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言霊の思想についてうかがいます。
以前の質問において 次のような仮説を捉えました。それの吟味をしたいので お尋ねします。 第一次に《こと=事》に感応して《ことだま=事霊》を見止めるがごとく思い描き 同時に《ことだま=言霊》としても捉えた。そのあと 第二次に 事の端⇒言の葉⇒言葉そのものに言霊があると見なすようになった。とするなら 《言葉を発すると そのまま それの表わす中身の事が起こる》という《言霊》の思想は 人為的に後で出来たこの第二次のほうではないだろうかと。→《Q:3994017 われわれ日本人は 互いに相手を神と思っているのでしょうか http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3994017.html 》No.11補足欄など。 ところが この仮説をくつがえす次のような説を見かけました。両者を吟味しつつ ご見解をおしえてください。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 我々は祝福というと おそらくすぐ神に祝福されるというふうに考える。《創世記》一二章の一節から三節でもそう書いてある。けれどももっと遡って旧約の中で祝福とか呪いという問題を探ってみると 神との関係が初めにはない。・・・ というのは 神との結びつきは旧約の伝承を探ると二次的なのである(ショットロフ)。要するに〔第一次のは〕言葉のもつそれ自身の祝福の力および呪いの力である。これは宗教的にいえばいわゆる呪術の段階である。ところが旧約ではきわめてすみやかに神とのかかわりをもたせさられて《あなたは祝福されている》《あなたは呪われている》という言葉が神との関係で用いられはじめており・・・(以下省略)。 (関根正雄:『古代イスラエルの思想』2004p.63〔初出=1982〕) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
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〔 ☆ ですよね?! つまり そこには 《事》としての ことだまが潜在しているということになると思うのです。 《神との関係が――つまり その意味での ことだまが―― 初めにはない》というのは 《初めには〈顕在して〉いない。すなわち 知覚のようなものはあったかも~~〕 ○ご慧眼と存じます。 〔つまり人間の自由意志に任せてある / 善から離れるのも 人の自由~~〕 ○これもご慧眼と存じます。 斉しく神の働きだと存じます。 そして私たちは神を己の意識は知性の中に取り込むことはできないと存じます。 代理、エージェント。であるという存在面なのですね。 それを誤解して、何か全知のように自己を考えてしまうと、科学や知性探求が万能で、完璧。何でも物証しなければ、ならないとか。知るうるのだということになりますよね。そして理性や知性、探求を超えたものを、一把ひと絡げ(からげ)に、非科学的、盲目的信仰、似非なんとか、蹴飛ばすのでしょうね。 これも実は、曽っての私自身のやり方でしたが。 創造者って、人間とはちがいますのでね。つまり存在がね。 人間にいやなことでも何でも、平気なんですね。同じにいやだとか、苦しいとかにはならないのでしょうね。 だから、至高のありかたから、それこそ、辟易することにも付き合っても平気なんですね。もちろん、そこで苦しんではいても、そこだけしかいない人間とはちがうようですよ。 最高のヒマラヤから、もっとも下流の人里の汚水にまで付き合う。 それが創造界における創造者なのでしょうね。 つまりは普遍であり、遍在なんですね。そしてどこからも下落もできるし、どこからも向上できるのでしょうね。
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primeapeです。 A28のお礼で思いついたことです。 考えるヒントにしてください。 私は長い時間を唯識的手法で無意識を探求することに当てていました。 脳を制御するのが無意識である前提(事実)のはずが無意識はえてして現実世界の事柄を忠実に反映することを拒みます。 brageloneさんと交わしたコメントの応酬の中でお察しいただけると思いますが、現実では愛の体現がままならないことが原因のひとつと捉えています。 他にも理由はあるかもしれませんが、ともかく無意識は心の中だけの理想世界を守ることを勤めのひとつにしています。 そこに無意識主体の心の結びつきだけの独自の精神世界を他者と共有する余地があるようです。
お礼
primeapeさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 推測になります。 ★ 無意識 ☆ は 《探求》して なったりするのですか? わたしの場合 まったく単純です。《白紙》の状態です。外から入った事柄に対する反応としての心の動き これらは やがて みな 消えます。絶えず《白紙》になります。タブラ・ラサというのでしょうか。 ★ 現実では愛の体現がままならない ☆ けれども ★ 無意識主体の心の結びつきだけの独自の精神世界を他者と共有する余地があるよう ☆ なのですか? ここのところが よく分からなかったのですが これも 有神論と無神論とのちがいによるのかも知れません。 というのも わたしの場合 ★ ともかく無意識は心の中だけの理想世界を守ることを勤めのひとつにしています。 ☆ というときの《心の世界を守る》という意識も働きも ないからです。外からやってきたデーモンを 一たん受け止めて やがて そういう一定の情念として落ち着き その感情の中身も特定されてくると もう 放っておいてもよいという状態になると思います。つまり やがて消えてゆくかたちです。 もし そうでない場合があるとすれば それは 相手が さらになお 同じようなデーモンを 発して こちらに投げかけてくる場合です。それでも やはり その中身を確認して それで終わりになります。あとは むしろ 尾を引くとすれば それは 実際に言葉で語りかけてくることになります。ふつうに応答すればよいわけです。 ふと思ったのですが 唯識の場合は まさに唯識と言うように 心の中の世界を 言ってみれば 大事にする・つまり 大事にし過ぎるというようなことは ないですか? 逆に 無神という神に すべてをゆだねては いかがですか? ことだまの探究で いろんなことが出て来ましたね。 いま述べていることは 推測であることという制約があります。そして 実際に体験していることでも それを どう言葉で表現するか なかなか 容易ではないと思います。ひょっこりひょうたん島とおっしゃっていましたが まだまだ 推測の域を出ませんし 共通の理解に立てたか 心もとないところです。いかがでしょうか。 今回は 心細い応対になってしまいました。
- littlekiss
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こんばんは、brageloneさん。 ★ 『 郢書き、燕悦ぶ 』 ☆ どの事例が どう影響したか よく分からないままでいます。 ↑ 【QNo.3647182 水子思想と無明と覚り】 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3647182.html 【QNo.290613 ネット上の中傷について 】 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa290613.html 【QNo.288172 あそびをマジメに哲学すると】 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa288172.html 【QNo.167029 あそびましょ~♪ 】 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa288172.html ↑ANo.13へ《この回答へのお礼》の中に少し書いています。 ********************************************************** 《QNo.167029より 一部抜粋 》 ホラ-ものやサスペンスもの好きです。 映画や本で観たり読んだりする分には、けっこうはまっちゃうんです。 にもかかわらず、「こっくりさん」だけは、やったことない。 占いなんかもけっこうはまりました、 タロットカ-ド、占星術、九柱推命、血液型占い、干支占い、姓名判断...etc。 はまると、根詰めて没頭しちゃいます。 あるときから、占いの類しなくなりました。 なんでかなぁ~? 占いとかするとき、わたしの場合だけど、迷いがあるときなんだ。 こころがすきだらけ状態のときがおおかったかなぁ-(*^^*)>゛゛゛ そんなとき、 占いで出た結果を「運命だ」と、 変えられないものだと受け入れちゃう。 なんとかこの状況を変えてみようと思う気持ちさえ根絶えてしまう。 あきらめにはいっちゃうんだな。 「運命」だから.... で、片付けてしまう。 見方変えれば、そう思うことは楽な生き方かもしれない。 わたしは、そんなの嫌なんだ。 一通り占いの類やってみて、 「運命」って、 変えられないものじゃなくて変えることできるんだ。 占いって、 人の生き方の手引書なんだっておもえてきたの。 「病気」に対する「予防」かなぁ-? なんてね、 頭の片隅にいっときはまった占いのなにがしかがちらほら、 ものは考えようでどうとでもなるもんだ。 回り道かもしんないけど、 ヘトヘトになるかもしんないけど、 山登りといっしょ、 自分の足でトコトコ歩いて行くと何かかんじれる。 ********************************************************** ●スピルチュアルは まやかし っちゃうか? ↑ brageloneさんが言うところのスピルチュアルって何? 霊感商法の類を指していっているのかな? 【QNo.21120 肝臓がん】 ANo.9 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa21120.html
お礼
littlekissさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 わたしの考える《スピリチュアル》は 例として 次のような説教を言います。 ▼~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 聖徳太子の《十七条憲法》の中に ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ・嫉妬をやめよ 嫉妬の思いは際限がない。(物ネタミの戒め) ・賢明であり愚かであるということはちょうど環のはしがないようなものだ 自分一人が正しいと思ってはいけない。(自是非他の戒め) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ といましめて ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ・財産のある者の訴えはやすやすと通るものだ。石を水に投げ入れるようにたやすい。貧しい者の訴えは困難で通ることがない。ちょうど水で岩を打つように困難だ。(追従マイナイの戒め) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ とおっしゃっているが 十七条の中で〔これら〕三つの事がもっとも重要なことである。それなのに 世も末ざまの現在の世間では そのような訓戒があるか とさえも思わないで ことさらこの三つを結構なことに思って 少しでも気力があると思っている人は 《物ねたみ》と《自是非他(我れをよしとし他を非とする)》と《追従(おべっか)と賄賂》をやっている こういう人びとがひたすら世(国政)を支配する場合には 災難が起こるであろうよ。これは全くはっきりしたことだよ。 〔慈円(1155~1225):愚管抄 巻七 石田一良訳〕 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 囃子です。 一 弥(や)に 弥 走(は)れ ゑおい ちょろめへ ゑい やうら やうら やうらへ ゑおい やうら やうら やうらあ ゑおい やうら やうら やうら ゑおい やうら やうら やうら あゑい ゑおい 又 弥に 弥 走れ ゑおい ちょろめへ ゑい やうら やうら やうら ゑおい ・・・ (『おもろさうし』巻十二・728) 沖縄では ことだまに似たものとして 《せぢ》があるようです。
- HARUTIKUN
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こんにちは。あなた様の文を読んで、以下のことを思いました。 旧約聖書の「創世記」です。 「はじめに言葉ありき。言葉は神であり、神とともにあった。」です。 その後、「光あれ」などの言葉通り、世の中ができてきたので、まさに、「神様の言霊」どおりに、地球が出来上がったわけです。 order が、「秩序」と「命令」というに意味になっているのは、このような背景にあったからだと思います。神様の word が orderになったというような。 そこで日本の神道ですが、「一人一人の御霊に、神が宿る」という信仰があったようです。だから、不謹慎なことをいえば、それが実現するかもしれないからと、げんを担ぐことが習慣化されたのだと思います。 一人一人神様だとは思わなくても、「神様の御霊の宿るもの」と漠然と捕らえていた部分はあったのではないでしょうか。よく、子供が生まれると、「子供が授かった」と表現するのもその名残ではないかと思います。 専門家ではないので、間違ったことを言ったかも知れません。そのときは、失礼します。
お礼
HARUTIKUNさん ご回答をありがとうございます。 しごくもっともな事を言っていただいたと存じます。 そして ことだまにかんする仮説としての《事⇒言》という順序についても ★ そこで日本の神道ですが、「一人一人の御霊に、神が宿る」という信仰があったようです。だから、不謹慎なことをいえば、それが実現するかもしれないからと、げんを担ぐことが習慣化されたのだと思います。 ☆ というように うべなっていただいたと考えます。 ・重箱の隅をつっつくとすれば 創世記とヨハネ福音書の冒頭との両方の箇所を 例示していただいた恰好です。 ・《 order = 命令》というのは おそらく 《人から神へ》という方向での思考ではなく 《神から人へ》という啓示における志向性(志向して受容する)ゆえに 言葉の意味においては《命じる》というような上からの方向が 絡んでいるということでしょう。そこに 《 order = 秩序》がさらに絡められているのは すでに受容した啓示の言葉もさることながら おのれが この世と対面する局面でも きわめて無理なく 和解しているという境地が得られたからではないでしょうか。 いやぁ ありがとうございました。きわめてふつうの市民社会のあり方を 示していただいたと思いました。 * 《げんを担ぐことが習慣化された》というとき それが 第二次の言葉霊だと思うのですが 邪気のない願いと祈りなら いいのですが 善意の人を相手に 商売とするのは わたしには許せないとも感じています。
- littlekiss
