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キリスト教について

お世話になります。 キリスト教のことは無知です。 あまりにも煩雑なので、どこから手をつけていいかわからないので、こちらで質問させてください。 よく人間は罪人であるから神と和解しないさいとか、信じるものだけが救われるとか、・・・・「神のことばを呪いのことばに代えた」といわれるほどの思想というか、神学というのがあると想います。 これはキリスト教全般に当てはまる考え方なのでしょうか? またはある時代の偏った考え方だったのでしょうか? また、現在でも、キリスト教というのは、全般的にこういう考え方がベースなのでしょうか? それともある一派特有の考え方なのでしょうか? まったくの無知なので、全体像が見えてないので、何がわからないのかもわからないような状態なので、質問も的を射ていないと想うんですが、その辺りも考慮の上ご回答いただけると助かります。m(_ _)m

質問者が選んだベストアンサー

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  • nicodemo
  • ベストアンサー率54% (38/70)
回答No.3

こんにちわ 難しい質問になってしまうと思います。いきなり『神学』から回答するには、そもそもその『神学』を主張している宗派や、他の宗派についてざっと全体像を頭にいれておかないと、かえって解答から遠ざかってしまいそうです。 とりあえず質問様が知りたい事を、なんでも良いから自分の価値観や認識と比較されて考えていく(または質問・補足する)とだんだんと回答に近づくように思います。 >全体像が見えてないので、何がわからないのかもわからないような状態なので、質問も的を射ていないと想うんですが、その辺りも考慮の上ご回答いただけると助かります。 ●初期キリスト教の成り立ちを基本的にまとめたのがこちら(比較対照ギリシャ哲学) http://okweb.jp/kotaeru.php3?q=1537107 ●また、キリスト教の正典(聖書)について参考になりそうなのがこちら http://okweb.jp/kotaeru.php3?q=1513597 ●聖書主義(聖書の記述はすべて正しいというキリスト教原理主義に関係する質問がこちら http://okweb.jp/kotaeru.php3?q=1558103 ●聖書(キリスト教観)に知的好奇心から知りたいのであればこちら http://okweb.jp/kotaeru.php3?q=1482950 ★『神学』として確立されているのは、必然的に最大の規模を持っているカトリックの考え方になり、それに対して革新派であるプロテスタントの解釈の違いがあり、さらにはプロテスタント個々の宗派での解釈の違いが……。となりますので、補足をいただけないと答えようがないというのが正直なところです。 ◆質問者様が知りたいと思ったきっかけがあることと思います。 それが人や書物であれば、その辺を少し教えていただければ具体的な解答が可能になると思います。 ◆ニュースなど、現代の解釈とそれに伴う問題点がきっかけでしたら、また違う方面の解答になります。(たとえば、アメリカのブッシュさんは福音派(キリスト教原理主義)で、それに伴いイスラムなどの他宗教への態度が硬化しがちであり、創造論を教える学校が増えて……。 ★★信者の方と交流がきっかけであれば、その人と話したり教会で話を聞くのも良いかもしれません。 とにかく、補足をよろしくお願いします。

Syo-ya
質問者

お礼

ありがとうございます。 痒いところに手が届くお答えに感涙の次第です。。。(^^) 私が漠然と疑問に感じているのは、例えば、ケン・スミスの「誰も教えてくれない聖書の読み方」という本があります。この本ではキリスト教をかなり否定的に扱っています(まあ、サッと斜め読みした程度なんですが) また今、夢中なのがヘレン・ケラーなんですが、彼女も「光の中へ」という本の中で、中世の神学を大変否定的に扱っています。 >>中世の厳格な神学は、いかに人間を軽蔑すべき罪の子として扱ったことでしょう、いかに世界を神の怒りに触れるものとして捉えていたことでしょう。 >>信じるものだけが救われるという自己中心的な思い込みがひたすら尊ばれたのでした。 >>「幾万もの民の上に呪いを降り注ぐ神学」「神の言葉」を呪いの言葉を変えた。 >>無学な人々の弱みや、軽信性に漬け込んだ。 彼女はスウェーデン・ボルグ氏を非常に尊敬しているのですが、上記のように「中世の神学」と断定して、強い口調で批判しているんです。しかし彼女も敬虔なキリスト信者ではあると想いますので、一つの神学に対して怒っているのだと想います。 で、私は無知なので、この両者が言っていること(対象)が同じ神学(思想・宗派)なのか、または、ケンスミスはキリスト教全体を指して中傷しているのか、・・・といった詳細部分が見えないんです。 ・・いただいたURLもこれからジックリ拝見してみます。 もし、上記の内容にご意見、ご感想があれば、また、お付き合いくださると助かります。(ちなみに私のポジションは信仰ではなく知識欲求といった部類です)

