キリスト史観は終えられてあたらしい世界へと。

このQ&Aのポイント
  • イエス・キリストはモーセやアブラハムより先にいた。
  • ヨハネ福音はキリスト・イエスについて語り、マタイ福音はイエスの言葉だけを語っている。
  • キリスト史観はメシアを待望する歴史であり、キリスト・イエスの正体は死後に初めて分かった。
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キリスト史観は 終えられて あたらしい世界へと。

 1. イエス・キリストは モーセやアブラハムより先にいた。   ▲ (ヨハネによる福音 1:1-5 ) ~~~~~~~    はじめに ことばがあった。   ことばは かみとともにあった。   ことばは かみであった。   このことばは はじめにかみとともにあった。   すべてのものは ことばによって成った。   成ったもので、ことばによらずに成ったものは何一つなかった。   ことばの内に いのちがあった。   いのちは 人を照らすひかりであった。   ひかりは 暗闇のなかでかがやいている。   くらやみは ひかりをとらえ得なかった。   ▲ (マタイによる福音書 13:16-17) ~~~~~   16:しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。    あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。   17:はっきり言っておく。    多くの預言者や正しい人たちは、    あなたがたが見ているものを見たかったが、    見ることができず、    あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、    聞けなかったのである。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    2. つまり ヨハネ福音のほうは キリスト・イエスについて語っており マタイのほうはイエスがみづから語った言葉です。  3. これにしたがうと イエスは キリストなる神として モーセやアブラハム(=《預言者や正しい人たち》)よりも前にいたことになります。    4. その正否をうんぬんする前に すべては表現の問題であるというようなかたちでここでは扱います。その表現の歴史としてでも 世界は動いて来たと見るひとつの主題です。  5. すなわち キリスト・イエスを俟ちのぞみつづけた歴史。これをメシアを待望するという恰好のキリスト史観と名づけます。    6. さて そのアブラハムからの二千年ほどの歴史は 別の質問で取り上げていますので措いておきますが たとえばイエスの時代において ペテロを初めとする弟子たちも イエスがメシアだとは分からなかった。という問題があります。  7. イエスが十字架上に去って行ったあと初めて かれがキリスト・イエスだと分かった。イエスが捕らえられたときには 自分たちは逃げ去ったほどでした。  8. 生前には――イエスはみづからが神の子であると自称さえしていたが―― ペテロらは 分からなかった。口では言っていたが 《虚構――イエスの大嘘――》を捉え得なかった。この問題です。  9. それは 次の聖句を引き合いに出して説明されるようです。   ▲ (出エジプト記 33:21-23) ~~~~~   21: 更に、主は言われた。     「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。     あなたはその岩のそばに立ちなさい。   22: わが栄光が通り過ぎるとき、     わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、     わたしが通り過ぎるまで、     わたしの手であなたを覆う。   23: わたしが手を離すとき、     あなたはわたしの後ろを見るが、     わたしの顔は見えない。」   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  10. つまり 生前のイエスについては 弟子たちの目は覆われており イエスの正体が分からなかった。死後やっと キリストの背面を見ることが出来た。《顔――神なる真理そのもの――》は 見えない。と。      11. でも キリスト史観は 成就した。と――言うなれば《ことばの民》なる民族にとっては ことば・ことば・ことば・・・として歴史が推移するというかのように――捉えられているものと考えられます。    12. この虚構が なかなか捨てがたいようだと思われ 受け容れられたのでしょう。どこまで分かったのかを別としても。  13. ことばを《こと(事・言)の端》として捉える民にとっては このキリスト史観をどのようにあつかうのがよいか?   13-1. たぶん 辻褄は合っている。か。   13-2. 二千年ものあいだ 語られたコトバを追って 人びとの歴史がいとな        まれたと言われても こたえようがない。か。  14. といった問題もさることながら――つまり 一応そう触れておいた上で―― ここでは このキリスト史観について それが成就した途端にもうその使命を終えたという見方を持ちます。  15. そうして そのことによって 世界のすべての人びとにとって あたらしい世界を用意した。と考えます。キリスト史観がです。  16. あたらしい世界とは 何か?   17. あえてこの質問ではたたき台を必ずしも用意せず みなさんからいろんな見解をお聞きしたい。否定的な見解もありましょうが どうでしょう?  18. 質問者のひとつの焦点は キリストの背面を人間は見ることが出来たとするのならば そのような《神のうしろ姿》とは どういうことか? です。  19. 神の正面の姿を見ることができる(出来た)と説くシュウキョウの問題もあるかと思いますが・そして質問者としてはそういうふざけた自己表現はもう論外としたいと考えていますが いづれにしましても どうでしょうか?

