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価値の哲学
最近、交換価値とは何か、どうもよく分からない。 価値を主観の側に置く私は、交換により価値が客観化されると言われても、交換の当事者は二人だけ、二人の同意が、客観とはおかしな話です。 交換価値などといわずに「他人の為の使用価値」と表現した方が良さそうな気がしています、しかし、「他人の為の使用価値」と言う言葉は、主観的価値を信じる私にとって、論理的に矛盾しているような気がします。 「他人の為の使用価値」=「商品」 「商品」には、グラシャムの法則が、成り立つのでは? 皆様のご意見をお待ちしています。無益な言い訳は割愛しました。 賞味期限89168時間と66秒
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>問題は、私は結局、一つの事にしか感心がないわけで・・ ご質問の真意を、やっと、酌み始めることができたように思います。具体例ではなく、考え方を述べたいと思います。 比べられるものがこの世に存在するなら、それは何か?こう思えば、存在は全て違うものであり、比べられるものは何一つないように思えます。 ここに、同じ種類の鳥が、二羽いたとします。一方は、もう一方より高く飛びました。しかし、それぞれの鳥は、それぞれの場所を飛んでいるに過ぎないとも言え、どちらが高いなどとは言えない。その理由は、それぞれ固有の空間を有しているからであるともできます。二羽が、同じ空間を有しておればそれこそ高さを比べられないし、それぞれ固有の空間を有していても、比べられません。 飛んだ二羽の高さを比べるには、高さという要素を与えた、第三者が必要です。例えば木。一羽は木の上に、一羽は木の中ほどに。よって、木の上の一羽は、木の中ほどの一羽よりも、高い。 空という空間に、「高さ」という要素を付与すれば、同じようにして、飛ぶ高さを比べることができます。 この考えで、価値について考察すると、 はじめ、価値はそれぞれ固有のものです。二羽が、それぞれ翼を持ち、別々に飛ぶようです。その飛翔の如何を比べることができません。ゆえにそこで、高さを与えられた木のようなメタファーが、価値に対して存在しなければ、価値は比べられません。二羽が飛ぶことを、速さや高さ、色合い、滞空時間、軌跡、など、様々な要素で比べることができるように、価値も、様々な要素で見比べることになります(逆に言えば、様々な要素でしか見比べれない)。一つは量であったり、一つは純度であったり、質(新鮮かどうかなど)であったりします。(文化が重視されれば、そのものがもつ因果(歴史)や、秘密の価値、なども現れてくると思われます。) 物を交換するときには、物の価値が最も高く評価されるところで交換するのがセオリーとされますが、そこは、その物に対し、「高く価値が求められるところ」でもあります。それはいわば、重力場のようなものではないでしょうか。 大家族の人の方が、そうでない人よりも、同じ食糧でも、その「量」を重んじるでしょう。また、同じものなら、それを好む方のほうが、それを高く評価する、つまり重んじます。 又、弱った動物は格好の獲物、と言うように、腹をすかせているものにとって、労力を使わずにそれを得れるのは、より価値の高い行為です。必要なときだけ必要な分を、楽に得るというのは、価値の高い行為といえます。別種の価値(体力)を温存した行為といえるかもしれません。(しかし、楽ばかり求め、体力をずっと使わなければ、その価値(体力)は低下しますが。。いざ体力が必要なときには、直ぐにはその価値を取り戻すことはできません。) 空腹であれ好みであれ、ものは、最も必要とされるところで、価値が最も高く発揮される。 重さで比べた方が有利か、希少価値で比べた方が有利か、質で比べたほうが有利か。種を今食べるのか、それとも蒔くのか。取引を持ちかけるのは、相手の腹がすいてからの方が有利ではないのか? 有利性を考察する故に、意地悪にも、交換相手の弱みを握ることも可能です。弱みは握られないように注意すべき(価値を温存すべき)ですし、持っている強みを自覚していることも有利であると思います。 そして何より、いつでも、交換したり、比べることのできない、無二の価値が、価値の起源で在るという事を知っていることは、随分と楽なことだと思います。 そして改めて、この無二の価値とは何や、という事を考えるなら、鳥は何故飛ぶのか?人は何故良さ(質問されるところの価値)を求めるのか?鳥の飛ぶということはどういうことか?良さって何?そのような問い達が立つだろうと思います。翼の価値を発揮すれば鳥は飛ぶのであり、人のその価値を発揮すれば、良い。女を発揮する、知恵を発揮する、若さを発揮する、勘を発揮する、様々な価値の様態が、人には数えられると思います。それらの価値の総体とは何か?そのような問いも、深く面白いものでしょう。 私が考えれたことはこのようでした。