Syo-ya
質問者

補足

あと、一番純粋な疑問として、ケンスミスの本を読んで、短絡的に「だからキリスト教は駄目なんだ」と、キリスト教全体を揶揄、誹謗中傷するような発想はありなのかな??という疑問もあるんです。 もし、同書をご存知でしたら、ご意見いただけるとありがたいです。

その他の回答 (9)

  • nicodemo
  • ベストアンサー率54% (38/70)
回答No.10

◆◆お礼、ありがとうございました。 憲法9条の比喩はその通りですね。 解釈をめぐって政党と宗派を重ね合わせて大笑いしてしまいました。(^^ ●スウェーデンボルイとヘレン・ケラー ご存知だと思いますが、彼がキリスト教神秘主義者であることを押さえておきましょう。神秘主義(神秘体験)というのは、瞑想などによって宇宙と一体化したことを感じる(仏教の神秘体験)http://www.jingoji.org/Faq-1.htm やキリストと同化したと感じる(キリスト教神秘主義)などが有名ですが、 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E7%A7%98%E4%B8%BB%E7%BE%A9 両者ともに同じようなイメージを体感しているのが特徴です。 あと、蛇足になりますが宇宙飛行士にもこのような体験があるようです。 (面白いので貼っておきます。)http://swedenborgian.hp.infoseek.co.jp/astr.htm ★前の回答者さまが麻原彰晃氏を例にあげていましたが、確かに彼も神秘体験をしたといい、そうしてつかんだ『真理』によって教祖になりました。 では、神秘体験すべてが胡散臭いものかというと、似たような体験が多宗教で報告されていることから一概に否定できないものだとわかります。にもかかわらず私達が受け入れる事に戸惑いを覚えるのは、その多くが確かめようがないからです。 では、ヘレンはどう捉えていたかというと、『わたしの宗教』のなかで、このように語っています。 ~~私は図書室に半時間静かに座っていた。わたしは先生(サリバン女史)に向き直って言った、『とっても妙なことが起こりましたのよ。わたしはずっと今まで遠い所にいたの。でも室ははなれなかったわ』…『わたしはアテネにいたの。』~~(pp33~34) ●つまり、彼女も神秘体験をしていた。そして、彼女の体験イメージはウェーデンボルグのそれと共感できるものだったのだと思います。 *『わたしの宗教』は今拾い読みしている程度です。 ★神学否定について エマニエル・スェーデンボルグは学者として、経済人として、思想家として比類なき偉大な人物ですが、保守的なキリスト教世界から見れば異端です。 彼らにしてみれば、この新解釈を認めることはすなわち自己否定につながりますからこれはしょうがない事でもあります。 そこで彼の信仰者であるヘレンは、ボルグを理解するのに障害となる教義(神学)を否定しているようです。 ヘレンは細かい指摘をしていますが、根本的にどうにもならないのは、 三位一体と偶像礼拝です。 少し読んだ限りですが、彼女が持つキリスト教の普遍的な福音のイメージは若い時(楽天主義)から変わっていないように思います。  しかし、当時のアメリカでも多宗教が(ここではキリスト教の他宗を指す)の聖書解釈の違いから争ったりしていました。  彼女の憤りは、神学に拘って本質を見失っている当時のキリスト教世界全体に向けられているように思います。  ですから、カトリック・プロテスタントといった括りの『神学』を理解しなくても、仏教と重ね合わせて(日蓮正宗と他宗の関係とか)イメージすればそれで良いのじゃないかと思います。 **おかげで、押入れで眠っていた『わたしの宗教』を読む機会が出来ました。感謝します。 ◆『新共同訳』=『聖書 新共同訳』です。 カトリックとプロテスタントが協力して訳した日本語聖書です。 旧訳もちゃんと載ってますし、読みやすいです。  他にもリビングバイブルとか読みやすいものもあるのですが、これだと意地悪なクリスチャンに意見をいった時に鼻であしらわれる事もあり(^^; 一冊目で済ませるならちゃんとしたもののほうが良いです。 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4820212028/qid%3D1125500731/249-9398072-4927521#product-details

