• ベストアンサー

原罪について

こんにちは.当方,哲学・宗教についてはまったくの素人です. どうかお教え下さい. アダムとエバが犯したとされる原罪についてですが,これを取り除ける(祝福できる)のはメシアのみとされています. イエス以降,現代に至るまで,メシアを称する宗教者があちらこちらで現れているようです. 各人が本物のメシアかどうかについての議論はともかく,果たして信仰心なき者は,メシアからの祝福を受けることはできないのでしょうか. そもそも原罪がない状態とは,宗教学的にいかなる状態を指すのでしょうか.理想的には神が創造した人間本来の状態を指すのでしょうが,正直想像できません. 迷いの無い,実に晴々しい状態なのでしょうか. サタン的思考で大変申し訳無いのですが, 原罪が無い状態というのは,実際のところ,メシアを称する宗教者による洗脳が完成された状態(宗教学的祝福=心理学的洗脳の完成)を指すのではないでしょうか. たとえば,Wikiによると,統一教会のトップである文氏はメシアを名乗っている様ですが,巷では祝福どころか詐欺者扱いです. 単に本物のメシアが未だ再臨していないだけのことなのでしょうか. また,メシアによって原罪を取り払われたとする男女の間に生まれた子は,理論上,先天的に原罪が無い状態にありますが,後天的に原罪が復活することもあるのでしょうか. 当方,原罪があるが故に分からなくなっている状態にあると思われます. 原罪の無い方,あるいは何かご存じの方,この迷える子羊(?)にどうか教えを説いて下さい. 万一,ご気分を悪くされた方がいらっしゃったならば,お許し下さい.悪気や批判の念は一切ございません.

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.12

No.9です。 たびたびすいません。 >日本人が無宗教なのは,アジアの離れ小島としての日本,という地理的な要因もあるのかもしれません. 地理的なものなのか? 宗教も一種の学問ですよね。 日本では仏教徒同士が戦っていたそうです。 宗教なのですが、武装した僧がいて、見かけはお坊さんだが、その宗教の兵士だったそうです。 キリスト教だとイエズス会が見かけは宣教師だが、実際は諜報・工作・戦闘部隊でしたよね。 で、仏教が伝来して、仏門に入って長年研究をしていく というものだったのに、大乗仏教により、「そんな修行はいらない なむあみだぶつとさえ唱えりゃ誰でも極楽に行ける」って言って、どっと信者数を獲得したものだから、苦労を推奨する派からすれば、邪教だとなり、ドンパチやったらしいです。 殺し合いをやっていたのを、信長以降の時代の武将は、武力で弾圧していった。 宗教で殺し合いをするものは、日本にはいらん! ってわけですね。 で、殺し合いをしなければ、どの宗教も日本で布教活動をしてよい として、信長はキリスト教が日本で宣教活動をするのを認めた。 ところが、とんでもない宗教だとわかり、秀吉あたりから、キリスト教を日本から追い出そうとするようになり、武力でペシペシ弾圧していったわけです。 ただ協力なウイルスだったため、鎖国するしか日本の健康を守る方法はなく、で、鎖国をした。 これで外から日本に宗教は入ってこれなくなったわけです。 で、修行をしなくても、なみあみだぶつとさえ唱えていりゃあ なので、熱心に宗教をしなくなった。 熱心にしなくてもいい ってのが日本人に受けたわけで。 >おそらく日本人は何かを深く強制させられるのが嫌なのだと思います. 誰だって、強制されるのはいやだと思います。 ところが自由であることも、辛いわけです。 誰だったか、「人は自由という牢獄に閉じ込められている」と言いました。 キリスト教では、人は悪魔の支配する地球という牢獄に囚われていて、それを救世主を派遣して救おうとしている としている。 自由というのは、何をやっても自由という意味じゃない。 例えば、「盗みをしても自由だ。」じゃない。 盗みは悪いことだと知っており、やりたいという欲望を抑えて、盗みという悪をやらないというのが、本来自由を持っている者のありかた。 ところが、どうして盗みをやってはいけないのか 殺してはいけないのか を知っていながら、その根拠を明確に提示できない。 それで、宗教により禁止されている とルールを作ったわけです。 早い話が「神様が禁止したからやっては駄目」としたんです。 そのルールがユダヤ教では律法。 ところが、人は過失を犯してしまえる能力を持っている。 で、どんなに正しい者だとされた人すら、その能力を持っているので、神しか全く清い人はいない と考えたのだと思うんですね。 先日、ライラの冒険 黄金の羅針盤 という映画を観てきました。 この世界では、誰もがダイモンをもっており、それは動物の形として、いつも人に寄り添っている。 教権は、子供は純粋だが、ダストによりやがて穢れてしまうとして、子供のうちに、ダイモン(恐らく自由意志のことだと思う)を切り離してしまおうとするわけです。 これによって原罪が人から消えて、この世は幸福になる と考えた。 第一部しか観ていないので、この作者の哲学 何を言いたいのかの全容はつかめていませんが、、、、黄金の羅針盤は真理を示す道具であり、その羅針盤で真理が見れるのはライラのみ としている。 教権は黄金の羅針盤を破壊したのですが、最後の1つは残っており、それがライラの手に渡ったわけです。 教権にしてみれば、サタンにすごい力が渡ってしまったようなもの。 教権が目指す天国の実現を、ライラにより阻止されてしまう危険が出てきたわけです。 こういう話が出ると、キリスト教徒は過敏に反応するみたいで、この映画をキリスト教の神への冒涜だとして、攻撃しているみたいです。笑 この映画は自由意志を人間が取り戻す という物語だと思うんですね。 キリスト教などちっぽけで窮屈な世界の実現をしたがる者たちなど、相手にしていない。 もっと大きな世界がライラの冒険の物語。 >日本の文化の背景にはしっかり宗教があるんですよ,という意識を高める機会があってもいいかもしれませんね. 和の思想ですよね。 日本の首相がコロコロ変わるのも和の思想が日本にあるから。 談合も日本に和の思想があるから。 日本に沢山の神様がいるという思想も、和の思想があるから。 日本が奥歯にはさまったような言い方をして、何を言いたいのか はっきりと国連で言わないのも和の思想があるから。笑 これが日本人が一体何を考えているのか どんな宗教なのか よくわからない理由じゃないかと。 で、つまり和の上に日本人は生きているので、自分が和の精神を持っていると、灯台元暗しでわからないんじゃないかと。 一神教だと自由意志を否定する宗教にしかなりえないのですが、多神教だと、それが可能になるんですね。 どっちが生き方が楽か? プログラム通りにロボットとして生きていくのが楽か。 それとも、どっちにすすんだらいいか 誰も示してくれず、心の真理の羅針盤を頼りに、孤独の航海をした方がいいのか。 人次第ですが、人によっては、自由意志を捨てロボットになる道を選ぶのかもしれないですね。 つまり一神教の信者になる。 ところが約束されたと思った不安の消滅が、信者になった後も消えない。 それで、不安にかられ、ネットで聖書の文句を書き並べたり、自分が信仰している教祖の言葉を書き並べたりして、自分に言い聞かせることになる。 一神教の信者が陥った地獄が見える。 自由意志を捨てて魂を売った つまり ダイモンを捨てたものの末路。 もちろん、天国も地獄も人間が脳で作り出したイマジネーションの世界。 脳の中では存在しているんですね。 で、私の脳の中では彼らが地獄の炎で焼かれ苦しんでいるのが見える。 彼らの脳の中では、自由意志を持つ私が穢れまみれになっているのが見える。笑 イマジネーションのぶつかりあいなんですね。笑 ジョン・レノンが「想像してごらん 天国なんてないって」って唱えました。 想像すれば消えるんですね。 「想像してごらん 原罪なんてないって」ともいえるんですね。 ある意味 ジョン・レノンは救世主だったかも。