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こんばんは、brageloneさん。 ANo.26への《この回答への補足》覚書き読みました。 『 郢書き、燕悦ぶ 』 【 意味 】 郢の人が書いた手紙を燕の人が誤解して読み、 おかげで国がよく治まったという故事から、 もっともらしくこじつけることのたとえ。 春秋戦国時代、楚の都の郢の人が、燕の宰相に手紙を書こうとした。夕暮れ時だったので、手許を明るくしようと、わきで燭を持っている者に「燭を高く挙げろ」と命じた。ところが、その人は、筆を手にしたまま「燭を挙げろ」と言ったものだから、ついつい、その文句を手紙に書き込んでしまい、そのまま、うっかり、燕へ発送した。手紙を受けとった燕の宰相は、「燭を挙げよ」という文句があるのを見て、しばらく考えていたが、やがて膝を打って大喜び。「うむ、これこそ国を治める急所だ」「燭を挙げよとは、光明を尊ぶことで、光明を尊ぶとは、賢者を登用して、これを重く用いることだ。郢の人は、それを教えているのだ」と宰相は理解したのである。彼は翌日、王に会って、それを言上した。王も喜んで賢者を登用することに賛成、さっそく実行に移した。おかげで国はよく治まったという。 【 出典 】 『 韓非子 』外儲説・左上 【コンテスタビリティ理論】 http://www5.cao.go.jp/seikatsu/koukyou/explain/ex17.html ↑ うーむ、この理論にもモノイイをつけたくなる。 理論は理論であって絶対じゃない。 これこのように書いてあれば、如何なる場合もこの流れに沿うとは限らない 新規参入した会社は、みなトンズらカマスみたいにも読めんことはない。 ある意味、失礼やで。そういうケースもないことはないやろうけど、 みながみな、そうとは限らんやろ。 何でそう思うかって? 【QNo.2852721 『メンドリが時を告げると天下は乱れる』の実例】 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2852721.html 自然独占企業も元をただせば、あまたにあるなかの一企業。 規制により実績を積み今がある。 新規参入の企業は、同業者。反目しあって、利用者に負担をかけては その業種自体の市場そのものが狭まる。 片や人員オーバーでリストラ、もう一方はといえば、人手不足で困ってる。 相手は信用できんとはなからかかって追い払うよりも 業界自体の質の向上に主眼におけば、技術提供、人材交流あってしかるべくちゃうか? 機体フル回転で飛ばしてたら、部品の疲労度も早い 走行距離やら時間やら交換時期がきたらきっちり取り替え厳守! 飛行機は何よりも手抜きはゆるされへん。大勢の命乗せて飛ぶねんから。 過去にメンテナンスを怠って大事をまねいた大韓航空機事故…等々。 教訓はいかさな。 潤沢でない資金、使えるお金は決まってる、そのお金を便数減らしてでも、 機体のメンテナンスにかけたとは考えられんやろか? だとしたら、応援したらなあかんのんちゃう? 育てたらな、叩くばっかりがのうじゃない。 人が行き来できるその道を断つことなかれ。 【 疲労 】 http://shippai.jst.go.jp/fkd/Detail?fn=0&id=CA0000221& 点と線つなげばそこに絵が浮かぶ 『 浪漫飛行 』 http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND4914/index.html 【QNo.3227680 ほにゃらか形而左右学 世界 】 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3227680.html ドクサの流砂、こぼれ落ちるのをただみてるだけの傍観者であらねばならぬのか 【東京紅團】 http://www.tokyo-kurenaidan.com/seicho11.htm 【砂の器】 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A0%82%E3%81%AE%E5%99%A8 http://www.kankou.pref.shimane.jp/mag/04/02/suna01.html 【ハンセン病】 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%BB%E3%83%B3%E7%97%85 【Web医療科学ー『放射線技師に知ってほしい画像診断』】 http://www.iryokagaku.co.jp/frame/09-webik/09-webik-0302/index09-0000.html
お礼
