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死について

この掲示板でも「死について」の投稿、回答を多数拝見しましたが、私の思いを投稿し、改めて皆様の意見、考えをお聞きしたいと思います。 夜寝る前や、ふとした時に「死について」考えた時にとてつもない恐怖心に襲われます。 ・死ねば意識は無くなり完全な「無」になる ・自分もいつか必ず死ぬ。100%その時は訪れる。 自分にも必ず訪れる「無」が怖いです。 人類、何百万年の歴史と、これから過ぎて行くであろう何百万年の未来。自分が生きている100年などほんの一瞬で、それ以外は全て「無」。 まぁ、「無」になれば時間の感覚も何も無いので関係ありませんが。(笑) 答えは見えてて、「人生を楽しく悔い無く生きる」事です。 それしかありません。 何人かに話しを聞きましたが、死への恐怖心を「持っている人」と「全く持っていない人」に大きく分かれます。 「全く持っていない人」は死について考えた事が無い人が多いようです。ある意味、羨ましいです。(笑) 人生すごく幸せで、特に悩んでいる訳ではありません。 皆様の考え方、意見をお聞きしたいです。

みんなの回答

  • nabayosh
  • ベストアンサー率23% (256/1092)
回答No.12

私なぞは、 死への恐怖心を「持っている人」と「全く持っていない人」 で言えば、持ってない方だと思います。 しかしまあ、かつて持っていたこともありましたけれど。 死を恐れる必要はないと説いた哲学者たちの意見を聞いて、なるほどなと思ったこともありますが、この手のことは徹底的に論理的に考えて納得するしかないようです。 論理の世界には感情などあるはずもありませんから「死にたくない」なども切り捨てて考えるわけです。 そうすると結局どうなるか。 なんにも執着のないニル・アドミラリイな状態になるわけです。 「人生を楽しく悔い無く生きる」というtosshi_1978さんの答とは真反対になりそうですね。 楽しくなかったとしてもそれもまたよし、悔いがあったとしてもそれもまたよし、楽しく生きなきゃ悔いなく生きなきゃと頓着するのはそれだけ死を恐れているからこそ「楽しさ/悔いからの回避」という感情に逃げ込んでいるように思うのです。 もちろん、感情というのは一種の麻薬であり、この麻薬が切れる(幻滅する)などせずに一生が済めば「終わりよければすべてよし」、幸福な状態で死ぬことを最高の幸福だとする哲学者もいますが、感情という麻薬の効果が切れないという保証はありません。 したがって、私の場合は感情を切り捨てて論理だけで割り切ることにしました。 一時の感情に踊らされることなく、根底に落ち着き(不動心)があれば別によいのだと。 恐怖も感情の一種ですしね。

tosshi_1978
質問者

お礼

回答を書き込んで下さった皆様、ありがとうございました。 皆様のご意見、考え方などとても参考になりました。

回答No.11

 ANo.7 生まれてきた、最初がある身。死ぬ、終わる身。  誰しも、自分というディスプレーが真っ黒になり、本体もシャットダウンする。  当たり前のことを恐れるとは愚かしいことと、存じますが誰しも怖れる。これが当たり前。  怖れないというのは、気や意識をそれに向けてなく、頓着していないせいでしょう。  自己という意識があって、怖れないということは、どんなに大悟の人もいないものです。ヒンドゥの聖者も、イエス・キリストも、一時にしろ死を怖れた。当たり前では在りませんか。  だからといって、年中それで頭を、そして心を占領されっぱなしでは、それは愚かなこととなりましょうね。  このことも常識ですね。  臨死における、苦痛はどうか。実はそれほどないという話です。  ですので、私は、ANo.7で書き込んだことを、今、問題にしてるだけなのです。