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回答No.12

Bragelonneさん おはようございます。 朝活中です。限界ぎりぎりで修行に励んでいます。 下記に添付する、横山大観が面白い絵を描いているのを知ったので、bragelonneさんの考察のお礼をお願いします。 https://www.google.co.jp/search?q=%E6%A8%AA%E5%B1%B1%E5%A4%A7%E8%A6%B3%E3%80%80%E8%BF%B7%E5%85%90&biw=1366&bih=651&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ved=0ahUKEwiSu-jp07rQAhULjLwKHUwZDroQsAQIKA#imgrc=bEiWSzC2a6egEM%3A 題名は「迷児」。明治とかけているのと思われます。 背景にいるのは左から、孔子、釈迦、キリスト、老子です。 真ん中にいる子供は日本です。 海外の文化を取り入れて融合することに長けた日本を良く表した絵と思います。 しかし、明治時代から、真ん中にいる、子供は、どのくらい大人に成長したと思いますか? すでに、背景の育ての親はすべて、日本は捨てていると思われます。 Bragelonne哲学が、まだ迷っている迷児(現代日本)の育ての親になるつもりですか? 横山大観は下記のような言葉を言っています。 「富士の名画というものは昔からあまりない。 それは形ばかりうつすからだ。 富士を描くと言うことは、 富士にうつる自分の心を描くことだ。 心とは、ひっきょう人格にほかならぬ。 それはまた気品であり、気魄である。 富士を描くということは、つまり己を描くことである。 己が貧しければ、そこに描かれた富士も貧しい。 富士を描くには理想をもって描かなければならぬ。 私の富士もけっして名画とは思わぬが、 しかし、描くかぎり、 全身全霊をうちこんで描いている。 富士の美しさは季節も時間もえらばぬ。 春夏秋冬、朝昼晩、富士はその時々で姿を変えるが、いついかなる時でも美しい。 いわば無窮の姿だからだ。 私の芸術もその無窮を追う。」 私は、まだまだ修行がたりませんが、bragelonneさんの富士山である、bragelonne 哲学の力量において、お礼をお願いいたします。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 朝活中です。  ☆ りっぱだと思います。特にわたしは 高校生の頃から朝派でしたから。いえ その後は出来ていませんが その思いは強く それを実行している人には 頭が下がります。  さて なんですか。大観ですか。  なんでこんな自己宣伝をしなければならないのか?  画家なら 描いたもので勝負ですよ。評論家みたいなことは 言いっこなし。特に自画自賛になるような場合は。  と思います。  いつもわるいですね。わたしにいぢわる心があることも大いに手伝っていますが それにしてもいつもあなたには苦言を呈しますね。  きょうは ひとつ助言をしてみます。  ★ 限界ぎりぎりで修行に励んでいます。  ☆ もちろん以前から 修行の話は聞いていますし そのことに何の反対もありません。これも りっぱなことです。  と同時に なぜわたしが苦言を呈することが多いのかと考えてみますと それは この《修行の身》だという現実と思いが 影響しているのかも分かりません。  どういうことか?  修行はするのです。修行は修行として目いっぱいやります。    しかも その反面で自己表現は――という意味は このように回答を寄せるときの文章はということですが―― 誇張して言えば 目いっぱい 気取って書くのがよい。のです。あんがい そうなのです。  ウソでも 胸を張って文章を書いてみる。  つまり くれぐれも重ねて述べますが 修行をしているという現実を変えることはいっさいしません。  地道な努力とそしてその基礎の上におこなう自己表現は 常識に反して けっきょく《偉そうに》書くのがあんがいよいのです。  こういった助言です。  そのツテで言えば わざと極論するなら 大観 何するものぞ! といった視点を持ち その姿勢をも文章に表わしてよい。こう考えます。  さらに同じくその延長線上には 孔子・老子が どうした? とか あるいは ゴータマ・ブッダだって? あのペテン師か? でいいんです。  イエスは 大嘘つきです。キリストは 想定じょう神ですから それとして扱いますが。  ほかの人間が 日本を捨てたかどうかは知りませんが キリスト・イエスが 捨てるわけがありません。   わが神 わが神 なにゆえわれを見捨てたましや。  は 必ず転調するわけですから。  キリストは そうではないでしょうが わたしは 韓国人を見捨てています。せいぜい おまえたちは気ちがひだと言ってやるのが 慈悲だというものです。  まぁ 全体として いまの――いまのままの――あめんほてぷさんが 人に好かれるということでしょう。  わたしのような法螺吹きは 嫌われます。  まぁ 一面としては 嫌われてなんぼという今の日本の現実の状態があるとも言えるのでしょう。  この両面を捉えて しかるべきあなたの道を さらに問い求めてあゆんで行って欲しい。  では。

その他の回答 (12)

回答No.13

bragelonneさん こんにちは。 さすがに疲労がたまり、疲れて早退してきました。 お礼を読みましたが、そんな大胆な発言を出来る人間でないことは、図書館の書庫に籠るとわかります。 図書館の書庫に眠る、本を書いた、明治から大正、昭和初期くらいの、先人の背中がいかに大きいことか。 気軽に、自分は「努力」している、などという言葉は使えないと思い知らされます。 図書館の書庫に眠る、先生方の視野の深さから、一体どれだけ努力したのかを・・・。 科学が現在ほど発達していない、当時は、明日の飯が食えるかわからず、衛生状態も悪かったので、いつ死ぬかもわからず、必死だったと思われます。 まだまだ、謙虚に修行の日々です。 しかし、これだけ限界まで頑張り、答えを求めて、ぼーっとした状態で書庫に行って、何気なく本を取って、自然に開かれたページに、答えのキーワードとなる文章が載っていることがあります。 嬉しさと恐ろしさを感じます。 これをただの偶然と考えるか、神の啓示と取るか? これが、非思考の庭の秘密かもしれません。 私は、もちろん後者の信じるを選択しますよ。 では、寝ます。

