように問い求める姿勢 したがって それとしての現在 これがあれば――さらにつまり そのつど 意識して 問い続ける断続的にして持続する時間過程があれば―― 特に不自由は感じないと思うのですが いかがでしょうか?   大胆に言ってしまえば 未来について 知らなくても よい。のではないでしょうか? すなわち  ★ 次々と新しい<今>がその都度生まれるという仕方で、時間を形成しているだけで、未来も過去も見渡せるはずがないと思うのです。  ☆ という構えで まづは 足りるのではないでしょうか? そこのところは いかがでしょうか?    ★ 「未来」から連想することを深めていただきたいのです。  ☆ ということでしたら それは 時間論であるよりは それこそ《復活》の議論になるのではないでしょうか? もっとも わたしの考えでは 《永遠の現在》の問題として やはり 時間論を伴ないますが。  《未来》とはどういう事態なのか この規定を明らかにしておきたいということでしょうか? もし規定できたとしても 上に述べたような《現在》過程におけるわたしたちの姿勢の中に取り込まれるように思うのですが。

qsxdrfvgyh
質問者

お礼

アウグスティヌスは、(造物側の)「永遠」と(被造物の)「時間」を絶対的に区別しているはずです。その上で、現在に過去と未来を還元する時間論を展開していますが、永遠と現在を混ぜる発想は、アウグスティヌスの意図に反しませんか?時間に実体を認めない、空観に通じる視点は、評価できると思うのですが。

回答No.19

>「概念としての未来」と「時間としての未来」の混同で、 >「動く今」という印象は、「流れる」というよりも「飛び越える」という性質を持つと考えます。 >つまり、「今ある状態」(現在)から「今あった状態」(過去)への飛び越えです。 >そして、跳躍観は、現実性とその消失という隔絶観でもあります。 隔絶は、「概念としての未来」と「時間としての未来」の間にあるのであって、 時間としての「今ある状態」と「今あった状態」の間ではないと思います。 この時空間においても、永遠に現象が停止した状態があり得るわけで、つまりは、停止状態は、永遠を包含している訳です。 したがって、現象の中においてのみ、「今ある状態」と「今あった状態」の差分が時間ではないでしょうか。 時間が経過するから「今ある状態」から「今あった状態」へ移行するのではないのです。 また、「今ある状態」と「今あった状態」の差分の無いところから、永遠も停止も観測することは出来ないのです。 この現象の中において、その物理定数、物理法則に則って、その進行する変化をもって 時間を定義し未来が当然に到来すると想定することは妥当です。 充分な妥当性があるだけであって、存在するとは言えないと思います。

qsxdrfvgyh
質問者

お礼

「未来」から離れますが、一応、返答してみますね。 >隔絶は、・・・時間としての「今ある状態」と「今あった状態」の間ではないと思います。 今ある状態(現在)が、2008年金融恐慌で、今あった状態(過去)が1929年世界大恐慌だとすると、断絶してると思うのですが? >「今ある状態」と「今あった状態」の差分が時間ではないでしょうか。 漠然とならば、時間と言えそうですね。でも、<今>そのものも時間だと思いますよ。<今>の長さは、色々に設定できるとした上での回答です。 >時間が経過するから「今ある状態」から「今あった状態」へ移行するのではないのです。 今ある状態(現在)が、2008年金融恐慌で、今あった状態(過去)が1929年世界大恐慌だとすると、数十年の時間が経過していますよ。

回答No.18

 今までのbrageloneさんらしくない、ご発言は何か挑発するかのような疑いも出てきますが。  でもbrageloneさん、現在って、何秒なんですかね。どこで区切るのでしょうかね。これも私らしくない屁理屈なんですけれども。  ANo.16でqsxdrfvgyhが教えてくれた、虚の時間はすごく示唆的です。  この世界、つまり時間と空間の犯人のブラフマンは意識なのですが、顕現の季(ユガ)と不顕現の季節(ユガ)があり、不顕現のユガのときは顕現の側面に自分をもっていっていないから、顕現しない。  つまり、この世界はない。つまり仰せの実時間はないということになるのですね。  顕現のユガのときは、不顕現の、本体的自分があって、静かに顕現の世界を眺めている。というのだそうです。  このユガでは実時間と虚の時間があるのだそうです。  顕現は数億年で繰り返されているのだそうで、上昇(理解力が上がっていく時期)のユガと下降(理解力が下がっていく時期)のユガが交互にあるそうです。  この下降も上昇もそれぞれ、12000年ずつで、合わせて24000年。  これを何度か繰り返し、不顕現の状態になるのだそうです。  しかし不顕現の状態はブラフマンがそういう夢を見ない時期ですので、ブラフマンにとっては目覚めている状態だそうです。  そういう状態がいわゆるサマディとでもいうのでしょうかね。  そういうことだそうです。人間はそういう側面が悟りなのだそうです。  おかしなことでしょうか?

qsxdrfvgyh
質問者

お礼

「顕現」「ユガ」「サマディ」について、少し調べてみたいと思います。ありがとうございました。

noname#80116
noname#80116
回答No.17

 qsxdrfvgyhさん こんにちは。  こう言っては失礼になりますが おもしろくなってまいりましたので 投稿させていただきます。  こういう事例は どうなんでしょうか?  つまり 明日の午後六時に どこどこで会いましょうというとき その概念としての未来が やがて 時間経過としても 現在となって また 過去へと去っていきます。  それだけのことでは いけないのですか? 足りないのですか? 論理的な内容を伴なった時間観・未来観を求めておられるのですか?  たぶん 論理としてなら 現在という観念(意識)かつ時間過程 これが 唯一の理論だと考えます。それで 生きる上では 支障はないはづです。  つまり   ★ 未来という想定の確かさについて、教えてください。  ☆ というのは 杞憂に近いと思うのですが おかしいですか? (ちなみに 杞憂は 取り越し苦労だけではなく 実際に起こる可能性は あるわけです)。マクタガートを勉強しないと だめかも知れませんね。とりあえず お応えを待ちます。