回答No.10

個人的な経験です。中二の時から、「死」について深く考えてきて、恐怖と不安の中で、暮らしてきました。18年間、ずーっと「死にたくない。永遠の命が欲しい」とそればかりを、考えてきました。32歳の時に、ふとした事で、自分の「無意識の中の意識」と出会うことが有りました。 その時、分かった事が有りました。その意識が「仏性」だと言うことが。それは「不生不滅。在りて在るもの。永遠なるもの。無限なるもの。完全なるもの。絶対なるもの。」それは、自分の性を見ることでした。「永遠の命」が欲しくて苦しんできました。しかし既に自分がそれを持っていました。 その事で自分の考えが変わりました、いままでは「ただ死にたくない、の一点張りでした。」今度は違います。「死でも何でもその時が来たなら、ただ、受け入れるだけ」そんな心境です。「絶対肯定」という立場になりました。神の思し召しのままに、という事です。それからは「恐怖と、不安と、深い悩み。」が無くなりました。子供の心で生きています。 あれだけの恐怖の18年間で、ただ「生きずらい想いで」耐えてきました。あれは、自分の「生き方の誤り」が元だった。と理解しています。あれは「自分の我」と「仏性」の対立、或いは矛盾だったと思います。「神と和解せよ」という意味が良く分かります。「我」を殺せ、是は「自我」を殺せと言う意味ですが。良く分かります。 あれから、約30年の歳月が流れようとしています。あの時は「ノイローゼ」になっていて、本当に苦しい想いで暮らしていました。ですが、無意識の意識に会ってからは、苦しい想いで生きていた事、「ノイローゼ」だった事を、忘れてしまっていました。生活する事で手一杯だったようです。39歳で商売を始めたという事も有るかも知れません。 もう少しで引退したいと、考えています、そうしたら自分の「生きにくさ」の解消が他の「生き難い想いで暮らしている人達の」お役に立てるのかどうか?今模索中です。

noname#80116
noname#80116
回答No.9

 個人的な経験を述べることしか出来ません。  三十歳ころまで 死の恐怖がありました。その後は 恐れがなくなったのではなく 恐れが起きてきても 何らかの心の蔽いが現われて その恐れを包むようになりました。さらにその後 あらためて死の恐怖を味わうことになります。からだは老いそして朽ちるわけですから その自覚によって あらためて 若いころの恐怖が 起きてきて しかも 心の蔽いが 現われなくなりました。最近やっと 蔽いが来てくれるようになりました。(変な言い方ですが 自分では この恐怖はきびしいと もう観念していると おそれの心理が蔽われていくといったものです)。  問題は 考えるに はじめに恐怖がわたしを襲っていたとき それでも わたしは つねに この死の恐怖がわたしの人生の最大の問題ではないと思っていました。そして そのように現実もなりました。  歳をとってから あらためて 死の恐怖を感じたのですが それはなぜか。最大の問題ではないと捉えているのに。こうやって 人と話しができるという結果につながっています。自分に都合のよいように 底抜け楽天史観で そういうふうに解釈しています。  結論です。 ★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  答えは見えてて、「人生を楽しく悔い無く生きる」事です。  それしかありません。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この答えは 内容が 人間の知恵として 妥当だと思われるその反面で わたしから見れば それは 死の恐怖を人生最大の問題だと見なしているその結果であるように 感じられます。だとすれば 強固な基盤の上に立ったもののようにも感じられません。  というお節介が わたしの最終回答です。  回答を寄せるというのに わざと その悲しみを増し憂いを深めたと思います。だとすれば 死の恐怖の問題よりも 大事な問題に取り組んでいかれるよう 希望しお祈りしております。

  • shift-2007
  • ベストアンサー率14% (143/1013)
回答No.8

>「無」になるので、確認も何も無いと思ってます。 お金持ちが貧乏に『なる』ことは出来ます。自分が貧乏になったことを実際に確認できるからです。 しかし、無に『なる』ことが出来るのでしょうか。無になった自分を確認できるでしょうか。確認できないのに『なる』となぜいえるのでしょう。 私は無に『なる』ことはありえないと思います。 >恐怖は消えません。答えというか、それがベストだと思ってます。 もしベストであればこの質問は立たなかった思います。もっと別な答えがあるのではないかという動機じゃないでしょうか。 >私にとっては「死=恐怖」です。 死から恐怖を取り除くことが出来たなら、私たちはこれほど死を問題にするでしょうか。そういう意味で私たちが問題にしているのは死ではなく恐怖であると思います。故にたくさんの考え方を必要とするんじゃないでしょうか。 心理の動きを捉えていないと、哲学的な問いが気持ちに振り回されるんじゃないだろうかと思うわけです。

