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未来は、存在していると証明できますか

マクタガートのA系列(過去・現在・未来)の三様相のうち、特に、未来という時間概念を論理的に探究する前に、そもそも未来は、存在していると証明できているのでしょうか?と思ってしまいます。僕たちが日常生活している現在とは断絶していて、決して現在の側からはその中に飛び込めない未来という「あの世」のような概念は、語り得ない、記述し得ない、親近感のない、超体験であるがゆえに、つかみどころがないように思うのです。未来という想定の確かさについて、教えてください。

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noname#80116
noname#80116
回答No.66

 No.64です。  かんたんですよ。  ★ 非現実・虚構としての《ゲーム・遊戯・劇》であって、〈絶対〉としての《ゲーム・遊戯・劇》ではないようです。  ☆☆  《〈絶対〉のもとで夢見る非現実ないし未来》  ☆ これが 《迂回路》を含んでいるからです。  ○ 《〈絶対〉 ≫という無根拠≪ のもとで ≫一人ひとりが それぞれ 主観として≪ 夢見る非現実ないし未来》  ☆ と読んでください。そうすれば 次のごとく 各自が それぞれ自由に アンガージュマンをおこなうというのが 基本になっています。  ★ ・・・「所与の絶対的な規範」に基づくのではなく、未来の現実の状況に向けて各自がアンガーシュ(拘束)されている「行為者」「役者」であると読み解く  ☆ ですよね?  ★ 各自が過去を反省し、現在の自己を否定し、未来に対して自己をプロジェ(投企-投げ入れ)する。  ☆ 《自己否定》は 一時 流行りましたが――そして それとして 自省は大事ですが―― この文では 《現在の自己》に対して 《否定》だけをおこなうかに見えますので その点だけが 気になりました。     科学哲学としては こちらは 相変わらずで 進展しませんが 大きく 《言語ゲーム》としての 未来論は その基本が見えて来たようですね。

qsxdrfvgyh
質問者

お礼

一般的に、企業の採用人事担当職が、面接で応募者の採用を決定する重要な要素の一つとして、「当社における将来的な貢献度」をその応募者の言葉と行動から、今実感できるかどうかという点があると思います。 「未来に対して自己をプロジェ(投企-投げ入れ)する」その応募者の状況が、その言葉と行動から想像でき、面接者がそれを納得できるかどうかが重要であろうと思われます。 「まだない未来」だけれども、そうなる努力(たとえば資格取得)、資質向上方策の実践、業界や経済情勢などの情報収集・現状認識・応募者独自の判断から、応募者の将来像がイメージできるかどうか次第で、合否が決すると思うわけです。 >《〈絶対〉のもとで夢見る非現実ないし未来》 これが 《迂回路》を含んでいる > ○ 《〈絶対〉 ≫という無根拠≪ のもとで ≫一人ひとりが それぞれ 主観として≪ 夢見る非現実ないし未来》  ☆ と読んでください。 このような《言語ゲーム》としての「未来論」を持つ人物では、採用人事担当職としては、全く、その応募者に魅力を感じません。夢見るだけでは弱すぎます。「所与の絶対的な」模範解答のような借り物を持ち出してもだめです。自分の言葉で語り、自分の能力に対するできるだけ客観的な現状認識に基づき、何ができ何ができないのか、明確に理解した上で、会社や社会にどのように貢献できるのかを熱く語り、「未来に対して自己をプロジェ(投企-投げ入れ)」した将来像がイメージできるような応募者でないと合格にしません。 その意味で、現実味を帯びた未来を熱く語れるかどうかは、その応募者の人間力に通じると思うのです。 そろそろ未来論を総括できる時期が近づいたようです。ここ数日、どのような例示がいいか悩みましたが、分かりやくいものにできたと思います。そして、「未来という想定の確かさ」は現時点(幅のある今)における個々人の言葉と行動・実践の差異によって、それぞれ全く違うと分かりました。自信のない人の未来は、全く確かではないようです。また、根拠のない自信過剰の未来は、完全なる虚構になっていると思います。根拠のある、実行・実践の事実の裏づけのある、未来の想定は、説得力があり、確かなものだと言っていいと思うのでした。これが結論になると思います。長い間、ありがとうございました。

その他の回答 (72)

回答No.42

 krya1998という私は虚時間、実時間ということばを受け売りの如く安直に使っているのですが、虚時間、実時間に関するqsxdrfvgyhさんのご質問には答える能力がありません。qsxdrfvgyhさんが虚時間、実時間ということばをご提示されたとき、≪うん!これって、ブラフマンの顕現の側面たるあり方、不顕現の側面のあり方の質の把握や理解に使えるぞ、という考えでそれぞれをそれぞれに当てはめて、拙い回答をしたまでで、それ以上のイメージは、もちろん内容もありません。  この私たちのいるとされている世界がブラフマンの実時間、そうでないブラフマンが覚醒している状態で、私たちという幻想、幻影がない側面が虚時間。ブラフマン、つまり本当実在ということでは実時間が虚時間、虚時間が実時間となる。  そのような理解で、幻影たる私たちにとっての実時間が始まる前、そして終わった後、これは虚時間しかない。という創造と創造者に関する理解の道具として借用したことばです。  そういう私にはqsxdrfvgyhさんとbrageloneのお話はしっかりは理解はできていませんが、何か実は解決している問題となっている気がしております。私の世界という狭い範囲の理解では。  bananasandさんには叱られそうですが、実はANo.41のbananasandさんのご回答は私も、仰せの通りだろうな、と理解できそうなのです。  ところで、http://kikitai.teacup.com/qa4447253.htmlのご質問にはもちろん口をだす能力はありませんが、とても示唆的なご回答もあり、今後楽しみにおります。

qsxdrfvgyh
質問者

お礼

No.41のお礼欄にも書いたのですが、「実数軸の時間と虚数軸の空間」と「実数軸の空間と虚数軸の時間」が、時空論上、時間と空間の相互変換では同じだという意味で、実時間でも虚時間でも数学的には大差ないのではないかという視点です。ヒンドゥーの世界周期における時間には応用できないと思います。