qsxdrfvgyh
質問者

お礼

>明日の午後六時に どこどこで会いましょうというとき その概念としての未来が やがて 時間経過としても 現在となって また 過去へと去っていきます。 それだけのことでは いけないのですか? 足りないのですか? 日常会話では、「明日の午後六時に どこどこで会いましょうということが 時間経過としても 現在となって また 過去へと去っていきます。」という表現で充分通じますし、「未来という想定の確かさについて心配しているようで、杞憂に近いと思うのです。」という表現も御もっともです。ただ、未来に関する時間論を展開してくださいというお題です。秋の文化活動としてです。   さて、「明日の午後六時に どこどこで会いましょう(まだ会っていない)」が「今会いました」になり、「さっき会いました(もう会っていない)」に時系列的に推移するとき、その視点は、《永遠の相》にあります。未来から過去までの時間軸を見渡せると言う前提があるようです。そこを問題視しているわけです。次々と新しい<今>がその都度生まれるという仕方で、時間を形成しているだけで、未来も過去も見渡せるはずがないと思うのです。未来も過去も<今>とは断絶しているのであって、未来・現在・過去が相互に排除関係にあるという程度ではなく、それぞれ独立して断絶しているという強い孤立性を僕は想定しています。そして、<今>を最重要視すべきという意図です。もちろん、<今>は「現在」と同じではありません。微妙に違います。そこの説明は省略します。だからこそ、隔絶した「未来」は、「語り得ない、記述し得ない、親近感のない、超体験であるがゆえに、つかみどころがないように思うのです。」と書いたわけです。「未来」から連想することを深めていただきたいのです。それだけです。よろしくお願いします。

qsxdrfvgyh
質問者

補足

マクタガートにこだわらないでください。

回答No.16

 拙い回答投稿をさせていただいた、ご縁をわずかに頼って、逆にお教えを請うことになる、投稿をお許しください。  時間と空間とが、世界というか、物質の世界というか、その存在の表裏なのだということであるならば、物質の世界が仮になくなれば、時間と空間とはなくなりますよね。この表裏ということばの中身はちょいと脇においていただいて。  物質の世界が出来たものか、創造によるものかは別にして、その出現以前や終了後は、時間と空間はないのですよね。  詭弁哲学の、飛ぶ矢のことではないが、須らく存在は止まり、且つ、飛ぶ(変化)する。  止まり、且つ、同時にその変化を未来がないという現象というのか。  何か(本質というか、存在というか)が続いている限りは、未来があるというのか。  その辺の問題としては考えられないのでしょうか?その限りの問題ではないかと存じまして。  存在たる本質とは根底意識ということなのですが。それがこの世界をみている間は、続いている。  その意識が退いてしまえば、時間はなくなる。  という思いで居るのですが。  それで、敷衍付けたりですが。  創造世界はそれをみている根底的意識の永遠の現在の中のことであって、その意識の経験や知覚の結果、内容しか意識できない。  だから私たちの通常の経験意識には、主格意識自体のない次元であり、そんなレベルでの人間意識では過去だけしかない。と思いますが。  どうか愚かな誤解であれば、私みたいな回りくどいいいかたでなく、○○は▲▲である、という簡明直接なお教えを賜りたくお願い申しあげます。

qsxdrfvgyh
質問者

お礼

再再度のご投稿、ありがとうございます。着実に検討して参りたいと思います。 >物質の世界が仮になくなれば、時間と空間とはなくなりますよね。・・・物質の世界が出来たものか、創造によるものかは別にして、その出現以前や終了後は、時間と空間はないのですよね。 空間に束縛された時間論では、そうなりますが、時間の本性を「虚時間」だとすると、永遠の時間が想定できます。 >止まり、且つ、同時にその変化を未来がないという現象というのか。 宇宙がフリーズするときのイメージなのでしょうね。これも空間に束縛された時間論として「未来が無い」状態を表現しているように思います。虚時間を認めれば、空間的な停止後も虚時間の推移は続くと思います。また、「止まり、且つ、同時にその変化」が、フッサールの時間論だとすると、「現在」を構成する分析で「未来把持」が想定されていますから、「未来がない」とはならないと思います。 >何か(本質というか、存在というか)が続いている限りは、未来があるというのか。 空間の存在が無くても、虚時間の推移は続くと思います。未来はあると想定せざるを得ないと思います。ただし、実時間ではありません。 >存在たる本質とは根底意識ということなのですが。それがこの世界をみている間は、続いている。その意識が退いてしまえば、時間はなくなる。 意識とは無関係に連綿と時間は推移してきたと思うのです。人類滅亡後も連綿と時間は推移すると思います。時間は無くならないと思います。ただし、実時間に限定すれば、無くなるかもしれませんが、正直に言ってよく分かりません。 >創造世界はそれをみている根底的意識の永遠の現在の中のことであって、その意識の経験や知覚の結果、内容しか意識できない。 「永遠の現在」が破綻した概念だと思います。現在はあるものでありつつ、ないものに変化(推移)して過去を形成するので、現在だけで永遠とは言えません。だからと言って、現在は、瞬間でも無いようです。時間の本性は、「流れが均一」で、「不可逆的」な点もあり、大変不思議なものだと思います。

qsxdrfvgyh
質問者

補足

>詭弁哲学の、飛ぶ矢 微視的な、瞬間概念における、運動と時間の考察のことですね。krya1998さんが詭弁というように、「存在は止まり、且つ、飛ぶ(変化)する」は、空間と運動からの補助線上で時間を探究する場合ですし、やはり、無限小を追究しても、時間の本性は見えて来ないという点では、僕と見解が一致していそうです。まあ、フッサールの過去把持・未来把持は、瞬間概念の行き詰まり(矛盾)をつくろうために構想されただけの、悪あがきのようでもあります。

