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宇宙(この世)の始まりについて

arayata333の回答

回答No.8

ご質問に対する疑問を提示させていただきますが、 その前に >宇宙(=この世)の始まり<についての私という哲学者(自分に出来る限り深く厳密に総合的に 価値や物事の見通しなどを思索してその結果解ったことについて他の人や社会に対してに責任を持って回答できると思えてる人の。、実際はそのレベルではないかもしれない。)の見解を書いてみます。 私は 肉体労働者として結構忙しく生きてきてしまった人間ですのでアカデミックな哲学の知識はほどんどありません。 あくまで解答じゃなくて、回答ですが、その回答に間違いがあるなら、間違いならはそれはそれとしつつ、回答としては そちらの意図とかと対峙する責任の下にこれを書いています。 (ややこしい書き方となってしまいました^^)。 私には 存在の存在する原因は 最初からそれがあったからとしか考えられないのですが、 これって一次元的な見方なのですか? 大地を端まで歩いてゆけば、巨大な空間に落っこちるに決まってるという単純な感覚と同じレベルのものですか? わたしの場合は これに関して「いや違う」という理論をいちいち考え出すのがめんどうだったので、考えなかっただけですが、  ここから神についても、 そういう存在に意味という存在があることを人間は知ってしまったのだから、最初からあったのは物質だけで無いという考えがあるだけです。 なんでそれ以上論議をする必要のあることなのかな?と思ってしまうところがあります。 まあ、最初に読んだ有神論と無神論の対立についての論文というのが、有神論の方は、なにかが支えれてるのはそれが雲の上からの手であれ何かの支える手があるからであるのと同じで、雲に隠れていまはそれが見えなかったりしても、存在してるという事実が意味するのは、神がそれをささえているからだ。 こんなあたりまえのことが解らないのか?という有神論者に対して、 雲の上に支えている神は誰が支えてるのか?という無心論者のお話、 あまりに馬鹿ばかしかったのでそれがトラウマになって その手の本とかを読む気がしなくなってしまったのですけどね。 いずれにしても、なんで最初からあったという「当たり前」のことについては前提としても 聞いたことが無いのか が気になります。 クォークですか、最小単位の数が3個でなく6個だと解ると ビックバンの時点での物質の半分が消えてしまったという謎が解るとかのテレビでの解説  最小と最大の極限の世界の話で すごすぎますが、   私にはビッグバンの時点で物質が半分も消えてしまったというのも初耳です。 でも これ 私の場合の宇宙の始まり(=この世の始まり)論とは関係ないのですけど。   そちらが考えて何か関係ありそうですか? あるいは、私の考え(というか感覚ですが)間違っていますでしょうか? 私の中では、厳密もなにも、矛盾は無いのですが? * では、 そちらの質問に対する私の方からの疑問をこれから書かせていただきますね。 この世の始まりが解っても、 この世についての哲学がなんら少しでも解るとは思えないので この命題自体哲学的な価値があるのかどうか私には解りませんが、 物事の価値やその見通しの世界をより深くより鮮明により誰にもわかるように哲学してゆくにあたって、  この世(この人生)における「必要思索カテゴリー」って無限だとは私は思っていません。 このOKウェブの分類カテゴリーも たしかに大雑把とはいえ、あきらかにこの世の現象のほとんどをその立場から分類しているわけです。 哲学的価値から私が価値的と思う分け方をすると 私の場合は7つの大カテゴリーに別れます。  それは五感という生物の特徴の延長である人間の感性の世界と、 感情も含めた表現世界(大きくは 映像、言葉 演劇、歌舞踊、絵画、の6つ。 絵画を映像と分けるのは映像か機械的構成によって心を扱うのと、絵画のように直接心が現れもする世界との違いが大きいためです。) を 組み合わせて考えて そこから人間の生涯を考えて出てきた答えが 7つです。 その奥は、もちろんまだまだ分析途上ですけどね。(当たり前の話ですけど) 全体的に言えば組み合わせの思索の量とかは人生でのカテゴリー別けからの組み合わせの方が(質については、ここで組み合わせたお話とは考えないでください。)(また 将棋については「手損」って何かかさえ知らないですが)9マスの縦横の中での駒の動か方の数よりはるかに多いというのが一般常識なのでしょうが。   本質を考え価値を追いかけてゆくならば、 将棋と同じようなものと私には言えてしまうように思えます。 これは こんなに簡単に書いてしまっては反論が無数にでてきそうですけどね^^)。 ともかく無限にあるとは思わないでおいてください。 さて、「最先端(の科学)では常識である理論を踏まえない哲学のレベルはいかがなものか。」との問いなのですが、 ここで詳しく 科学の世界のカテゴリーをも分析する必要はないかと思いはぶきますが、(天文、気象、電気、熱,音、光、力、生物、鉱物、化学、考古学とかの分類のことです。 これもさらに詳しくは 力学ならば 最先端の流体力学はいかに、といったことにもなるのでしょうが) ☆ よし、今回のノーベル賞の中の 「宇宙の始まり」についてのビックバンでの現象の大きな解明は、 哲学の中のどのカテゴリーの進展と結びついたものとして ここにその疑念がわいたのですか? という疑問です。 * おそらく もしかしたらですが、 今の哲学界がかなり非総合的な思索の遊び的な世界に逃避してるという疑いがあり、それを、浮かび上がらせたいための 引っかけ質問だったのかもしれませんね。  わたしも、最近、ここで質問とか回答とかし始めてなんか、これはおかしいぞ、量ばかり膨れ上がってしまっていて、もはや自らの考えてることの位置すら考えるのを放棄しながら それでもその遊びに中毒してしまっているだけの世界がかなり蔓延してるのかもしれない? という疑問がいろいろと起ってきています。 中性子論については まったく知らない者の回答 やはり浅いですか? 一応 回答するために不足している情報などを質問者に質問する補足要求をともなう回答とさせていただきましたが。 oeelee-boyさんの次の指し手をお待ちします。  「損手」についても 素人にも解ると思えるものでしたら説明をお願いします。