bragelonne
質問者

お礼

 まぁ そういうことになりますかねぇ。  まぁ そういうことなんでしょうねぇ。  もともと 反対していたのではない。のですから。  日本について どう捉えどう扱うかが 前回では抜けていました。  あたかもあなたを 日本人のよさそうな部類を代表するかのような人間のひとりに見立てたような恰好ではありました。  つまり ひと言。  先人の努力とその成果について とうとばれるという思いが自然に湧いて来る。あたまが下がる。  そのとき・そこから こんどはこちらが偉そうに一席ぶつわけです。  それは 表現ということが 相手のある伝達ないし意志疎通といった関係の問題だと見たときには 色濃く目の前に現われて来ます。  《地道な努力》を伝えるのに そのままそれを表出するか。それとも 多少は――色をつけるというよりは――極論するかのように・そして相手に警戒をさせないように えらそぶる文体をも用いる。  相手に こちらがその相手よりは上だと感じさせるのは まづいんです。伝わるものも伝わりづらくなります。  まぁ これは技術的なことのように思えるでしょうけれど 文体の妙というのは あんがい――存在の基礎理論にかかわって―― 重要であるようにわたしは思っています。  要するに 欧米の著者というのが それです。  何も真似することはないのですが 伝わりやすく また後味がわるくならない。  えらそうな文体で書いて ちょうど謙虚さとしてよい加減なのではないか。  こういう問題です。  一考にはあたいすると思うんですがねぇ。  あるいはつまり このような大胆不敵な文体のほうが かえって相手の非思考の庭を開かせるかも分からない。  まぁ だいぶ 言いすぎですが。  ご回答をありがとうございます。  お休み。

回答No.11

ケラケラ。 お遊びだよ。 私が敗者の栄光を全うすると、人間は悪の勝利に酔う。 悪の結社に対して、ポチに餌やりだよ。 人間は神に対して取りすがりという形で懇願し、足を引っ張って地獄に陥れることは人間の正当な性であると主張した。 それに名乗りを上げた神はいまだに悪魔に転落したままだ。 ただ私は気づかれぬまま、人に承認されぬまま、悪魔に救いのしるしを示し和解をなしたという人類の代表を全うしたよ。 残っているのは納得しない人間の人間悪だ。 これ、ポケモンで数年中に悪の結社が認めたら映画化されるね。 ポケモン映画でセレビィが登場した作品に、「幻影の覇者ゾロアーク」というのがある。 とことん暇な時があれば、私の栄光を鑑賞してくれ。 その劇中のセレビィを利用して未来を悪用した社長さんが、ヤマウチ怨霊、イワタ怨霊だ。 故ヤマウチ氏とか言えば世間体はいいが、私は怨霊と表現する。 落とし前がまだなんだよ。 ポケモン映画の主人公のサトシ君は薄汚いきれいごとを言ういい子ちゃんだ。

bragelonne
質問者

お礼

 ううーむ。  過去ぢゃないんのですか。  ご投稿をありがとうございます。

回答No.10

忠告しておくよ。 私の人間嫌いに、あんたの宗教嫌いは等しい。 撤回する方向で賢人を全うしないと、君自身に名誉回復はなく、イエスさんにおせっかいを働く余地もない。 敗者の栄光は美しいんだ。

bragelonne
質問者

お礼

 宗教は オシヘを信じなさい――つまり 鵜呑みにして受け容れなさい――と説くかぎりで 非人間的である。  と言わざるを得ないと思う。  ご回答をありがとうございます。

回答No.9

落書きだよ。 そうさな。 人に語り掛ける言葉。 これ以外に、 神に語り掛ける言葉、 偽りなくそれを明かすのは仏陀の条件だ。 私はいかに懇願しようとも、決して報われることはないという、滅びの確信に取り組んでいるよ。 ありきたりな言葉では、救いの結実を目指していて、持論の撤回のために研究している。 私が人間悪のシンボルとして言及する悪の結社さんの総帥は、ユーチューブでV字開脚の上放尿の動画を公開すればけじめがつくんだが、相変わらず悪の濡れ衣を晴らすことに協力的でないね。 悪を働いたなら、それなりの落とし前は悪のしきたりにのっとってつけるんだ。 君なりに、神は無罪、人間有罪。 この悪の由来にどのように考える? 神様を友達にしていても、私は人間の身分なんでね。 わずらわしい義理のために厄介ごとを請け負っているんだ。

bragelonne
質問者

お礼

 たいていは 誘惑にフラフラつい行く。  慣れっこになると 自分からすすんで誘惑をつくってあそぶ者がいる。  とは思う。  ご回答をありがとうございます。

回答No.8

お礼に返答だよ。 とことん人間嫌いがうかがい知れるであろう私に、年下相手に丁寧だね。 ありがとさん。 あんたの考え方でうかがい知れるところを述べると、イエスで自己を確信したというところを表現しているね。 これはその他のあなたの言い回しで、もはや自分自身で自覚できるんだろうが、イエスの名誉回復を意地でもしておきたいようだね。 自分以外はどうでもいいという圏外にイエスを置くのもいいだろう。 突き放すようにね。 釈迦について君になんだかんだと噛みつかれながら私も意地を張ったことがあった。 まあ、この商売、お互い繁盛しましょうや。 それから日本人キリスト教徒が、呪われたキリシタンの再来かどうかというのを、私自身の経験から君にも検討お勧めするね。 君が君であるための条件の一つになりうる。

bragelonne
質問者

お礼

 元気があたえられる。という問題が ひとつ。  そして 決してシュウキョウではないということ。  こういった問題を さらに明らかにしたい。    単純なんですけれどね。  ご回答をありがとうございます。

  • ferass
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回答No.7

原罪など もともと ないのです」←あっそう・・ で?・・ 無いのなら無いでイイんじゃない? あなたは無いと思う立場の人・・ 俺はあったとする方を信じただけ・・ どちらが正解かは 百年もしない間に解かる事・・

回答No.6

ここまで来ると私にはこたえられないよ。 単なる落書きだよ。 充実して楽しんでいるかい? あんたが引退すると、私はくだらない場所でただ暴れているだけのような不安があってね。

bragelonne
質問者

お礼

 まあまあ ですね。いろんな意味で。  同じ主題を追い求めている部分もあると言わねばならないし。  まぁ 特にないという状態にてですね。  ご回答をありがとうございます。