chem_navi
質問者

お礼

お世話いただいております. 「どちらの生き方が楽か?」 見方によっては,人間という生き物は心情をもつが故に不安であり,その不安のやりどころをどこに求めるのか,に尽きるのではないかと思います. ものごとに絶対はありませんが,同じ宗教という名の下のいわば「縛り」に身を置くことにより,宗教の範囲内で「絶対」に限りなく近づくことができるのではないかと思います.万人が望む「絶対」とは,極言すると「信用」でしょう. 否応なく人生は波乱万丈ですが,さざ波の中をただ静かに進みたい,そう強く願う人が入信しやすいのかもしれません.

その他の回答 (17)

noname#80116
noname#80116
回答No.18

 No.15です。原罪とその贖いとについて こういうことを観想した人がいるというその表現例をご紹介します。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ところが 悪魔は肉体の死とは無縁である。したがって 極度の高ぶりに陥るのである。  ・・・不遜な人々は キリストよりも悪魔を選んだ・・・。それは 悪魔は本性の相違によって自らは落ち込まない あの死の中へ彼らを投げ込むが キリストは豊かなあわれみによって彼らのために御自らそこへ降りられたからである。  それにも拘らず 不遜な人々は自分たちが〔悪魔の手下である〕悪鬼たちよりも善いと信じて疑わず 彼らをあらゆる悪口で攻撃し非難して止まない。(4・13)  悪魔は神の権力によらず その義によって克服されねばならなかった。(13・13)  それでは 悪魔を克服したあの義とは何であろうか。イエス・キリストの義でなくて何であろうか。また悪魔はどのようにして征服されたのか。それは 悪魔はイエスの中に死に価するいかなるものも見出さなかったのに彼を殺してしまったということによってである。悪魔が拘留していた負債者たちは 何らの負債がないのに悪魔が殺したお方を信じるなら 解放されるということはたしかに正しい。これが キリストの血において私たちが義とされる(ローマ5:9)と語られるこの意味である。かくて 私たちの罪の赦しのために罪無きイエスの血潮が流されたのである。(13・14)  したがって 悪魔によって殺されたお方が復活されたとき 実はその悪魔は征服されたのだということを見るのは困難ではない。悪魔が勝ったと自ら思ったとき つまりキリストが殺されたとき 実に悪魔は征服されたのだと見ることはより重要であり より深い理解でもある。・・・悪魔は罪の報酬(むくい)として死の条件のなかに閉じ込めていた人々を当然にも保持していたゆえに いかなる罪の報酬なきままに不当にも死の罰を受けられたお方をとおして正当にも放免しなければならない。(13・15)  なぜなら 神の怒りは人間の怒りのように精神のゆらぎではなく 聖書が他の箇所で 《力の主よあなたは静やかに審きたまう》(知恵の書12:18)と言うお方の怒りであるから・・・神の和解も正当に理解されるとき このような怒りの終局に他ならないであろう。私たちの罪が義の敵であるほどでないなら 私たちは神の敵ではなかったのである。(13・16)  (アウグスティヌス:三位一体論 中沢宣夫訳) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  わたしたちは なお ここから出発しつつ さらに このドグマを乗り越えていくという方向もあるように感じています。  《悪魔は肉体の死とは無縁である》ので わたしたちの死の淵にまでは よう来ないのです。死が分からないのです。頭が惑い 何も考えられなくなるのでしょう。そのとき 拘束を解きわたしたちを放免するのではないでしょうか。このとき 死というのは たとえば面子の放棄としての社会的な死というのも 含むのだと思われますが いかがでしょうか。

回答No.17

a,no13の者です、別の視点から、もう一度お答えします。原罪という事は、矛盾が有って、悩みが在るという事です。それは、有限から無限を眺める事。又他の言い方をすれば。無限から有限を見渡して、救いの手をさし伸ばして、その手をさえぎられる、という事です。 人間には、二つの心が在って、その二つとも自分です。悩みが深い場合、その二人の考えが矛盾していると言う事です。有限の自分が悩むのは、自分の中に、無限(永遠性)が有ると言う事です。その事は、自分で自覚しないと、分かりません。 若い時に余りに、苦しみました。それで、ホームページを持っています。もし良かったら一度訪ねてください。 人生問題の解決ホームページ http://www.jinseimondainokaiketsu.com/

  • ko735
  • ベストアンサー率25% (2/8)
回答No.16

教派によって考え方は違いますが・・・。 神を神として認めない、普通、これを原罪と言い、悪の根、腐敗性、内住の罪などと呼びます。キリストの贖罪によって、犯した罪過は赦されますが、原罪は残ります。 で、聖められなくてはなりません。信仰と内住の御霊の働きによって成長し、栄光から栄光に進み、完全にキリストに似ることにまで進みます。この成長は、この世を去るまで、または栄化の瞬間まで継続されていきます。 本物のメシアはまだ再臨してません。

参考URL:
http://www.missionjapan.org/cgi-bin/bible.cgi?mark/13
noname#80116
noname#80116
回答No.15