こんばんわ(^^。 世間と、社会と、自然と、個人とが、質問の中でどのような地位を占めておるのかわからなくなってきましたので、よろしければ、質問の焦点を絞りなおしていただけますでしょうか。 私の考える今のところでは、社会は、自然と同じように容赦のない世界であり、世間は、個人同士が互いに認め合う、容赦のある世界です。 戦争や飢餓といった社会問題は、私やご質問者様の世間には、直接的には属さず、建築偽装問題は、世間と、社会を股にかけて存在しているのではないでしょうか。 そして1としての個人はどこに生きているかというと、社会です。 自然界では、個人を規定する意味がありませんし、孤独だとは言いうるかもしれませんが、ある生命個体を、個人とはいえません。 そして世間では、個性が認められると思います。あそこに住んでる人ってね、ちょっと変わってるのよ、あのひと、いつも明るいですよね、あいつの部屋はうるさい、など。 無二の友人、家族、恋人といったかけがえのない関係は、自然界にも存在しうると思いますが、それは個人的関係とは言いがたいように思います。家族や友人を、個人的な関係とは、呼びにくいでしょう。体裁としては、個人的なお付き合いです、と述べることはあっても、それは体裁、つまり社会に対しての振る舞いに過ぎず、関係の内実を表している言葉ではありません。むしろ、社会に対しては伏せられているものです。 それで、交換価値はどこにあるのかというと、社会においてのそれは流通であり、世間においては交換ですし、近しい者との関係では、当然の贈与(デリダ的無償の贈与)もあるのではないでしょうか。見返りも求めないし、貰った気もしない、という事実です。例えば自分の生家で、その家に住めること、住んでいたことを、住処を与えてもらったとは思わないでしょう?そこに生まれ、一員として暮らしているからです。 私の考えはおおよそこのような感じです。 以下は、私の考える、労働の位置づけについてです。 社会においては労働と呼ばれるものも、世間では仕事、私的には生活の一部、自然界においては、?かな。あえて言うなら、宗教的な意味もそこ、?に含まれるだろうと思います。?に当てはめられる事柄は、人間の意味のようなものと思われます。 猿投山は、なんで猿投山?猿を山に捨てたから?と思って調べたら、ある天皇が、猿を海に捨てたそうです(^^;その捨てられた猿が住んだ山だそう。 うちの近くには、梅林があります。岡本の梅とは聞いたことががございますでしょうか。 岡本の梅とききつつ来てみれば梅の中なる岡本の里、というくらい、梅がたくさんあったのです。明治初期までは。時代の変化からか、宅地造成の際に、ごっそり伐採され、今は公園と山にいくらかが植えられるだけとなったと、聞いています。なんで伐ったんだ!と、後世に生きる私は思ったりもしますが、僕らの後世に続く者も、なんで自然を破壊したんだと、言うのかもしれません。 今も、梅を振興しようという動きが、地域にはあります。 「梅は岡本、桜は吉野、みかん紀の国、栗丹波」と詠われるほど、有名だったのですが、海はエルニド、森はアマゾン、氷河はグリーンランド、などと詠えるのも、今のうちならば、こうしてはおれません。 働くとはどういう意味でしょう。そこには、なんらかの徳性がなければならないのではないかと、私は思うのです。個人的価値観でも、社会的価値観でもなく、第三の要素が召喚されるのでしょう。天秤ではなく、ぐるぐるまわる(循環する)やつが。
お礼
ご回答有難うございます。 そうですね、この質問は、価値から交換についての橋渡しを狙った部分も有ったのですが、例の建築士や現実的な社会事象から少し先走った意図が混在していますね。一旦整理することは、私も賛成です。 問題は、私は結局、一つの事にしか感心がないわけで、このサイトのシステム上、一つの質問は他の質問のために常に遠くへ押しやられてしまいます。同じ質問を何度も繰り返したり、焦点を絞って個別の質問を続けるのも可能ですが、何か別の選択はないものかと思案していたところです。私自身3月末の切りの良い所でやり直そうかと考えていましたが、ご助言を勘案し少し早めに処理することにいたします。 