キリスト教の終末思想とは?

このQ&Aのポイント
  • キリスト教の終末思想は、神が待望された社会に現れた救世主が血を流して死ぬという出来事によって、神に求めることができず、願いがかなわないという考え方です。
  • この信じることのみの社会は審判の日を迎え、信仰の葛藤に苦しむ人々もいるでしょう。しかし、自力で聖書の呪いを覆すことができる可能性もあります。
  • キリスト教の特徴として、「神に赦される」という感覚があります。この特有の赦しの表現は様々な形で解釈され、重要なテーマとなっています。
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赦しこそ聖書である

聖書の大まかなあらすじは、神が待望された社会に忽然と現れた救世主が何一つなさないまま血を流して死んだと言う事でしょう。 それによって神に求める事が出来ないで、願いなど何一つかなわないと言う終末思想がキリスト教だろうと考えます。 見捨てられた、この信じる事のみの社会は審判の日を迎える事になる。 そんな信仰の葛藤に七転八倒すると、やがて自力で聖書の呪いを覆す事が出来るでしょう。 それは普遍的な信仰の発見と共通項も多いですが、キリスト教の特徴として、「神に赦される」と言う感覚が有るのだろうと考えます。 この特有の赦しと言う表現を、いかようにこねくり回すか、材料募集です。 猿回しは重労働なので、内容の無いサルまねはできるだけ控えてください。

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回答No.2

 おじゃまします。  異なる見解を述べます。  ★ 聖書の大まかなあらすじは、神が待望された社会に忽然と現れた救世主が何一つなさないまま血を流して死んだと言う事でしょう。  ☆ 新約聖書の時代ということであれば その時代に《神が待望された》という見方には 二つの反応があると考えます。  ひとつには メシアが待たれたというとき それは《神としての救世主》と呼んでただしいと思われる信仰の系譜があるだろうと思われることです。  もうひとつには おおむねそれは政治的な領域における――ユダヤ人の国の独立とその社会の安寧をもたらす者としての――救世主だったと思われることです。  そのうえで  ★ 救世主が何一つなさないまま血を流して死んだ  ☆ という見方がありうると見ます。  繰り返すならば  ○ 《神が待望された》の《神》という内容については ほんとうに神であるかと言えば 一般にそこまでは思われていなかった。  ○ ただし 旧約の時代に神の言葉を預かって伝えたと言われる人びと(つまり旧約聖書の記者たち)の系譜としては まさしく神の登場が待たれたという見方もある。    こういう全体情況ではないかと見ます。  ということは どういうことか?  ★ 救世主が何一つなさないまま血を流して死んだ  ☆ という見方について 民族の政治的な解放者としては その文字通りのことが起こった。つまり 救世にはならなかった。と同時に 新約の聖書記者らにとっては まさにそのような《失態》であったがゆえに それは 神の子であり神であるキリスト(=メシア)が 歴史上に出現したのだと見た。こういうふうに全体を見渡すことになろうかと考えます。  ですから 趣旨説明においてそのあとに書かれていることは 上の問題に対するいま述べました見方によれば あまり問題とはならない。こういう回答内容になります。      ★ それによって神に求める事が出来ないで、願いなど何一つかなわないと言う終末思想がキリスト教だろうと考えます。  ☆ このように捉えられる内容は 政治的解放者としてのメシア待望論者たちにおいて 起きて来たであろうとは考えられます。  ★ 見捨てられた、この信じる事のみの社会は審判の日を迎える事になる。  ☆ 神の子としてのキリストの登場によっても 実際には人びとにとって《信じることのみの生活》だと言っても間違っていないと思われますが 《見捨てられた》や《審判の日》の問題については 見方が分かれます。  《わが神 わが神 なにゆえわれを見捨てたまいしや》というイエスの叫びは そのように神に見捨てられたそのことにおいて じつは見捨てられていなかった。それが 神の登場の意味です。一般に《復活》と言われます。  その見方からすれば 《審判の日》は 何でもありません。どうでもよい昔むかしのひとつの伝承に過ぎないということだと見ます。強いて言えば やはりアブラハムのときからの・あるいはアダムとエワのときからの 神に向かい合うときのおそれを言っていると取ればよいかと考えます。それ以上の意味は どうでもよいという趣旨です。  ★ そんな信仰の葛藤に七転八倒すると、やがて自力で聖書の呪いを覆す事が出来るでしょう。  ☆ 《信仰によって生きる》というとき そこには《わたしは日々死んでいます》と言うほどの苦しみが 試練のごとくあたえられることもあります。それを指して《七転八倒》と言うのかも知れません。  ただし《聖書の呪い》という見方は おそらくイエス・キリストの磔の死とそこからの復活について知らないという人びとの見方でしょう。それは あるとすれば仕方がありません。そういう判断をしたということですから。  ★ それは普遍的な信仰の発見と共通項も多いですが、キリスト教の特徴として、「神に赦される」と言う感覚が有るのだろうと考えます。  ☆ 《七転八倒》が 《普遍的な信仰》にかかわるというところは 見ました。(つねに苦しみがともなうという意味ではありませんが)。  あとは そうですね。細かい議論が必要かと思いますが ひとことで次のように見ます。  ○ 神の子であり神であるメシア(=キリスト)の出現を待ちに待っていた人びとにとっては じつはすでに《神にゆるされている》という状態にあります。それが 信仰です。  ○ 言いかえると イエスのキリストとしての復活を受け容れた人びとは イエスを長子とする神の子らとなっています。すでにそのへそ曲がりの罪は赦されています。イエスが十字架上に去ったその歴史によって その赦しの自覚があたえられたという意味になります。  あとは 前々からの信仰生活です。信仰は――したがってのように 神のことは――背後にしりぞいて あとはふつうの経験的なものごとをあつかう日常生活を生きるという意味での信仰生活です。  ★ この特有の赦しと言う表現を、いかようにこねくり回すか、材料募集です。  ☆ 従いまして 《キリストであった》ということが イエスの死後に われわれ人間において気づかされた。これは――そのとき・その瞬間に 赦されたのだと言ってもいいのでしょうが もっとすっきりする見方としては―― すでにわれわれは赦されていたということの自覚を意味します。  したがって人びとは もともとの信仰生活をさらに自信をもってあゆむという結果になります。  それが 言うとすれば 《特有の赦し》ということだと考えます。  まとめるなら:  われわれはすでに 初めに――アダムらが罪をおかしたその初めから―― ゆるされていた。それは 信仰においてである。つまり 神へのきよらかなおそれ これによってである。  こういうこねくり回しです。  (われわれは人類として確かにアダムらにおいて 嘘をつきへそを曲げたのですから それによって傷を負っています。その傷がいやされていくのは 時間的な過程に属します。ただし ゆるしは 一瞬です。非思考の庭が わが心に成るその瞬きの時にです。  これが 特有の赦しの意味です)。