回答No.41

>《いま》があれば、遥かな遠隔地の未来において、やはり、その場所の《いま》を形成し得るのが、 >時空の特性であり、未来は必然的にあると言ってよいと思いませんか。 >時間の存在を空間と一体でもいいので、論証するということです。 >たとえば、光速一定の仮定における、重力場による時間の遅れなどから類推するとかです。 だからこそ、ない と思います。というか・・・あるとは言えない・・・。 既に述べた通り、永遠の中にも停止状態があり、停止状態は他の永遠であり得る。 1秒前の、永遠はどこにもありません。 いわゆる時間は、多発的です。単一ではありません。超多次元的です。 極論すれば、位置が変われば異なる時間です。同一性、同時性は否定されます。 あるとするなら、無限にあるし、どこにも無いということでしょう。 137億年が長いか短いかは、意味がありません。1psと137億年の本質は同じです。 実時間を ない と言っているのですから、虚時間が真の時間なのではなくて、 真の現在からすれば、我々が実時間だと思っている時間が虚時間なんだと思います。

qsxdrfvgyh
質問者

お礼

>真の現在からすれば、我々が実時間だと思っている時間が虚時間なんだと思います。 この宇宙をミンコフスキー時空とし、プランク時間(10のマイナス41乗秒)以降は実数軸の時間と虚数軸の空間だけれども、プランク時間までは虚時間とするホーキングの説をとれば、ミンコフスキー時空の前の時空は定義できないし、超ひもの現象しかないので、時間の向きや流れは存在するはずがないようです。ですから、僕の関心はプランク時間以降です。そして、「プランク時間までは虚時間」という意味で、「虚時間が真の時間」というのではなく、「実数軸の時間と虚数軸の空間」と「実数軸の空間と虚数軸の時間」が、時空論上、時間と空間の相互変換では同じだという意味で、実時間でも虚時間でも数学的には大差ないのではないかという視点ですから、bananasandさんと同じ方向に歩いているように思います。また、「真の現在」も時間軸と空間軸の交点(原点)という架空の瞬間として合意できそうですし、幅のある<今>における「未来」を探究するだけでよさそうな予感を持ちました。ありがとうございました。

回答No.40

たぶん、brageloneさんと、同じ考えだと思うのですが、すこし時間が取れましたので書いてみます。  >未来という想定の確かさ< という文の中に「想定」とありますが、 想定なら「確かさ」を求める必要もなく「想定しか出来ない」存在として受け止めていいのだと思うのです。 これはまず、物質が最初から存在していた(何らかの形で)という類推の正否と関わるのかもしれませんね。   ビッグバン以前は 無とか混沌とか科学者は言っているようですが、ほんとうに何も無かったのかどうかのあたりは うやむやとなってるだけだと思います。  ビックバンのエネルギーが生まれうるような物質のようなものが最初からあったというのがまず、それ自体人間の脳には不可解なことですが前提として考えられると わたしはですが思っています。 おもいこんでるような感じですね。  それ以上考えることが出来ないということなのでしょう。 でありつつ、意味が人間の脳とともに生じた現象は、同時に神もまた最初から存在したという事になり、 これもまた時間の永遠性の話となるのでおそらく私だけでなく 人間の脳はその前に、いわゆるbrageloneさんの言われる無思考の状態となってしまうことです。 が、確実にその両方とも存在している(おそらく最初から)というのが私たち人間の共通認識であるだろう点は、 感性の複雑性から較べて、 「そこのハンカチとってくれ」と言われて「はい、新聞」と新聞を渡す会話があれば、後者がアルツハイマーである可能性が99%以上であるような 概念の通じ合いと似た、確かさを持ってるところかと思います。 そしてそのかぎり>未来という想定の確かさ<とは 未来の物質や「意味」の存在は今それが確実に存在してるのと同じような確かさを持って存在しているか?という問題ともなるかと思うのです。 すると それは存在しますから、 其の「想定」は確かという答えとなります。 ここで、 そちらの質問の前の方の段に戻るのですが、 >未来という時間概念を論理的に探究する前に、そもそも未来は、存在していると証明できているのでしょうか?と思ってしまいます。< というあたりに、そちらの質問の意味合いが隠されてるのではと思ったのです。 通常、未来という時間概念について深く探求する必要とかそのとらえどころとか私たちは思い浮かばないとことかと思うのですが、  その探求?の前に、《物質と意味の》“過去と現在”から実際に未来へと歩む道を真剣に探求することに未来への賭け性としての時間概念の探求の意味があるというふうに、思考の先を伸ばしてゆくべきなのではないか?  と暗に語られてるかのように思えたのです。 其の上で 虚の時間を楽しむ世界もあってもいいのでは、というのを意味無いとは私も思ってはいません。 が、哲学が現実の今の私たちの「存在」の問題に、目をつぶりつづけ、その問題群の「未来」に対してなんらの「見通し」をつけられないでいるというのならば、これは問題だと 私はそこを強く思ってしまうのです。 物理学の世界とかで、 異次元時空間という概念が計算上考えられるようになってきたとか 証明されたとかで、話が進んでいたりするようですが、  ここで私の方からも質問しますが、 虚の時間とは、そのあたりのことなのですか? 私は、おそらく未来の科学は、なんらかの仕方で過去の分析は克明にできるようになったりするのではないかと思っていますが、 未来にまで認知が働くようになる可能性を 科学が数式上見つけたのだとすれば、それは哲学上間違っているはずだと思うのですが?   哲学は、もうそれを言う権威を失ってしまってるのでしょうか? 異次元時間空間というのが、 時間軸とかが曲がっている場所があるとかで そこでは今の私たちの時間と 其の時間とは大幅にスピードが違っているというのです。  そうすると、その異次元空間を自由に行き来できるならばビックバンも私たちはなんらかの関係で目で見るように認識できる日がそんな簡単な数式の裏に見て取れるようになるということになります。 これは、未来についても同じことが言えてしまいます。 他の次元からこちらを眺めなおせばいいわけです。  でも それはありえるのでしょうか?  おもしろそうな哲学命題には違いないですよね。 私たちの人間の本性とも言える「自他を見つめる目」を何がしか鍛えてくれるようなゲーム性がそこにありそうですよね。 でも、楽しみとしてのみそれは想像力を生かすべき地点であって、もしそこにのみ哲学がまた逃げようとするのならば、 ゲームの世界の発展にすら哲学は貢献できないでしょう。 むしろ、そちらの知りたい「確かさ」は、 そうした哲学のあいまいな逃げの世界への疑問の希求なのかもしれません。 あるいは虚の時間の探求ということでそちらの求められるものは、アインシュタインとかの計算の正しさとかの哲学的追求のことですか? そこは私には解りませんが、 それが異次元時間空間のことであれば、数式自体が間違ってると思います。     あるとすれば、 物質のスピードがおもしろいように 万有引力からして違っていて全部違ってしまう宇宙空間があるということだけです。もしかりにそんな摩訶不思議なおもろい空間があったとしても、時間自体は変わるわけ無いじゃないですか?   今は今です。 そして今と未来と過去の三つの概念ということでしたら其の概念には区切りはあります。    あたりまえのことですけどね。   時間自体は区切りを置かない一本の線で表すこともできるでしょうけど、 それは区切りをつけなければ一本の線でも現せるというだけのことだと思います。 わたしは、物事を簡単に考えすぎているのでしょうか? わたしは、一刻も早く、哲学者の方々に たとえば、薬のことや、ワーキングプアの「「未来」」のことを、過去と今の物質の意味の本質をさぐりにさぐりつつすこしでも解決して欲しいのですが。

