• 締切済み

死が怖いのですが、皆さんはどうですか?

24歳の大学生です。 悩みというほどのことではないのですが、 死に対する恐怖が異常に強いような気がしていて 皆さんのご意見を伺ってみたくて、質問させて頂きました。 これまでトラウマになるような特別な体験をしたこともありませんし 今やこれからの自分の人生に不安があるというわけではありません。 この件に関係ありそうなことで、強いて言うなれば これまで身近な人を亡くしたことがないことぐらいでしょうか。 死への恐怖は幼い頃からずっと感じています。 恐怖の対象は、死を迎える原因(病気や事故)そのものではなく 死の概念に対してです。 自分という存在がこの世からなくなってしまうということが 自分の中でうまく受け入れられずに、混乱してしまいます。 恐怖心は特に就寝時に強くなります。 加えて、日ごろから考えたり行動したりするとき、色んなことに対して 『これで○○くらい終わった、○○ぐらいまで来た』『あと○○くらい残っている』 と常に考えてしまうくせがあります。 例えば 旅行へ行けば『今日で旅行の3/1終わってしまったなぁ』『残り1/3か』 何日か先に試験があれば『もう勉強できる時間の1/2終わってしまった』『残り1/2しか勉強できない』 ジョギングをしたり、やらなければならない仕事があると『やっと3/4まで来たか』『まだ1/4も残っているのか』 といったようにです。 (理系なせいか、どうしても数字に換算したがるきらいがあるようです…) 同じように人生についても 『75歳まで生きれるとしたら、もう1/3終わってしまったんだなぁ。残り2/3か。 でも50歳過ぎたら、いつ病気になってもおかしくないし そう思ったらもう1/3しかないのと同じなのかな…。』 と考えてしまいます。 また年配の方を見かけると『あの人は死ぬことは怖くないのかな』と思ってしまいます。 物事には必ず終わりというものがあるし、誰でもいつかは死ぬのですから あんまりウダウダ考えてもしょうがないのは分かっているのですが。 残りの時間限られているのなら その時間を有効に有意義に使おうという風に考えればいいのにと 自分でも思うのですけど、どうもそういう方向へは行かないみたいで…。 取り留めのない文章になってしまい申し訳ありません。 大変稚拙な質問で大変お恥ずかしいのですが 皆さんにお伺いしたいのは ・自分の死に対してどのように考えているか、死に対する恐怖はあるか ということです。 特に、年配の方のお考えを聞けたら嬉しいです。 何卒よろしくお願いいたします。

みんなの回答

回答No.15

50過ぎたオジサンです。 私も若い頃は同じような考えを持ちました、しかしその事を考えても仕方ないこと。 今日、明日を楽しみに生きることです。 死の瞬間までだれも解らないのですから、今は人生を楽しむことだけかんがえましょう。 死の恐怖は誰でも有ること、それを宗教に利用されないことです。 自分は充分生きたと思えば怖さは薄れますよ。

回答No.14

ごめんなさい、年配ではないです 手塚治さんの《ブッタ》を以前読んだのですが 『(うる覚えですみません) さなぎが脱皮して蝶になるとき、さなぎは自分が脱皮をしたら何になるのか分からず本能で行動している 人間もまた同じで、死んだ後に広がる世界を知らないから恐怖に思ってしまう・・・』 みたいなことを言っていました。(う~ん・・・上手く伝えられないのですが・・・) 相変わらず死に対しての恐怖は変わらないですけど 《ブッタ》読んでからはちょっと死に対する意識は変わった気がします。 特に宗教的な何かを信じているとかではないのですが。