Flareon
質問者

お礼

やあ。 ありがとう。 お世話になったぶらじゅろんぬさんにこの挨拶は失礼だとは思うが、つっぱっていないと他方から火の粉をかぶる事になるのでご容赦ください。 回答として過不足の無い内容で丸呑みにできます。 ただしたとえば、神の希求が新約聖書に無かったのかどうか。 ユダヤの信仰はイエスさんを磔にしたが後世のキリスト教とは違うとか。 理解を促し和解を必要とするこねくり回しの題材はあると思います。 それから実際にギャースカ耳障りな輩にいかように落とし前をつけさせるかという難題が有ります。 ところで私は誰も救わないと言う立場をとります。 私は3歳の頃、余命一年未満と診断され、そのご衰弱しきった時に認可前の新薬を使用したら奇跡的に一命を取り留めた事が有ったそうです。 育たない子供、死を背負った子供であった私にとって、滅びの子とはもっとも懐かしく大切な幼友達です。 答えるべき救いとは彼らにあると考えます。 滅びの子、悪魔、亡者、鬼、彼らこそ私の友達です。 人間が救いを求めるサル踊りは知った事じゃない。 人間以外と相対する私は精霊のセレビィでもある。 こういうポケモン遊びの一環です。

Flareon
質問者

補足

お礼の追加です。 自らの信仰を見出したとは言えないでギャースカ言う輩に関しては救いとは別に落とし前をつけさせようかと言う考え方で聖書をこきおろしています。

その他の回答 (1)

回答No.1

キリスト教徒はイスラム教を赦さない、ユダヤ教も赦さない。 キリスト教だけが正しい、聖書だけを信じよ、と信じているのではないですか?

Flareon
質問者

お礼

やあ。 ありがとう。 そのような、我が神こそ唯一で絶対で真理なのだと言うたわごとは実に田舎者臭いと言う立場で質問している。 聖書には神に見捨てられた滅びの世界に生きよとと言う文脈があると指摘している。

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