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単語「基い」に関して

関根正雄訳、ヨブ記 第4章 第19節 いわんや土くれの家に住む者、 その基い塵の上にある者、 衣蛾よりも速やかに絶たれる者をや。 手元の辞典では名詞「基(もと)」、「基(もとい)」があるだけで、単語「基い」は存在しません。こういう原稿が提出され公刊されたについては相応の理由があると思います。次の疑問が解ければ回答の形式には拘りません。 1 「基い」には「モトい」以外の読み方があるのか。 2 形容詞「基い」の存在を認めていると考えるべきか、それとも名詞「基(もとい)」の意味で「基い」の表記を認めていると考えるべきか。 3 2以外に何か解釈できるか。例えば「基塵」と書いて「もといちり」なり「もといぢり」と読ませたいが「きじん」と読まれるのは困るので誤記を承知で「基い塵」とした、といった解釈が成立するか。 出版事情に明るい方の納得の仕方を知りたく思います。何らかの資料を基にした解説を希望します。 よろしくお願いします。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.1

一応、出版業界で校正者をしたことのある者です。 何らかの資料を基にした解説を、ということですが、そういった資料がない上に、「ヨブ記」という書物自体も読んだことがないので推測が混じります。その点をお許しいただけるなら、この回答を読んでいただければと思います。資料もなく推測の答えは要らないということでしたら、無視していただいて結構です。 1.について。 「もとい」以外の読みはないと思います。すべての辞書類を見たわけではないのですが、お示しの文章から「もとい」と読むと推察します。 2.名詞「基(もとい)」の意であると思います。 お示しの文章「その基い塵の上にある者」は、「その基礎(もとい)が、塵の上にあるような者」という意味だと思うからです。 3.「きじん」と読まれるのは困るので誤記を承知で「基い塵」と表記した――と考えられます。ただ、「誤記」と認識していたかどうかは疑問ですが。 現代の国語では「もとい」は普通「基」一字で書きますが、現代の教育を受けていない戦前の人などは、主語とそれ以降が漢字で続くのを嫌がって、今の我々の感覚からいけば「何故こんな送り仮名を?」と思えるような送り仮名つけることは往々にしてあります。 たとえば「われ」も、現在では「我」一字が普通ですが、昔の人は「我れ」と「れ」を送ります。それと同じようなものだと思います。 また、余談ですが、同じ筆者の同じ作品の中でも、たとえば「我」の場合、次に漢字が来る時には「我れ」、次に漢字が来ない場合は「我」としている場合もあります。「我れ行かん」「我は思う」という具合に。 これも、現在の編集の感覚からいけば、統一がとれていないということで嫌われますが、昔はそれでも全く問題はありませんでした。 そういう、昔の感覚の「送り仮名」ということだと思います。 もし今の編集者であれば、「その基、塵の上にある者」と読点を入れるか、「その基が塵の上にある者」と「が」を入れると思うのですが、筆者の表記の好みが優先された結果でしょう。

sono-higurashi
質問者

お礼

実によく理解できました。このご回答を得た今は、原文が散文ならば訳者も >>「その基、塵の上にある者」 と訳出したような気がしてきました。詩の雰囲気を壊したくないとの配慮も加わって読点を入れたくなかったのかもしれません。 大まかな印象ですが昭和30年台以前はかなり自由に、40年台以降はほぼ義務教育の方針に即して表記されている気がします。自由な表記が、ちょろちょろ散見される作品は、その積もりで読むので迷わないのでしょうが、例外的に出てくると判断できなくなってしまいます。 几帳面に項目別に即して答えていただいて恐縮しています。国語はオソロシイ回答も多いので質問文の作り方も難しいのです。関門を作り易いときはよいのですが、今回のように誰でも主観で答えられるときには上手く関所がつくれません。回答権有資格者の免許を差し上げます。嫌でもありましょうが無理にでも受け取って下さいませ。 有り難うございました。またの機会にも是非、よろしくお願いします。

その他の回答 (2)

  • garamond
  • ベストアンサー率53% (1119/2111)
回答No.3

「基」に「もと」の訓があるので、名詞「もとい」を「基い」と表記することに何の不都合もありません。 「もとゐ」は「もと(本/基)」+「ゐ(居)」ですから。

sono-higurashi
質問者

お礼

分かりました。理屈に合っています。 これにて、全ての解釈が出揃ったものと思います。既に寄稿の準備を始めている方があってはいけないので、早くても9時までは締め切らないでおきます。 有り難うございました。またの機会にも是非、よろしくお願いします。

回答No.2

ANo.1です。 一つ追記します。 先の私の回答3.において、 >主語とそれ以降が漢字で続くのを嫌がって…… と書きましたが、それ以外にも、「基」一字だと、「もと」と読むのか「もとい」と読むのか、両方読める可能性があるから、「もとい」と読むのだということを強調して、「い」を付けたという見方もできると思います。 先の回答の最後の方に書いた、「その基、塵の上にある者」「その基が塵の上にある者」は、どちらも「基塵(きじん)」などと読まれない配慮はされていますが、ルビがなければ「もと」と読まれる可能性があります。これを回避した可能性もなきにしもあらず、です。 再度の推測の回答、失礼しました。

sono-higurashi
質問者

お礼

分かりました。「もと」と「もとい」では大違いでしょうから是非にも「もとい」と読ませたい事情は理解できます。原文の意味や日本語としての語呂、文字の醸し出す美観など翻訳特有の苦労が反映しているのかもしれません。 わざわざ丁寧な補足を有り難うございました。

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