qsxdrfvgyh
質問者

お礼

>ビッグバン以前は 無とか混沌とか科学者は言っているようですが 正確には、ビッグバン以前には、プランク時間において、時空(実時間)が誕生し、冷たい宇宙が絶対ゼロ度のまま、インフレーションを起こして1メートル宇宙になる物語があるようです。プランク時間以前は、超ひもが誕生する虚時間の量子論的世界で、時空が定義できないそうです。 >未来の物質や「意味」の存在は今それが確実に存在してるのと同じような確かさを持って存在しているか?という問題ともなるかと思うのです。すると それは存在しますから、 其の「想定」は確かという答えとなります。 ビッグクランチによる未来宇宙の終焉を危惧しているのです。 >哲学が現実の今の私たちの「存在」の問題に、目をつぶりつづけ、その問題群の「未来」に対してなんらの「見通し」をつけられないでいるというのならば、これは問題だと 私はそこを強く思ってしまうのです。 ごもっともです。 >私の方からも質問しますが、 虚の時間とは、そのあたりのことなのですか? 現代物理学の成果として、ホーキングを匂わせたわけです。 >未来にまで認知が働くようになる可能性を 科学が数式上見つけたのだとすれば、それは哲学上間違っているはずだと思うのですが?哲学は、もうそれを言う権威を失ってしまってるのでしょうか? 哲学では、他者論からアプローチできると思います。 >他の次元からこちらを眺めなおせばいいわけです。でも それはありえるのでしょうか? 奇想天外です。 >虚の時間の探求ということでそちらの求められるものは、アインシュタインとかの計算の正しさとかの哲学的追求のことですか? 「計算の正しさとかの哲学的追求」ではありません。絶対的ではない、相対的な時空観を基礎とした、現代の時空論として「未来」を探究するという関心です。 >今は今です。そして今と未来と過去の三つの概念ということでしたら其の概念には区切りはあります。あたりまえのことですけどね。 その「あたりまえ」性の根拠を探究したいわけです。 >わたしは、物事を簡単に考えすぎているのでしょうか? 分かりません。「未来」という概念の周辺を歩き回って、領域を拡大していただけたらと思うだけです。ご協力ください。

noname#80116
noname#80116
回答No.39

 bragelone です。  わたしは 宇宙論を織り交ぜて 時間論を考えたことはないですし――ですから とってつけた議論はできませんし―― 逆に 存在(主体)にとっての時間意識のあり方については もう 述べております。  その わたしの考えに対する質問じたいが 見えないのですが?  すでに述べた時間論で わたし自身は 満足していますし。たとえば 時間論は おおきく 存在論に吸収されるという持論も すでに提出済みで その見方は 我れながら 気に入っていますし。  特に もう 何かが出てくることもないのですが?  どこが どう なんでしょうか?  とうぶんは 宇宙論について みなさんの議論についてまいります。  * 《虚の時や実の時を楽しむ》と書きましたが それは レトリックでして 実際には 《虚時間だとか 実時間だとか》は 考えたことがありません。知らないで済ますも済まさないも 知らないのですから。すでに触れた箇所がありましたが ピンと来ていません。いったい どういう内容であるのか 逆に お尋ねしてもいいのでしょうか?  * ほかにも 問いがあるようですが たとえば  ★ 時間って、自然界などの運行が様々にあっても、時間そのものはには区切りってあるのでしょうか。  ☆ わたしが《過去・現在・未来》の定義をしたその中身に 《区切り》があったということでしょうか? お尋ねの意味が 分かりかねていますが?

qsxdrfvgyh
質問者

お礼

No.38の問い合わせにもお答えいただき、ありがとうございました。 《区切り》の問題ですが、時間の分類上、物理学的時間と人間的時間の2種類があって、これらを混同して使用しているところに、混乱が出ているようです。 物理学的時間の正体は、虚時間でも実時間でも、マクタガートのC系列(事象の一覧表的配列)と言えます。A系列のような《区切り》はありません。 人間的時間の方は、個々別々の人間における1事象のA系列《過去・現在・未来》という《区切り》と2事象間のB系列(前後関係)という区別があると言えます。 物理学的時間の問いに対して、人間的時間のことで回答しても、ごちゃごちゃになってますから、いい機会ですから、解説しておきます。

