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価値の哲学
最近、交換価値とは何か、どうもよく分からない。 価値を主観の側に置く私は、交換により価値が客観化されると言われても、交換の当事者は二人だけ、二人の同意が、客観とはおかしな話です。 交換価値などといわずに「他人の為の使用価値」と表現した方が良さそうな気がしています、しかし、「他人の為の使用価値」と言う言葉は、主観的価値を信じる私にとって、論理的に矛盾しているような気がします。 「他人の為の使用価値」=「商品」 「商品」には、グラシャムの法則が、成り立つのでは? 皆様のご意見をお待ちしています。無益な言い訳は割愛しました。 賞味期限89168時間と66秒
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価値には、色々なトキトバによる側面があるから、というより、そのものの、側面を表しているものが、価値だから、ゴミのように見えても骨董品(歴史的価値、美術的価値)であったり、いや、皿としての使用価値だとか、トキトバによって、そのもののどういう側面を活かすのかってことで、価値は変ってきますから、そういうトキトバによって変るという意味で、価値は客観的なのではないでしょうか? わらしべ長者も、タダ同然なわら一本と、捕まえたハエを合わせることで、子どもの遊びの時間を作ったことが、始まりだったように、ものと、トキトバの関係が、価値を生成するのでは。 価値を知れば、価値を発見すれば、つまり、価値がわかれば(モノゴトの側面を捉え、それを活かす道筋を見出せば)、価値発生の予測も可能です。 あるなら使えばいいってものじゃないし(資源)、使わないでおいておくことに、使うよりも高い価値がついたりもします(環境)。 教えられたものの側面に囚われず、新たな価値を探し、また、価値を探すことに囚われず、物事の全容を眺めるべく、知的寛容をもって、ぶらぶらやっていけたらいいなぁ。日本では、タダで暮らせるのに、その道は、無価値のレッテルによって閉ざされている。無価値なものは、捨て置かれなければならないらしいから。 側面でしかない価値に、仕事や暮らしを封じられるのは、案外高くつきますよ。多様な側面を知って、はじめて選択や判断といった、時を渡る舵が活きて来るというのに。 そういう意味で、今私が、ここで回答に費やした時間を、無価値の可能性を捨て置いて、判断すれば、早く寝ればよかったかな、いや、この回答が、有意義に活かされれば、それで満足か?その満足は、質問者様や閲覧される方との、半分半分の持ち合いで、成り立つ。だから、他者の満足を意識しなければならないことは、価値の側面に封じられることにもなってしまう、と思うんですよね。 つまり、やれるだけの事をやれ、それだけだと思うんですよ。商品やサービスを提供することに関しては。そこには、価値に属さない満足が生まれるじゃないですか。つまり、望む所以上の価値(価値の付け難さ)を持つことのできる成果が、得られるということです。そのような、「無価値に入り込む」のが、やりがい、だと思うんです。それは、自由でしょう?価値を追求することと、やれるだけの事をやる(満足の追求)というのは、似てるようで違うと思うんですよね。客はそこまで求めてないなんて、仕事する側に言っても聴こえません。手を抜くところは抜くし、入れるところは入れる。仕事の邪魔をするな~! やれるだけのことが、やれたかな。まだやれるよ。 それだけが、行為に対する、価値の問いであり、答えです。 やれるだけの事をやれば、更にやれるようになる。そういう、走っている人間のバランス。安定してると思いませんか? 無価値の満足へと走り去りたい。そんな満足は、飛躍だと思うんです。
- ZeroFight
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質問者はマルクス主義には反対のようですが、俗流マルクス主義の断片的な知識しかないので、結果的に、マルクス主義の枠組に捕らわれています。 交換価値と使用価値ですが、イギリスの古典派経済学の用語をマルクス主義が取り入れただけで、哲学で言う価値とは別です。 質問者の言う主観と客観も、俗流マルクス主義で言う主観と客観で、哲学で言う主観と客観とは違っています。 マルクス主義的な価値論が知りたいなら、柄谷行人の『マルクスその可能性の中心』を読むといいと思います。 マルクス主義ではない哲学の価値論を知りたいなら、今持っている知識を全て棄てて、カントの『判断力批判』を読むことです。いろんな立場がありますが、どの立場も『判断力批判』の議論が大元になっているので、この本を読んでおかないと、何もわからないでしょう。
お礼
「二人の人間が彼らの生産物を相互に交換するということは、けっしてたんに国民経済学的な事実にとどまらない。なぜならそのような事実、すなわちその内容が国民経済学的な形象によってくみつくされるような事実など、けっして存在しないからである。右の交換はむしろ心理学的事実として、風俗史的な事実として、さらには美学的事実としてもまったく同じように正当に取り扱われることができる。そうしてそれが国民経済学的な事実として考察されるときでさえ、それによつて袋小路の終末に到達したわけではなく、この形態のなかにさえこの事実は、その諸前提を非経済的な諸概念と諸事実において吟味し、その結果を非経済的な諸価値との諸関連にたいして検討する哲学的な考察の対象となる。」『貨幣の哲学』G.ジンメル 『判断力批判』は確かに読んでみたい本ですが、恐らく私には、そのような(本格的に哲学を学ぶ)時間は無いでしょう。 300年前のカントも、100年前のマルクスも、もうそろそろ、静かに休んで頂きたいのですが。 ご回答有難うございました。
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お礼
価値について考えていただき、感謝いたします。 御礼が遅くなりましたが、最初サッパリ理解が出来ませんでした。 質問に、「価値を主観的」と表現した事に対して、「いえいえ価値は客観的」とご回答いただいたのでしょうか。 どうも違うようです、時と場所「トキトバ」と言うんですか(笑、これだけで説明も出来ませんし。 以下はわたしの憶測ですが、こうしないと理解できないような気がします。 このご回答は、あなたの悲鳴ですか? 客観的価値、つまり、此処では、交換によって価値は客観化されると、ひとまず認めるとして、その客観的価値、別の言い方をすれば「経済的価値」に対する悲鳴とすれば、私にも理解が出来そうです。 「経済的価値」と自分の主観との乖離に、薄々気がつきながら、その気味悪さの中に、居続けるしか術の無い私たちの無力感から来る悲鳴。 私が問い掛けた「価値」は、私が感じる価値です。これは表現しずらい!既に「経済的価値」が世界を制圧してしまったのかもしれませんね。 説明不足で申し訳ありませんでしたし、回答に対する穿った理解の仕方かもしれませんが、私はこう思いました。 有難うございます。