回答No.7

 大人になることは、少年の頃にも必ずしも非現実的なことではなかった。  そしてどんどん転回し、展開し、二十歳で就職した時、「へぇ!あの方、四十歳?ずいぶん年とっているな、よく生きているな。兵隊に六年もいた?へぇ、それで何、栄門陸軍中尉。いろんな所で生きてきたって?まるでばい菌みたいだな。」などと思っていましたし、それを口にして笑われました。  そして自分も六十をいつか過ぎ、気がついたら現地雇い上げ(ノン・キャリ)では人臣の位は極まっていた。  四十数年いた所で、定年後も、雇用を頂きながら、老人になってきた。  少し前まで老人になるなんては考えても居なかった。そしていつしか、紛れもなく古希は老人。  知らぬ間にどんどんプログラムで、ディスプレーが展開・転回して、いわゆる寿命の尽きる時も予測できる年齢。  どんな死かは知らないが、ディスプレー画面が、いわゆるこの意識世界では消えたとなる、時。  これが死なのだろうが、この意識世界での他人にも確認されなくなる。これについて、恐怖だとも、恐怖でないともいえない。  誰でも経ていることだからともいえるし、自分には新しいことだからともいえない。  でもうろたえて、死を死んでいかないですむ仕方を考えております。  普通の医療も末期医療はもちろん断りたい。  家内、長男、家を出ている娘達の面倒も、私自身の姉妹の手も煩わすのはご免だ。もちろんむつまじく、いたわりあって生活している状況ではあるが、今は。先は状況は無論どうかはわからない。  自分で死にたい。自殺ではなく。それまで自分で生きたい。介護はされたくない。福祉も専門家も煩わしたくない。  ホスピスもおことわりしたい。  僧職の友人達の読経なら結構だが、戒名や、葬儀はお断りしたい。  中学からの号に字を加えたものだが。体を出た後の、呼称は自分でつけ、いろんな始末の仕方とともに書き残してはあります。  それは区切り目の新しい呼称で以って、終わり、出て行きたい。  そういうときを迎えていく、今の自分への言い聞かせのための呼称であります。  できるなら、自分で衰弱し、擦り切って死んでいきたい。  ディスプレーが消えて、自分が消えて、終わりたい。  人に見えているディスプレーが消えた後、自分もそっと自らのシャットダウンの操作をして出て行きたい。  なによりうろたえたりしないで、人の介助や医療を断って、いけたらいいなと存じます。  小鳥や野生の生き物が終わるように、植物が枯死するように。ひとりで静に。  医者と坊主の話は昔からとやかくあることだが、この職業の人たちだけは寄せ付けたくない。  友人の医者や坊主が友人としてなら、おいで下さってもいいが。  どうかよいご助言にめぐり会えますように。

  • eienn
  • ベストアンサー率16% (77/462)
回答No.6

僕の友達にも、 「無が怖い」という人がいました。 そのとき僕は、その感情を理解できずに、 「愚かだなぁ」と思いました。 うつ病になって、自殺を考えたとき、 無意識の恐怖がある。 「愚かだ」と思った感情に、自分は今生かされています。 「私の意志」など、ちっぽけなものでした。 それから、世界史の勉強で漫画をみたとき、 古代の葬儀の描写で、少年が、 「人が死んだらどうなるの?」 と聞くのです。 大人たちが、 「わからない。どこか遠くに行くのかもしれない。だから服を着せて、食べ物を入れて、土を掛けるんだ。」 と、言いました。 人はこれまで、出会いと別れ、生と死を繰り返してきたのだと、 改めて知らされました。 まだまだ、 私には知らないことがたくさんある。 果てしない世界を、ただ感じています^^

tosshi_1978
質問者

お礼

返信ありがとうございます。 >人はこれまで、出会いと別れ、生と死を繰り返してきたのだと、改めて知らされました。 私には理解し難いですね。。前世の記憶が無いので、それっきりなのかと思ってしまいます。 >果てしない世界を、ただ感じています^^ ほんと、不思議な事ばかりですよね。 そもそも生命って何なんでしょうね。(笑)