回答No.38

 brageloneさん、怜悧なbrageloneさんがここ数回の回答と質問者さんの書き込みをご理解できないでいるはずはないので、あなた様のお考えはその通りで結構ですから、どうかそれらの応答に絡んで、ご思索をご披瀝してみてくださいませんでしょうか。  私たちが生活上からの定義(定義とは意識的、方法的であり、体系として定立するものであり、自然に定まるというもの、なんとはなし、というのではないのですが、)というものと自然の運行や、宇宙が爆発とともに存在に入り、時間と空間ができたというものとは、区切りや開始としては性格や次元がずいぶん異なりますよね。  定義というと、時間に対して人間側から付与するものであって、時間そのものにとっては本来的でもないし、関係ないことであるとはいえませんでしょうか?  ★☆ 虚時間だとか 実時間だとか 時間の本性については  ☆ 知らないし 知らなくても 間に合うという考えです。  ◎ この場合、知らないということで済ますのは、brageloneさんらしくはないと存じます。そして間に合う、ということは知らなくても間に合うということなのでしょうか?  それは言い換えれば、『虚時間だとか 実時間だとか 時間の本性について』の考察は無用だということでしょうか?時間や、未来、過去、現在について考察できるということでしょうか?まさか『普段の生活をしていくには、支障が無い』というお話ではないと存じます。  でも少しお考えいただけないでしょうか?  時間って、自然界などの運行が様々にあっても、時間そのものはには区切りってあるのでしょうか。  今の時間が始まる前って、どうなのでしょうか?そんなことの考察を拙くしています。連休中は私も家族があり、少し間遠うになるかと存じます。

noname#80116
noname#80116
回答No.37

 No.34&36関連です。  ★ 時間の本性は、虚時間でしょうか。実時間だけでいいのですか。  ☆ そんなことは知らないという立ち場です。  天体と地球の動きから 一年が決まります。調整もしますが あとは 紀元年と月日・時間を取り決め合えば その想定として 時間が存在し始めます。  ★☆ 虚時間だとか 実時間だとか 時間の本性については  ☆ 知らないし 知らなくても 間に合うという考えです。  ★ 視野が狭くありませんか。  ☆ 間に合うか否か を基準とします。狭くても かまわないという意味です。  一点つけ加えることが出来るとすれば それは 主観の数だけ 時間の特性が――もしそうだとすれば―― あるということです。その主観の錯綜する社会として 取り決めもしておくという意味です。そうすれば 一人ひとりが 自己の好きなように 虚の時も実の時も 楽しめます。

qsxdrfvgyh
質問者

お礼

最先端の宇宙論との関連で、A系列のような実時間分類だけでなく、虚時間をも考慮した時間論を導入し、特異点を回避し、時間と空間が地続きになったところで展開する時間論を包摂した上で、実時間としての「未来」を展望する視点を持つべきと言っているわけです。古典的な時間論や実時間だけの時間論ではなく、最先端の時間論を楽しみましょうという提案です。そこに踏み込みましょうというお誘いです。実時間だけでは、行き詰っているからです。主観の問題ではないのです。連休明けに、皆様とは、質疑を再開したいと思います。一時、中断させていただきます。

qsxdrfvgyh
質問者

補足

No.35及び38の問いかけにも、答えてあげてください。よろしくお願いします。

noname#80116
noname#80116
回答No.36

 No.34です。  時間論を展開しようと思ってのNo.34回答ではありません。時間の存在を確定しようとしただけです。  ☆☆ 取り決め  ☆ と言っています。時間の認識だけではありません。そこのところは よく読んでいただきたいものです。  この定義が 唯一だとも言っていません。これだけで 間に合うと言っているだけです。  ★ たとえば、137億年前のビッグバンから少し後の光を、我々は観察できます。  ☆ というときの 《137億年前の〈いま〉》は いまのわたしの 過去としての現在です。それだけの話です。  ★ つまり、我々の地球での《いま》は、遥かな遠隔地の未来においては、やはり、その場所の《いま》の一部なわけです。  ☆ これも 同じように いまのわたしの 未来としての――というよりは 想像としての――現在です。あなたの かれの 多くの人にとっての であっても いいわけです。  ★ 時空の特性  ☆ というふうに 時空間のほうを 主体として捉えることをしない。ただこれだけのことです。  ★ 時間の本性(虚時間)の探究に論点を絞りたいわけです。  ☆ これを どうでもよいと考えるという一つの見解を 回答としますという投稿です。それよりも この質疑応答の現在過程を共有することのほうが 人間存在の本性に合った時間ですよというのが 老婆心の発露です。いかがでしょうか。

qsxdrfvgyh
質問者

お礼

>時間が 存在するという取り決めが出来上がります。 「取り決め」というよりも、自然発生的な、自然誌としての、概念形成は、そのとおりだと思います。その上で、時間概念の幅や奥行きのようなところを探っているわけです。枝の伸び具合のようなことを見極めているわけです。時間の本性は、虚時間でしょうか。実時間だけでいいのですか。視野が狭くありませんか。

回答No.35

 ANo.34 brageloneさん、また素人が横合いから口を出してきます。  定義はあくまでも仮の措定という性格なのではないでしょうか?  だからもちろん相対的で、当事者のご都合の了解事項と為りますよね。  う~ん私は時間とか、経験とかやっていること、或いはそういう認識とかの主格って、現実に過去だけしかないこの世の具体的自分という者ではないという気がしていますのですが、それは違うのでしょうか?  定義から始まった時間のことば内容って、あまり本質ではないようなきがしますが。時間は仰せのように結局幻想ですよね。  第一、定義は定義する主格の正体をはっきりさせてからでないと、あまり公正ではないし、その定義正体が何の次元か、定義目的やどんな機能としての定義なのか、前提命題や役割と機能、そして限界を示さないと、恣意的とか勝手だとか、馴れ合いだとかの謗りを招かないでしょうかね。私は法律を勉強したことがあるのですが、正当性と正統性を提示できないと、効力は発生しないということですよね。    実体的主格立場がないような現象、あるいは映像であるような私たちにとって、時間も存在もやはり虚像か実態的、仰せの幻想ではないかというのが、実は仏教などのヒンドゥ的思想かなと、思えてきます。  だから、誰か本体がいるのでしょうがね。その意識には時間や存在があるのかも知れませんね。その意識の観念の中のこととしてでしょうが。  ですから、仰せのようにこの地上でのお互いとしては、措定的時間、過去・現在・未来は馴れ合い的に了解しうるかも知れないですよね。  生きていかなければならないことを背負っているお互いの都合での時間管理は必要でしょうし、了解しあわなければならないのでしょうね。  契機、方位、時、柝ということはやはり私たちを規制はしてきていると存じますが、この過ぎ去りし、そして今、これから、という量などのことの観念としての時間って、私たち日本人や東洋にあった(存在した)意識や観念なのでしょうかね。  どうも私は、この時間って言うものに、西洋的な臭い(臭み)を嗅ぎ付けて、とても抵抗しているのです。つまり原初は時間って無用であったと懐かしく、生活しております。すみません、何か欠点やおかしなことがあったら、どうかお教えください。お願いします。