 No.3です。原罪についての説明は 人の何らかの解釈になると思われます。きちんとした説明をと願うのですが 敢えてと言いますか 自分の能力が及ばないゆえなのですが 引用にて参考資料をご紹介いたします。  これは ヨハネ福音の次の箇所についての解釈として 原罪とその克服を述べているものです。   そして モーセが荒野で蛇を上げたように 人の子(イエス)も上げ   られねばならない。それは信じる者が一人も滅びないで 永遠の命を得   るためである。(ヨハネ3:14,16)  モーセがさおの上にへびを上げて掲げた(民数記21:4-9)ように そしてその意味が死と生とにかかわっていたように あたかもイエスも十字架に上げられたというその二つの事象の類似性に注目した一つの見解です。    まづ 民数記21:4-9のほうを掲げます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  民はホル山から進み 紅海の道をとおってエドムの地を回ろうとしたが 民はその道に堪えがたくなった。民は神とモーセとにむかい つぶやいて言った。   ――あなたがたはなぜわたしたちをエジプトから導き上って 荒野    で死なせようとするのですか。ここには食物もなく 水もありま    せん。わたしたちはこの粗悪な食物はいやになりました。  そこで主は 火のへびを民のうちに送られた。へびは民をかんだので イスラエルの民のうち 多くのものが死んだ。民はモーセのもとに行って言った。   ――わたしたちは主にむかい またあなたにむかい つぶやいて罪    を犯しました。どうぞへびをわたしたちから取り去られるように    主に祈ってください。  モーセは民のために祈った。そこで主はモーセに言われた。   ――火のへびを造って それをさおの上に掛けなさい。すべてのか    まれた者が仰いで それを見るならば生きるであろう。  モーセは青銅で一つのへびを造り それをさおの上に掛けて置いた。すべてへびにかまれた者はその青銅のへびを仰いで見て生きた。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 〔以下 すべて引用です〕。  兄弟たち あなたがたは知っていよう。死がこの世に入ったのは悪魔の妬みによったのである。聖書は語る。    神が死を造られたわけではなく 命あるものの滅びを喜ばれたわけで   もない。存在させるためにこそ神は万物をお造りになった。   (知恵の書1:13-14)   そして同じ書でこう語られる。    悪魔の妬みによって死がこの世に入った。(同上2:24) と。人間は悪魔によって差し出された死の飲物(* もしくは知恵の木の実)へと力づくで赴かされることはない。悪魔は強制力ではなく 説得の狡猾さをもつものだからである。悪魔は あなたの同意なしには 何をもたらしもしなかった。おお人よ。あなたの同意が死へとあなたを追いやったのだ。  われらは 一人の死すべき人から死すべき者として生まれた。不死なる者から死すべき者になった。アダムによって 人はすべて死すべき者となったのだ。だがイエスは 神の子であり 神の御言であり このかたによってすべてのものは造られ ただ一人御父に等しいかたであったのに 死すべき者になられた。    言は肉となって わたしたちの間に宿られた。(ヨハネ福音1:14) からである。  だから イエスは死を引き受け 死を十字架に架け 死すべき者を死そのものから解放してくださる。そこで主は 父祖たちのもとで予表として行なわれたことを思い起こさせてこう語られる。    そして モーセが荒野で蛇を上げたように 人の子(イエス)も上げ   られねばならない。それは信じる者が一人も滅びないで 永遠の命を得   るためである。(ヨハネ3:14,16) と。ここには この箇所をかつて読んだ者なら知っている偉大な奥義がある。そこでわたしは この箇所を読んでいない者にも この箇所をかつて読んだり聞いたりしたが忘れてしまった者にも 次のことを聞いてもらおうと思うのだ。――かつてイスラエルの民は 荒野にあって蛇の噛み傷によって倒れ 多数の死者をもたらす殺戮が起こっていた(以下 民数記21:4-9)。  彼らを捕らえ鞭打って教育しようとする神の一撃が加えられたからである。そこには 将来の出来事の偉大なる奥義が示されている。そして主ご自身が この箇所で証言され 何人も 真理ご自身がご自身について語られるこのこと以外の解釈をできないような仕方で証言されている。すなわち主はモーセに対して 青銅の蛇を作り それを砂漠で木に架けて高く掲げるように命じられた。そして 蛇に噛まれたなら木に掲げられた蛇を見上げるようイスラエルの民に命じよ と仰せになった。このことは事実となり 人々は噛まれ 見上げ そしていやされたのである。(以上 民数記)。  ・人々を噛む蛇とは何だろうか。それは 肉の死から来る罪である。  ・上げられた蛇とは何だろうか。それは 主の十字架の死である。  ・死は蛇から来るので 蛇の形によって主(イエス・キリスト)の死がかたどられた。  ・蛇の噛み傷は死に至り 主の死は命に至る。  ・蛇が見つめられるとき 蛇の力は消え失せるのだ。 これはどういうことだろう。  ・死が見つめられるとき 死の力が失せる。  ・だが誰の死だろうか。それは命なる方(イエス)の死である。 こんな言い方が可能なら 命なるかたの死である。否むしろ この言い方は可能であるにしても 驚くべき言い方であろう。だが 主が行なおうとされたことをどうして語ってはならないことがあろう。  ・主がわたしに代わって行なおうと定められたことを語るのに どうして躊躇する必要があろう。  ・キリストは命そのものである。そのキリストが十字架に架けられたのだ。  ・キリストは命そのものである。そのキリストが死んだのだ。 しかし  ・そのキリストの死によって 死は死んだ。  ・死んだ命が死を葬り 命の充満が死を飲み尽くした。  ・死はキリストの肉の中に呑み込まれてしまったのだ。  かくして われらもまた 復活して語るであろう。今や勝利を得た者として歌うであろう。    死よ お前の力はどこにあるか。    死よ お前の棘はどこにあるのか。    (コリント人への第一の手紙15:54)  だが今や 兄弟たち 罪のいやしを受けるために わたしたちはひたすら十字架のキリストを見つめることにしよう。・・・  (アウグスティヌス:ヨハネによる福音書講解説教 第十二説教 泉治典・水落健治訳)