回答No.15

qsxdrfvgyhさん こんばんは、ちょっと舌足らずだったので、補足致します。 >「いわば現在も含めて全てが想像なのです。」と展開されていますが、論点が《今》の無時間性・幅のある《今》に傾いています。 幅のある<今>に傾けるつもりはありませんでした。 「いわば現在も含めて全てが想像なのです。」と表現しているのは、観測側である我々人間側と 対象としての宇宙側(時空間宇宙、森羅万象)を考察する場合、 No12で記載した、  人間が現在だと認識している<今>は、ちょっと前の幅のある過去です。 であるが故に、過去と未来が想像であり(同時性の否定)、かつ、<今>もちょっと前の幅のある過去である以上、結論として、 観測側である我々人間側にとって、「いわば現在も含めて全てが想像なのです。」と成ります。 真の現在を、真の現在において捉えているのは、物理層(光速度、脳内伝搬を除く)であって、 幅のある<今>を表象(自覚)している我々人間ではないと言うことです。 したがって、真の現在に幅が無いことに、何ら変わりはありません。 即ち、<今>でさえも想像ですから、勿論、「未来という想定の確かさ」も想像に過ぎません。 そして、「いわば現在も含めて全てが想像なのです。」とする場合の、我々は何者なのかです。 このように森羅万象(物理層)から遊離した我々は、No14のアプリケーション層の如き もの/こと というのが あてはまると思うんですね。

qsxdrfvgyh
質問者

お礼

補足欄の再再訂正です。 >まず、「未来は・・・再度《今》の無時間性・幅のある《今》のことのようです。「真の現在は・・・ 前半部分で、[以下削除]《今》の無時間性・幅のある《今》[以上削除終了][訂正]《多層化した時間観》[訂正終了]としましたので、中間部分の「再度」が不要でした。失礼しました。

qsxdrfvgyh
質問者

補足

No.14の記載を少し訂正します。 まず、「未来はありません。確実にありません。」と当初、断言しています。[以下加筆]これは、《概念としての未来》のことで、《時間としての未来》のことではないようです[以上加筆終了]。次に、「現在と同時にいわゆる未来は存在し得ません。」というのは、《三時様相の相互排除性・非同時性》の一例を言っています。ここで転向して、「現在が多層的に存在することを可能とする次元を加えれば未来はあります。過去、現在、未来は、そこに厳然として存在します。」というのは、[以下削除]《今》の無時間性・幅のある《今》[以上削除終了][訂正]《多層化した時間観》[訂正終了]のことのようです。また、「過去のある時点から見て、現在を、未来であるとすることもの全部を人間側が作っています。」というのは、No.3の《過去の中で、過去・現在・未来という関係を構築している》と同様の論点です。さらに、「人間が現在だと認識している<今>は、ちょっと前の幅のある過去です。」というのは、再度《今》の無時間性・幅のある《今》のことのようです。「真の現在は、まさに脳内現象を起こしている”変化”そのものであって、<今>とは全く異質です。」及び「真の現在には、過去も未来も一滴たりとも含まれていません。」「>「想像」としての未来しか在り得ないと思いました。という僕の回答に対して、その通りだと思います。」と返答し、「いわば現在も含めて全てが想像なのです。」と展開されていますが、論点が[以下削除]《今》の無時間性・幅のある《今》[以上削除終了][訂正]《概念としての未来》[訂正終了]に傾いています。 よく精査すると、幅のある《今》は、過去の一形態か「過去把持・差延」のことのようですので、僕が「現在」と多層化した《今》とを誤解していたため、混乱していました。お詫びして訂正します。「No12で記載した、人間が現在だと認識している<今>は、ちょっと前の幅のある過去です。」という表現が、bananasandさんの定義であり、そこに異論はありません。そして、「概念としての未来」と「時間としての未来」の混同で、論点が錯綜していることもお詫びします。論点は「時間としての未来」の方です。「全てが想像なのです。」を探究しても、「概念としての未来」の論点になってしまいますから、質問の主旨から離れます。「時間としての未来」に、論点を移したいと思います。 ここで、時間的変化(動性)について、少し補足説明します。 「動く今」という印象は、「流れる」というよりも「飛び越える」という性質を持つと考えます。つまり、「今ある状態」(現在)から「今あった状態」(過去)への飛び越えです。そして、跳躍観は、現実性とその消失という隔絶観でもあります。「今あるだろう状態」(未来)から「今ある状態」(現在)への飛び越えも、未実現性と現実性という隔絶観があります。これらは、《三時様相の相互排除性・非同時性》とも通じる点です。「時間としての未来」は、隔絶した、未実現の、あらゆる可能性を秘めた、時間そのものとして、厳然と、「ある」と想定せざるを得ないけれども、語ることも、記述することもできない、人知の限界外の存在なのかどうかという論点です。みなさん、いかがでしょうか。