qsxdrfvgyh
質問者

お礼

僕もbrageloneさんの反論を聞いてみたいと思います。

noname#80116
noname#80116
回答No.34

 《いま》・《現在》という時間も 定義の問題として処理すればよいはづです。  幅を持った時間域として 《いま》 この質疑応答をしています。このNo.34の回答に対するあなたからのコメントは いまわたしに予期されていますが 未来に属します。これ以前の質疑応答は 過去です。この《いま・未来・過去》をすべてふくめて その時間が 今のわたしにとっての《現在》です。  このように人と日にち・時刻および場所を決めれば その人にとって 現在という時間域が定まり 未来および過去が その現在におけるその人の精神に それぞれ期待および記憶として おさまるかたちで 存在します。  こうして いわば言葉と紀元・時刻そして場の特定をとおして 人びと相互のあいだに 時間が 存在するという取り決めが出来上がります。それ以外・それ以上は――この現在時が幻想であろうが どうであろうが―― かまわないという寸法です。

qsxdrfvgyh
質問者

お礼

>《いま・未来・過去》をすべてふくめて その時間が 今のわたしにとっての《現在》です。・・・未来および過去が その現在におけるその人の精神に それぞれ期待および記憶として おさまるかたちで 存在します。 認識論だけでは、何も明晰に論証できないのです。 たとえば、137億年前のビッグバンから少し後の光を、我々は観察できます。137億年前の《いま》が、137億年後の我々の地球で《いま》となって、夜空で瞬く星の光となっています。つまり、我々の地球での《いま》は、遥かな遠隔地の未来においては、やはり、その場所の《いま》の一部なわけです。 《いま》があれば、遥かな遠隔地の未来において、やはり、その場所の《いま》を形成し得るのが、時空の特性であり、未来は必然的にあると言ってよいと思いませんか。時空の特性、そして時間の本性(虚時間)の探究に論点を絞りたいわけです。この方向性の適否を厳しく論駁していただきたいわけです。いかがでしょうか。

回答No.33

 フームなんていっていると、チベットの精霊・オームになりますが、グルのことばにも気づけなかったお話を頂き驚愕しております。  ☆破壊で終わらず、再生があるところが大事で、つまり単なる永続ではないけれども、未来は何度でも秩序を取り戻しながら、生まれてくると  ⇒そういうことで、何かいつも救われるということになっております。  ☆信仰は証明ではないので、納得はしていません。論証でのアプローチがテーマなのです。古代人が創作した物語~~~  ⇒創作ではないというのが貴兄との違いでは在りますが、私(たち)も鈍根でして、証明ばかりを求めており、それを頼りにしてはおります。私において信仰という方式はわずか二十数年に満たない、駆け出しです。  えらそうにいうことはおこがましいのです。  多分多くの不可視の方々には苦笑いされておられることでありましょう。

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    デカルトなどが行ったと思いますが、神の存在証明を言うものがあると聞いた事があります。(私は哲学か科出ではないので、詳しくは知りませんが…) デカルト以外に神の存在証明をした人がいたら教えていただけないでしょうか。 お願いします。 アリストテレスもかな?

  • 《絶対》という概念を使いこなすようにならねばと

     ・・・思います。そのことをめぐって 問います。  おそらく互いのやり取りをつうじて 《絶対》は 互いのあいだに浮彫りになる。そういった問い求めのすがたが想い描かれますが そうであるかどうかは 発進してみなければ分かりません。  すでに幾度も問うていますが そういう意味でさらにすすめたいと考えました。  たたき台です。  1. ひとは おのれの存在が永遠ではないにもかかわらず 《永遠=無限=絶対》という言葉を持つに到り これを使っています。  1-1.  その意味で 《神》ということばも――そして《無い神》も―― 用います。  2. すなわち この経験世界を超えたところに《永遠=無限=絶対》を想定して それにもとづき言葉として・ゆえにそれなりに概念として使いこなしています。  2-1. 《経験世界を超えた》という意味は 経験事象における因果関係から自由だという意味です。  3. ですから 不思議なことにひとつの逆説のごとくに 《ことばそして概念》としては 《絶対=無限=永遠》は、経験世界に属します。  3-1. 経験世界を超えた《非経験の場》が 経験世界の内側において用いられています。  4. もうひとつに この《想定》のもとに 一人ひとりの主観の内にあっては あたかも《絶対なる者が この相対的で経験的な世界に 降りて来た》といった派生的な・第二次の想定をも持つことが自由であり これは ゆるされています。  4-1. 良心・信教の自由あるいは表現の自由という公理であるようです。  5. 繰り返しですが 《絶対=永遠=無限》は 非経験の場であり 《非在》です。定義(想定)において こう確定します。  5-1. 存在するか存在しないか どちらとも人間にとっては分からない場であり 場としてのチカラだと思われます。  5-2. ゆえに 神としては 有神論か無神論かは どちらも――自由に――あり得て 互いに同等ないわゆる信仰の立ち場です。  6. 同じく確認として言えば 或るひとりの人間の主観のうちにあっては 定義とそこからの派生的な想定として 《絶対=永遠=無限》は 二重構造となって過程しています。  6-1. 《絶対》の二重構造:   ・ 《非経験の場》そのものとしてのわが心の庭〔なる神〕:無根拠   ・ 《神》という言葉としてまた概念として用いられる《絶対》:因果       関係などの合理的な根拠を科学的に明らかにする場合に       すら用いられることがある。        たとえとして都合がよいのだと思われる。        6-2. すなわち 《無根拠で非在なる非経験の場》が 主観の内なる経験世界に 《定義としてのまぼろし(非思考の庭)》と《仮りにでも姿かたちを表わしたその現実(精神と思考の緑野ないし密林)》との《二重構造》を呈しています。     以上です。ご批判をつうじて精緻なものにして行きたいと考えます。  ちなみに 《絶対》をめぐる次のような文章もありますので ご紹介します。  ● (司馬遼太郎:絶対について) ~~~~~~~~  近代以後の日本の文学者が、西洋の小説を読み、読みおえてから小説を書きはじめたことは、いうまでもありません。  ただ日本には「絶対」という思想、慣習、あるいは日常の気分がなかったということが、決定的に不利でありました。・・・  むろん、絶対などは、この世にありはしません。宇宙にも、科学の中にも、存在しないのです。  しかしある、と西洋人は、千数百年をかけて自分に言いきかせつづけました。  絶対、大宇宙の神は存在する、うそではない、ということを、哲学として、神学として、論理をきわめ、修辞をきわめ、思弁のかぎりをつくして説きに説きつづけてきたのです。  ヨーロッパの荘厳さというべきものであります。(開高健への弔辞)    http://www.asahi-net.or.jp/~pb5h-ootk/pages/S/sibaryotaro.html  ~~~~~~~~~~~~~~