  • ferass
  • ベストアンサー率0% (0/7)
回答No.5

キリストは原罪を贖う為に来られた・・ 原罪を取り除いた人間が 本来の人間の姿・・ だから 原罪の無い子孫が祖先となり 原罪のある祖先の原罪を取り除き 新生される・・ この事に依り 子孫が祖先に 祖先は子孫になる・・ 簡潔に言えば これだが あなたには「何のこっちゃ?」で 終わる筈

bragelonne
質問者

お礼

 原罪など もともと ないのです。  ヘビを・そしてこのヘビをサタンの問題として 初めに――物語として――出したから その問題をイエスが解消しておく必要もあった。  ただ それだけのことです。  まこと と めぐみ。これが キリスト・イエスの来た目的。  めぐみの上にめぐみが あたえられる。  だから 原罪の贖いは 傍系のことがらです。  ご回答をありがとうございます。

  • ferass
  • ベストアンサー率0% (0/7)
回答No.4

回答を書きこまないのなら 投稿しなければイイ」←書いてもイイが あなたに解かる様な事では無い・・ 新生って 聖書に ちゃんと書いてある・・

  • ferass
  • ベストアンサー率0% (0/7)
回答No.3

現在が過去よりふるくなり 過去が現在よりあたらしくなる?」←誰も そんな事は言ってません・・ 知らないのなら もっと勉強すればイイ・・ 聖書にも ちゃんと書いています

bragelonne
質問者

補足

 回答を書きこまないのなら 投稿しなければイイ・・・

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    (1) イエス・キリストは モーセやアブラハムより先にいた。  ▲ (ヨハネによる福音 1:1-5 ) ~~~~~~~   はじめに ことばがあった。  ことばは かみとともにあった。  ことばは かみであった。  このことばは はじめにかみとともにあった。  すべてのものは ことばによって成った。  成ったもので、ことばによらずに成ったものは何一つなかった。  ことばの内に いのちがあった。  いのちは 人を照らすひかりであった。  ひかりは 暗闇のなかでかがやいている。  くらやみは ひかりをとらえ得なかった。  ▲ (マタイによる福音書 13:16-17) ~~~~~  16:しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。   あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。  17:はっきり言っておく。   多くの預言者や正しい人たちは、   あなたがたが見ているものを見たかったが、   見ることができず、   あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、   聞けなかったのである。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    ☆ ヨハネのほうは キリスト・イエスについて語っており マタイのほうはイエスがみづから語った言葉です。  これにしたがうと イエスは キリストなる神として モーセやアブラハムよりも前にいたことになります。    その正否をうんぬんする前に すべては表現の問題であるというようなかたちです。その表現の歴史としてでも 世界は動いて来たというひとつの主題です。  (2) イエス・キリストを俟ちのぞみつづけた歴史。  アブラハムは 七十歳をすぎているのに この神から――あたかもお告げがあるかのように―― 《故郷の地を去って 行きなさい》と言われ そのようにしました。  その子孫としてモーセは その神に名を尋ねたとき    《〈わたしはある〉 それが わたしである》              (出エジプト記3:14)  という答えを得たと言います。  さらにそのあと 伝えによると ダヰデという人は     《きょう わたしは おまえを生んだ》(詩編2:7)  という言葉を その神から聞いたそうです。  イザヤという人に到っては 《主なる霊が わたしに臨んだ》と表現する歴史に到りました。    これは主がわたしに油を注いで     貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね     わたしを遣わして心の傷める者をいやし     捕らわれ人に放免を告げ・・・(中略)・・・るためである。               (イザヤ書 61:1-3)  (3) 俟ち望まれたキリスト・イエスの登場。  その後 時は飛んで――アブラハムからニ千年でしょうか―― イエスという人が出たというわけです。  イエスが 《自分の育ったナザレに来て いつものとおり安息日に会堂に入り 聖書を朗読しようとして立ち上がった》時のことです。        すると 預言者イザヤの巻き物を渡され 開くと次のように書いてあ   る箇所が目に留まった。      