  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.14

No.12です。 >「どちらの生き方が楽か?」 >見方によっては,人間という生き物は心情をもつが故に不安であり, >その不安のやりどころをどこに求めるのか,に尽きるのではないかと思います. そうだと思います。 で、イスラエル人は、律法というものを作り、それに添って価値観を決定してきた。 考える必要がなく、「法律でそうなっているから」とし、律法を絶対として、それによってジャッジしていったわけです。 ところが、<姦淫したら石打の刑ですが、姦淫したと偽証された場合は、どうなるのか。> <石打の刑で、一投目が当たらなかったら、冤罪なで無罪とするべきか>と律法学者は考えたらしいんですね。 つまり、絶対を決めたのに、それでも不足。 そして不安は消えない。 例えばイエスによって原罪が消えたとしながら、不安な残るので、また穢れがつくとし、結局は自分達ではどうにもならないので、神に頼るしかない と自分の頭で考えることを放棄してしまったわけです。 で、キリスト教は図書館を閉鎖して、考えるための道具である学問を人々から奪った。 ひたすら、神への信仰だけしていれば、不安は生まれないはずだ とした。 <私を信じなさい>ってわけですね。 信じてついていった結果、ひどい有様になり、ニセモノの救世軍だと考え、しかしイエスは本物の救世主に相違ないと信じたくて、イエスのことを讃える宗教はするが、ニセモノにはついていけないとして、新しい派閥を作った。 そこから、また分裂し、分裂し、分裂し、と拡散していくわけです。 それと逆パターンが、新世紀エヴァンゲリオン。 シンジは、他人の命令に従うことで、不安から自分を守ってきた。 結局、それでも不安は消えず、「みんな死んでしまえ。自分も死んでしまえ」と願い、生命のスープに還元されるんですね。 そうなると、自分 他人、 差 というものが存在しない世界になる。 これで他がなくなるわけです。 つまり、ニセモノとか悪も正義もなにもかも無いわけです。 他者がいれば差ができて どっちが正しいか と比べるが、他者がいなければ、比べるということが無くなる世界。 http://homepage3.nifty.com/mana/message1.htm#TOP 『人類補完計画とは、ゼーレにとっても、ゲンドウにとっても、心の平安であるという点で一致しています。 キール  「それは、魂の平安でもある」 ゲンドウ 「ヒトは、一人では生きていけないからだ」      「全ての心が一つとなり、永遠の安らぎを得る」』 しかしユイの考えは 『生きていこうとさえ思えば、どこだって天国になるわ。だって、生きているんですもの」』 『ユイは、たとえ不幸なことがあろうとも生きることを選ぶのです。魂の不安定さは、全くおそれていません。』 男と女の思考の差みたいなものですね。 しかも普通の男 普通の女 ではなく、究極の というか 端っこ(それ以上先が無い)の考え方。 どちらも神といえると思います。 で、人間はその中間にいますので、ゆらぐわけです。 そのゆらぎにより不安は起こる。 http://homepage3.nifty.com/mana/message4.htm#TOP 『リツコ 「ホメオスタシスとトランジスタシスね。」 ミサト  「何それ」 リツコ  「今を維持しようとする力と変えようとする力、その矛盾するふたつの性質を一緒に共有しているのが生き物なのよ」』 『「あなたは世界の、自分を取り巻く世界の閉塞を願った」 「嫌いなものを排除し、より孤独な世界を願った、あなた自身の心」 「それが導き出した小さな、小さな安らぎの世界」』 アトス山に篭った修道士みたいなもの。 あるいは、修道院、出家した人。 『シンジ「エヴァにのることで、僕はぼくでいられる。」 アスカ「エヴァにのることで、私はわたしでいられる。」 そのような思いこみにこだわって、世界を固定した状態で捉えている限り、それは、現実とは全く関係のない、変化を失った、観念的な静止イメージなのです。それは、過去の記憶や、他人によって作られたイメージです。』 <○○教を信仰することで、私は私でいられる>  本当にそうか? それは真実と全く関係の無い、他人によって作られたイメージではないのか? その人たちが陥るのが 『「つかれたわ。」  「きれいな自分を維持するのに。」  「きれいなふりを続けている自分に。」  「もう、疲れたわ。」  「認められているのは、認められようと演じている自分で、本当の自分ではないのよ。」  「本当の自分はいつも泣いているくせに。」』   その閉塞感に自らをおいやった人に 『自分自身と世界のイメージを固定化して、決め付けられた静止した世界で生きるのか。 それとも、世界が変化の連続であるように、自分も変わっていくのか。』という問いが投げかけられる。 そして http://homepage3.nifty.com/mana/message5.htm#TOP だから、固定観念を打ち壊すことを、壊されることを 畏れない。 で、このアニメの主人公はシンジは神の児(シンジ)は、我々のことなんですね。 このオープニングテーマは<残酷な天使のテーゼ>といいます。 『ほとばしる熱いパトスで  思い出を裏切るなら  この宇宙を抱いて輝く  少年よ 神話になれ』 テーゼは、定め、掟 みたいなものでしょうか。 パトスは情熱。 殻がテーゼだとすると、それに閉じ込められたのもがパトス。 マグマみたいなもので、やがて殻をつきやぶる。 ビッグバンみたいなもんですね。 突き破ることを裏切る と表現し、守られていた殻から出たために、今まで無ルールとなり、不安になるのだが、それを畏れずやがて、形が作られる。 でも、また 殻の内部にマグマが存在しており、いずれ、殻をやぶって外に出る。 何度でも生まれ変わることが人間は可能だってわけですね。 で、生まれ変わったシンジに対して「おめでとう」ってなるわけです。 これが新しい福音(新しい思想)。 だから新世紀エヴァンゲリオン(エヴァンゲリオンとは福音、つまり良い知らせ)というタイトルなわけです。 だから殻に閉じこもってこれを最終とするキリスト教徒は、この物語を怒る・・・・いや ドイツで受けている・・笑。 自分達を解放してくれる福音だととらえたのか?

回答No.13

アダムとイバが犯した原罪とは「意識して自分を反省した」と言う意味です。その証拠が「天国に一番近い者は、幼子」と言う言葉に集約されています。幼子は脳が未発達です。反省しようにもするだけの、能力が無いからです。 宗教における、罪とか、原罪、とか業という事は、自分を返り見たと言う事です。そうする事によって、元は一つのものを、二つにして見る、と言う事です。その二つにしたものに「人間が悩ませられる」人間苦の始まり、と言う訳です。 二つにしてみた世界は、矛盾とか、対立を生みます。その「矛盾、対立」が「人間苦」なのです。その二つにしてしまった世界で不安と恐怖に慄くのが「サタン、地獄」なのです。仏教では「妄想」と言います。何も無いのに自分で地獄を作っている事です。 原罪というものは、自分で自分を罪に落としていることです。それは「成人した、言い方を替えれば、左脳と右脳の機能分化が完成される事によります。大体14歳頃です。悩み始める年頃です。 宗教と言うものの根本は「不安の解決」です、或いは「悩みの解決」といってもよいかと思います。その不安ないし、悩みと言うものは、どこから来るかと言うと、全て自分の心からくるものです。環境から、と言う見方もありますが、他の人は感じていない場合が、殆どです。 という事は自分で自分を、悩ませて、苦しめています。脳が未分化の時には、悩みが無くて、脳の機能の分化が完成した事によって、悩みが形成されます。その訳は、禅問答を引き合いに出せば、分かりやすいと思います。 禅問答は、普通では解けません。ここに脳の機能の秘密が在ります。普通誰でも自分=「自我」と考えています。それしかないと思っています。それは、未だ自分を知らないと言えます。自我とは「左脳」に有る「意識」です。 1,980年代にテンカン治療の一環として、左右の脳をつないでいる、脳梁の切断手術が行われていました。その左右の分離脳の研究によって、導き出された結論があります。 左脳には、一つの人格が有る。意識が有る。その機能は、言葉を持っていて、物事を、論理的に、分析する事が専門と言う事です。 右脳にも一つの、人格が有る、言葉を持っていない、空間、感情、芸術、感性、無意識としての意識、従って意識されない、分別出来ない事を専門と言う事です。 その研究の成果を踏まえて、改めて、不安の正体を言えば。自我が右脳の教えてくれる事に、対して、腑に落ちなくて、意識してしまう事。と言えます。 又、悩みに対しても、二つの考えの矛盾と言う事は自我の意識と右脳の意識の矛盾と言う事が言えます。 人間の最大の悩みとは、死にたくないのに、自分が死に逝く事が決っている。と言う事です。悩みの無い人が居ます。しかし大いに悩む人が居ます。それは左脳の意識である「自我」が「死」を現実のものとして「意識」してしまうことによります。他の言い方をすれば、右脳の意識が、そんな事は無い、命は永遠のものであって、肉体の死は、それ程大事な事ではない、と教えている事によります。 先ほどの「禅問答」に話を戻します。禅の奥義を体得したか、どうか、と言う時に「生死の問題を解決したかどうか?」と言う言い方をします。それは、「見性」したかどうか?ということです。自我が仏性を見たかどうか?と言う事です。それは、左脳の意識が右脳の意識に出会ったかどうか。と言う意味です。右脳に仏性がいます。右脳の人格とは「神といっても、仏といっても、良いのです。」禅問答は、右脳でなければ、解く事が出来ない問題なのです。 そこで原罪が無いとは「平常心是道」と言う事です。「心が停滞しない」と言う事です。何ものにも囚われない自由な心です。「精神疾患」とは「心が停滞」している事です。「意識」してしまって、心が自由ではなくなって、妄想の中で地獄を見ている事と云ってよいかと思います。