Syo-ya
質問者

お礼

ありがとうございます。 私もスウェーデン・ボルグについては神秘系の入り口から知っていました。 そして今ヘレン・ケラーと一本の線でつながってきたというところです。 瞑想は私も南アジア圏に伝わる伝統仏教(上座部仏教)のヴィパッサナー瞑想をやっています。 これはお釈迦さまが悟りを開いたときの瞑想法と言われています。 「縁起」も「無常」も仏教の教えのほとんどが、この瞑想により我々も追体験できます。 宇宙飛行士の話も興味深いので、これからユックリ拝見させていただきます。 ちなみに中国の気功法の中に乗馬スタイルでただ立つだけの立禅がありますが、その姿が、毛利さんが宇宙空間で立ち寝しているときの姿そのものなんです。立禅というのも瞑想と言い換えてもいいですから、とても、不思議なつながりを感じます。 ですから、私はむしろ神秘体験肯定派なんです。 ヘレンの「私の宗教」の神秘体験の話も興味深いですね(必ず読みます) 私がヘレンを素晴らしいと想うのは、身体的な「無明」を”正しい教育”によって晴らし、さらには心の「無明」までもを晴らしたのではないかと想うからです。その彼女の実体験・実感に基づいて選んだのがボルグであるというところがいいんです。 >>彼女の体験イメージはウェーデンボルグのそれと共感できるものだったのだと思います まさにこの一言に尽きると想います。 >>彼女の憤りは、神学に拘って本質を見失っている当時のキリスト教世界全体に なるほどです。 >>カトリック・プロテスタントといった括りの『神学』を理解しなくても 一口に「神学」といっても、かなり奥が深そうですね。 出来れば避けて通りたいですが、ケン・スミスだけに感化されるというのも情けない話なので(^^)、少しは踏み込んで勉強しないといけないかも知れませんね。 それにしても、腰が引けますが・・・(苦笑 >>カトリックとプロテスタントが協力して訳した日本語聖書です。 なるほどです。是非、読んでみたいと想います。 今回は的を射ない質問に丁寧にお付き合いくださり、本当にありがとうございました。m(_ _)m