  • in the past / the future

    past とfutureになぜtheがつくのかについて質問します。私の説明を述べていきます。おかしいところがあればご指摘下さい。 まず、時間の枠組みを2種類提示します。一つは{past, present, future}という概念の枠組みです(枠組Aと呼んでおきます)。言語主体によって客対物として設定されたもので、それぞれが独自の時間領域を持ちます。 past, present, futureのそれぞれは、枠組みを構成するデフォルト要素(もともと存在するはずの要素)として組み込まれたわけですから、文中で使用される際は定冠詞がつきます。この時間領域においては、具体的な行為や出来事が表現されることはありません。3つの時間領域について抽象的な言明が行われるだけです。--Don't think of the past. Mind the present and the future. もう1つの枠組みは、現実に何かが存在したり起こったりすることが表現される場です。これを枠組B {past, present, future}と呼んでおきます。---She's busy at present, but will be free in the future. 枠組Bは生活者(言語使用者)によって日常常識的に把握されるべきものです。ところが、そこに、物理学的な時間の考えが混入してくると混乱を招くので、物理学的な時間の考えを排除しようと思います。  例えば、物理学では、無限にのびる時間直線tを引き、線上の任意の点を現在と定めます。ここでは現在が瞬間の時間とされます。(我々の日常常識的な考えでは、現実の現在の時間は瞬間ではありません。それは比較的短めの時間であって、その時間幅は言語主体の思惑に応じてよって伸び縮み可能なものです)。それだと、現在は人が生きる時間ではなくなってしまうので、物理学的な時間は今回の考察から一切排除するものとします。 なお、過去が現在より以前のことであり、未来が以後のことであるとすることは、第一義的に日常常識的な時間の考えだと思われるので、この考えは残します。 これから日常のありのままの時間について考察を進めたいと思います。  さて、人間は時間というものを考える時、まず「今」を基準に考えようとします。「今」が唯一、現実に生きられる時間だからです。「今」より以後の時間を未来とし、「今」より以前の時間を過去としました。 では、未来は永久に存在し続けるかということですが、厳密に言うと、未来という概念を作ってその定義に沿って理解を行うしかない人間にとって、未来は言語共同体が存続する(人類が生存し続ける)かぎりでの永久的な存在物です。でも、実際は、人々は何となく無限の彼方の未来(および過去)というふうにとらえられているのではないかと思います。 Aの枠組みにおける{past, present, future}という概念要素はそれぞれがつながりを持たない抽象的なものととらえられていますが、言語主体とのあいだにも隔たりができていて、主体によって客体的にとらえられています。  一方、Bの枠組みにおいてはそれぞれの概念はつながりを持ちます。生きられる時間(人が生きたり、何かが起きたりする時間)なので人間(言語主体)との間にもつながりがあります。ここでは言語主体は時間を客体的にとらえることはできません。 言語主体は今の瞬間にも言語を使っているわけだから、現在という時間と直接のつながりを持っています。言語主体が概念と直接のつながりと持つ時、概念は客体化されないので冠詞はつきません。よって、現在は冠詞のつかないpresntで表します。  pastもfutureも同様です。なぜなら、我々の実感として現在の体験はやがて過去の体験と見なされるようになり、未来の体験はやがて現在の体験と見なされるようになります。3者を区切る境界線はありません。先ほども言ったようにそれぞれの時間概念はつながりを持ちます。  だから、pastとfutureにも冠詞はつきません。これが枠組B{past, present, future] です。ところで、これらの表現は、誰かが何かをした、何かが起きる、といったようなことを表す背景として使われるものなので副詞句として使います。(過去・現在・未来自体が主題として扱われるのは枠組Aにおいてです)。すなわち、定冠詞登場以前では、{in past, at present, in future}という実践的な枠組として使われたはずです。  過去と現在はその境目付近において非常に流動的です。だとすれば、過去に起きたことが 現在とつながっていてもおかしくはないと言えます。それゆえ、過去に始まって現在も続く表現(現在完了)が可能だということになります。過去の表現は「現在より以前のある時(時期)、および過去から始まって今に続く時間」を表すことが可能です。よって(定冠詞登場以前の時点では)現在完了の文中でin pastという語句の使用が可能です。 ところが、ある時期に定冠詞が登場しました。結果から言うと、現在ではこの2番目の枠組みは文中で使われるときは、{in the past, at present, in the future}となりますが、では、なぜ{in past, at present, in future}ではないのか、これが2つ目の論点です。 よく言われることですが、過去のことは確定しているから定冠詞がつくと。本当にそうなのでしょうか。未来はというと不確定のことばかりなのにどういうわけか定冠詞がついています。このことからして<過去のことは確定しているから定冠詞がつく>という言い方は怪しそうだという気がします。  過去の出来事について語る話し手にしてみれば<その過去の出来事が確かに過去に起きたことだと聞き手に確認可能なのでなければ>定冠詞の使用は許されないはずです。確認および検証が不可能な場合、その出来事がたしかに過去の出来事だと聞き手が同意するはずだという確信が話し手の側になければなりません。ただし、そうした確信が得られないことはいくらでもあります。  現実には、多くの場合において、過去の出来事が聞き手によって確認されようがされまいが、また、聞き手の同意の有無に関わりなく、過去をあらわすpastにはtheがつきます。というわけで、<過去のことは確定しているから定冠詞がつく>と言う言い方に根拠がないことは明白です。 pastにtheがつくことには別の根拠があるはずです。 そもそも、過去の出来事を確定していると聞き手が確認することはいかなる体験なのでしょうか。当然のことですが、過去は厳然たる過去なのであって、それは人間の思惑と無関係に存在するので確認など不要だとする考え(素朴実在論)は成り立ちません。確定したはずの過去を確認しようとする人間は確認のための作業を行わなければなりません。聞き手がある過去の出来事について聞くか読むかするとき、聞き手は過去を間接的に体験するにすぎません。ところが、その出来事を心の中で想起するとき、後悔や嘆きや懐かしさなどを感じます。少なくとも何らかの関心を抱くはずです。その瞬間に、聞き手は過去を直接的に体験していると言えます。  未来についても同じことが言えます。予想行為においてわくわくしたり、ゆううつになったり、ここでも直接的な体験がなされます。 すなわち、聞き手は想起や予想において、過去に対しても未来に対しても直接のつながりを持ちます。言語使用者と概念とのつながりは言うまでもなく心の働きとしてのつながりです。よって、presentだけでなくpastとfutureにも冠詞はつきません。たとえ、過去の確定した出来事(歴史的に評価が定まっているとか)であっても同じことです。theがつくことはありません。 ここで話が振り出しに戻りました。なぜpastとfutureにtheがつくのでしょうか?  pastとpresentおよびpresentとfutureは明確な切れ目を持ちませんが、pastとfutureは離れていますから対立関係をなしていると見なせます。なぜそう言えるのかを考察します。  我々が未来を予想する時、我々の意識は未来の方に向きます。逆に、我々が過去を想起する時、我々の意識は過去の方に向きます。意識の方向性は<今>を境にしてちょうど互いに逆向きのベクトルをなしています。つまり、我々にとって(生きられる時間として)存在する時間は<今>と、想起の対象となる<過去>と、予想や意志の働きの対象となる<未来>で構成されているわけです。時間が過去から未来へと流れてゆくという発想は(おそらく何かのメタファーから生まれた)思いこみにすぎません。  この時、<人間の意識→過去>と<人間の意識→未来>はちょうど正反対のベクトルを持っていて対称形をなしています。明白な二項対立です。この場合のpastとfutureが文中で使われる時定冠詞が使われるのは当然のことと思われます。ちょうど、{right, left}や{front, back}のような概念集合枠組みの各要素が文中での使用時において定冠詞が使われるのと同じことだと思います。 定冠詞の登場以降、枠組Bの実践バージョンは{in the past, at present, in the future}というふうになったと考えられます。いかがでしょうか。