chem_navi
質問者

お礼

非常に説得力のある明快なご解説を賜り,大変感服致しております.ご回答者様は学者様でしょうか.書き物をしていらっしゃる方としか思えない文面です. そもそも物質である脳がなぜ物質でない感情や意識を発現することができるのか,いささか疑問ですが,あらゆる悩みや不安や葛藤は,人間活動のすべての根源たる脳が相反する矛盾した実在となっていることに由来するのですね. 確かに左脳と右脳は相反する機能をもっているのですが,しかし互いに相補的な関係にあるため,平素はバランスがとれている状態にある訳です.このバランスが崩れこそが悩みや不安を発現する根源である,ということが読み取れます.

  • tyr134
  • ベストアンサー率51% (851/1656)
回答No.11

NO5です。 訂正と補足をしておきますね。 カトリック教会のカテキズムによると、原罪は 「人間は悪の誘惑を受け、神の信頼を裏切り、自らの自由を不正に行使して、神の命令に従わなかった。人間は神の命令に従わないことで、自らの良さを貶める結果となった。…人類の一体性により、全ての人はアダムの罪を引き継ぐことになったが、それと同じようにすべての人間はイエスの義をも受けつぐことができた。どちらにせよ、原罪も神秘であり、人間はそれを完全に理解することはできない。」 となります。 原罪の罪そのものは、イエス・キリストによって贖われたとされています。 それが、「イエスの義をも受けつぐ」と言うことです。 先の回答で「原罪が無い人は居ない」と言いましたが、「原罪の影響から逃れる事が出来る人は居ない」の間違いでした。 「原罪の影響」というのは、「死ぬ(肉体を失う)こと」「悪への傾きを持つこと(仏教的に言えば煩悩)」などなど、ですね。 しかし、「原罪」の影響から人は常に「罪を犯す」可能性がありますし、「死すべき存在」なんです。 >どうも他人の風当たりが強いように思われる今の社会,ふだんは心の奥底で眠る悪しき何かがこらえ切れずに覚醒し,色濃く外に表れているのでは,と感じるのは私だけでしょうか.そうではない気も致します.今回,このような感情が「原罪」という言葉となって表れたのだと思います. これは、ある意味、「原罪」の事を言い当てていると思います。 「原罪」の影響によって、人は「悪」を犯す可能性があるという事なので。 一方、「洗礼」は、イエスと神を受け入れる事です。 それと同時に、「洗礼以前の罪」も赦されることになります。 で、「洗礼」後に犯した罪に関しては、「祈り」「告解」や「煉獄」において清められます。 もう一つ、「免罪」というのもありますね。 中世なんかでは、巡礼で聖地を訪れたら、その場所によって規程された「免罪」がえられたようです。 ※例:ピラトの官邸跡(免罪日数:7年4ヶ月)    聖母教会(完全免罪)    ユダがイエスを引き渡した畑(免罪日数:7年4ヶ月)    聖墳墓教会(完全免罪)     などなど。。。 >学術的観点からの解釈が気になります.何か統一的な理論や学理をご存じであればお教え下さい. う~ん、一口に「キリスト教」と言っても、イエスが死んで復活して以来、様々な派が様々に解釈しているので、統一的な見解というのは難しい気がします。 上記の解釈は主にカトリック系なんですが、「原罪」についても、その重要性や意味合いは宗派に拠って様々です。 ただ、「エキュメニズム(教会一致促進運動)」というのがあり、様々に分かれた教会・教義を、もう一度統一しようという試みはありますね。 で、一番の結晶は「共同訳聖書」でしょうか。 一応、カトリックを始めとした正統派の宗派はこの聖書が標準になります。 因みに、統一教会は正統諸派からは「異端」とされていますね。 http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/doc/cbcj/850622.htm

参考URL:
http://www.tomoshibi.or.jp/tushin/yori/yori7.html
chem_navi
質問者

お礼

再度ご解説いただき,ありがとうございます. 特にエキュメニズムは興味深いですね. いわゆる妥協案にあたる気がしますが,聖書のいわば「ストーリー」が後から付与されたり,今までの解釈は少し違っていて,実はね.というような改訂がなされるのでしょうか. 原罪の解釈はまちまちなんですね. 宗教間で学会を開き,定義見直し等の調整を行うと良いのでは.

回答No.10

原罪を自然に背くことと捉えれば 今の世界は罪の真っ只中といえるのではないでしょうか

chem_navi
質問者

お礼

おっしゃる通りだと思います. やはり原罪に対する解釈の問題なのでしょうか. 実感できないところがいかにも宗教のような感じが致します. 案外,宗教と詐欺は紙一重なのかもしれません. どちらも「信じる心」をモチーフとしている訳ですし… 何事も「信じる」前に物事の本質を見極める目を養う必要がありますね…じゃあどこでどうやって?… と思って入信した宗教が実は,みたいなことが世の中で起こっているのでしょうか.