主の霊がわたしに臨み      油をわたしに塗った。      主がわたしを遣わしたのは      貧しい人に福音を伝え      捕らわれ人に解放を・・・告げ知らせるためである。          (つまり イザヤ書61:1-2)    イエスは巻き物を巻き 係りの者に返して席に坐った。会堂の人びと   は皆 イエスに目を注いでいた。そこでイエスは      ――この聖書のことばは 今日 耳を傾けているあなたたちに       実現した。   と話し始めた。         (ルカによる福音4:17-21)  (4) このとき――さらには 十字架上に去って行ったそのときに―― 言わばキリスト史観が完成したと思われます。  神と人間との関係の歴史が――人間のことばによる表現上―― ここまで 及んだのだと捉えられます。  まるで 千年二千年もの時間をかけて ことばをもてあそぶかのように。  (5) 理論としては 存在論である。  《存在》――《わたしは ある(エフイェー)》――をめぐる理論としては これで 完成だと言ってよいのではないでしょうか。  《わたしはわたしである》という自己到来とその自己の自乗(冪)を繰り返す動態。  (6) アブラハムやモーセや ダヰデやイザヤらは このイエスの登場を待っていたと どうして言えるのか?  むしろイエスの退場の仕方に焦点が当てられる。     (α) イエスは磔にされたまま 人間として去って行った。その意味は もし《神の子なら そこから降りて来てみろ》とあざける声を承けて神として十字架から降りて来ていたなら それは神の力による奇蹟であろう。だから そんなことは 人間には出来ないと人びとは思ってしまう。   (β)  けれども人間としてだけではなく 神として去った。その意味は もし人間としてだけならば それは単なるひとりの殊勝なしかも目立ちたがり屋の人間がやったことだ。で済んでしまう。   (γ) つまりその暗闇の中でかがやく光は ただ道徳や信念やあるいは科学としての光に終わってしまう。   (δ) あるいは ひとりの奇特なやからの一編のパーフォーマンス(芸術作品)だと見なされて終わってしまう。   (ε) すなわち確かに闇を照らす理性の光あるいは感性の輝きとして世界を明るくしたかも知れないが そこまでである。闇そのものを晴らすことは出来ない。   (ζ) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあて照らしただけではなく イエスはみづからがキリストなる神として わが心の燈心に火をともすことを成した。   (η) それは 人間にできることではない。神・その霊のみがよく成し得る。と示した。   (θ) しかもこれらすべては 大ウソである。一編の虚構である。   (ι) この虚構が 虚構ゆえにも 世界史上ただひとつの特異点であり核反応である。  (7) ペテロや弟子たちも イエスが去って行ったあと初めて キリスト・イエスだと分かった。  生前には――イエスはみづからが神の子であると自称さえしていたが―― ペテロらは 分からなかった。《虚構――イエスの大嘘――》を捉え得なかった。  ▼ (出エジプト記 33:21-23) ~~~~~~~~~  21: 更に、主は言われた。    「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。    あなたはその岩のそばに立ちなさい。  22: わが栄光が通り過ぎるとき、    わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、    わたしが通り過ぎるまで、    わたしの手であなたを覆う。  23: わたしが手を離すとき、    あなたはわたしの後ろを見るが、    わたしの顔は見えない。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ というふうに 生前のイエスについては 弟子たちの目は覆われており イエスの正体が分からなかった。死後やっと キリストの背面を見ることが出来た。《顔――真理そのもの――》は 見えない。      (8) というふうに 言わば《ことばの民》にとっては ことば・ことば・ことば・・・として歴史が推移すると捉えられているものと考えられます。    この虚構が なかなか 捨てがたいようだと思われ 受け容れられたのでしょう。どこまで分かったのかを別としても。  (9) ことばを《こと(事・言)の端》として捉える民にとっては このキリスト史観をどのようにあつかうのがよいか?  ・ たぶん 辻褄は合っている。か。  ・ 二千年ものあいだ 語られたコトバを追って 人びとの歴史がいとなまれたと言われても こたえようがない。か。  (10) ユダヤから見て異邦人のあいだに このキリスト史観を共有する人間はいるか?  世界は このキリスト史観を受け容れただろうか?  ただしその実質的な内容は 人びとに元気をあたえること。人びとが元気になること これだけである。