岡本の梅、写真を拝見しました、京都・奈良までは良く行くのですが、 新幹線は地下を通過していますし、六甲山も見てないことになりますね。 何とか機会を作って、自転車散歩を計画しなければならないですね。 猿投山の由来は他にも「サナギ」山容の形体からと「さなぐ」と言う地震に関する事柄との解釈もあるようです、おっと、肝心なことを忘れていました。 現実世界における価値の位置についての確認ですか、 例えば中東情勢の不安定は原油価格の高騰をもたらします(尤も、原油価格の高騰はドルやユーロ等の通貨の評価が低下することにより、金や原油と言った物資に利潤を求める資本の習性も有ります)その結果、我々が日々使用するガソリン対価の一部は、イスラムの原理主義者にも届けられてしまいます。その資金は自爆テロの保障に使われたり、武器の調達に使用されることでしょう。 現実世界は広く、個人の関心には限りがありますから無理も有りませんが、中村元さんは『論理の構造』と言う本の中で「一つの事象に対して、宇宙全体が原因になっている」とまで書いています、「凡我一如」と言ったところでしょうか。 人間の行為に因果関係があるとすれば、 「価値」こそが尤も究明されなければならない対象ではないでしょうか。
デリダはこう言っているようです。 「究極的には、贈与としての贈与は、贈与としてあらわれないのでなければならないーー贈与する者にも、贈与される者にも。」 本年はたいへんお世話になりました。 来年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。
お礼
やゃ、不味い物見ちゃいましたね。 「贈与」は「贈与としてあらわれない」 A=AはA≠Aですか、やはりデリダは難解、 この質問のテーマが「交換」でほっとしています。 こちらこそ、今年も宜しくお願いします。
こんばんは(^^。 年の瀬にお邪魔します。 零れ落ちる何かが、甚大であるというのは私も共感いたします。みんなもそうおもっているのではないかな? 数字で表されるものが、微々たるものよりも僅かなものであって、凡その大切なものは、交換することができない。 幾らかの給料、報酬をもらい、600円のらーめんを食べる。金額で言えば取るに足らないことですが、このラーメンは、600円どころか、金銭に還れない価値を持っています。 そのラーメン屋さんは、かなりあっさりですが、深い味わいを持っており、食べた後の満足感がとてもよく、ゲップなどはけして出ません。 でも、僕んちの近所に開店したばかりの当初は、人気がなく、つぶれるのではないかと心配しておりました。 数年たって、固定客が徐々に増えてきて、経営も安定してきたようです。 店主なりの苦心はあったそうです。味を棄てて、化学調味料を使って、強い刺激を求める現代に合わせるか、どうか、など。結局彼は、それを使わずに、メニューを増やすことで、客層を厚くしました。医食同源だとおっしゃっていました。 ところで、シナジーという語が流行りました。例えば、同時代に生きた、芸術家同士の間では、シナジーが働いています。(ポール・マッカートニーと、ジョン・レノンの間柄は、シナジーと、一言で言いのけてしまえるものでは当然無く、それこそ、甚大なるものをこぼれ落としてしまいますが。それでも、彼らの間には、シナジーがあった(影響しあったことが芸に表れた)でしょう。) 同じ会社の、労働者同士の間でも、シナジーが働いているでしょう。 では、消費者(使う者)と労働者(稼ぐ者)の間に、シナジーは働いているか。 更に言えば、コンビニで、148円と、お茶一本(高いね)を交換するときに、シナジーが働いているか? もし、交換の際に、シナジーが働くなら、零れ落ちた甚大なるなにかを、僅かに回復できるのではないでしょうか。(零れ落ちたからと言って、甚大なる何かが消えたわけではないけれど。) 企業秘密だと言って、隠さなければ、身を守れないという、固着した共同幻想がもしあるのなら、それこそが、本当の不況ではないでしょうか。 偽者は出回り、本物、本当に価値在ることは、隠される。情報の世界でも、物の世界でも。 この不況を脱したいですね。 労働者の本音は、できたら楽して、結果を出したい。 消費者の本音は、良いものを得たい、できたらタダで。 良いものを無償で。それは間違いのない気持ちとして、存在するだろうと思います。 豊かな社会とは、 楽で、良くて、タダ。 なんかこれだけだと、張り合いがなさそうですね。。 気の所為か。。 楽で、良くて、タダで、甲斐(意味)もある。 意味を失ってしまうなら、私には、豊かとは言えそうにありません。 意味を必要としない。それは、何処の次元の話だろうという思いが、頭をよぎります。 意味を求めることの意味深さ、意味に囚われないことの素晴らしさ、意味が在ることの是。 ではでは、ここらあたりで、失礼します(^^。 年の瀬に 浮かべて桃の 花 贈られる 意味ありげ、だけでは仕方ないか。 今の希望が 次に贈られ幸になります。 意味というのはだから、蕾のようなものだから、花開いたときには、現存しないのかもしれません。