  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.9

No.6です。 哲学って、ソクラテスに代表されるように、疑うことからスタートするわけです。 だから、原罪とか地獄とか現代に定義されているものは、本当にもともとそういう内容か?とまず疑って調べてみる。 例えば日本に閻魔様。  最初から人が死んだ後、閻魔様が審判をするという概念だったのか? 違うんですね。 口伝で人から人へ ある民族から別の民族へと伝わる過程で、その概念が変化して、別物になっていく。 他の人への返事として書かれている「ふだんは心の奥底で眠る悪しき何かがこらえ切れずに覚醒し,色濃く外に表れているのでは」の言葉で、 「ああ この人は霊を信じている典型的な日本人だ」と思いました。 日本人は宗教にうとい。 多くの日本人は外国の人に「どの宗教を信仰していますか」と聞かれ、「どの宗教も信仰していません」と答える。 にもかかわず、受験になると神社に行く。 正月には神社にお参りにいく。 実は日本人の風習・文化の中に日本の宗教は深く根ずいている。 例えば、ユダヤ人の大贖罪。 前回書いたように民族全体の穢れを清めるものです。 それによって民族が清められ、リセットされるわけです。 日本だと大晦日。 年末に掃除しますよね。 そして綺麗にしてリセットして清められた状態で、新年を迎え清めた状態で、神社に初お参りをする。 これ 宗教をやっているってことになるんです。 神社の境内に水が湧き出ていて、そこで手を洗いますよね。 穢れを流す行為です。 穢れたままじゃ、至聖所に近づいてはならないので、その手前で穢れを落とすってわけです。 どうして、穢れを落とさないと近づけないのか。 どうしてだと思います? 聖なるものが、人間が持ち込んだ穢れで、穢れてしまっては、人間を守ってくれる力が弱まるから と考えたからじゃないかと。 つまり霊を信じているってことですよね。 つまりそういう仕来たりの行為を行い、身を清めることによって聖なるが穢れないようにと<信仰>しているってわけです。 で、政治家が悪いことをして、職を追われた後、数年後、また当選をしたとします。 すると政治家は「私は国民によって禊を受けた」と言う。 当選したってことは、国民はもう この政治家が穢れがないと認めたってことです。 政治家の再生を国民は認めたってことです。 これが禊。 人は生きていくうち、無意識に穢れていく としており、そうならないように風習で穢れないようにしながら、完璧には回避することはできず、生きていくとまた穢れがついてしまう。 そうやってたまりたまっていくが、大晦日のあたりで、一斉にたまりにたまった穢れを洗い流し清め、リセットをするから、新年になるわけです。 日本は生の文化があり、キリスト教は死の文化。 日本は仕来たりを行うことで、リセットされ清められ、一度穢れたものも清められ生き続けることができる という思想。 キリスト教の場合 強迫神経症みたいなもので、いっくら手を洗っても洗っても洗っても洗っても、まだまだ洗い足りないと、水道水で手を洗いつづけ、皮膚から油が抜け、やがて出血し、痛い痛い痛い 助けてくれーーーーーーー!と病院で治療を受けている人のようなもの。 自傷行為を永遠に繰り返しているわけです。 これはこの宗教がそういう教義だから。 病気ですから病気は穢れたものの中にいるので、この穢れを清めるしかないわけですが、この病気を取り払ってくれるのは、医者じゃなく神様しかできない として、強迫神経症を神に治してもらおう 神に早く 早く 早く 早くーーーーーーと訴えているのが祈りなわけです。 文化の違いなんですね。 文化の違いによって、生き続けるか 死ぬしかないか とに別れる。 で、クムラン宗団は、油を塗るということはしなかった。 油を塗ると穢れがくっついて洗っても清められないから。 だから、沐浴を信者に勧めたんです。 例えば、洗礼者ヨハネ。 彼は穢れを清めさせるために沐浴をすすめたのか? 違うんです。 彼はもう自分は清められたものであるという自覚をしている人に、自分達の集団に入会することを許可していた。 つまり、穢れを清めるために洗礼者ヨハネはやってきたのではなく、既に清められていると自覚させるために、彼は荒野からやってきた。 だから、救世主はイエスではなくヨハネの方だって思想ができたんです。 で、そのヨハネをメシア つまり聖別されたものとしていた集団を、キリスト教は迫害した と。 どうでもいいですが、カインとアベルですねぇ・・・・。 まあ 日本の文化で育った私達は、その内部紛争をなにやってるんだか と笑うしかないのですが、やっぱり文化の違いで、死の文化になると、殺し合いをするしかないんでしょうね。 日本は信長以降 宗教戦争は無いそうです。 信長、秀吉あたりで、武器持って戦っていた宗教集団を徹底的に弾圧したらしいです。 それ以降 宗教団体が宗教戦争とかテロを日本国内で起こすことは無くなったのだそうです。 「和を持って尊しとこれを宗とせよ」という教えが宗教。 和の文化で育ってしまうと、この同じ宗教なのに、いがみ合うってのがよくわからないんですね。 それぞれが、自分こそこの世を救う救世主だといいながら、金の亡者になっている。 どうして信者は金の亡者を拝むのか? 冷静さを欠いてしまっているからだと思います。 どして冷静さを欠いてしまったのか。 穢れを清めていないから。 ちゃんと 穢れを清めて正月に神社に「私はもう清いです」って言いに行けれたら、穢れは消えているので、平穏になるんじゃないかなって思います。 ってことで、そういう気持ちを持って、禊をしてはどうでしょうか? 生きていくうち そりゃあ 穢れますわなぁ。 だけど 日本の文化は生の文化なので、清められるってしているんです。 それを信じるか、信じないか。 信じるとか信じないとかは別にして、生きている人間にとって 良い思想だなぁって思います。

chem_navi
質問者

お礼

3度に亘るご説教,痛み入ります. 日本人が無宗教なのは,アジアの離れ小島としての日本,という地理的な要因もあるのかもしれません. どこの宗教圏にも属していない,あるいはごっちゃになっている,といった感があります. ただし,日本人といえども人間である以上,不安はつきものですから,都合にかまけてお参りしていたのですね. おそらく日本人は何かを深く強制させられるのが嫌なのだと思います.クリスマスパーティーはするけれど,教会には通いたくない,初詣はするけれど別に頭は丸めたいと思わないし…,というふうに.かくいう私もそうなのですが. 仮に寺や神社や教会が,「うちの信徒にならないと初詣できませんよ.」,「入信いただかないとサンタは来ませんよ.」と主張し出したら面白いかなと思います. そんなことを言い出す宗教はもはや邪教ですが,日本の文化の背景にはしっかり宗教があるんですよ,という意識を高める機会があってもいいかもしれませんね.

noname#29999
noname#29999
回答No.8

こんにちは 原罪とはキリスト教の思想です。 当然のことにこの世の中には仏教やイスラム教をはじめたくさんの宗教がありますので、この地球上のすべての人が原罪を持って生まれてくると考えるのは出発点から間違っているといえます。 原罪を取り除けるのは誰か? キリスト教徒は入信の時の洗礼によってその罪を洗い流されます。 で、結論から言いますと、ご質問者がキリスト教徒であれば、受洗で原罪からは免れていますし、キリスト教徒でなければ、他の宗教の教義を気にする必要はないということです。 生まれてからすぐ受ける洗礼は本人に選択の余地がないことから、原罪の消滅にはならないとする宗派もあるようですが、一応キリスト教の考え方からすれば、受洗によって原罪を洗われた男女から生まれた赤子であっても人間は生まれたときには原罪を背負って生まれてくるという考えから幼時洗礼によって原罪を洗い流すという考え方が一般的です。 無原罪といわれているのは聖母マリアただ一人だけです。 原罪を洗い流した後の人間の罪は死後、煉獄でその罪を償うという教義もあります。 その煉獄でも贖いきれない罪を犯したものが地獄に落ちるのだと考えられています。 このように、キリスト教の神は自分の掟を押し付ける代わりに救いの道も用意しているのですね。 また、メシアあるいはメサイアはお金儲けをしません。 イエスは後の世に、自分の名を騙る偽キリストが現れることを予言して います。 文鮮明をはじめとする新興宗教の教祖が自らをメシアと称しても本家本元のキリスト教会が認めたわけではなく、キリストが一番嫌ったお金儲けをして私腹を肥やしている以上、邪教集団でしかありません。 ですから、ご質問者がなぜ、ご自身を原罪を持つ人間と考えられたのか、それを自分の中で整理してからでないと回答も収束して行かないと思いますが。