  • sumiwaka
  • ベストアンサー率22% (462/2090)
回答No.13

自分の「死」についてですね。 私は、持病があって、以前、医者から明日死んでもおかしくない、と言われた事もあり、死、ということに関して時々考え込みます。 ただ、思うのは、その時、ジタバタする自分でありたくないと思っています。呼吸を止めた私を家族や誰かが見た時、落ち着いてその瞬間を迎えたのだなって思ってもらえればと常々思ってます。 その時の準備というのは、ある程度はしています。残された人々が、どこから手を付けてよいか分からないというような事にならないようにと準備はしています。会社の仕事にしても、すぐ引き継ぎが出来るようにノートを準備しています。遺言も毎年誕生日に書き換えてます。 死、というものは、生身が無くなるということで、自分という人間は来世でまた来世の世界で生きている、ただし、生身の人に自分の生の声は聞こえないだろうけど、自分の大切な人を来世で見守っていくのだろうと思っています。 医者から言われたのは約8年前ですが、その頃は死に対して怖くもあり悲しくもあったのですが、いつかは来る日なので、その時が来るまで今を生きて、その時が来たら静かにその事を受け止めるだけと思っています。 年配というか、43歳の独り者の女性です。

  • delsole_d
  • ベストアンサー率20% (89/434)
回答No.12

>・自分の死に対してどのように考えているか、死に対する恐怖は あるかということです。 =死に対する恐怖はありません。(多分無いほうだと思う) 持病の為に何度か「このまま死んでしまうのかな」と考えた事も あります。でも、まだその時は余裕があるから考えますが、 そうでない時は死んでしまう恐怖より病状の悪化の方が辛くて 自力では動けないし放心状態なので恐怖すら感じられない意識に なります。後になって想うと、そのまま眠るのが死なんだろうな~ と、受け止めています。 入院するほど重傷な時には(死を感じた時)「ああ、あそこの 片付けをしておけばよかった」とか「あの書類たぶん探せなくて イライラさせちゃうんだろうな」とかボーっと考えていました。 その事があって、退院後に主人に手紙を書き、私に何かあった時を 想定し思い出と想像と感謝の言葉を綴ったものをベタですが箪笥の 引き出しに入れてあります。 主人も「人生80歳なら既に半分過ぎたな~子供もいないからぽっくり いけるといいな」とか言ってますが、10数年前は「遺体は冷凍保存して おいてくれ」「脳だけ生きていられないかな」とかアニメやマンガの 見過ぎ発言してました。自分が死に近づいた経験がないと漠然とした 不安からそんなふうに思うんでしょうね。

回答No.11

30代男です。 恐怖や何かより死に対して全く現実味を感じていません。 いつかそういう時が来るだろうとは思いますがいまいち他人事として考えてしまいます。両親も健在ですのでそう思うのかもしれませんが、今まで生きてきたよりもまだこれからの人生のほうが長いと思っているので近づいた時に考えます。 一度事故で死にかけましたが、その時は「あ~もう無理や」って思っただけで他には考えなかったです。

回答No.10

同年代だけど死はまったく怖くないなー ただいつでも来いってわけじゃないな 綺麗に死にたいから

  • chirobu-
  • ベストアンサー率11% (228/2017)
回答No.9

生きている限り、自分の事であれ、人事であれ、身内の事であれ“死”は現実にある事がらであるし人間は“死”からは逃れられません。なんて別に質問者様を怖がらせようと思って言ってる訳ではアリマセン。小さい頃はおばあちゃんの、子供の頃には仲の良かった友達、その後は身内(おばさん、おじさんなど)、友達のおばあちゃん、母、ご近所の方々、父の葬儀(“死”と対面すると言う意味で)を経験して来ました。解ったのは、“人間は死ぬ”って言う事・・・。(まあ、ペット(動物)だって“死”にますが。)30歳位まではちゃんとその事を受け止めきれてなかったような気がします。でも、ここ数年自分の“死”ではなく親の“死”の影に怯えながら生きてワザと気にしていないように(自分でも)振舞ってきたけど、それが現実になり、具体化して自分自身と供に(“死”が)横たわった時パニック(心の中で)にはなったけど・・・そこで冷静さを失っては生活ができません、“死”も(特別な事ではあるけれど、精神的にはそうだけど)“生”も同じ生活の一部であり、特別な事では無いのです。ただ、受け入れる事です。恐怖の余り“嫌悪”していましたが、それでは進歩できないのです。恐怖を押し殺す必要は無いと思うけど、“死”の恐怖もろ共、人間には“死”を厳かに受け止める以外術は無いと思って下さい。ああ、でも子供の通ってた幼稚園の先生がこう言う事おっしゃってました、“否定的な言葉を話すのでは無く、肯定的な言葉を話すようにして下さい。”たぶん、コレが質問者様に必要な事だと確信します。若いんだから健康に気をつけてせいいっぱい“生”の方に執着して下さいまし!