回答No.14

>「想像」としての未来しか在り得ないと思いました。  その通りだと思います。  人間の精神は、いわばアプリケーション層であって、  この場合、真の現在は物理層に相当します。  真の現在は、純粋な変化そのものです。  時間があって、その自由度の中で物事が変化するのではなくて  変化があってその差分を時間として捉えることが出来るのです。  あたかも、空間があってその中に物体が存在するのではなくて  物体があるから、空間が認識されるというのと同じですね。  極小の有=無では空間は無く、無限大の有でも、空間が歪みそこで空間は特異点となります。  (純粋な変化でも、真の現在には過去も未来も含まれないと同様に   縦も横も高さも一切含まれていないと思考される摩訶不可思議な世界です。   我々がそれを土台にしているにもかかわらず、それは真の現在といわゆる点です。素粒子の世界を除く)  変化の根本には停止があって、極小の移動も極大の移動(光速)も変化は停止してます。 真の現在の理解のために変化を記号化します。(本当は一応連続してます。あくまで理解のためです) →ABCDEFGHIJKLMN→ これらの個々の記号を真の現在とします。左から右へと変化します。 人間精神のアプリケーション層は A→Bの自然現象の変化をC→Dの変化を使って、Eにおいて記憶し、F→Gの変化の中に記憶された A→Bの変化を表象します。 Gには、この表象が物理層として ある とは言えますが、真のABCDEFの一切を含んではいません。 たとえGにこの表象があっても、この先のHIJKを使わないと表現できません。 Gだけでは、A→Bは表象できまないのです。 そして、HIJKを未来と称している訳ですが、Gにこれらが 含まれていない以上、この比喩と同様に想像にすぎません。 いわば現在も含めて全てが想像なのです。 なお、物理層のさらに下層、アプリケーション層のさらに上層の存在を否定するものではありません。  

qsxdrfvgyh
質問者

お礼

まとめの続きです。 No.13の超感覚、勘、直観だと、他の読者も知的な興味の満足を得れそうにないので、がっかりです。論理を尽くしていただきたいわけです。 いよいよ、bananasandさんの論点です。 まず、「未来はありません。確実にありません。」と当初、断言しています。次に、「現在と同時にいわゆる未来は存在し得ません。」というのは、《三時様相の相互排除性・非同時性》の一例を言っています。ここで転向して、「現在が多層的に存在することを可能とする次元を加えれば未来はあります。過去、現在、未来は、そこに厳然として存在します。」というのは、《今》の無時間性・幅のある《今》のことのようです。また、「過去のある時点から見て、現在を、未来であるとすることもの全部を人間側が作っています。」というのは、No.3の《過去の中で、過去・現在・未来という関係を構築している》と同様の論点です。さらに、「人間が現在だと認識している<今>は、ちょっと前の幅のある過去です。」というのは、再度《今》の無時間性・幅のある《今》のことのようです。「真の現在は、まさに脳内現象を起こしている”変化”そのものであって、<今>とは全く異質です。」及び「真の現在には、過去も未来も一滴たりとも含まれていません。」「>「想像」としての未来しか在り得ないと思いました。という僕の回答に対して、その通りだと思います。」と返答し、「いわば現在も含めて全てが想像なのです。」と展開されていますが、論点が《今》の無時間性・幅のある《今》に傾いています。 《今》ではなく、「未来という想定の確かさ」は、想像に過ぎないという点をもう少し、深めていただけませんか。いかがでしょうか。

qsxdrfvgyh
質問者

補足

そろそろ、まとめます。 No.1で、「(未来は)個人個人の頭の中の世界には(記号として)存在している」というのは、《概念としての未来》のことで、《時間としての未来》のことではないようです。 No.2の予知夢は、未来が存在する証拠にはならないと思います。この論法では、逆に、予知と一致しない、予想外の事態であって、「驚き」の感情と共に体験することでさえ、未来が存在する証拠にできますが、どちらも、予知・予見した《過去の拡大形態》に過ぎないようです。 No.3で、「過去の結果を基に未来を予測します。「今日」といいますのは「昨日」に対しては未来でしたが、今現在に存在しています。我々はこの体験を基に「明日」が存在することを予測します。」というのは、《過去の中で、過去・現在・未来という関係を構築している》と読み替えできそうです。 No.4では、因果律の完全性を証明する問題に変質してしまったようですので、別問題の証明後でなければ、使えない論法ですし、それには興味がないので、パスです。 No.5、7、12、14は、最後にします。 No.6、10では、過去・現在・未来の《相互排除性》が論点でした。未来は、絶対的未知なので、現在と隔絶した概念として使用しているのは自明です。「全て知覚・経験の結果でしかないと存じます」及び「現在として何かがある知覚・経験した過去の、その内容集積が現在だと思っている」というのは、No.3の《過去の中で、過去・現在・未来という関係を構築している》と同様の論点です。過去こそが時間概念と三時様相分割の基本だと分かります。 また、「それ(過去・現在・未来)はその人にとっての一定の区分でして、時間そのものにおける相互排除性でもないし、断絶でもないような気がしますが」では、主に《今》の無時間性・幅のある《今》を言っていますが、未来から脱線するので、省略します。 「あの世」のような概念から、輪廻転生に脱線していますが、それとは無関係に、未来・「あの世」が「絶対領域」であるという僕の想定・思い込みだけを再度表明しておきます。 No.8、11では、「上記の哲学者(ベルクソンとかフッサール、或いはデリダ)は現在の中に「過去」と「未来」の存在を主張したと思っているんです。と言うことは、現在に過去と未来が含まれていると言う結論になりますが」というのは、過去把持・未来把持さらに差延に至る流れを経て、《今》の無時間性・幅のある《今》を同様に論点としていますが、やはり、未来から脱線するので、省略します。 No.9は、枕詞で使用したマクタガートに固執した論点なので、省略します。