chem_navi
質問者

お礼

ご回答いただき,ありがとうございます. そもそも洗礼とは原罪を取り払う儀式にあたるのですね. 当方,特定の宗教には入信致して居りません. そう致しますと,原罪を意識するまでもなく,一種のテクニカルターム(専門用語)としてとらえる立場にしかなさそうです. しかし,どうも他人の風当たりが強いように思われる今の社会,ふだんは心の奥底で眠る悪しき何かがこらえ切れずに覚醒し,色濃く外に表れているのでは,と感じるのは私だけでしょうか.そうではない気も致します.今回,このような感情が「原罪」という言葉となって表れたのだと思います.

関連するQ&A

  • 聖書の原罪と贖罪とハルマゲドンのサタン性

    キリスト教の原罪と 贖罪について質問です。 まず2つの 聖句をあげると、 (創世記 1:28 ) 神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。 (創世紀9:1) それで、神はノアと、その息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地に満ちよ とあります。 神様は人を増やそうと命令していて、誰かを殺そうとは命令しておられないと思います。 人を減らすようなことはしない。 むしろ 生まれることを望んでおられる。 これを確認したいと思います。 一方で アダムとエバが蛇にそそのかされて、食べると死ぬことをになる 知恵の実を食べてしまった。 2人は神のようになるという言葉を受けて、食べてはいけないと言われた 知恵の実を食べて 神様に背き、罪をおかし、永遠に生きる見込みを失って死ぬことになった。 これが 原罪ということだったと思います。 そこへ、こ の原罪を贖うために 代償として イエスキリストの命を 十字架にかけた。 イエスキリストがその死を持って 原罪を償った贖ったということだと聞いています。 そうすると、現在によってアダムとイブが死ぬことになった この2つの命、まず2人がいなくなるわけです、そしてこの子孫 もう 原罪を引き継ぐので、これらはの命も失われたわけです。 これで 無数の命が失われることになります。 人が死んでいなくなるわけです。 言葉が直接 すぎたらごめんなさい。 それなのに贖罪によって、イエスキリストの命も失われます。 十字架にかけられて死んでしまうからです。 と考えると、人がひたすら失われていませんか? それはこの文章の冒頭であげた、創世記の2つの聖句「生めよ 増えよ 地に満ちよ」という神様の命令や意志に矛盾してるし 反してると思います。 神様は人を増やしたいわけです。 命を増やしたいわけです。 ところが この 原罪と 贖罪の考え方では、ひたすら 人が減っていきます。 一説によれば神様は 十字架にイエスをかけられることを計画にされ、イエスの前の時代に生まれてきた 預言者たちはイエスが十字架にかけられることをあらかじめ 述べていた。 イエスも十字架にかけられる前日に、ペテロによって 十字架にかけられるようなことがあってはなりませんと言われたけれども、イエスはペテロをあなたは人のことを思って 神のことを思っていないと退けて、十字架にかけられます。 もちろん イエスは様々な 奇跡を起こす力を与えられていたので、十字架を避けることもできたでしょう けれども、十字架にかけられる方を選んだ。 でもそれって本当に神様が望んだことなのかなと思います。 先ほども言った通り 神様は誰の死も望んではいなくて、むしろ人が増えていくようにと思っているわけであって、アダムや エヴァ それの子孫の死もイエスの死も望んでいないと思います。 では 何なんだろうと考えた時、サタンの思惑ということが浮かんできます。 永遠の命を見込まれていたアダムとエバをそそのかし 知恵の実を食べさせて、死に追いやり、原罪を贖う 目的でイエスキリストを十字架にかけ、死に追いやり、大勢の人を死に至らしめた。 例えば アダムとエバが原罪を負った贖いとして、イエスの死によらなくても あるいは、新たな命を誕生させることによって贖わせることもできたと思うんですよね。 アダムとエバの原罪を贖う方法として、もしあなたたちが新しい命を誕生させれば、赤ちゃんを生み出せば、あなたたちの原罪を取り払いましょうと全知全能の神様ならできたと思うんです。 ということは原罪による死、その子孫の死、 それを贖うための死、これらはとても サタン的だなと思います。 死ぬことでしか 何かを表現できないからです。 神様ならば 誕生させることで全てを表現してくれるんじゃないかと僕は思います。 イエスの贖罪後も 人は死んでいます。 本当に神様が望んだ贖罪であれば、それが神様的なものであれば、直ちに 永遠の命が与えられると思うんです。 それから 2000年経ったと言われる今も人は死んでいきます。それは 原罪と 食材がサタン的なものであり、神様の意志にそぐっていないからじゃないですかね。 例えば 子供がお腹を空かせて親に食べ物を求める時。親はできるだけ早く食べ物を与えたいと思うと思います。 ところが 永遠の命が与えられるのは ハルマゲドンの後。死を恐れ 苦しむ人もいるのに、ずっと先です。神様ならば 直ちに 永遠の命を与えてくれるんじゃないですか? 原罪、贖罪、 ハルマゲドン、 復活はサタンによる計画 じゃありませんか? ご読了に感謝します

  • 人間は誰の子??

    宗教について質問があります。あるサイトで人間はアダムの最初の妻であるリリスとルシファー(サタン)との間の子だから悪魔の子である。と書いてありました。でも聖書では、アダムとエヴァの子孫と書いてあります。どっちが正しいのですか?教えてください。