  • キリスト史観が成ったんだって!  おおーい! 

    0. 経験合理性から飛躍した思惟があることをお断わりします。 §1. イエス・キリストは モーセやアブラハムより先にいた。 1. 聖書記者の述べるには こうです。 ▲ (ヨハネによる福音 1:1-5 ) ~~~~~~~~~~~ http://bible.salterrae.net/kougo/html/john.html はじめに ことばがあった。 ことばは かみとともにあった。 ことばは かみであった。 このことばは はじめにかみとともにあった。 すべてのものは ことばによって成った。 成ったもので ことばによらずに成ったものは何ひとつなかった。 ことばの内に いのちがあった。 いのちは 人を照らすひかりであった。 ひかりは 暗闇のなかでかがやいている。 くらやみは ひかりをとらえ得なかった。 ▲ (マタイによる福音書 13:16-17) ~~~~~~~~~~ http://bible.salterrae.net/kougo/html/matthew.html イエスは言った。 《・・・ しかし あなたがたの目は見ているから幸いだ。 あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。 はっきり言っておく。 多くの預言者や正しい人たちは あなたがたが見ているものを見たかったが 見ることができず あなたがたが聞いているものを聞きたかったが 聞けなかったのである》。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   2. ヨハネのほうは キリスト・イエスについて語っており マタイのほうはイエスがみづから語った言葉です。これにしたがうと イエスは キリストなる神(《ことばである神の子》)として モーセやアブラハム(《多くの預言者や正しい人たち》)よりも前にいたことになります。   3. その正否をうんぬんする前に すべては表現の問題であるというようなかたちです。その表現の歴史としてでも 世界は動いて来たというひとつの主題です。 §2 イエス・キリストを俟ちのぞみつづけた歴史 4. アブラハムは 七十歳をすぎているのに この神から――あたかもお告げがあるかのように――《故郷の地を去って 行きなさい》と言われ そのようにしました。 5. その子孫としてモーセは その神に名を尋ねたとき    《〈わたしはある〉 それが わたしである》     (エフィエー アシェル エフィエー。)              (出エジプト記 3:14 ) という答えを得たと言います。   6. さらにそのあと 伝えによると ダヰデという人は或る日    《きょう わたしは おまえを生んだ》(詩編 2:7 ) という言葉を その神から聞いたそうです。   7. イザヤという人に到っては 《主なる霊が わたしに臨んだ》と表現する歴史に到りました。    これは主がわたしに油を注いで     貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね     わたしを遣わして心の傷める者をいやし     捕らわれ人に放免を告げ・・・(中略)・・・るためである。               (イザヤ書 61:1-3 ) §3 俟ち望まれたキリスト・イエスの登場。 8. その後 時は飛んで――アブラハムから二千年でしょうか――イエスという人が出たというわけです。 9. イエスが 《自分の育ったナザレに来て いつものとおり安息日に会堂に入り 聖書を朗読しようとして立ち上がった》時のことです。        すると 預言者イザヤの巻き物を渡され 開くと次のように書い    てある箇所が目に留まった。      主の霊がわたしに臨み      油をわたしに塗った。      主がわたしを遣わしたのは      貧しい人に福音を伝え      捕らわれ人に解放を・・・告げ知らせるためである。          (つまり イザヤ書 61:1-2)    イエスは巻き物を巻き 係りの者に返して席に坐った。会堂の人    びとは皆 イエスに目を注いでいた。そこでイエスは      ――この聖書のことばは 今日 耳を傾けているあなたたちに       実現した。    と話し始めた。         (ルカによる福音4:17-21) 10. このとき――さらには十字架上に去って行ったそのときに――言わばキリスト史観が完成したと思われます。 §4 神と人間との関係の歴史が――人間のことばによる表現上――ここまで 及んだのだと捉えられます。   11. それは まるで千年も二千年もの時間をかけて あたかもことばをもてあそぶかのように。 12. そして もし成就したのなら キリスト史観は もうそのイエスまでだと考えられます。あとは 余韻のみではないかと。 13. キリスト史観から オシへを取り出し掲げる神観ないし神学をみちびくのではなく――ましてや その考えるべきオシへを 何を錯乱したか 無条件で受け容れなさい(つまり 信じなさい)と説く組織宗教をでは断じてなく―― 哲学としての神論ないし人間論をかたちづくりたい。 §5 キリスト史観は 理論としては 存在論である。 14. 《存在》――《わたしは ある(エフィエー。 I am. )》――をめぐる理論としては この命題で 完成だと言ってよいのではないでしょうか。 15. 《わたしはわたしである》という自己到来とその――そこから逸れたときにはわれに還るところの――自己還帰すなわち 自己(存在の数として一(いち))の自乗(冪)を繰り返す生活動態。(1^n=1)。 §6 アブラハムやモーセや ダヰデやイザヤらは このイエスの登場を待っていたと どうして言えるのか? 16. むしろイエスの退場の仕方に焦点が当てられる。   (あ) イエスは磔にされたまま 人間として去って行った。その意味は もし《神の子なら そこから降りて来てみろ》とあざける声を承けて神として十字架から降りて来ていたなら それは神の力による奇蹟であろう。だから そんなことは 人間には出来っこないと人びとは思ってしまう。 (い)  けれども人間としてだけではなく 神として去った。その意味は もし人間としてだけならば それは単なるひとりの殊勝なしかも目立ちたがり屋の人間がやったことだ。で済んでしまう。 (う) つまりその暗闇の中でかがやく光は ただ人間のちからとしての道徳や信念やあるいは科学の光に終わってしまう。 (え) あるいはひとりの奇特なやからの一編のパーフォーマンス(芸術作品)だと見なされて終わってしまう。 (お) すなわち確かに闇を照らす理性の光あるいは感性の輝きとして世界を明るくしたかも知れないが そこまでである。闇そのものを晴らすことは出来ない。 (か) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあて照らしただけではなくこれを晴らし イエスはみづからがキリストなる神として わが心の燈心に火をともすことを成した。 (き) それは 人間にできることではない。神・その霊のみがよく成し得る。と示した。 (く) しかもこれらすべては 大ウソである。一編の虚構である。 (け) この虚構が 虚構ゆえにも 世界史上ただひとつの特異点であり核反応である。 §7 ペテロや弟子たちも イエスが去って行ったあと初めてキリスト・イエスだと分かった。 17. 生前には――イエスは みづからが神の子であると自称さえしていたが―― ペテロらは 分からなかった。《虚構――イエスの大嘘――》を捉え得なかった。 18. なぜか? ▲ (出エジプト記 33:21-23) ~~~~~~~~~ 更に、主は言われた。   見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。   あなたはその岩のそばに立ちなさい。   わが栄光が通り過ぎるとき、   わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、   わたしが通り過ぎるまで、   わたしの手であなたを覆う。   わたしが手を離すとき、   あなたはわたしの後ろを見るが、   わたしの顔は見えない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ というふうに 生前のイエスについては 弟子たちの目は覆われており イエスの正体が分からなかった。死後やっと キリストの背面を見ることが出来た。《顔――真理そのもの――》は なお見えない。     §8 あらためて《表現の問題》という問題 19. というふうに 言わば《ことばの民》にとっては ことば・ことば・ことば・・・として歴史が推移すると捉えられているものと考えられます。   20. この虚構が なかなか捨てがたいようだと思われ 受け容れられたのでしょう。どこまで分かったのか・どう解釈されたかを別としても。 21. ことばを《実質である事の単なる端として捉え 言の葉としゃれて表わす民》にとっては このキリスト史観をどのようにあつかうのがよいか? ( a ) たぶん 辻褄は合っている。か。 ( b ) 二千年四千年ものあいだ 語られたコトバを追って 人びとの歴史がいとなまれたと言われても こたえようがない。か。 22. 世界は このキリスト史観を受け容れたのだろうか? ユダヤは イエス・キリストをみとめていない。ヨーロッパ人は あらためてどのように受け容れたのか?  23. ただしその実質的な内容は 人びとに元気をあたえること。人びとが元気になること これだけであると考えられる。俟ち伸びわびた史観が成就したのであるからには あとは すこやかさだけである。

