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客観はありえない?

今更ですが、 客観というのは「当事者ではない」という単純な意味でしかないのでしょうか。 客観といっても、考えているのは私であり、第三者を装ってみても考えているのはどこまでも私。 私の中で他人が考えてくれているのならわかりますが、それは無理な話なので私が考えているという意味でどこまで行っても主観じゃないでしょうか。 すると、主観を第三者の立場で述べることを客観ということでしょうか。

質問者が選んだベストアンサー

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  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.4

私は物理学者ですが、その立場から考察してみます。 カントが指摘したように、真偽の判断には分析的判断と総合的判断の2種類があるようです。分析的真偽とは例えば数学のように言葉の構造の分析だけて真偽が判るような真偽で、経験による整合性を検証せずに判断出来る真偽です。例えば「『AがBである』が正しいならば、『BでないはAでない』も正しい」などです。一方、総合的真偽は、言葉の論理歴分析だけではその真偽が判らないような真偽で、例えば「この石を離すと下に落ちる」等です。実際、この言質は地上では正しいですが、人工衛星の中では間違いです。ですから、やってみなくてはその真偽を判断することが出来ない。分析的真偽とは違って、言葉やその言葉の間の論理的な整合性をどんなに分析してもその真偽が判らないのが総合的真偽です。 さて、貴方の問いは、分析的な真義としての回答を求めているのか、それとも、総合的な真偽を求めているのか、そこを先ず自分で判断しなくては、議論や論理が空回りしてしまうでしょう。 もし分析的な真偽を問うているのなら、答えは簡単で、先ず「客観」の定義をすれば良いのです。その言葉の定義の中に貴方の経験とは無関係にその回答が既に含まれていますから、それを論理的に分析して定理として明示すれば良いだけです。 しかし私は数学者ではないので、この問いを総合的な真偽に対する質問として受け取りました。その場合、物理学者は「この宇宙は時間と空間と物質で出来た客観的な存在である」との仮説を立ててみます。もちろん、前もって答えの正解が判っていない時に立てる物が仮説ですから、その言質の一つひとつ言葉で表されていることの意味が曖昧模糊としているのは止む終えないことです。しかしこのように一旦仮説が提示さればその言質の論理的整合性や経験的整合性を分析が出来るようになります。そしてその分析の途中で経験や論理との不整合性が見えてきたら、その言葉の定義や論理を自分の都合の良いように改め直したり、言葉の意味のすり替えを何度もして行くうちに、だんだんと、この仮説で言わんとすること意味を、言っている本人が判るようになって来ます。その結果、その仮説の総合的真偽に対して、その判断に確信が持てるようになって来るときがやって来る訳です。 そのように物理学者が議論の途中で定義を変えたり、論理を変えながら発展させて来た物理学の歴史を振りかえって見ると、上で述べた仮説に反する決定的な事象にはまだお目に掛かっていないらしい。だから、上で述べた仮説はどうも正しそうだ、すなわち客観的に存在している物はありそうだとの見解に立っているのが、大半の物理学者の共通意見だと思います。 この質問と関連した質問に関して、私がそこの回答も参考になると思いますので、 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3811480.html の#11も見て下さい。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 確認したいのですが、 客観とは無数にいる第三者からみても同じ結論になりうる理論或いは考え方ということでいいのでしょうか。 逆に主観とは私の経験や知識のみがバックボーンである理論であり考え方でしょうか。 主観から客観へ成長していくようなそんな感じでしょうか。 ちょっと思うところがあって話がそれますが、 言葉や理論は、その発端は人の口を通して世に出て行きますが、考えてみると他人の考えや言葉が理解できるというのも不思議です。 言葉や理論が人という存在とは全く別の存在で、特有の場みたいなものがあるのではないかと思いたくなります。 物理学者の思考方法は哲学者のそれに似ている気がしますね。

その他の回答 (8)