  • nicodemo
  • ベストアンサー率54% (38/70)
回答No.9

Syo-yaさん こんにちは さてさて >ケン・スミスの「誰も教えてくれない聖書の読み方」という本についてどのような感想をお持ちでしょうか?  ●すみません、まだこの本読んでないのです。また、前回の『楽天主義』の抜粋は私が書いたものですが、昔ある教徒さんに紹介した文を転用したのでおかしな表現があります。お許しください。(^^; この辺のところは、字数制限を気にして触れられなかったのでやきもきさせたら申し訳ありません。 ●「誰も教えてくれない聖書の読み方」についてちょっと内容を調べてみました。 http://cruel.org/books/bibleguide/biblenote.html http://www.yamdas.org/bmm/books/guide.html http://www006.upp.so-net.ne.jp/ott/bookreview13.htm 私が拝見できた範囲での判断ですが、根拠に基づいたまっとうな批判本??だと思います。 私も耳にしたことがある批判がたくさん書いてありました。(^^; ただ、読むにあたって二つほど問題点を認識する必要があると考えます。 (1) 将来、クリスチャンになる可能性があるのであればオススメしません。(質問者様は問題なしですね。多分)っていうか手遅れかも (2) これは聖書のガイドであって、完璧な解説ではないし、あくまでひとつの解釈であるので、実際に聖書を読んで、対比して読み解く必要があるという事。 * もし『聖書』をお持ちでなければ私のオススメは『新共同訳』です。 ★キリスト教批判本について http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4062723123/qid%3D1121387867/249-1578808-3130729 たとえば上記は「すべての神は死んだ・・・」などで名高いニーチェによる元祖批判本です。読んでいくと非常に面白いのですが、現在でその批判がすべて通用するかというとそうでもないようです。 クリスチャンの方でも、この本を読んで過去の問題点を認識して信仰を深めている方もいるようです。  ケン・スミス氏の批判もなるほどと思うところがあり(拝見した範囲では)、それなりに説得力のあるもののように思います。 とはいえ一冊の批判本を根拠に枠に当てはめるのは危険であり、ほかにもいろいろな本や世界史、他宗教などと比較する必要があると思うのです。 結論は聖書を通読して各人が答えを出すしかないと思います。その意味でも、キリスト教世界を実際に理解するためには教会へ出かけるのも一興だと思います。 回答者様の中にもおられるように、キリスト教は広めてナンボの信仰なので、『知的好奇心から知りたい。』と正直にいえば歓迎してくれます。 スェーデンボルグとヘレンが言及した『神学』については後ほどまた投稿しましょう。

Syo-ya
質問者

お礼

丁寧な回答ありがとうございます。 つまりは批判本も、真面目本も、すべて解釈次第ということのようですね。 私はガチガチの仏教人間なので、キリスト教を信仰することはありえないのですが、たまに光る言葉を発見しますので概念として抑えておきたと想ったんです。 憲法9条のようなものなんでしょうか。。。。 例えば、民族派右翼は9条を廃止せよとうたいます。 一つの条文に対して様々に解釈・見解が分かれて、また時代性も伴っているんでしょうか? そして、それぞれが攻撃しあっているといったニュアンスでよろしいでしょうか。 せめて基本を抑えておきたいのですが、基本が解釈次第というのも困ったものですね。 日蓮各宗に近いものを感じます。 ご紹介の『新共同訳』も、読んでみたいと想います。 ちなみに、この本は、どういうスタンスの本なのでしょうか?

  • ZeroFight
  • ベストアンサー率15% (30/189)
回答No.8

スウェーデンボルグとケン・スミスなんて、どちらも極端ですね。スウェーデンボルグは、キリスト教思想家ではありますが、オカルト思想家として、扱われる方が多いです。ケン・スミスの方は、オカルト退治の人ですね。麻原彰晃の本と、有田芳生氏の本を読んで、仏教を理解しようとするようなもので、混乱するのは当然です。 キリスト教の巨大な広がりを、わかりやすく解説し、整理してくれる良書があります。講談社から出ている、竹下節子氏の『知の教科書キリスト教』という本です。本筋をちゃんと押さえている上に、キリスト教2000年の歴史の中で出てきた、いろいろなゲテモノ思想にも、触れています。 最後のブックガイドは、基本的な本を親切に紹介していて、それだけでも、価値があります。

Syo-ya
質問者

お礼

>>麻原彰晃の本と、有田芳生氏の本を いや、笑ってしまいました。(^^ でも、両者ともに、(おそらく)厳格な神学を否定しているんです。 だから、その否定の対象となっているものの正体というか、思想が知りたかったのです。 ご紹介の本は、まさに私の地図になってくれそうですね。 早速、読みたいと想います。 ありがとうございました。