お礼
シナジーは、主観的な価値では働きますが、客観化された価値では働きません、なぜなら、客観化された商品の背後に人は居ないのです、居るのは「労働力」という物です。この問題は、ローカル性とグローバル化の対立だけでなく、その「商品」をその「商品」を作った労働者は使わない、つまり、自分の主観的使用価値ではないのです。 例の建築士も自分の家を建てるのに強度計算を偽るでしょうか、逆に頑丈な建物を建てて、自らの能力に満足するのではないでしょうか。 此処から、質問の後半に入れるのですが。 >労働者の本音は、できたら楽して、結果を出したい。 消費者の本音は、良いものを得たい、できたらタダで。 実は、これは違うのです、自分の知り合いや仲間に迷惑をかけて自分だけ楽をして、それで何も気が付かない人は、少ないでしょう。迷惑が自分の知らないところに行けば、それは無視できる、社会の構造もあるのではないでしょうか。遊んで暮らすのにも才能が要ります。 個人を1とし、それ以上でもそれ以下でもない、とする功利主義に対して、ただ、1として満足できる個人など居ないのです。ただ、此れは競争を肯定しますから難しい所ですね。 私の地域に、猿投山があります。 五月になると、麓は桃の花で一面ピンクの絨毯を広げたようで、美しい景色です。 自然と人間の労働のコラボ、桃作りの農家は桃の酒など試作して飲んでいましたから安心です。 それでは、来年も又よろしくお願いします。有難うございました。
無償の行為というものを考えます。 どんなに目に入れるのがしんどい回答にも その愚回答以上のお礼文が返ってくる。 私はそういった種の価値を見出したいと思っています。
お礼
先日の、訳の解らない現象学の本で、デリダの「贈与」を取り上げていました。 「不等価交換を贈与と規定するボードリヤールに対して、デリダは真の贈与においては与えるものが受け取るものの前に現前してはならないと主張する。・・・なぜなら、もし贈与者が現前するなら、被贈与者は感謝と言う交換価値で応答することができるからである。・・・そのようなものが、宗教的象徴以外に存在するかは不明であろう。」 デリダはともかく、哲学にしても経済学にしても、不思議と自然を無視しますね。 「自然」からの万人への平等な贈り物を・・・ まぁ、これ以上は止めて置きます。年も変わることですし。 ご回答者様のお陰で、今年最後の愚痴を書き込め、感謝いたします。 それでは良いお年をお迎えください。
交換が成立するには、双方の同意が必要です。 双方の同意があるには、双方の納得が必要です。 「双方の納得を得るため」に、「釣り合い」というものを思案したのではないでしょうか。 釣り合い(物の価値)を双方で加減し、均衡を求め、交換を成立へと導くのではないかと思います。 つまり、等しい大きさの何かを求めることとは、「釣り合い」では。 「お釣り」というのはここからきているのでしょうかね(^^)? 不当な取引が横行すれば、市場は低迷します。故に求めた、妥当性。 「等しい大きさの何か」は、必要とされて、生まれてきたのでは。 違いだけでは、成り立っていかなかったから、今の形が在ると、私は考えます。 主観も、客観も、共に必要なのでしょう。 ・・・ ところで、私話ですが。 私は、こういったサイトで、長らくいろんな方とお話させていただく機会にありました。私は至らずな話相手でしたが、今はこのように思うに至りました。 疑問を共有し、お互いに意見を交えることは優れた行為だと私は思います。 人は、題を代え、世代を替え、何万年も、途切れることなく対話を続けてきた。 しかし、それは何時までも在るとは限らない。 対話も、生物や宇宙と何も変らぬ宿命を負っている。 故に、それが大切なことであると、知る事ができる。 不完全であるか、回答が優れているか、理解があるかないか、それは根本的な問題にはならない。何かを求めることが、根本的であったとしても。 そう思います。 そう思うようになって、無理をなく、ペースに緩急が付いた様に思います。 また、何かあればどうぞおっしゃってください。 また覗いたときにでも、回答させていただきます。 では(^^)
お礼