ご回答をありがとうございます。 No.24の補足欄《参考までに》も読んでおいてくださると ありがたいです。 ★ 業界自体の質の向上に主眼におけば、技術提供、人材交流あってしかるべきちゃうか? ☆ 日本人は 世界中のムラ(市町村)それぞれと 《技術提供、人材交流あってしかるべきちゃうか?》 使命っちゃうか? 国家なんて関係ないくらいに。企業は 巻き込む必要がある。ゆえに ★ 人が行き来できるその道を断つことなかれ。 ★ ドクサの流砂、こぼれ落ちるのをただみてるだけの傍観者であらねばならぬのか ☆ このせりふは かっこつけてばかりいるように聞こえるよ。コンテスタブルになることも いいのかも知れないし そのためには 多少は 持論も用意していないと。突っこみだけでも いいのだけれど。ゆえに ★ 『メンドリが時を告げると天下は乱れる』 ☆ ことはない。あるいは 乱れても かまわないので いくら鳴いても いいと思うんだけれど。言葉霊に対してなら どんどん 突っこんでいくべきちゃうか? スピルチュアルは まやかし っちゃうか? ★ 『 郢書き、燕悦ぶ 』 ☆ どの事例が どう影響したか よく分からないままでいます。
>「思い込む」については軋轢の中のESP事故で勘違いすらも共感を呼び他者に伝播する体験を確認しています。 これは非言語的領域でのことです。
primeapeです。 論議は進展しているようですが、A11の戻ります。 >《心象に変化が生じる》だけではなく 実際に《言葉の表わす中身の事が起こる》と信じる(つまり 思い込む)のだと思います。念力を発することもあるのでしょう。 独り言のようなコミュニケーション不在の言葉なら心象に変化が生じるだけですが、語りかけた他者がいる場合、他者がその言葉に呼応すると言う形で、言葉の表す中身のことが起こると言いえます。 「思い込む」については軋轢の中のESP事故で勘違いすらも共感を呼び他者に伝播する体験を確認しています。 この事故は人間性に対する普遍的見解のみに自信があってその中で自分自身の個性と固有の人生の歴史(体験の遍歴)に思いが至らなかった時期に発生しました。
お礼
primeapeさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 おかげさまで 論議に進展がありました。 《事⇒言》という順序での ことだまの現象。という仮説。 あとの課題として 一つには 次の心性・知性の区分のもとに 社会的な現象として ことだまが どうかかわっているかです。 -1:原始心性=《ヨリ(憑り)》:アニミスム&シャーマニスム 0 :歴史知性=《イリ(入り)》:世界への入り +1:超歴史知性=《ヨセ(寄せ)》:《ヨリ》を束ね 《イリ》をも 社会力学上(政治的に) 寄せる。 (No.1補足欄) 第二次の人為的な言葉霊は 《ヨリ》なる原始心性にかかわって 出てくると考えます。その内部で シャーマンが 言葉霊を操作するかと思われます。そして特には おそらく このシャーマニスムとアニミスムとを 《ヨセ》の超歴史知性が 束ねて 幻想の共同へと仕立て上げそれによって やはり社会心理的な趨勢やら世論の方向性やらを決めようとする。小泉なんとかいう首相は そうしたかも知れません。 そして 同じく アニミスムの言葉霊を――あるいは デーモンなる情念を―― むしろ 《イリ》なる歴史知性が その侵入を受けて 衝突し 言わば中和するようにして 鎮めるという作業が あるかも知れません。すなわち ★ 語りかけた他者がいる場合、他者がその言葉に呼応すると言う形で、言葉の表す中身のことが起こると言いえます。 ☆ として そういう一つの側面もあるのではないでしょうか。 ただ なにぶん 肉の目には見えない事態ですので どうでしょうか。心の目で見たものとして 話し合いに 話題として 出せるでしょうか。 起こることというのは 《言葉の表わす中身の事が起こる》 というよりも 《〈言葉の表わす中身の事が起こる〉ことを欲し祈願するというその 情念が 伝わっていく》 ということだと思います。単純にそういう現象だと考えます。 これは 質問を改めたほうがよいかも知れません。いかがでしょうか。 もう少し 見落としがないかなど 時間をおいてみます。
- littlekiss
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おはようございます、brageloneさん。 ANo.24へURLの追加です。 ないしょのはなしは… 【 あのねのね】 http://www.ourlife.jp/PDF/cd&dvd.pdf 「魚屋のおっさんが驚いた!」 「ぎょ!」 【理研ニュース 9】 http://www.riken.jp/r-world/info/release/news/2007/sep/index.html
補足
覚え書きとして。 ▼ 【理研ニュース 9】~~~~~~~~~~~~~~ 厄介者のクラゲから有用物質を発見! ・・・その物質は、抗菌・保湿作用などを持つ「ムチン」と総称される糖タンパク質群の一種である。・・・この新規ムチンの糖鎖を変換して機能を増強し、新しい医薬品をつくり出すことを目指している。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ▼《労働者の二重派遣》~~~~~~~~~~~~~~~~~ <グッドウィル(GW)二重派遣> ・・・ 調べでは、労働者の派遣1人につき、GWはTリースから5000円、Tリースは港湾荷役会社から2000円のリベートを受け取っていた。GW、Tリース、港湾荷役会社間で二重派遣された労働者は04年10月~07年6月で延べ1240人に上った。GW新宿支店では二重派遣で港湾荷役に従事した労働者に対して、N容疑者らが1人当たり500円を支給していた。 