  • 論理データモデリングの作業時間見積

    現在下記の条件で論理データモデリングを実施する予定です。 顧客側に想定する期限がすでにあるのですが、データのボリュームを見た所その期間ではとても終わりそうもないと感じ、その想定のもと作業見積後顧客と話をしたいと考えています。 そこで、モデリングの観点で作業にかかる時間を見積する指標や方式はあるのでしょうか? 要員:2名 データ:DBテーブルスキーマ抽出済、帳票等収集済、業務の概念モデリング済 顧客側での想定スケジュール:11月末まで(約40日間) 現状のテーブル合計カラム数:約33,000 例えば1カラムあたりのエンティティ判別・属性判別を平均5分と考えて、 343.75人日(1日当たり8時間=480分)/2人で一人当たり171.875営業日 とか。 過去の経験に基づく内容もお聞かせいただければ幸いです。 よろしくお願いいたします。

  • 最強のオリキャラを作りました。勝てますか?

    最強のオリキャラを作りました。勝てますか? 名前:シィナ 【能力概要】 シィナの異能 ・過去と未来の連続性で存在し、これは現在(いま)という概念に依存しない。現在の概念を超越した非存在。あらゆる全てに連続性が存在する為、それら全てを司る事が可能でもある。 ・記述した事実が既に過去の一部である為、現在というものは存在せず、証明が可能であっても証明した事実も過去の一部である。 ・自己を自己を足らしめるのは己自身という考えを根幹に持っており、他のあらゆる影響を受け付けず、その考えを世界改変という形で表している。 常に世界改変し続けられ、シィナの確立された強さを相手に押し付け、相手と相手を構成する要素を常時殺し続ける。 【能力概要】 ・主観帰結 万物の根底にあるのは主観である。どこまで行っても必ず主観が存在する為、世界の真理の1つでもある。 シィナは主観を司ってると同時にあらゆる主観の集束点である為主観的側面を持ったあらゆる全てはシィナのあらゆる強さになる。 また、全ての客観は主観に帰結する為、それもまたシィナの根源に帰結する。 能力、考察、存在、記述、表現性、可能性、創作、設定、法則、世界、人間などこれら全ての根底にあるのは主観である。 故に創作人や考察人ですらこれに囚われ、逃れられない。私達が存在する根源もまた主観なのだから。 シィナは主観を司っており、主観的側面を持つ何かではシィナに干渉する事も倒す事も出来はしない。