ceelee-boy
質問者

お礼

大雑把な感じですが、物理は精神を扱っていないので、ビックバンが真実だとしても、精神の世界はその前後もずっとあり続けて問題ないと思いますし、ビッグバンも今の物質世界の始まりですから、今の物質世界の前には、違った世界があってちっともかまわないので、例えばTVでも、ごく短い時間ですが、物質と反物質が並存する世界があったはずだと解説していました。 宇宙にあまねく存在する宇宙背景放射線がなぜ存在する鹿野を離婚的に考えると、ビッグバンにしか行き着かないらしいですが、なぜこの理論に物理学者は興味を示さないのかってことで、私の疑念は、頭悪いからじゃないか、もしくは怠け者じゃないか。 宇宙にあまねくあるんだから、宇宙背景放射線って最も普遍的なものだと思うんですけど、考えることのプロだと思われる哲学者がなぜ無視できるのかという疑念です。 本質とか価値とか、そういうものを持ち出すと、宇宙放射線について考える「価値」がないって導けるんであれば、それは便利な魔法の杖ですね。

ceelee-boy
質問者

補足

「損手」じゃないですよ。 「手損」ですよ。 手損も損手も同じに見える人なんだって思っちゃいましたので、突然にこのカテを締め切る危険があると思っていただいて正解です。 手損ですけど、符合で書いた方が解りやすいんだろうと思います。 始まってすぐに角交換する人がいますが、それは、「棋理に無い手」です。符合で書くと▲76歩、▽34歩、▲22角成、▽同銀のことです。 この局面を考えると、お互いに角道を開けた歩が突いてあって、持ち駒に角があって、後手だけさらに▽22銀と一手余分に指した形です。 将棋は、先手が指して、後手が指しますから、後手が先手と同じように指した場合は、先手が一手余計に指した局面と先手後手同型の局面とが交互に現れます。 先手後手同型の局面であれば、次に手を指せるのは先手な訳です。 しかし、上記の例の進行だと、先手後手同型にするには、先手が▲88銀と指さなくてはいけなくて、そこで始めて先手後手同型になって、先手後手同型の局面で次に指せるのは先手のはずが、上記の手順を進めた場合は後手になってしまっています。 あたかも先手と後手が入れ替わった様になってしまいます。 将棋はきちんと指すと形勢不明のまま終盤に入りますので、お互い最後までちゃんと指すと王様を獲られた側が後一手指したら、こちらも王様を取れる状態で終わります。つまり、お互いに王様を取り合って終わり、勝敗は王様を先にとった方が勝ち。 うっかり王手を見逃すんじゃないですよ。先手後手共に王様を取られるのを防げない状態になって、その時に手番を持って指せる方が勝ちになるってことです。(普通はその一手前(=先に詰まされた時)に投了しますので、そこからさらに一手進んだ、お互いの王様が詰んだ局面はあまり見られないと思いますが) こう考えると、一手先に指すというのは大変大切なもので、その大切な一手先にさせる立場を、みすみす相手に渡すのは棋理に反するという訳です。 しかし、「後手一手損角換り戦法」というのが発見され、ある特殊な局面では、あえて手損しても、ぜんぜん不利にならない順があることがわかりました。大雑把に言うと、後手の攻めの桂馬が▽73桂▽85桂と進んでいくには、▽85歩は指さずに、▽84歩の地点で止めておいたほうがいい場合があるって戦法のことです。 この戦法の出現で、「角換り」という戦形にでの、後手の勝率がアップし、後手でしかも一手損しても、この場合はちゃんとした指してであることが証明されました。

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