  • hosiboshi
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回答No.13

論理で追及される方もおられるでしょうが、僕は好みません。 しかし、人の中には、超感覚というか、勘というか、特殊な力を備えている性質があります。 そういう感覚、自分の中に、または他人を頼って見つければ、直感的に、未来が存在しているというケースを理解できる場合があります。 しかし論理ではないので、普遍的、一般的に証明がたやすいものではありません。

qsxdrfvgyh
質問者

お礼

そうですね。超感覚では、証明になっていないですからね。未来は、常に夢想に過ぎないという方向に傾いてしまいそうです。

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    TOEIC 問題集 [新TOEICテスト でる模試 もっと600問] No.141 の穴埋め問題について質問させていただきます。 NOTICE: All Tenants of River-View Office Towers DATE: Feb. 28 We would like to inform all tenants that renovations on the building's underground parking garage __ on March 5. (A) commence (B) will commence 告知: River-View オフィス・タワーの全テナント様へ 日付: 2月28日 テナントの皆様へ、当ビルの地下駐車場の改修が3月5日に始まることをお知らせいたします。 これは、1週間後の未来の予定が すでに確定し、テナントに告知している内容です。未来では あるものの、すでに予定が確定しています。そうでなければ、テナントに告知しません。また、地下駐車場のため、天候にも左右されません。そのため、"確定した未来" であり、現在時制にできると想定されます。念のため文法書を調査しました。 ---------------------------------------- MAINTOP 総合英語、P76、現在時制についての説明 確定している予定、計画 予定表や時刻表などで現在すでに確定している、未来の予定・計画を表す。通例、未来を表す副詞(句)を伴う。 Classes begin next Tuesday. (授業は来週の火曜日に始まる) ---------------------------------------- また、インターネット上で "英語 現在時制 確定した未来" などで検索しましたが、上記と同様の説明が多数存在しました。 いじょうの理由により、確定した未来は、現在時制で記述することができます。ただし、どこにも "未来時制は禁止" とは記述されていませんでした。よって、この問題の答は "現在時制、または未来時制" になると想定されます。つまり、この問題の答は (A), (B) の両方であり、TOEIC の問題としては不適切です。問題集が間違っています。 上記の考え方で間違いないでしょうか。自信がないため質問させていただきます。よろしくお願いいたします。

  • systemCの抽象度とは

    大変お世話になります。 現在、HDL言語を勉強し初めており、systemCなる言語があると知りました。 内容を見ると良く「抽象度が高い」との記述があるのですが、「抽象度が高い」というのは、論理設計において具体的にはどのようなことになるのでしょうか。色々なHPを見ているのですが、概念はなんとなくわかるのですが、具体例が判りません。論理設計における具体例を用いて説明出来る方いらっしゃいましたら、どうか回答お願い致します。

  • 未来から来たことを証明

    未来から来たことを証明するには、どうすれば良いですか? 持ち物はなく、裸で来たとします。証明する相手は、大衆でお願いします。 以下に、適当に場合分けしました。どれでも構いませんので、教えてください。 1.現代から江戸へ 2. a-5年後の未来から現代へ b-30年後の未来から現代へ c-100年後の未来から現代へ

  • 存在証明

    デカルトなどが行ったと思いますが、神の存在証明を言うものがあると聞いた事があります。(私は哲学か科出ではないので、詳しくは知りませんが…) デカルト以外に神の存在証明をした人がいたら教えていただけないでしょうか。 お願いします。 アリストテレスもかな?

  • 《絶対》という概念を使いこなすようにならねばと

     ・・・思います。そのことをめぐって 問います。  おそらく互いのやり取りをつうじて 《絶対》は 互いのあいだに浮彫りになる。そういった問い求めのすがたが想い描かれますが そうであるかどうかは 発進してみなければ分かりません。  すでに幾度も問うていますが そういう意味でさらにすすめたいと考えました。  たたき台です。  1. ひとは おのれの存在が永遠ではないにもかかわらず 《永遠=無限=絶対》という言葉を持つに到り これを使っています。  1-1.  その意味で 《神》ということばも――そして《無い神》も―― 用います。  2. すなわち この経験世界を超えたところに《永遠=無限=絶対》を想定して それにもとづき言葉として・ゆえにそれなりに概念として使いこなしています。  2-1. 《経験世界を超えた》という意味は 経験事象における因果関係から自由だという意味です。  3. ですから 不思議なことにひとつの逆説のごとくに 《ことばそして概念》としては 《絶対=無限=永遠》は、経験世界に属します。  3-1. 経験世界を超えた《非経験の場》が 経験世界の内側において用いられています。  4. もうひとつに この《想定》のもとに 一人ひとりの主観の内にあっては あたかも《絶対なる者が この相対的で経験的な世界に 降りて来た》といった派生的な・第二次の想定をも持つことが自由であり これは ゆるされています。  4-1. 良心・信教の自由あるいは表現の自由という公理であるようです。  5. 繰り返しですが 《絶対=永遠=無限》は 非経験の場であり 《非在》です。定義(想定)において こう確定します。  5-1. 存在するか存在しないか どちらとも人間にとっては分からない場であり 場としてのチカラだと思われます。  5-2. ゆえに 神としては 有神論か無神論かは どちらも――自由に――あり得て 互いに同等ないわゆる信仰の立ち場です。  6. 同じく確認として言えば 或るひとりの人間の主観のうちにあっては 定義とそこからの派生的な想定として 《絶対=永遠=無限》は 二重構造となって過程しています。  6-1. 《絶対》の二重構造:   ・ 《非経験の場》そのものとしてのわが心の庭〔なる神〕:無根拠   ・ 《神》という言葉としてまた概念として用いられる《絶対》:因果       関係などの合理的な根拠を科学的に明らかにする場合に       すら用いられることがある。        たとえとして都合がよいのだと思われる。        6-2. すなわち 《無根拠で非在なる非経験の場》が 主観の内なる経験世界に 《定義としてのまぼろし(非思考の庭)》と《仮りにでも姿かたちを表わしたその現実(精神と思考の緑野ないし密林)》との《二重構造》を呈しています。     以上です。ご批判をつうじて精緻なものにして行きたいと考えます。  ちなみに 《絶対》をめぐる次のような文章もありますので ご紹介します。  ● (司馬遼太郎:絶対について) ~~~~~~~~  近代以後の日本の文学者が、西洋の小説を読み、読みおえてから小説を書きはじめたことは、いうまでもありません。  ただ日本には「絶対」という思想、慣習、あるいは日常の気分がなかったということが、決定的に不利でありました。・・・  むろん、絶対などは、この世にありはしません。宇宙にも、科学の中にも、存在しないのです。  しかしある、と西洋人は、千数百年をかけて自分に言いきかせつづけました。  絶対、大宇宙の神は存在する、うそではない、ということを、哲学として、神学として、論理をきわめ、修辞をきわめ、思弁のかぎりをつくして説きに説きつづけてきたのです。  ヨーロッパの荘厳さというべきものであります。(開高健への弔辞)    http://www.asahi-net.or.jp/~pb5h-ootk/pages/S/sibaryotaro.html  ~~~~~~~~~~~~~~