  • at present とin futureについて

    at present とin futureについて 少し長くなりますが、私が示した考えが正しいと思うかどうか、回答頂けるとありがたいです。 一般に無冠詞の名詞は概念を表すとされています。又、概念に冠詞がつかないということは、その概念の表すものが言語使用者にとってひとまとまりのものと見なされないことを示します。ということは概念は、そのもの自身がひとまとまりのものとして単独で存在するのではなく、別の概念との何らかの結びつきを持つと考えられます。または、言語使用者との結びつきを持つと考えられます。 ここで時間の3様態であるpast, present, futureについて議論を展開してみます。これら3つの概念が言語使用者との結びつきを持たず(ということは言語使用者からは客体的に-対象物として-とらえられて)、3つの相互の結びつきが強まると、一つの枠組みを構成するに至ったと推測されます。相互の対立関係から特定化されるので、文中で使われる際にはtheがつきます。枠組みの要素である{past, present, future}は枠組みを作ることによって言語使用者の便宜を図るという点で共通点を持ちます。  それらは概念的なものではあっても、言語使用者にとっては客体的なものなので、それぞれが独自の時間領域(過去領域、現在領域、未来領域)を持ちます。言語使用者の便宜を図るという観点からもそうした時間領域を持つことになります。永遠に続く時間という考えはここでは成り立たなくなっています。発話者が現実に生きている(と感じられる)時間ではありません。 一方、past, present, futureは(pastを例外として)概念として無冠詞でも使われます。例えばat presentという使い方があります。theがついていないということは、presentは他の時間概念であるpresentとfutureと結びついて枠組みを作ったりなどせずに、言語使用者と結びついたということだと思われます。  at presentは「現在の時点では」というふうに現在の短めの時間を表すことに用いられるようです。言語使用者が気持ちの上で現在という時間と切り離されていないようなニュアンスが感じられます。発話者が現実に生きる<今>を表すのだと思います。in the presentの方は現実に生きている(ことを実感できる)時間ではありません。 未来のことで言えばin futureという言い方があります。無冠詞つまり概念として使われているということは、発話者とのつながりがある、すなわち発話者が現実に生きている<今>とのつながりがある未来を表すはずです。辞書で調べるとfrom now onの意味がありました。 She often makes mistakes, so I will ask her to be more careful in future. ---など ということは、in the futureは「未来のある時点において、または未来のある期間において」を表し、in futureは「これから先ずっと」を表すことで役割分担をしているのだろうと考えました。 ここまでの記述内容に疑問な点があればご指摘をお願いします。  さて、問題はここからです。発話者が現実に生きる<今>とのつながりがある未来を言い表すためにin futureという言い方があるのであれば、発話者が現実に生きる<今>とのつながりがある過去を表すためにin pastと言い方があって、その意味は「今までずっと」の意味であるはずです。 ところが、現実にはin pastは使われていません。その理由を推測するに、おそらく過去の出来事は確定してしまっていることなので、概念の持つ漠然性と相容れないのではないかと思います。しかし、過去と言っても、例えば現在完了時制を使えば現在とつながりのある過去を表せます。調べてみると現在完了とin the pastが共起する文はいくらでもあります。 Our country has tried to absorb Western culture in the past. ---など  こここで疑問が生じます。in the pastにおけるthe pastは枠組みとして現在という時間帯(the present)から明確に区別されるはずなのに実際には現在完了形の文中で使われています。 ここで私の仮説です。in pastという表現を作るべきだったのに作らなかったので、幻のin pastが仮に存在していたら持っていたはずの働きをin the pastが肩代わりしたのではないかということです。いかがでしょうか。  ネイティブが言うには、in the pastは「過去のある時点において、または過去のある期間において」を表すが、同時に「ある過去の時点からこれまでずっと」の意味も持つそうです(そういうふうに考えない人もいます)。 in the pastとin the futureの意味について数人のネイティブに尋ねてみましたが、各人が好き勝手なことを答えて、どれが正しいのかよくわからないのです。そこで、彼らの回答を整理し、合理的な説明が可能であるように私なりに解釈し直したものを提示することにしました。(よって私の主観的な考え方が混入しています)  次のin futureとin the futureについても同様です。 さて、in futureですが、やっかいなことに地域差があって、イギリスではin futureが好まれる傾向にあり(in the futureも使います)、アメリカではin the futureが好まれます。地域によっては両方とも使うことがあるようです。 どのような使い分けがなされているかということですが、先ほども言ったとおり、彼らの異なった、あるいは互いに矛盾し合う回答を整理し、合理的な説明が可能であるように私なりに解釈し直したものを提示します。 in futureしか使わない地域では、in futureが文脈に応じて「これから先ずっと」の意味と、「未来のある時点において、または未来のある期間において」を表す。in the futureしか使わない地域でも同様です。 両方とも使われている地域では、in futureが「これから先ずっと」を表し、in the futureが「未来のある時点において、または未来のある期間において」を表す。 この考えに賛同するネイティブスピーカーもいますが、異論を唱える人もいます。いかがでしょうか。ご意見を伺えるとありがたいです。

  • 永遠?の未来の存在に貴方は何が出来ますか?

    私は人間は存続して来たから 今ここに存在すると考えます アイデンティティというやつです。自分は長いこと存続して来ました。 それは私を存在させる環境や存続に必要な数多の性質が在ったからです(存在性)。 そして私は存在を守り抜く為に 息をし 食べ 歩き 学び 道具を使いいろんな苦難にも耐えて来ました。 存在こそが目的であり、存在こそが価値であり、存在が意味の根拠になるものと思って来ました。 人間は精神であり 精神は性質であり エネルギーをコントロールするものだと思います。 人間は環境のエネルギーをコントロールして存在を求めて進化発展して行くものだと思います。 存在の定義は「(個性ある)性質を持ったエネルギー」です。それが単位です。 エントロピーの増大と存在性が複雑な系の中で存在をせめぎ合っていると思います。 人間は生存競争の動物ではないので 経験・学習・想像・創造などを通して進化して行くと思います。 真善美を求めながら 四苦や悪を避けながら 世界平和・調和に至れないものかと思います。 他にもありますが この考えで間違ってる点はどこでしょうか?完全な筈はありません。 当方障害者のため長文が苦手で できれば短文でご指摘願えればありがたいです。 もちろんご賛同のご意見も歓迎です。どうか宜しくお願い致しますm(_ _)m