  • 神が創造した【人間】は神を裏切った。

    ちょっと変わった質問内容になりますが、ちょっと考えたいことがあるので、ほかの方の意見が聞いてみたいです。 興味のない人や意味が分からない人はレスしないで、スルーして下さい。 人間は常に「悪」の部分と「善」の部分の両方が対立し合ってると思います(あくまで個人的思考です) しかし、人間は生まれたばかり(赤ん坊)の時は「悪」の部分は一切ないと思います。やはり育った環境や周りの影響によって生き方が変わっていくと思います。これは凄く興味深いと思います。 ここからは、とある「宗教」の教えを話します。 初め「人間」には「永遠の命」を神に約束されていました。初めは人間が死ぬことは一切ありませんでした。つまり現代の「死」というものは無かったのです。それが、当たり前だったのです。 初めに人間として作られたのは「アダム」でした。そして人間には、ほかの動物とは決定的に違う能力を授かってました。それは「考える能力」「物を作る能力」です。現代の人間が発達した力です。実は「動物」「植物」の名前も「アダム」が考えたものです。 その後、「神」は「アダム」の骨から「エバ」(女性)を作り出しました。初めは一種だった人間ですが、「エバ」が生まれた結果、人間には「男性」「女性」っという風に性別が生まれたのです。それと共に人間は「繁栄する力」を持てるようになりました。もちろん、「永遠の命」を授かってる人間ですから、このまま「繁栄」すれば素晴らしいことだったのです。 しかし、その頃「神の見使い」の中に悪事を働く「見使い」がいました。それが「サタン」です。今現在の世の中を悪化させてる本人です。 「永遠の命」を約束されていた人間にも、一つの守り事がありました。 それは、とある「木の実」を絶対に食べてはいけないっという約束でした。(これはエホバが人間を試していたのだと思う) しかし、「エバ」と「アダム」は蛇に化けた「サタン」の「嘘」を信じ、神の約束を破り食べてしまいました。 初めに「食べよう」と誘ったのは「エバ」でした。そこで「アダム」が留まれば、人間がこのようになることもなかったのに、二人は食べてしまい「楽園」から追放され、「永遠の命」を無くしてしまいました。 (この辺は過去の歴史にもありそうなことです。) そして、「神」を裏切った「サタン」は「地球(元は楽園だった)」に追放されました。 そして、歴史が流れ・・・今現在の世の中です。 「宗教」の話しをずっと話していきましたが、私はこの教えは正しいと思っています。信じる信じないと人それぞれです。 しかし、「神」の存在はどうしても信じてはいられないことがこの世の中には一杯あるのではないでしょうか? 宇宙、地球、人間、生物・・・。 これらが自然に出来たと到底思えません。色んな説が科学者達が話していますが、それは単に人間の「妄想」「逃げ」だと思います。 「神」の話や「アダム」「エバ」の話しも「人間の妄想の一つ」という風に思う人もいるでしょうが、人間の妄想では片付けられない真実も沢山目の前にあります。 それに、今の人間は物事を軽率に考えすぎだと私は思いました。世の中もドンドン悪くなる一方だし、人間は過去から全然学んでません。 戦争もなくならない。殺人もなくならない。差別もなくならない。 確かに人間には良い部分も沢山あります。しかし、愚かすぎます・・・。難しいと思いますが、皆さんはどうお考えでしょうか?「神」を信じる信じないだけではなく、色んな意見が聞きたいです。

  • 洗脳学を学ぶには・・・

    洗脳学を学ぶにはどうしたら良いでしょうか? 当方20代前半男性です。20代前半の子を洗脳したいです。 洗脳学の塾もあるみたいですが、怪しい宗教が関係してそうな所が多いように思います。 洗脳の基礎から学びたいので基礎的な本はないでしょうか? 名古屋市内で洗脳について学べる大学はないでしょうか?

  • 憲法で、国の宗教教育を禁止している国家なんて日本以外にあるの??

    人間が、もし、偶然に単なるアメーバーの遺伝子エラーの 累積淘汰のなれの果てだと言うのなら、目的もなく 偶発的に突然変異で現れたのですから、人間には、生来 創造目的もなく、つまりは、存在目的もなく、結局、 存在価値もないということになりますが、そんなんで、 本当に、人権教育など出来るのでしょうか? 人権とは、生れながらに人間なら誰しもが持っている 自由権を中心とする生存権のことです。 生まれながらに・・・ということは生れる前からということになりますが、 とすると、アダムとエバが生れる前から・・・ということに なり、必然的に、人権を与えた方は、神ということになります。 つまり、これが、天賦人権論の根拠です。 神を否定するマルクス・レーニン主義の唯物的な思想に 洗脳されている「日教組」の教師達が、真の人権教育ができるとは 勿論、思っていませんが、果たして、日本の憲法第20条のように、 憲法で、国の「宗教教育」を禁止している国家などあるのでしょうか? 私は、この日本以外には、どうも考えられないのですが・・・ 子供の教育における宗教教育は、「政教分離」とは 違うような気がするのですが・・・ ご存知でしたら、教えて下さい。

  • 悪魔の存在しない宗教ってありますか? 

    こんにちは、宗教書は3行読むと眠たくなるので、全く読めないものです。お手柔らかにお願いします。 最近トーマス・ペインの「理性の時代」を読んでおりましたら以下のような内容の事が書かれていました。(引用ではなく、まとめますと) 「天上の戦いで敗れたサタンがエバをだまして全人類を堕落させた。」というのは全知全能の神の失態としておかしい。 なぜ完全に封印しなかったのか? 悪魔がいないと神を頼らないから宗教は不必要になってしまうからだ。 みたいな事が書かれていました。私は「そういえば、宗教には悪魔って存在があるなあ。」と思いました。 信心ゼロの私は、日々の生活の中で確かに悪魔について考えた事はありません。(ついでに神や仏についても。) ただ、疑り深い私は「そんな事言うけど、全部の宗教に悪魔ってるの?」と思ってしまい質問するに至りました。 冒頭にあります通り、宗教には全く興味ないのですが、「悪魔が必須条件かどうかだけに興味があります。」 匿名である事をいいことに、こんな事を質問しています。 複数の異なる意見がありました場合は、分からない事にBAはできませんのでBAなしで締め切ります。宜しくお願い致します。 追記:仏教については過去質問を検索しました。 https://okwave.jp/qa/q8030564.html しかし、「悪魔 仏教」 で検索したところ異なる意見もあり、、 https://www.higashihonganji.or.jp/sermon/word/word10.html という状況です。 (当方、まったく仏教についても知りません。)

  • 原罪

    原罪は「Felix Culpa」であると言った心理学者がいたそうですが、その心理学者の名前を教えて下さい。 友人に聞かれて、調べたのですが分かりませんでした。 よろしくお願いします。

  • 原罪についてです。

    宜しくお願いします。人間は生まれながらに罪を背負っているとありますが、その罪とはどのようなものなのでしょうか?七つの大罪は知っているのでそのほかの罪のすべてを知りたいです。

  • われわれは原罪を犯せしや?

     【質問】 神はアダムとエワに じぶん(つまり神自身)に背くというへそ曲がりを起こさせたその罪をつぐなうために イエスをとおして《ごめんなさい》と詫びた。  こう表現しては 間違いでしょうか?  * 批判的なご見解 つまりそれは間違いだというご意見の場合には特にこてんぱんに けちょんけちょんになるまで述べてくださるよう願います。  * 原罪についてのわたしの考えは ついこの四月でも 次のような内容でした。よかったら参照してください。  【Q:原罪】その回答No.3  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4904345.html

  • 原罪についてです。

    宜しくお願いします。キリスト教の原罪思想というのはどのような思想なのでしょうか?教えてください。