  • tanita530
  • ベストアンサー率19% (9/47)
回答No.7

>よく人間は罪人であるから神と和解しないさい この答えは私がNO6で答えましたが、もう一度簡単に説明します。 神は人間を含め、この世界とすべてのものを造られました。しかし、人間は神の命令に背き人間に罪が入ってきてしまいました。 そのために神は正しい義なるお方であるゆえに罪人となった人間の罪を裁き地獄へ投げ入れなければならなくなってしまいました。しかし、神は愛であるゆえに 人間を地獄へ投げ入れるのではなく人間の罪を赦して天国へ行く道を開いたのです。 それは神が私たち人間と同じ姿をとってこの地上に生まれ、そのイエスキリストが十字架にかかって死に3日目に復活することによって人間の罪を完全に赦し天国へ行く道を開いたということなのです。 これが神と和解するということです。 つまり人間が罪人となってしまったために神と人間は断絶してしまったのです。その断絶をイエスキリストの十字架と復活が和解へと変えたのです。 >信じるものだけが救われる どうして信じるものだけが救われるのかというとこの神が人間に与えた天国への道は神が人間に与えた自由意志によって人間がそのことを心から信じて受け取ったときに有効になるからです。 「神はいない。」「死んだら終わり。」「天国なんかないんだから行きたくもないし行く必要もない。」などこのように考える人に神は救いを与えることはできません。 信じるものだけを救い、信じないものは救わない。ひどい神だという人がいます。しかし、神はすべての人間に救いの道を開いています。しかし、それを信じなければ救いを受け取ることができないのです。それは自由意志を与えられている人間の責任です。神が悪いのではありません。 >これはキリスト教全般に当てはまる考え方なのでしょうか?またはある時代の偏った考え方だったのでしょうか?また、現在でも、キリスト教というのは、全般的にこういう考え方がベースなのでしょうか? それともある一派特有の考え方なのでしょうか? 私がNO6で書いたことはキリスト教で聖書が語っている人間に対する救いです。しかし、これとは違った教えを語っている教会があることも事実です。 しかし、命をかけてクリスチャンが世界中に伝えてきた聖書の教えが何かということをぜひ知ってください。

参考URL:
http://www.al-pha.com/fp/seisho/seishoindex.htm
Syo-ya
質問者

お礼

再度の投稿ありがとございます。 参考にさせていただきます。

  • tanita530
  • ベストアンサー率19% (9/47)
回答No.6

日本には八百万(やおよろず)の神といってたくさんの神々があるといわれていますが、日本人が神ということばを使ったときには、あまりにも神という概念がばらばらです。 もし、神が本当に存在するならそれは人間が造った神ではなく、もともと存在し(だれかが造ったものならそれは神ではありません。)天地万物を創造し、無から有を作り出せるからこそ神なのです。神は唯一(ただひとり)であり何でも出来る方ですからたくさん存在する必要はなく、すべてのことを知っておられ、どこにでも存在され、正しいお方で、完全な聖さをもっておられ、義なるお方で永遠から永遠に存在される愛なるお方です。 このことをまず知っておいてください。 神様は最初にアダムという男性を創造し、次にエバという女性を造りました。その時は人間に罪は全くありませんでした。 神様は、最初アダムとエバをエデンの園という庭に住まわせていました。どんなことをしてもよかったのですが、たった一つだけ「この園の中央にある善悪を知る木の実だけは食べてはならない」という命令をだしました。それは、人間をロボットに造らなかったという証拠でもありました。