ご回答有難うございます、のんびり考え続けることにします。 >「等しい大きさの何か」は、必要とされて、生まれてきたのでは。 そうですね、この事を確認してみたかったのです。常識とは違いますよね。 現代人は生産力から殆ど隔離され、労働により得た「お金」と「商品」を交換する以外には、生活を維持することが出来ません、交換には確かに同意や納得がありますが、この様な構造に規定された、決して平等な立場の交換ではないと言う点も、注意する必要があると考えます。 「等しい大きさの何か」は、要請されたもの、つまり、「神」見たいな物ですかね。 存在していないのに、現に目の前にある!確かに便利です。 ただ、客観化するとは数値化するという意味でとれば、そこで数値化できない何かが零れ落ちたのではないでしょうか、そう言う小さなものが集まって、色々な矛盾が出てくるような気がします。 では(^^)
大変お手数をおかけしたようで、まことに申し訳ございません。 私なりの回答を、できるだけ分かりやすくお伝えしようと心がけたのですが、あせっていたようです。あせらず、少しづつ、互いの理解のために、回答をします。先ほどは、勝手な意見が過ぎました事をお詫びします。私は述べるのが下手なようなので、ゆっくりと熟考し、丁寧に述べる事を心がけましょう。たしか、消費期限もまだ十分に、、 少しづつ、できるだけ丁寧に話をさせていただきますので、分かりにくいところがあれば、どうぞおっしゃってください。おそらくその点は、私が曖昧に考えている点でもあると思うのです。よろしくお願いいたします。 >Aがaを持ち、Bがbを持っている。 互いにaとbを交換する。 此処までは「見えます」以下は、私の想像です。 Aにとっては、b>a Bにとっては、a>b 同じものは想像すら出来ないのです。 私はこう考えました。 じゃあ、足りない分を、足せば、等式が成り立つのではないか? Aにとって、bは、a+アルファの価値(主観)がある。 Bにとって、aは、b+ベータの価値(主観)がある。 ここにA,B両者の価値判断による物、a、b についての二つの式を挙げます。 A者の判断:b=a+a’-----これをA者の物bについての判断式と名づけ、A’とする。 B者の判断:a=b+b’-----これをB者の物aについての判断式と名づけ、B’とする。 B者の、主観を表す式B’の、bに、A者の、物bについての主観的価値判断a+a’を代入すると、 a=a+a’+b’ となる。右辺のaを左辺に移項すると、 0=a’+b’ と言う式が導かれます。 この式を更に、こうします。 -a´=b´ この式の意味は、B者が交換によって得た価値、b´は、交換することで発生する損失のうち、A者がこうむることを許可した損失、-a´に等しい。と言うことであると、私は考えました。 -b´=a´ とした場合は、A者が交換によって得た価値、a´は、交換することで発生する損失のうち、B者がこうむることを許可した損失、-b´に等しい。 A者が損をした分、B者は得をし、B者が損をした分を、A者が得する。 何の変哲もない交換ですが、根本的な交換価値の性質を現していると思います。 私は、経済学を勉強したことがほとんどないので、私が思いつく程度の事は、経済学者も思いついているだろうとは思います。私が、プラスの価値、マイナスの価値というものを考えることを、経済学的考え方とするなら、私の思考が、学問的な思考であったと言うことで、ひとまずは、私の考えれたこととして、ここで述べるに至ったと、ご容赦していただきたいと思います。言わば、素人学問です。方程式も、とても簡単です。 前回、プラスの消費マイナスの消費といったのは、他愛もない当たり前の考えからです。食べ物Vを買って、そのVを食べて病気になったらこりゃマイナスだね。逆に、生活習慣を、自分でできることは自分でする、と言う風に、主観的な生き方に変えて、健康のことなども意識すれば、消費も、自分の一生への投資と言うことで、プラスになるよね。この生活習慣、というものを、社会に当てはめれば、環境を意識すると言うのは、社会の生活習慣をよくするってことかなぁ。循環社会って、そういうことだよなぁ。環境って、巨大な価値を持ってるよなぁと、言う具合でした。お、話が逸れてしまいました。(^^; 。。。 損失の価値判断の存在がわかったことで、交換の際に発生する客観性とは何か、も、分かるようになったでしょうか。 式によって明らかとなった交換価値というものは、プラスばかりではなく、損を判断する価値があって初めて、得る価値があり、交換すれば、互いの損得の合計は一緒、つまり、客観的な結果は0となるのではないでしょうか。 損と得は表裏一体で、 A者が+アルファだと思った実物bを、Aが交換によって得るには、「+アルファ」の対価である損失、「マイナスベータ」を要求するということかもしれません。 ということは、損失「マイナスアルファ」を要求し、利益「+ベータ」を求めるB者が、必然的に引き合う。 簡単な話ですが、頭痛いですね。。 ここまでにしたいと思います。ご質問、ご意見などありましたらどーぞ。 「交換価値」「繰り返す交換」「共有価値」このようなことも、今私は考えています。