二重派遣された男性(当時27歳)が07年2月、東京都江東区の倉庫で作業中に労災事故にあったことから一連の不正が発覚。・・・。 [毎日新聞6月3日] ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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brageloneさん。 1. wikiご引用されての教えの意味の言霊の力はあるということを否めません。 2. 〔《事》に関して〕 日本人の考え方と態度についてのご見識のご披瀝はたいへん首肯でき、示唆に富みます。 3. 〔 ★ 創造者の権能(パワー)と力(フォース)の意図されている通りの発揮か、もっと低いところでの発揮かの違いで・・・〕 これの説明が伝わりにくかったのですね。 創造者がどんなこと、何ものも、善であれ、邪悪であれ、起源であり、起点であり、基点であるという認識によっております。 人間の一定の価値観や存在の状態、条件では邪悪ということもあり善ということにもなりうる。そうされる。のだと存じます。 創造者は、万能で、全知。遍在。そして超越・絶対である。 その創造者には、人間が苦悩する邪悪も、評価する善も平等であると存じます。 全能者の権限による力、そして実現していくフォースを、全能者の本性からどれだけ下がったところで、行使し、発揮している状態か。の違いしかないのだと存じます。つまり、人間のあるべき姿として行使・発揮する状態が望ましい、つまり善、ということなら、それは全能者の本性に近いレベルでの行使である。その一つを現す言葉が祝福であり、遠い低いレベルでの行使・発揮が呪いとかいうこになるのかな。と存じます。 〔★ あぁ神との関係。として意識し自覚できたか、その端緒・・・ ☆ つまり 主観の存在という大事な問題もあると言わなければならないのですが。〕 これは、ご質問の文言で〔けれどももっと遡って旧約の中で祝福とか呪いという問題を探ってみると 神との関係が初めにはない。〕ということを私として理解・受け取った内容をいっております。 つまり神との関係が初めにはない、というのは、決して離れることのできない、神との関係を意識できなかった。というのに過ぎないことがらであるという、認識です。いかなる力も神に淵源しているという私の認識からの、判断です。 〔 ★ はじめにことばありき ☆ の場合は 言い換えですから――つまり そもそも 神の話として出ていますから―― 極端にいえば ブラフマンという言葉を持ってきても 《なぞの X 》を すべては 代理して表現するものだとなると思います。~~ 〕 ここの代理ということばでのご説明はユニークで、示唆的でありました。どうもありがとう御座いました。私もこの使い方に習熟するようにして、より自分を認識していきたいと存じます。
補足
krya1998さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 さて 正直うれしいことに わたしの仮説は まだ 持ち堪えているように思います。 ★ つまり神との関係が初めにはない、というのは、決して離れることのできない、神との関係を意識できなかった。というのに過ぎないことがらであるという、認識です。いかなる力も神に淵源しているという私の認識からの、判断です。 ☆ ですよね?! つまり そこには 《事》としての ことだまが潜在しているということになると思うのです。 《神との関係が――つまり その意味での ことだまが―― 初めにはない》というのは 《初めには〈顕在して〉いない。すなわち 知覚のようなものはあったかも知れない。けれども 意識し得てはいない。感性や情感で 人や自然を超えたものを 捉えていたかも知れない。けれども これを 言葉ではつかんでおらず 認識してもいない》だと思うのです。 だとすれば 《事霊⇒言霊》 という順序が 基本に あると考えます。しかるがゆえに 《言挙げせずとも 言霊の幸はふ国》であると表現したと考えます。 ですから もし現代でも 《言葉霊》として ことだまの思想が にぎやかであるとすれば たとえそれが第二次の現象だと言わなくとも 少々 その背後の《事にかんすることだま》のことを見なくなっている。見えなくなっている。見なくていいと思うようになっている。つまり このことだまの現象をめぐってさえも 少々 あたまでっかちになっている。のではないでしょうか。 もしここに 誤解がないとすれば――あってもですが―― たいへんありがとうございました。この方向をさらに模索していきたいと存じます。 ★ 3 ☆ につきましては 《創造者の権能(パワー)と力(フォース)》の区別 あるいはまた その力の発揮の度合いが 近い遠い 高い低い という区別 これについて ピンと来ていないのだと思います。 例によって 単純太郎でありまして 力は力 その働きは働き / 雨は雨 等しく降らす / 存在は 相対的なものだが 善は善 / その善も その存在つまり人間の自由意志に任せてある / 善から離れるのも 人の自由 / 離れた度合いに応じて 善の欠如として悪がある /悪を為す者にしても その存在は善である / 等しく雨を降らす / つまり ことだまは あまねく行き渡っている うんぬん。という一筋縄で捉える これは 習性であり わたし個人のくせであり 人によって 区々なのでしょうか? それとも 創造者のはたらきのあり方に 区別すべきちがいが あるということでしょうか? でも ☆★ 人間のことば(個々のではなく 総体としての言語)は 神の代理であるにすぎない。 ☆ とすれば 神のはたらきの詳細を わたしたちが 知るわけには行かないように思えるのですが? ★ 2 ☆ で触れておられることの内容は wikiからの引用文だと思います。わたしが言っているわけではないです。同意しているものですが。 ありがとうございました。