つまり、人間に自由意志を与え、人間との間に愛を存在させたかったのです。 しかし、悪魔に化けたへびに誘惑されたアダムとエバはその命令を破り、その木の実を取って食べてしまいました。そのために人間は罪人となりエデンの園を追放され、人間は必ず死ななければならなくなってしまいました。 これがキリスト教でいう人間が原罪をもって生まれてくる理由です。この原罪というのは、人を殺すとかお金を盗むなどの警察に捕まってしまうような罪だけをいうのではなく、心の中で「あいつなんていなければいい」とか、「あいつなんて死んでしまえばいい」などど思うこともその罪に含まれます。うそをつくことも罪です。つまり、人間として生まれたならばすべての人間が罪人であると宣告されているのです。 しかし神様は、きよい正しいお方であり義なるお方ですから、その人間の罪を罪として罰しなければならないのです。 その結果、すべての人間は地獄に投げ入れられてしまうはずでした。 しかし、人間を愛している神はその地獄に投げ入れてしまう人間を救う道を開いたのです。 その方法は人間に「いい人間になりなさい」「修行をして罪のない人間になりなさい」 「いいことをたくさんしなさい」という命令を出すことではありませんでした。そんな命令を出したところで人間は修行やいい行いをたくさんすることによっては罪のない人間になることは不可能だということを知っていたからです。 そこで、神は自分のひとり子であるイエスキリストをこの地上に誕生させ、全人類のすべての人間の罪の刑罰を負わせて十字架にかけて死なせ3日後に復活させることにより人間のすべての罪を完全に赦し天国へ連れて行く道を開いたのです。 イエスキリストは何の罪も犯さず一回もウソを言ったこともありませんでした。 十字架にかかって殺されようとしたときにイエスキリストは自分が無実であることを叫びませんでした。 ほふり場に引かれていく子羊のように何も言わず、自分がかかる十字架をかついで処刑されるべき場所へと歩いていき、十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのかわからないのです。」と祈りました。 私たち人間は無実で十字架にかけられているときに、自分を殺そうとしている人に対してこのように言うことはできません。 しかしイエスキリストはそのように言って十字架の上で息を引き取りました。しかし3日目に復活しました。 それは、イエスキリストが神のひとり子であったという証拠です。3日後に復活したのも彼が神のひとり子であったからできたことなのです。 イエスキリストは私たちを命をかけて愛し私たち人間の罪の刑罰を身に受けて十字架にかかって死に天国への道を開いてくださったのです。 そのことを自分のこととして信じる者はすべての罪を赦され天国へ行けます。しかし信じないものはその罪が裁かれ地獄へ行かなければなりません。クリスチャンはイエスキリストの道徳的な教えを信じているのではなく、十字架と復活を信じているのです。 イエスキリストの十字架と復活がなければキリスト教は存在しませんでした。 このことはすべて聖書に書かれています。 聖書は毎年毎年世界中の多くの国の人々に読まれ何年たっても世界のベストセラーです。しかしクリスチャンと同様、聖書ほど迫害を受けてきた書物はありません。ローマ時代の初期には王がクリスチャンを迫害して殺してしまうと同時に聖書も全部焼き払えという命令が出され聖書は全部焼かれてしまいました。 しかしどんなに人間がクリスチャンを迫害し殺しても聖書を焼き払ってもクリスチャンはこの世界からいなくなることはなかったし、聖書もこの世界からなくなることは決してなかったどころか世界中のほとんどの言語に翻訳され読まれ本当の救いと喜びと希望を与え続けているのです。