  • in the past / the future

    past とfutureになぜtheがつくのかについて質問します。私の説明を述べていきます。おかしいところがあればご指摘下さい。 まず、時間の枠組みを2種類提示します。一つは{past, present, future}という概念の枠組みです(枠組Aと呼んでおきます)。言語主体によって客対物として設定されたもので、それぞれが独自の時間領域を持ちます。 past, present, futureのそれぞれは、枠組みを構成するデフォルト要素(もともと存在するはずの要素)として組み込まれたわけですから、文中で使用される際は定冠詞がつきます。この時間領域においては、具体的な行為や出来事が表現されることはありません。3つの時間領域について抽象的な言明が行われるだけです。--Don't think of the past. Mind the present and the future. もう1つの枠組みは、現実に何かが存在したり起こったりすることが表現される場です。これを枠組B {past, present, future}と呼んでおきます。---She's busy at present, but will be free in the future. 枠組Bは生活者(言語使用者)によって日常常識的に把握されるべきものです。ところが、そこに、物理学的な時間の考えが混入してくると混乱を招くので、物理学的な時間の考えを排除しようと思います。  例えば、物理学では、無限にのびる時間直線tを引き、線上の任意の点を現在と定めます。ここでは現在が瞬間の時間とされます。(我々の日常常識的な考えでは、現実の現在の時間は瞬間ではありません。それは比較的短めの時間であって、その時間幅は言語主体の思惑に応じてよって伸び縮み可能なものです)。それだと、現在は人が生きる時間ではなくなってしまうので、物理学的な時間は今回の考察から一切排除するものとします。 なお、過去が現在より以前のことであり、未来が以後のことであるとすることは、第一義的に日常常識的な時間の考えだと思われるので、この考えは残します。 これから日常のありのままの時間について考察を進めたいと思います。  さて、人間は時間というものを考える時、まず「今」を基準に考えようとします。「今」が唯一、現実に生きられる時間だからです。「今」より以後の時間を未来とし、「今」より以前の時間を過去としました。 では、未来は永久に存在し続けるかということですが、厳密に言うと、未来という概念を作ってその定義に沿って理解を行うしかない人間にとって、未来は言語共同体が存続する(人類が生存し続ける)かぎりでの永久的な存在物です。でも、実際は、人々は何となく無限の彼方の未来(および過去)というふうにとらえられているのではないかと思います。 Aの枠組みにおける{past, present, future}という概念要素はそれぞれがつながりを持たない抽象的なものととらえられていますが、言語主体とのあいだにも隔たりができていて、主体によって客体的にとらえられています。  一方、Bの枠組みにおいてはそれぞれの概念はつながりを持ちます。生きられる時間(人が生きたり、何かが起きたりする時間)なので人間(言語主体)との間にもつながりがあります。ここでは言語主体は時間を客体的にとらえることはできません。 言語主体は今の瞬間にも言語を使っているわけだから、現在という時間と直接のつながりを持っています。言語主体が概念と直接のつながりと持つ時、概念は客体化されないので冠詞はつきません。よって、現在は冠詞のつかないpresntで表します。  pastもfutureも同様です。なぜなら、我々の実感として現在の体験はやがて過去の体験と見なされるようになり、未来の体験はやがて現在の体験と見なされるようになります。3者を区切る境界線はありません。先ほども言ったようにそれぞれの時間概念はつながりを持ちます。  だから、pastとfutureにも冠詞はつきません。これが枠組B{past, present, future] です。ところで、これらの表現は、誰かが何かをした、何かが起きる、といったようなことを表す背景として使われるものなので副詞句として使います。(過去・現在・未来自体が主題として扱われるのは枠組Aにおいてです)。すなわち、定冠詞登場以前では、{in past, at present, in future}という実践的な枠組として使われたはずです。  過去と現在はその境目付近において非常に流動的です。だとすれば、過去に起きたことが 現在とつながっていてもおかしくはないと言えます。それゆえ、過去に始まって現在も続く表現(現在完了)が可能だということになります。過去の表現は「現在より以前のある時(時期)、および過去から始まって今に続く時間」を表すことが可能です。よって(定冠詞登場以前の時点では)現在完了の文中でin pastという語句の使用が可能です。 ところが、ある時期に定冠詞が登場しました。結果から言うと、現在ではこの2番目の枠組みは文中で使われるときは、{in the past, at present, in the future}となりますが、では、なぜ{in past, at present, in future}ではないのか、これが2つ目の論点です。 よく言われることですが、過去のことは確定しているから定冠詞がつくと。本当にそうなのでしょうか。未来はというと不確定のことばかりなのにどういうわけか定冠詞がついています。このことからして<過去のことは確定しているから定冠詞がつく>という言い方は怪しそうだという気がします。  過去の出来事について語る話し手にしてみれば<その過去の出来事が確かに過去に起きたことだと聞き手に確認可能なのでなければ>定冠詞の使用は許されないはずです。確認および検証が不可能な場合、その出来事がたしかに過去の出来事だと聞き手が同意するはずだという確信が話し手の側になければなりません。ただし、そうした確信が得られないことはいくらでもあります。  現実には、多くの場合において、過去の出来事が聞き手によって確認されようがされまいが、また、聞き手の同意の有無に関わりなく、過去をあらわすpastにはtheがつきます。というわけで、<過去のことは確定しているから定冠詞がつく>と言う言い方に根拠がないことは明白です。 pastにtheがつくことには別の根拠があるはずです。 そもそも、過去の出来事を確定していると聞き手が確認することはいかなる体験なのでしょうか。当然のことですが、過去は厳然たる過去なのであって、それは人間の思惑と無関係に存在するので確認など不要だとする考え(素朴実在論)は成り立ちません。確定したはずの過去を確認しようとする人間は確認のための作業を行わなければなりません。聞き手がある過去の出来事について聞くか読むかするとき、聞き手は過去を間接的に体験するにすぎません。ところが、その出来事を心の中で想起するとき、後悔や嘆きや懐かしさなどを感じます。少なくとも何らかの関心を抱くはずです。その瞬間に、聞き手は過去を直接的に体験していると言えます。  未来についても同じことが言えます。予想行為においてわくわくしたり、ゆううつになったり、ここでも直接的な体験がなされます。 すなわち、聞き手は想起や予想において、過去に対しても未来に対しても直接のつながりを持ちます。言語使用者と概念とのつながりは言うまでもなく心の働きとしてのつながりです。よって、presentだけでなくpastとfutureにも冠詞はつきません。たとえ、過去の確定した出来事(歴史的に評価が定まっているとか)であっても同じことです。theがつくことはありません。 ここで話が振り出しに戻りました。なぜpastとfutureにtheがつくのでしょうか?  pastとpresentおよびpresentとfutureは明確な切れ目を持ちませんが、pastとfutureは離れていますから対立関係をなしていると見なせます。なぜそう言えるのかを考察します。  我々が未来を予想する時、我々の意識は未来の方に向きます。逆に、我々が過去を想起する時、我々の意識は過去の方に向きます。意識の方向性は<今>を境にしてちょうど互いに逆向きのベクトルをなしています。つまり、我々にとって(生きられる時間として)存在する時間は<今>と、想起の対象となる<過去>と、予想や意志の働きの対象となる<未来>で構成されているわけです。時間が過去から未来へと流れてゆくという発想は(おそらく何かのメタファーから生まれた)思いこみにすぎません。  この時、<人間の意識→過去>と<人間の意識→未来>はちょうど正反対のベクトルを持っていて対称形をなしています。明白な二項対立です。この場合のpastとfutureが文中で使われる時定冠詞が使われるのは当然のことと思われます。ちょうど、{right, left}や{front, back}のような概念集合枠組みの各要素が文中での使用時において定冠詞が使われるのと同じことだと思います。 定冠詞の登場以降、枠組Bの実践バージョンは{in the past, at present, in the future}というふうになったと考えられます。いかがでしょうか。