- littlekiss
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お返事どうもです。 ドラマ《 CHANGE 》では 若い首相が 国の敗訴を受けて これを認め 国が財政破綻しても 損害を償うのだと言っていました。・・・ ↑ 一日飛び回っていましたから、くたびれて、夕べ(2日)は早々に爆睡してました。 てなわけで、ドラマ《 CHANGE 》見れてないのだモシ~ で、若い首相が言ったという《国が財政破綻しても 損害を償うのだ》という話 まるで、『幸福な王子』http://www.snow-man.com/html/ouji.html 《国の敗訴を受けて これを認め》《国が財政破綻しても 損害を償うのだ》って、矛盾してない? 敗訴を受け入れることと国家賠償請求と公務員個人に対して損害賠償を請求は別個じゃなかったけ? 国が破綻したら誰が誰の損害を負うんだろう? 無資力者ともなれば賠償請求はできても賠償金は償還不能… 国が喪失しちゃうんだから…難民いっぱい溢れ出る となると、国連が難民救済募金(寄付)から拠出し救済する緊急援助が働く? 損害賠償請求を誰も彼もに請求権があるからとはいえ、立続けに行使すれば… …財政破綻…両者共倒れ…一家(一国)心中…そんなアホな。 落としどころをみつけにゃならん。相身互い。 【養生訓】 「医は仁術なり。仁愛の心を本とし、人を救うを以て志とすべし。わが身の利養を専ら志すべからず。天地の生み育て給える人をすくいたすけ、萬民の生死をつかさどる術なれば、医を民の司命という、きわめて大事の職分なり」 「医となるならば君子医となるべし、君子医は人のためにす。人を救うの志専一なる也。医は仁術なり。人を救うを以て志とすべし。人を救うに志なくして、ただ身の利養を以て志とするは、是わがためにする小人医なり。 医は病者を救わんための術なれば、病家の貴賎貧富の隔てなく、心を尽くして病を治すべし。病家よりまねかば、貴賎をわかたず、はやく行くべし。遅々すべからず。人の命は至りて重し、病人をおろそかにすべからず」 《病人(=現代社会,国も含む)をおろそかにすべからず》 http://www.med.or.jp/nichinews/n180605i.html 『 料理物語 』 http://www.library.metro.tokyo.jp/17/008/17100.html
お礼
ダムを作った所為で 下流の海に水くらげが 大量に発生。そのおかげで 魚が取れず 漁師たちは 生活に困る。たしか 37世帯のうち 26世帯が 廃業した。記憶ちがいでなければ その賠償金は 13億だと言っていた。 こんな程度だけれど 《幸福な王子》みたいなものだった。 医師は 聖職ですね。教師も。公務員も。二十四時間勤務。 ★ 《病人(=現代社会,国も含む)をおろそかにすべからず》 ☆ ことだま資本主義 あるいは別名 ヤシロイスム。だが ことだまと言っていた日にゃ 古くさいかも。この質問も そろそろかな?
補足
参考までにです。 ▼ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ なぜ私はたんなる空気の振動でしかない《ドロボー》という声が泥棒という意味であると思い 低い柵でしか囲われていない庭の使用はその所有者だけの権利だと思い 一枚の紙切れにすぎない一万円札に一万円の価値があると思っているのだろうか? それは 他のすべての人間が その声が泥棒を意味すると思っており その庭の使用は所有者だけの権利だと思っており その紙に一万円の価値があると思っているからである。それだけではない。他のすべての人間がそう思っているのも それぞれ他のすべての人間が その声が泥棒を意味すると思っており その庭の使用は所有者だけの権利だと思っており その紙に一万円の価値があると思っているからである。 これは《自己循環論法》である。言語とはすべての人間が言語として使うから言語なのである。法とはすべての人間が法として従うから法なのである。貨幣とはすべての人間が貨幣として受け取るから貨幣なのである。 言語も法も貨幣も まさにこのような自己循環論法の産物であるからこそ 物理的性質にも遺伝子情報にも還元しえない意味や権利や価値を持ちうるのである。 ・・・ (岩井克人:言語・法・貨幣と〈人文科学〉 4.自己循環論法 日経6月4日) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 少し被せますが。 