お礼
大変興味深い、ご回答有難うございました。 一瞬、ドキッとしました。方程式を使った説明は大変参考になりました。 私も、ない頭を使って、一生懸命考えました。 問題は、 Aにとっては、b’>a’ Bにとっては、a’>b’ 此処で言われている事は、量の問題ではなく質の問題だと言うことです。 この不等式を書き換えると、 Aにとっては、b’を得ることが、a’を手放すことより価値がある。 Bにとっては、a’を得ることが、b’を手放すことより価値がある。 つまり、 Aにとっては、b’>-a’ Bにとっては、a’>-b’ ご回答者様の計算結果とは違ってきますね。 つまり、 Aにとっては、b>a Bにとっては、a>b この部分で、上の不等式はAの主観であり 下の不等式はBの主観だと言う事が、私の前提ですが、此処に誤解があったのかもしれません。 Aにとってのa=Bにとってのaではないから交換が始まります。 方程式では、AにとってのaにBにとってのaを代入する点が問題ではと思いました。 それと、後半の部分も大変参考になります。 ただ、 Aにとっては、b>a Bにとっては、a>b 交換により双方が得(このような曖昧な表現は避けたいですが)をする説明です。 この辺りにも意見の違がありましたが、 「意見の相違が競馬を成立させる」 誰の言葉かは知りませんが、相違があるから意見の交換ができるのでしょう。 大変参考になるご回答と質問に対してご自身で考えていただいたことに感謝と敬意を申し上げます。 後程、補足欄をお借りしますが、関連質問のためで、再回答を要求するものではありません。 この質問は、可能な限り締め切りませんので、何か有りましたら、又、宜しくお願いします。
補足
この質問をご覧になった皆様へ 現在、交換されたことによって、交換された両者に同じ「何か」があるかどうかに関して、つまり、「交換価値」とか「効用」が等式で表現できるのか、と言う問題を中心にご回答をお待ちしています。
おばんです(^^)補足ありがとうございます。 小麦と、布、鉄、金のそれぞれに対する交換価値は、変動する需要と供給、交換の瞬間に価値を表す「相場」という考えで、片付かないでしょうか?等しい大きさの何かは、一定ではなく、変動する。そしてその大きさを、交換の発生するときに、便宜上、値として表すのが相場である。 このような具合でどうでしょう。 「経済的価値」と自分の主観との乖離について。 貯蓄されてゆく消費、豊かさが還元されるプラスの消費と、損失を発生する消費(マイナスの消費)があるのをご存知ですか? 環境(物ではない、交換できない)の、経済的価値とその価値の形。循環社会の実現の鍵についてまで、準備ができております。対話が続く事を望んでいます。 まずは、小麦の交換価値について話からでした。需要の知られ方なども、話し合えるかもしれません。今までは、供給するばかりがアピールし、需要の側には反応しかなかった。需要の側からアピールし、供給の側から反応があってもいいんじゃないかな。そのようなシステムはできないものかな。
お礼
ご回答有難うございます。 御礼が大変遅くなりました、忙しかった事も在りますが、やはり回答の意味が良くわからなかったことが原因ですね。 前半の、需要と供給のお話も、経済学の話ですね。 経済学によると「そのように見える」そのように考えておいた方が「合理的」と言う事でしょう。そしてご回答者様にも「見える」のでしょう。 ただ、私には「見えない」のです、 Aがaを持ち、Bがbを持っている。 互いにaとbを交換する。 此処までは「見えます」以下は、私の想像です。 Aにとっては、b>a Bにとっては、a>b 同じものは想像すら出来ないのです。 後半も、経済学の中にはそのような説があることは聞いております。 上手く行けば、それにこした事は在りませんが、此処では、経済学について感心がありません、二つのものが交換されたとき、同じ物があるのか? 経済学とはなれて、自分自身に尋ねてみて欲しいのです。 ひとまず、質問の後半は棚上げして、前半だけ解決したいものです。 御礼は遅くなるかもしれませんが、いつまてでもお待ちしています。