  • 十字架に磔にされたキリストの言葉の正しさと奇蹟

    十字架に磔にされたイエス・キリストの七つの言葉は、正しいのに。 何故、聖書には余計な「キリストの復活」という奇蹟が記述されたのですか? 1>「父よ、彼らを赦して下さい。なぜなら、彼らは何をしているのかわからないからです。」(ルカの福音書23章34節) 2>「アーメン、あなたに言います。あなたは今日私と共にパラダイスにいます」(ルカの福音書23章43節) 3>「ギュナイ、そこにあなたの子がいます」「そこに、あなたの母が」(ヨハネの福音書19章26節-27節) 4>「エロイ・エロイ・レマ・サバクタニ(わが神、わが神、どうして私を見捨てられたのですか。)」(マルコの福音書15章34節)「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」(マタイの福音書27章46節) 5>「私は渇いている(ディフォー)」(ヨハネの福音書19章28節) 6>「終わった(テテレスタイ)」(ヨハネの福音書19章30節) 7>「父よ、私の霊をあなたの手にまかせます」(ルカの福音書23章46節) 私は、十字架に磔にされ死を迎えるイエス・キリストに仏性が働いていたと思うのです。 このことから、イエス・キリストは、人が神の使途であると信じることは、他人から批判されて、罪となると云う事を示しました。 同時に、自らの信仰は人間の幸福の源であると云う事も示しました。 「キリストの復活」の記述は、キリストの言葉の正しさを台無しにしています。 イエス・キリストが示した、自らの信仰による幸福と自由を無にしています。 聖書の奇蹟は、強固な組織を作って、功利主義を導くために記述されたのですか?

  • この世界は わたしたちのものではないのか

     ▲ (ヨハネ福音書15:18~19)~~~~~~~~~~~~   ――・・・世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわた    しを憎んでいたことを覚えなさい。     あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内とし    て愛したはずである。     だが、あなたがたは世に属していない。     わたしがあなたがたを世から選び出した。     だから、世はあなたがたを憎むのである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは かのイエスの言葉です。《イエスに属する者は この世に寄留して 人生をおくり まっとうする》という意味合いになると考えるのですが 果たして それで よいでしょうか?  あるいは つまり  ▲ (ヨハネ福音書1:10-11) ~~~~~~~~~~~~  彼(神の独り子=キリスト・イエス)は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。  彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ とあります。でしたら この世界は 《わたしたちのところ》なのではないでしょうか?  《寄留》という思想は 旧いのではありませんか? どうかおしえてください。

  • イエスの哲学は 《存在》論である。宗教を卒業しよう

     1. アブラム(のちのアブラハム)という人は 或る日 すでに七十歳をすぎているのに 神から――あたかもお告げがあるかのように――      故郷の地を去って 行きなさい。  と言われ そのようにしました。行き先も告げられずに。  2. その子孫としてモーセという男は その神に名を尋ねたとき      《わたしはある》 それが わたしである。     (エフィエー アシェル エフィエー.)  という答えを得たと言います。    3. 伝えによると ダヰデという人は      きょう わたしは おまえを生んだ。  という言葉を その神から聞いたそうです。すでに父母からは生まれているんですけれどねぇ。    4. イザヤという人に到っては 《主なる霊が わたしに臨んだ》と表現する歴史に発展しました。     これは主がわたしに油を注いで      貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね      わたしを遣わして心の傷める者をいやし      捕らわれ人に放免を告げ・・・(中略)・・・るためである。                  (『イザヤ書』61:1-3)  5. その後 さらに時は飛んで イエスという人が出たと言うわけです。  6. イエスが 《自分の育ったナザレに来て いつものとおり安息日に会堂に入り 聖書を朗読しようとして立ち上がった》時のことです。         すると 預言者イザヤの巻き物を渡され 開くと次のように書いてあ     る箇所が目に留まった。       主の霊がわたしに臨み 油をわたしに塗った。       主がわたしを遣わしたのは 貧しい人に福音を伝え        捕らわれ人に解放を・・・告げ知らせるためである。》                   (つまり『イザヤ書』61:1-2)     イエスは巻き物を巻き 係りの者に返して席に坐った。会堂の人びと     は皆 イエスに目を注いでいた。そこでイエスは        ――この聖書のことばは 今日 耳を傾けているあなたたちに        実現した。     と話し始めた。         (ルカ福音4:17-21)  7. 《神と人間――おのおの我れ――とのカカハリ》が――人間の言葉による表現上―― ここまで 及んだのだと捉えます。  8. ひと言で言って 《存在》――《わたしは ある》――をめぐる理論の問題である。そしてこれで 完成だと言ってよいのではないでしょうか。  9. さらにその後 イエスは この存在論の実証をしたと伝えにはあるようです。  10. 十字架上において はりつけになるというコトを みづから欲して そのとおりになったことにおいてだと言います。  11. 生前には かれがユダヤ当局に捕らわれたとき かれを見捨てて逃げた弟子たちも その死後においては かれは 神であったと言い始めたそうです。じっさいイエスは 自分が神だと言っていた。  12. もしかれが 神ではなくただ人間であるだけであったとすれば そのような存在論の実証は もし信念の強い殊勝な人がいれば その限りで誰でも出来ると思われたでしょう。ようやったな 弱い人びとにとって必要があれば また誰かあとに続くだろうとうわさして おしまいである。  13. 存在論は 実証が《完成》していないことになります。アブラハムやモーセらは 自分たちからイザヤらにつらなった存在論の系譜とその言わば悲願は さらに 別の人によって実現するのを待つということになります。  14. もしイエスが 人間ではなく仮りに神であるだけだったとすれば そのままそれは 《うそ》ですから 張り付けの十字架から降りて行って 奇蹟を起こしたということに話は成るのかも分かりません。神のやることはおれたち人間には関係ねえよで おしまいとなります。  15. 父ヨハネと母マリアから生まれた人間であると同時に 聖霊によって身ごもった子つまりキリストと呼ばれる神の子でありみづからも神であると言うというところに その歴史的な一大事件としての《虚構》があり どうもそこで存在論を実証したのではないか。とうわさされているのかも分かりません。  16. アブラハムから始まった神の信仰は 一たんキリストの登場を俟つというかたちのキリスト史観として承け継がれた。そしてそのキリストが出たからにはこの《時を俟つ》キリスト史観は もう要らない。  17. われらが《存在》の成就である。さまざまな《貧困》の解消が 宗教抜きで成されるという課題が残った。  18. 言いかえると このキリスト・イエスをも 宗教の種にして おのれの支配欲を満たそうというヤカラがいつづけているということだ。  ご批判をどうぞ。

  • この世界は われわれのものではないのか?