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.9

>主観を第三者の立場で述べることを客観 :とおっしゃるのは基本的に同意しますが、これは何か、我々は所詮金魚鉢の中の金魚にすぎない、とかいったような視点と似ている部分があるような気がします。 面白い視点ではあるし、且つ事実ではあるが実効性を伴なわない、という点で。 個人的には、他者の主観による視点を客観と呼ぶのはどうだろうか、という感想を持ちます。 他者の主観はあくまで他者の主観であって、別の人の客観にはなりえないのではないか、と。 主観する者が現時点での自己を懐疑し、別の視点を模索し、主観の肉付けを行なう、その視点を客観と呼ぶのであって、また、それだからこそ客観視するという視点に意味が出てくるのではないかな、という気がするわけです。 無論、その際に他者の主観を参考にすることはよくあるでしょうが、それは一つのアイテムとしてであって、視点としての客観という位置づけ(あるいは捉え方)が可能かといえばどうなのでしょうか。 前置きが長くなりましたが、客観とは主観を補填(あるいは補強)する(だけの)視点であるように思います。 それ以上は(おっしゃるように)無理ですし、かといって「>第三者の立場で述べる」というほど外部的な視点でもないのではないか、ということになりそうです。  

shift-2007
質問者

お礼

>客観とは主観を補填(あるいは補強)する(だけの)視点 なるほど、いろんな意見があるものですね。 客観とはあくまで自分の中にあるということですね。 ご解答ありがとうございました。

noname#57982
noname#57982
回答No.8

全員に不足のないようにするために、自分の了見を離れて、公平な立場で物事を見るというのが、第三者の視点ではないでしょうか。 自分と、他者と、双方にとって不足のない、パーイーブンな(等しく裁量する)視点、これが、客観性を持った主体の観点だと思います。

shift-2007
質問者

お礼

>客観を持った主体の観点 これはとても難しいですね。ご解答ありがとうございました。

  • magga
  • ベストアンサー率15% (56/359)
回答No.7

データの捏造である思考妄想がない状態が客観ではないでしょうか。 その捏造を破るためテーラワーダ仏教徒たちは瞑想をします。

shift-2007
質問者

お礼

主観にはその人の『思い』が乗っているということですね。 ご回答ありがとうございました。

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.6

#4です。 私は#5さんの回答を読んでいて、なるほどと思いました。多分、貴方が私に対するお礼欄でなさっている確認事項ついては、その#5さんのご意見を咀嚼してみると、それなりの貴方の回答モドキが見えて来るのではないでしょうか。