  • cabin504
  • ベストアンサー率8% (30/341)
回答No.5

昔から、それが大問題ですね。 不老不死の薬を探した人もおりますからね。 でも、未だに免れた人はいないですね。 「人間は刑期の決まっていない死刑囚だ」と言った 人もおります。 生まれなければ死ぬこともないのですが 生まれたら、どうも死ぬことは避けられないみたいです。 とりあえず、何もないところから生まれて またそこへ帰るみたいなものでしょうね。 「人生を楽しく悔いなく生きる」これは、考えてないですね。 私はどちらかというと「私を必要としてくれる人がいれば その人の為に生きる。」ですね。 折角生まれてきたのですから、誰か一人にでも 喜んでもらえることができれば、よしとしましょ。 そこに、生きてる価値を求めたいですね。 本来、親というものは少なからずそういうものだと思います。

tosshi_1978
質問者

お礼

返信ありがとうございます。 >「私を必要としてくれる人がいればその人の為に生きる。」 >そこに、生きてる価値を求めたいですね。 とても素晴らしい考えですね。 参考になります!

noname#91067
noname#91067
回答No.4

死への恐怖心がない!という人も稀に居られます。 ニーチェの「永航回帰」に傾向してかも。 その方は不眠不休のワーカーホリックで、 自分だけのために冷暖房を使うのも拒んで 「負けを認めることになる」とか「頭が悪くなる」 とかいって、なんというか無謀を絵に描いたような人です。 「意味があることは疲れる」「私は死ぬ程明るいので悩みがないのです」 ということらしいです。 生きることが喜劇で、死ぬことが悲劇でも プラマイゼロってものでしょうか。 マイナスでないだけその方には報いられた救済になれるかもしれないです。 それでしか救われない生を好き好んで選んで、 道化師となる心境があってのことで、 自身の死さえも「私の身体は臭い肥しで、 死んで分解されて薬になってあなたに飲まれるかも(笑)」と笑ってた。 私が死を割合身近に感じた時もあって、 生き恥をさらして生きるより死んで逆転勝ちにしてやろう。 世の不条理に対して、と思いました。 私が無になってしまうのではなく、 「私の世界から全てを抹消しよう」という弱者の策略です。 それは今でも時折持ってしまう悪魔の大王のような私ですが これまた弱さゆえ死に損なってますので、天使と残念会ばかりです。

tosshi_1978
質問者

お礼

返信ありがとうございます。 私は死ぬのが怖いので、死ぬ勇気があれば何でもできると思ってますが、死にたい程辛い状況になれば考え方も変わるでしょうね。。 でも、何百万年経ってやっと生まれたのに自ら死ぬのはもったいない気はします。嫌でもいつか死ぬんだし。

  • shift-2007
  • ベストアンサー率14% (143/1013)
回答No.3

>死ねば意識は無くなり完全な「無」になる 本当に? >自分もいつか必ず死ぬ。100%その時は訪れる。 どうやって自分の死を確認するんですか? >人生を楽しく悔い無く生きる事 答えになってますか。なぜ死への恐怖が消えないのでしょう。 私たちが問題にしているのは『死』でしょうかそれとも『恐怖』でしょうか。

tosshi_1978
質問者

お礼

>どうやって自分の死を確認するんですか? 「無」になるので、確認も何も無いと思ってます。 >答えになってますか。なぜ死への恐怖が消えないのでしょう。 恐怖は消えません。答えというか、それがベストだと思ってます。 >私たちが問題にしているのは『死』でしょうかそれとも『恐怖』でしょうか。 意味をよく理解できてませんが、私にとっては「死=恐怖」です。

tosshi_1978
質問者

補足

返信ありがとうございます。

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