ことばで分かりあえるのは 言葉の意味もさることながら その背後に(あるいはその基礎に) 互いの関係性としてのことだまが はたらくということも 重要ではないのか。くせの違いを了解し 意見の相違を認めあうのも ことだま関係においてではないだろうか。 法を守るのは 理性によってであるのもさることながら 社会性ということだま関係を土壌として われわれが 生活しているからではないのか。法律が 間に合わなくなったり 別の意味を持ってきたりしても 自然法としてのことだま関係を基礎にして 作り変える。人間のために法律があるのであって 法律のために人があるのではない。 貨幣は どうか。経済活動の領域において 右側通行だとか交通信号だとか速度規制だとかのごとく 規則や基準になっている。この基本の上に 財産の蓄積や保持がある。基本の基準としては ことだま関係で足りるのではないか。財産は 社会の財産ではないか。もう少し具体的に 同感(共同主観・常識)という交通信号が代わりになるのではないか。貨幣は要らないのではないか。 故意に走り書きにて失礼します。
primeapeです。 質問のbrageloneさんの仮説を総括すると二次の言霊(応用)の確認は「我は存在する」又は「心は存在する」事の証明になるかもしれません。 ここでA11に戻って私なりの感じ方から思索のお手伝いをしたいのですが、その前に丑の刻参りについてもう少し考えました。 丑の刻参りの流行した江戸時代までは言葉として「人間」の概念は無く「仏性」であろうかと思います。この場合私の捉える仏性とはその人の内面の真実。本心です。本心とは裏腹な言葉や行動に誰もが悩むもの。そうした嘘の積み重ねで生じた人格への勘違いが積もり積もってうらみの基となる。そして生霊の様な当人は無自覚なのに明らかにこちらの心の領域に干渉してくる心の断片が生じる。私の言葉でイデアの偶像。ようするに間違った人間性の象徴がわら人形に凝縮されているのではないか。そして、恨みも一緒に水に流す人形供養が丑の刻参りでは無いでしょうか。私の実感では相手が先にのろいを仕掛けたからこちらは恨みが生じる感じです。(実際はどっちもどっちですが)。それをお返しするのが丑の刻参りの実態と受け取れます。重要なことにこれは通過儀礼的でかりそめの儀式ではなくて呪術として実態に機能しえています。心の断片同士ではお互いに自覚しえます。wikiでは、様式にこだわった感じが伺えましたが神前で執り行うためにはこのようなこだわりは必須です。 余談ですが最近私がわら人形として心の中で活用しているのはひょっこりひょうたん島ではなくて漫画本に「ついでにとんちんかん」から引用した間抜作先生です。 http://fukurokudo.blog22.fc2.com/blog-entry-445.html 知性が無いのに感情を衝動に還元している特異なキャラクターで、地球外生物さながらの異常思考をするキャラクターです。 このキャラクターは人知を超越しています。いまさら人知に例えるのはかわいそうです。 ほうっておくと私の心に噛み付いてくる存在はこうも退化しています。
お礼
こんばんは。ご回答をありがとうございます。 むーむ。 段々 むつかしくなって来ますね。 丑の刻参りを――本人も相手も 《実際はどっちもどっちですが》―― 恨みなどを水に流す儀式のようなものと見なすのは 一つの見識ですね。和解につながる過程であると。ことだまの二次的なかたちとしてでも 応用であって 積極的に ことだまの領域と 回りまわって 激しく接しようとしているのかも知れない。 おそらく 結果的に 心も浄化され 或る種のカタルシスを経るのかも知れません。 とは言うものの なんとも回りくどい。と思います。 その昔 というよりは 今もそうだと言うべきようですが この日本という国にあっては 時間が間延びしたかたちであるのかも知れません。 ★ 二次の言霊(応用)の確認は「我は存在する」又は「心は存在する」事の証明になるかもしれません。 ☆ という事態をも超えていて 蕎麦は もうとっくに伸びています。ですから 芭蕉や西行は 旅に出なければならなかった。魂が倦んでくるのかも知れない。 ダリの絵? いやいや それでも わがともがらは 勤勉です。派遣社員も 勤勉です。
お礼
ご回答をありがとうございます。 あたまの天辺から爪先まで 完全にまいりました。 わたしが そうして さらに歩み出したところは――以前にも 触れたと存じますが―― キリストのキの字も出さないかたち 神のカの声も出さない表現 でした。 じっさいにも 創造者なら そういう人間世界のあり方を望んでいると存じます。 哲学は 神学の婢女などと言われたことがありましたが 婢女で構わないと思います。ふつうの人間とその学 ふつうの社会とその学 これの出番だと思いますし そして神学は神学で(観想は観想で)問い求められるはづですが 背景にしりぞいてこそ その存在意義があることになると思うのです。哲学に席を譲ってこそ 生きるのでしょうし そこで哲学は 謙虚にして踊り出るのだろうと思います。 ことだまという主題も もう 旧いかも知れません。 わたしたちは うしろ向きに前へ進むとも聞いていますので 旧いことがらも それとして 位置づけしておくことも大事かなと思いました。 局面展開。第二幕 第三幕へと。・・・