- moumougoo
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価値を主観の側に置くとして、それを何らかの形で表現できたなら、何らかの観念として他者と共有することができる、となると思います。つまり、言葉を自分が抱えてしまっている以上、他者はすでに自分の中にいるわけです。言葉が価値を表現したからには、何らかの対価性を表現していることになると思います。食べ物番組のレポータが「おいしい」というのを手を変え品を変え表現しているのは、それは価値(感覚)を共有できることを前提にした試みであり、上手い表現とはレポータと視聴者の間で価値の交換ができることだと思います。 「これは牛肉なのですが、トロのように、舌にのせると、溶け出して、うまみが口の中にじわーっと広がっていく感じです・・・」 それで、交換により価値が客観化されるというのは、単なる事象にしかすぎず、交換が成立したときに、その目盛りの付け方をすりあわせできた=「価値の客観化」というというだけだと思います。 真の価値を見いだしたいのならば、価値を評価することをやめなければならない。 ただし、市場価値というものを考えたとき、これは、多数決の原理に基づくものであり、主観とのずれがあっても全くおかしくないと思います。また、市場主義は価値としてとして評価できる範囲を極大化するでしょう。価値を評価するためではなく、交換のために価値を決めているのです。
お礼
ご回答有難うございます。 そうですね、私はどちらかというと「言葉」と「貨幣」を対比する事が多いですね、「わたし」と「価値」の客観と言えば。 ただ、今回、主観と客観の問題にはあまり深くは問題にしたくは無いのです、結局、私たちの世界は主観でしか無いといっても、その中に、客観的主観とでも呼べる物がありますから。 問題は、主観から独立してしまったような「交換価値」これを問題にしたいところです。#3様のお礼に書いた、「交換価値」の問題についても、考えていただければ幸いです。 そうそう、最近、知覚や認識自体が「価値評価」ではないかなどと考えています。 また宜しくお願いします。
これを言って、回答が完結すると、思い立ちましたので、それを言わせて頂きます。(交換価値に関する直接の言及ではないですが、できるだけの回答となります。交換価値は、時と場において下す価値判断の様相にふくまれるものと考えています。物々交換の発生は、時と場による、と端的に言えますが、貨幣などに交換価値が発生する時と場の見方を、社会によって固定するには、その交換価値を保障するもの、現代では金であり、その金の価値は、利用価値ではなく、希少性という、社会的判断によっています。洗練された希少性は、権威(特別な違いによる優位性)を示すのに役に立ちます。また金の希少性は、飲んだり食べたり使ったりという風に、消費されない、恒久性をもちます。そういう過程で、現在の貨幣の価値は、社会が認める権威によって保障されていると思えます。 ただ、現代の交換価値は、金の希少性、恒久性を頼った金本位制ではなく、労働の効率や、国家、企業、アイデア、経済の効率、発展といった、社会の実質的な力が、権威となり、交換価値を保障しているでしょう。合成によって、恒久性のある形を伴う(知識など)、金よりも価値の認められるものを作る、超錬金術が社会で働いていると見えます。 物と、力の交換です。 恒久性という点で、知識と、錆びない金は似ています。実質的な利用価値を生み出すという点で、金より優れています。権威は、力によって保障されているので、恒久的であり、物を持たないことで伝達するに長け、力の有効な使い方を導く知識等は、金より高い権威を持ちます。 故に、交換価値(マネー)は、知識などの堆積する恒久的な力の貯水池の表出で、価値を内在した、力の一種です。価値判断の行われる以前に、力は、堆積した知識によって価値を内在することになり、その内在した価値が、マネーとして価値を認められているのではないでしょうか。一ヶ月五千円の給料が、50万円になったのは、それだけ、知識が発達したことで、力に、より高い価値が潜在化されたからです。力を有効利用しよう、力の価値を高めようという、合理性を追求する社会の意識が、より確実な交換価値を生むに至ったのだと思います。 合理性を追求する以上、目的(それが生だとしても)があり、多数の時と場における、目的に沿った価値判断を、社会において集積しつづけている結果、あらゆる目的の共通性という側面を生成するに至ったのであり、その側面が、力の池(マネー)の底(なんにでも流用できる力のエッセンス)なのではないでしょうか。