     ▲ (ヨハネ福音書 15:18-19 )~~~~~~   ――・・・世があなたがたを憎むなら、     あなたがたを憎む前に     わたしを憎んでいたことを覚えなさい。     あなたがたが世に属していたなら、     世はあなたがたを身内として愛したはずである。     だが、あなたがたは世に属していない。     わたしがあなたがたを世から選び出した。     だから、世はあなたがたを憎むのである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは かのイエスの言葉です。  《イエスに属する者は この世に〈寄留〉して人生をおくり これをまっとうする》といった意味合いになると考えるのですが 果たして それでよいか?  あるいは つまり  ▲ (ヨハネ福音書 1:10-11 ) ~~~  彼(神の独り子=キリスト・イエス)は世にいた。  そして、世は彼によってできたのであるが、  世は彼を知らずにいた。  彼は自分のところにきたのに、  自分の民は彼を受けいれなかった。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ とあります。  でしたら この世界は 《われわれのところ わたしたちの庭》ではないのか?  《寄留》という思想は 旧いのではありませんか?  おしえてください。どう考えればよいか。  何だか 遠慮しているという感じがあります。遠慮は 必要ないのではないか? です。

  • イエス・キリストの言葉について

    新約聖書の「マタイによる福音書 24 15~16」と、「マルコによる福音書 13 14」に、イエス・キリストの言葉として次のように書いてありますが、  「預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら(読者は悟れ)、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。」 この文で、「読者は悟れ」と言う文言も、イエス・キリストが言ったことなのですか?  それとも、「読者は悟れ」というのは、マタイやマルコが書いた文言なのですか?

  • この世界は われわれのものではないのか

     ▲ (ヨハネ福音書15:18~19)~~~   ――・・・世があなたがたを憎むなら、     あなたがたを憎む前に     わたしを憎んでいたことを覚えなさい。     あなたがたが世に属していたなら、     世はあなたがたを身内として愛したはずである。     だが、あなたがたは世に属していない。     わたしがあなたがたを世から選び出した。     だから、世はあなたがたを憎むのである。  ~~~~~~~~  ☆ これは かのイエスの言葉です。  《イエスに属する者は この世に〈寄留〉して人生をおくり これをまっとうする》といった意味合いになると考えるのですが 果たして それでよいか?  あるいは つまり  ▲ (ヨハネ福音書1:10-11) ~~~  彼(神の独り子=キリスト・イエス)は世にいた。  そして、世は彼によってできたのであるが、  世は彼を知らずにいた。  彼は自分のところにきたのに、  自分の民は彼を受けいれなかった。  ~~~~~~~~~  ☆ とあります。  でしたら この世界は 《われわれのところ わたしたちの庭》ではないのか?  《寄留》という思想は 旧いのではありませんか?  おしえてください。どうすればよいか。  質問者の答えは 《人間(現実)が変わる》という・或る種の自然史過程としての・ただし突然変異のごときどんでん返ししか思いつきません。あとは・つまり基本は 生活日常を地道に生きるというかたちにて。

  • イエス・キリストを英語読みでジーザス・クライストと読むのは・・・

    日本のキリスト教で「イエス様」と呼んで馴染みの深いイエス・キリスト。 私も最初はそう言っていましたが、英語の勉強(いまさらだけど。しかもまだ全然出来ない)をするうちに、ジーザス、と言うようになりました。確かにこれでいくと、ヨハネはジョンになるし、ヤコブはジェームス。ペトロはピーター。 ジーザス、というのは誰でもその呼び方でわかっても、「12使徒のピーターが・・・裏切り者になってしまったジュダは・・・マシュ―の福音が・・・」と英語読みで言うと、「誰それ?」となってしまう。(英語を使用している国は別)  それでも私はジーザス、と言っています。しかし教会などにおじゃました時はみなさんイエス様、と呼んでいますので合わせています。  個人的には、ジーザスという響きが一番好き。 しかしこれは良くない?・・・英語で話すときは「THE Gospel According to MATTHEW」で通じますが、日本人同士だと「マシュ―の福音書」ではすごく変なので、通説通りに「マタイの・・・」と言っています。 確かにこれだけばらばらに呼ぶと、「あんた、何語しゃべってんの」と言われても 仕方ないかも・・・全部英語で統一するべきでしょうか。

  • 宗教の歴史

    世界の宗教の発生の歴史や相違について、宗教学の専門書でなく、 判り易い本がありましたら教えて下さい。 「ユダヤ教・キリスト教・イスラム教」と「仏教・ヒンズー教」の どちらか一方のグループだけについて書かれた本でも構いません。 一神教のユダヤ教・キリスト教・イスラム教は同じ神で、宗教の違いは、 預言者の違い(モーセ・イエス・ムハマンド)と聞いています。 イスラム教の5大預言者はモーセ・ノア・アブラハム・イエス・ムハマンドで、 悪魔サタンはイスラム教でシャイターンとか、 仏教のお釈迦様はヒンズー教のヴィシュヌ神の化身とか。 どうぞ宜しくお願い致します。