  • 論理データモデリングの作業時間見積

    現在下記の条件で論理データモデリングを実施する予定です。 顧客側に想定する期限がすでにあるのですが、データのボリュームを見た所その期間ではとても終わりそうもないと感じ、その想定のもと作業見積後顧客と話をしたいと考えています。 そこで、モデリングの観点で作業にかかる時間を見積する指標や方式はあるのでしょうか? 要員:2名 データ:DBテーブルスキーマ抽出済、帳票等収集済、業務の概念モデリング済 顧客側での想定スケジュール:11月末まで(約40日間) 現状のテーブル合計カラム数:約33,000 例えば1カラムあたりのエンティティ判別・属性判別を平均5分と考えて、 343.75人日(1日当たり8時間=480分)/2人で一人当たり171.875営業日 とか。 過去の経験に基づく内容もお聞かせいただければ幸いです。 よろしくお願いいたします。

  • 最強のオリキャラを作りました。勝てますか?

    最強のオリキャラを作りました。勝てますか? 名前:シィナ 【能力概要】 シィナの異能 ・過去と未来の連続性で存在し、これは現在(いま)という概念に依存しない。現在の概念を超越した非存在。あらゆる全てに連続性が存在する為、それら全てを司る事が可能でもある。 ・記述した事実が既に過去の一部である為、現在というものは存在せず、証明が可能であっても証明した事実も過去の一部である。 ・自己を自己を足らしめるのは己自身という考えを根幹に持っており、他のあらゆる影響を受け付けず、その考えを世界改変という形で表している。 常に世界改変し続けられ、シィナの確立された強さを相手に押し付け、相手と相手を構成する要素を常時殺し続ける。 【能力概要】 ・主観帰結 万物の根底にあるのは主観である。どこまで行っても必ず主観が存在する為、世界の真理の1つでもある。 シィナは主観を司ってると同時にあらゆる主観の集束点である為主観的側面を持ったあらゆる全てはシィナのあらゆる強さになる。 また、全ての客観は主観に帰結する為、それもまたシィナの根源に帰結する。 能力、考察、存在、記述、表現性、可能性、創作、設定、法則、世界、人間などこれら全ての根底にあるのは主観である。 故に創作人や考察人ですらこれに囚われ、逃れられない。私達が存在する根源もまた主観なのだから。 シィナは主観を司っており、主観的側面を持つ何かではシィナに干渉する事も倒す事も出来はしない。