それもまた、時と場における価値判断の様相です。力の池は、池の底(価値判断の集積によって導かれた共通性)によって定められているからです。) やらないで置くべきは、やらなかったか。という、時と場に順ずる満足、無価値の判断(through)についてです。 前回は、今答えなければ、僕は答えないだろう。僕が答えなければ、たぶん、それを補完する回答はないだろう。だから、この質問に答えるべきという価値判断を下したのですが、答えないという無価値判断が、ここで退くべきではなかったと反省いたしました。 というのも、先ほど言った飛躍の満足に並ぶ満足として、物事の全容を眺める、つまり、価値判断以前の、時と場に順ずる満足ということがあるからです。 やれるだけやることで生ずる飛躍の満足は、やらないでおく事はやらないという満足と、伴侶になっているのだという事を、付け加え、助言を完結したいと思います。満足は、側面でなく、全容において成り立つからです。跳躍や、throughとは、全容、または、時と場における自己の様相であり、自己の明らかな様子、非自己なのではないでしょうか。
お礼
再度のご回答有難うございます。 こちらも、「経済的価値」に関するご回答とすれば、仰られる事は概ね妥当だと思います。最後の方は私には難解すぎましたが。 ただ、折角のご回答を無駄にしない為にも、私も出来る事をしなければなりません。 この質問の真意を、御回答者様やご覧になっておられる方に、伝える事です。 まず、前提として、交換は「違う物」を取り替えることで、それ以上でもそれ以下でもない。 そして、他に適当な資料がありませんから、老マルクスにご足労をお掛けしますが、 1クォーターの小麦が、X量の布・Y量の鉄・Zの量の金と交換されるとき、 1クォーター量の小麦は、色々な交換価値を持つが、それと交換される、 X量の布・Y量の鉄・Z量の金にお互いに置き換えられるもの、等しい大きさの「なにか」がある。 此処を疑っています。 此処で言われている事は、交換が成立したから、同じ物がある、と言うだけです。 人間の行為は、合理的に説明できる、と言うデカルト的なドクマに嵌まっていないのでしょうか? まず、この点を解決しないと、質問の後半には進めません。 PS 念のために申し上げますが、労働価値説は支持していませんが、 それ以外の資本に関するマルクスの指摘・疎外論等は支持しています。 さらに、此処ではマルクスが「どう考えたか」とは、全く無関係です。
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お礼
夏目漱石が「めったに無い、美しい『論文』」と賞賛した著書の冒頭をご紹介します。 既にご存知かもしれませんが、お付き合いください。 「われわれは自分の考えを必ず言語によって表現し、またたいていの場合、空間内で考える。言いかえるなら、言語が、われわれのもつ観念相互のあいだに、物質的対象のあいだと同じ明確な区別、同じ不連続を設定するように要請する。このような同視は実際生活において有用であり、大部分の学問においても必要である。しかし、次のような疑問が生じるだろう。ある種の哲学上の問題がひき起こす克服しがたい難しさは、空間を占めていない諸現象を空間内に並置しようとこだわることに由来するのではないか、またその周辺で論争が行われている粗雑な像を除き去ることによって、往々論争にけりをつけることになるのではなかろうか。非延長的なもの[広がりをもたぬもの]を延長[広がり]に、質を量に、不当に翻訳したために、提起されている問題の核心そのものに矛盾を宿してしまったとき、その問題に与えられる解決の中にもふたたび矛盾が発見されることにおどろくことがあるだろうか。」 『意識に直接与えられているものについての試論(時間と自由)』ベルクソン この文章を「美しい」とする感性には、私のような凡人とは無縁の世界でしょうか。 この著書は主として時間と空間及び自由の関係をカントを批判しながら判りやすく説明するのですが、私の場合、これを、価値論として理解しようとするのです。 問題は、>このような同視は実際生活において有用であり、大部分の学問においても必要である。 つまり、「価値」が純粋に質ならば、価値の客観化を単純に批判できるのですが、「価値」が質の性格と量の性格を持ちうるのでは、つまり、解っていない。 『一年前に戻ってやり直せ』と言う喉元に突きつけられたナイフのように、美しいです。