参考URL:
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/8610/
Syo-ya
質問者

お礼

なるほど・・・・!、これが幾万もの民の上に呪いを降り注ぎ、「神の言葉」を呪いの言葉に代え、無学な人々の弱みや、軽信性・妄信性に付け込んだ教え・・・・ということなんですね。(納得です、これは酷い) でも、せっかくの投稿なのですが、tanita530さまの投稿は、今回の私の質問の主意とは、あきらかに脱線していると想われます。 長文で投稿していただいたことには感謝いたします。

  • nicodemo
  • ベストアンサー率54% (38/70)
回答No.5

★ヘレン・ケラーとスウェーデンボルイの関係を理解するのであれば、初期の彼女の書籍が参考になるかもしれません。 ヘレンの信仰は、最初の自伝や『楽天主義 OPTIMISM』で語られています。 (最近、日本語版が出ていますのでまだお読みでなければ読んでみて下さい。) 22~23才に書かれたものですが、キリスト教の救いと赦しを受け入れる純粋な姿勢が伝わってきます。この時代にもスウェーデンボルイに触れていたようですが、いまひとつのめり込めなかったように最初の自伝に記されています。 ●聖書と楽天主義(ヘレン・ケラー) 制約付の条件から浮かんだのはヘレン・ケラーです。彼女は、最初の自伝の中で、聖書に小さな頃から(字が読めるようになってから)親しんできた事を告白し、何年も聖書を読むうちに、喜びと感銘は深まるばかり。私にとって特別な愛読書だ。と述べています。 しかしながら、彼女の語る福音は極めてシンプルです。 彼女は最初の信仰の導き手になったブルックス主教に次のような言葉をもらい、彼の死をこの偉大な真理を実証する見事な人生だったと述べていますので、この主教の言葉を紹介しましょう。 「ヘレン、普遍的な宗教はひとつしかない。それは『愛』という名の宗教だ。心と魂の奥底から、天なる父を愛しなさい。神の子どもすべてを全力で愛しなさい。そして、善の力は悪の力よりも強いのだということを忘れないように。そうすれば、天国の鍵はあなたのものだ。」 ~人を自由にし、高めるすべてものに、  人を謙虚にさせ、やさしい心にし、慰めるすべてのものの中に神がある。~ ヘレンは次のようにも語っています。主教は、宗教上の教えや教義はとりたてて教えてくれなかったが、 私の心にふたつの重要な考えを吹き込んでくれた。 「神は父であり、人間は兄弟である。」この真理はあらゆる教え、あらゆる信仰の土台になっている。神とは愛であり、父であり、人間は神の子どもだ。だから・・・たとえ正義が踏みにじられることがあっても、悪が勝利することは決してない」と。 また、同時期に書かれたOPTIMISM(楽天主義)では、このようにも語っています。 「イエスが説き、パウロが伝えたものは、平和の福音であり道理の福音である。理想と愛の信仰である。」 私の楽天主義の信条 ●私は神を信じ、人を信じる。また、精神の力を信じる ●私は、自己および他人を鼓舞奨励すること、そして神の世界に対し、不幸という言葉を発しないことを神聖な義務であると信じている。 ●なぜならば、神が善くつくり、多くの人が善くしようと望んで努力してきたこの宇宙について、いかなる人間であれ、嘆息する権利を持たないからである。 ●私は、いかなる人間にも、他人の疾苦艱難を座視して、自分ひとりが安楽な生を貪ることのない、幸福な時代に近づけようと活動すべき責務があることを信じている。 *これらは、彼女が大学在学中22~23才に書いたものであり、この後も彼女は宗教的模索を続け、スェーデンボルイ等に影響されてゆきますが、この時点で彼女の感じた福音の骨子を紹介するにとどめておきます。 ★★既にご存知であればごめんなさい。

Syo-ya
質問者

お礼

まさか、こちらでヘレンケラーの話が伺えるとは想ってもみませんでした。感激です。^^ 楽天主義はまだ読んでいないので、とても興味が湧きました。 しかし、やはりある程度キリスト教の概念について把握していないと深く読み解くことは難しそうですね。まだまだ頭の中に地図が描けていないので、すんなりとは読めません。 ところで回答者さまは読書が趣味ということですが、ケン・スミスの「誰も教えてくれない聖書の読み方」という本についてどのような感想をお持ちでしょうか?  もし同書をご存知でしたらお聞かいただけるとありがたいです。 本当にありがとうございました。

  • chironero
  • ベストアンサー率11% (23/200)
回答No.4

 キリスト教を学問的に知りたいのか、又は、信仰として受け入れたいのか、に依って学ぶ方向が自ずと違ってくると考えます。  前者の場合でしたらnicodenoさんのアドバイスを受け入れられる事をお勧めします。  後者の場合でしたら(出来ればいろいろな宗派の)教会を訪問し、礼拝や、信者の集いに参加、ご自分の目で確かめて見ては如何ですか。  

Syo-ya
質問者

お礼

学問というほどでもないですが、知識欲求があるというレベルです。信仰ではありません。 アドバイスありがとうございます。

  • nacam
  • ベストアンサー率36% (1238/3398)
回答No.2

キリスト教と言っても、色々な宗派があります。 十字架を拒否する宗派も有ります。 マリア信仰を拒否する宗派もあります。 旧約聖書を聖書として認めない宗派も有ります。 キリストは、神であったとする宗派が有る一方、キリストは人間だったとする宗派もあります。 牧師や神父といった聖職者を認めていない宗派もあります。 色々な考え方が有りますので、統一された神学は、ありません。 各宗派ごとの神学はありますが。

Syo-ya
質問者

お礼

なるほど、そんなに枝分かれしているのですか・・・・ 愕然です。。。 参考になりました。 ありがとうございました。

  • K-1
  • ベストアンサー率21% (832/3844)
回答No.1

何を聞きたいのか整理してからのほうがいいとおもいます。 質問内容がさっぱりです。

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