  • dell_OK
  • ベストアンサー率13% (770/5733)
回答No.8

死に対してはどのようにも考えていません。 死ぬ者は死ぬのだ、死ぬ時には死ぬのだ、くらいです。 恐怖はありません。 と言っても、瞬間的に時々、惑う事はあるかも知れませんが、 質問者様のように慢性的なものではありません。 私もどちらかと言うと何かにつけて数字にしてしまうところがありますが、 「3分の1まできた」「あと3分の1」と言うような事は考えません。 こう言った、どこまできた、あとどれくらい、と言う考え方ができるのは、 ゴールが見えているからだと思います。 旅行から帰る、試験を受ける、ジョギング、仕事などなど、 すべて、ゴール、よしとする終わりが見えている、あるいは、 目標に向かって進むと言う前向きな姿勢があるからでしょう。 ただ、ゴールは見えているのに、何か漠然とした気持ちで、 その物事に取り組んでいるのではないでしょうか。 目標があるのに、目的意識がない、と言うか。 そして、ゴールのひとつに死と言うものがある。 けれども、その死に向かって、どのように、何のために、と言う、 明らかな目的意識がなくて、恐怖となっているとか。 私には、ゴールがありません。 目標も目的もなくただ生きていると言う感じです。 ゴールが見えないのではなく、自分が決めたゴールがないのです。 死と言うゴールもないので、いつまでも生き続けるつもりです。 私が死ぬ者であり、死ぬ時がこない限り、永遠に生き続けるのです。 あるいは、絶え間ないゴール。 晩ご飯のおかずを買いに行くと言う目標。これは容易に達成する。 ではその次、晩ご飯を食べる。これは容易に達成する。 ではその次、寝る。これは容易に達成する。 ではその次、起きる。これは容易に達成する。 ではその次、会社へ行って仕事をする。これは容易に達成する。 ではその次、家に帰る。これは容易に達成する。 ではその次、晩ご飯のおかずを買いに行く。これは容易に達成する。 無限にゴールテープを切って行く快さ。 生きる事に終わりなどない。 ゴールは終点ではなく通過点。 生きるためにただ生き、死ぬ事など考えない。

  • shift-2007
  • ベストアンサー率14% (143/1013)
回答No.7

一つの考え方として、 死は無いと言うのがあります。 例えば質問者さんが死ぬとして、 どうやってそれを質問者さん自身が知るのでしょうか。 つまりどうやって自分が死んだことを認識すればいいのでしょうか。 もしあの世があるのなら自分の死体を確認することは出来ますが、 しかし、確認している自分がいますので死んだことにはなりません。 どうあがいても私たちは自分が死んだことを知ることが出来ないのです。 知ることが不可能という意味で私たちにとって自分の死は無いのです。 「死は無い」つまり死なないのです。 この世界では死ぬのはいつも他人ばかりなのです。

回答No.6

20代で申し訳ないですが(ご質問者様より年下です) 死ぬのは怖いです。「自分」と認識できなくなることが怖いです。 考える、自身を認識する事ができなければ死んでいるようなもの。意識を失っていれば精神としては死んでいるようなもの。死後何もわからなくなる(かもしれない)事が結局怖いです。 自分も24時間死について考えているわけではないですがふとしたときに考えます。ご質問者様のように就寝前が多いです。寝るときの闇というのと寝る事により自分の意識がなくなるというのが自身の死のイメージとして結びつくからだと思いますが。 なんにせよ今は主に仕事や娯楽の事ばかり考えています。(それはそれでこれでいいのか自分?と疑問に思いますが)何か熱中できるもの、真剣に取り組めるものがあれば、自然と薄れていくことかも知れません。

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