shift-2007
質問者

お礼

いやー、勉強になりますね。 学生時代では味わえない面白さですね。 今回はお世話になりました。

  • tyr134
  • ベストアンサー率51% (851/1656)
回答No.5

「主観と客観」、または「主体と客体」というのは、認識論をはじめ哲学の世界では昔からある議論の一つですね。 ・客体とは、自分の外にある事物であり、人は「感覚」を通してそれを認識します。 ・主体とは、「自分そのもの」であり、「感覚」を「受け取り」「判断」するモノです。「意識」ともよばれますね。 これについて、哲学的立場も二つにわかれますね。 ・全ては客体であり、「意識」すらも所詮「客体の連鎖反応=物理現象」で説明できるとする立場=「唯物論」 ・人は客体を正しく「認識」することはできず、すべての事物は「主体」が作り出した世界でしかない=「懐疑主義」 で、これを「統合」したのがカントです。 つまり、「人は「空間と時間」の範囲内でしか事物を捉えられず、(神などの)形而上学に属する内容は、どこまでいっても認識出来ない」ってモノです。 で、今の学問では、カントの考えを踏まえた「折半案」的な考えが主流なようです。 1・「感覚」を通して得た事物を、正しく認識し、 2・「主体」によって論理化する というプロセスですね。 1は「観察」と言われる作業です。 2は「論文を書いて発表する」段階ですね。 ただ、現在の科学(特に日本では)では「1」が重視されるため、やたら「科学は客観的でなければならない」と叫ばれますね。 これは、「主体と客体の問題」を無視した言説だろうと思いますね。 例えば、「氷」を温めると「水」になり、さらに温めると「水蒸気」になる。 これは、誰が観ても「真」と判断する「現象」ですね。 この「現象」は「客観的」であると言えると思います。 しかし、「氷を温めると、水の分子と分子の結びつきが・・・」という「論理的な説明」ということになると、「万人が認識できる客観」かというとそうでもなく、頭のいい人が「氷→水→水蒸気」というのを観察して導き出した「理論」でしか無いんですよね。 この「理論」を考え出したのは、あくまでも「科学者の主体」なんです。 だから、この理論は「主観的だ」という事になる。 でも、この「理論」を他の科学者が「真偽」を巡って論争を繰り返します。 で、取り合えず、「反論できないぞ」となったら「真実に近い」として認められます。 つまり、「主観の連鎖反応」として「客観(に近い)」って事になるんですよ。 ただ、社会科学分野なんかでは、「観察」そのものが難しい事が多く、「客観そのものが無い」って意見もあります。 すくなくとも、明確に認識できる「因果律」というかそういのは見つからないだろうと、、、。 でも、一応「客観」というのを「想定」して研究されているのが現状です。 でも、どんなに「観察」しても万人が認識できる現象は限りなく少ないから、いつまで経っても「論争のまま」なんてのもザラですね。 まとめると、自分の外にある事物は客体だけど、それを受け取ったのは主体である「私」で、それを「論理化」したり「判断」するのも「私」。 つまり、「感覚」を通して入ってきた瞬間、「客観」は「主観」になる。 でも、「私の主観」と「私以外の誰かの主観」が一致したらそれは「客観に近い」事になる。 それを進めるのが、「客体を(主観で)論理化し、誰かに反証してもらって、反証出来ない段階で真実に限りなく近い論理として共有化する」というのが、ギリギリできる「客観」では無いかと思います。 つまり、「>私が考えているという意味でどこまで行っても主観」というのは、ある意味正しいんじゃないでしょうか。 で、この「主観の連続体」が「客観」の世界かなと。 「自分を客観的に捉える」というのも、「他人から観た自分」を聞いたり想像したりして自分の今の姿を捉えるってことじゃないでしょうか? 「想像」は主体でも、他人の主体である意見は(自分の外にあるので)客体ですしね。 私も、まだまだ試行錯誤してる段間なので纏まりがなくてすいません。 参考になりましたら、幸いです。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 なるほどです。確認なのですが、 >「主観の連続体」が「客観」の世界 すると、主観と客観の違いは、主張の裏打ちとしてのバックボーン(知識や経験)の量の違いだとも言えるのでしょうか。

  • pastorius
  • ベストアンサー率48% (538/1110)
回答No.3

何物かを観察するということは、対象にぶつかった光子を網膜にある槓体細胞や錐体細胞が捉えて神経細胞で電気信号を送って脳がその電気信号を感知するということですが、たとえば極小の世界では、光子なり電子をぶっつけるとその勢いで対象物がどっかに行ってしまうということが起きるんだそうです。 観察するという行為にはどうしても観察している主体が影響してしまう。 現実の世界で純粋客観というものを発見するのはたぶん不可能で、一般的に言う客観という概念は第三者的な視点という程度でいいんじゃないかと思います。

shift-2007
質問者

お礼

心の世界と物理の世界に通じるところがあるというのも面白いですね。 ご回答ありがとうございました。

  • Reiher
  • ベストアンサー率26% (102/385)
回答No.2

 「完全な客観」というのは神でもない限り無理でしょうね。 故に日常生活で客観といった場合「(当事者でない)第三者の視点」という意味で使われる事が多いかと思います。

shift-2007
質問者

お礼

逆に神が言うところの客観に興味がでますね。 ご回答ありがとうございました。

  • juko7
  • ベストアンサー率38% (296/772)
回答No.1

>すると、主観を第三者の立場で述べることを客観ということでしょうか。 主観を客観的に述べた1人、すなわち客観的な見解の1つに数えても良いのではないでしょうか? 第三者の客観も、第三者的には主観ですよね? う~ん・・・考えれば考える程難しい。この場をお借りして、他回答者様のご意見を参考にさせて頂く所存です。

shift-2007
質問者

お礼

私も困ってしまいます。 ご回答ありがとうございました。

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