  • at present とin futureについて

    at present とin futureについて 少し長くなりますが、私が示した考えが正しいと思うかどうか、回答頂けるとありがたいです。 一般に無冠詞の名詞は概念を表すとされています。又、概念に冠詞がつかないということは、その概念の表すものが言語使用者にとってひとまとまりのものと見なされないことを示します。ということは概念は、そのもの自身がひとまとまりのものとして単独で存在するのではなく、別の概念との何らかの結びつきを持つと考えられます。または、言語使用者との結びつきを持つと考えられます。 ここで時間の3様態であるpast, present, futureについて議論を展開してみます。これら3つの概念が言語使用者との結びつきを持たず(ということは言語使用者からは客体的に-対象物として-とらえられて)、3つの相互の結びつきが強まると、一つの枠組みを構成するに至ったと推測されます。相互の対立関係から特定化されるので、文中で使われる際にはtheがつきます。枠組みの要素である{past, present, future}は枠組みを作ることによって言語使用者の便宜を図るという点で共通点を持ちます。  それらは概念的なものではあっても、言語使用者にとっては客体的なものなので、それぞれが独自の時間領域(過去領域、現在領域、未来領域)を持ちます。言語使用者の便宜を図るという観点からもそうした時間領域を持つことになります。永遠に続く時間という考えはここでは成り立たなくなっています。発話者が現実に生きている(と感じられる)時間ではありません。 一方、past, present, futureは(pastを例外として)概念として無冠詞でも使われます。例えばat presentという使い方があります。theがついていないということは、presentは他の時間概念であるpresentとfutureと結びついて枠組みを作ったりなどせずに、言語使用者と結びついたということだと思われます。  at presentは「現在の時点では」というふうに現在の短めの時間を表すことに用いられるようです。言語使用者が気持ちの上で現在という時間と切り離されていないようなニュアンスが感じられます。発話者が現実に生きる<今>を表すのだと思います。in the presentの方は現実に生きている(ことを実感できる)時間ではありません。 未来のことで言えばin futureという言い方があります。無冠詞つまり概念として使われているということは、発話者とのつながりがある、すなわち発話者が現実に生きている<今>とのつながりがある未来を表すはずです。辞書で調べるとfrom now onの意味がありました。 She often makes mistakes, so I will ask her to be more careful in future. ---など ということは、in the futureは「未来のある時点において、または未来のある期間において」を表し、in futureは「これから先ずっと」を表すことで役割分担をしているのだろうと考えました。 ここまでの記述内容に疑問な点があればご指摘をお願いします。  さて、問題はここからです。発話者が現実に生きる<今>とのつながりがある未来を言い表すためにin futureという言い方があるのであれば、発話者が現実に生きる<今>とのつながりがある過去を表すためにin pastと言い方があって、その意味は「今までずっと」の意味であるはずです。 ところが、現実にはin pastは使われていません。その理由を推測するに、おそらく過去の出来事は確定してしまっていることなので、概念の持つ漠然性と相容れないのではないかと思います。しかし、過去と言っても、例えば現在完了時制を使えば現在とつながりのある過去を表せます。調べてみると現在完了とin the pastが共起する文はいくらでもあります。 Our country has tried to absorb Western culture in the past. ---など  こここで疑問が生じます。in the pastにおけるthe pastは枠組みとして現在という時間帯(the present)から明確に区別されるはずなのに実際には現在完了形の文中で使われています。 ここで私の仮説です。in pastという表現を作るべきだったのに作らなかったので、幻のin pastが仮に存在していたら持っていたはずの働きをin the pastが肩代わりしたのではないかということです。いかがでしょうか。  ネイティブが言うには、in the pastは「過去のある時点において、または過去のある期間において」を表すが、同時に「ある過去の時点からこれまでずっと」の意味も持つそうです(そういうふうに考えない人もいます)。 in the pastとin the futureの意味について数人のネイティブに尋ねてみましたが、各人が好き勝手なことを答えて、どれが正しいのかよくわからないのです。そこで、彼らの回答を整理し、合理的な説明が可能であるように私なりに解釈し直したものを提示することにしました。(よって私の主観的な考え方が混入しています)  次のin futureとin the futureについても同様です。 さて、in futureですが、やっかいなことに地域差があって、イギリスではin futureが好まれる傾向にあり(in the futureも使います)、アメリカではin the futureが好まれます。地域によっては両方とも使うことがあるようです。 どのような使い分けがなされているかということですが、先ほども言ったとおり、彼らの異なった、あるいは互いに矛盾し合う回答を整理し、合理的な説明が可能であるように私なりに解釈し直したものを提示します。 in futureしか使わない地域では、in futureが文脈に応じて「これから先ずっと」の意味と、「未来のある時点において、または未来のある期間において」を表す。in the futureしか使わない地域でも同様です。 両方とも使われている地域では、in futureが「これから先ずっと」を表し、in the futureが「未来のある時点において、または未来のある期間において」を表す。 この考えに賛同するネイティブスピーカーもいますが、異論を唱える人もいます。いかがでしょうか。ご意見を伺えるとありがたいです。

  • 永遠?の未来の存在に貴方は何が出来ますか?

    私は人間は存続して来たから 今ここに存在すると考えます アイデンティティというやつです。自分は長いこと存続して来ました。 それは私を存在させる環境や存続に必要な数多の性質が在ったからです(存在性)。 そして私は存在を守り抜く為に 息をし 食べ 歩き 学び 道具を使いいろんな苦難にも耐えて来ました。 存在こそが目的であり、存在こそが価値であり、存在が意味の根拠になるものと思って来ました。 人間は精神であり 精神は性質であり エネルギーをコントロールするものだと思います。 人間は環境のエネルギーをコントロールして存在を求めて進化発展して行くものだと思います。 存在の定義は「(個性ある)性質を持ったエネルギー」です。それが単位です。 エントロピーの増大と存在性が複雑な系の中で存在をせめぎ合っていると思います。 人間は生存競争の動物ではないので 経験・学習・想像・創造などを通して進化して行くと思います。 真善美を求めながら 四苦や悪を避けながら 世界平和・調和に至れないものかと思います。 他にもありますが この考えで間違ってる点はどこでしょうか?完全な筈はありません。 当方障害者のため長文が苦手で できれば短文でご指摘願えればありがたいです。 もちろんご賛同のご意見も歓迎です。どうか宜しくお願い致しますm(_ _)m