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羅生門とエゴイズム

aspyonの回答

  • aspyon
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回答No.2

こんばんは。 もう、私が、まさにその通りだと思ったのが >辞書では「利己主義」と書いてあったのですが、そのまま、「人間の利己主義を描いている」と書くと、意味不明になりました。 !!!!!!その通り!!!!!! そんな解答じゃ意味不明!なんです。 それなのに、十中八九、参考書には「人間のエゴイズムを描いている」とあるようですね。 なぜ意味不明になるのかを考えた時、 「だから、芥川はそのエゴイズムを肯定しているのか否定しているのか、 そこが問題なんじゃないの?」 と私は思うのです。 この作品はエゴイズムを描いている、とするのは 解釈としてあまりにも中途半端なのです。 「この女は生前悪いことをしていたんだから」と 生き延びるために、死んだ女の髪の毛を抜く老婆の悪(老婆の「悪」=死者への冒涜?)が許せない。 しかし、老婆の自己弁明の論理を聞くうちに 下人自身、生のための悪は悪ではないという理屈を立ち上げ 老婆の着物を引剥ぎ(=下人の「悪」)して夜の闇に消えていった。 芥川はこの下人の行為を認めているのか、否定しているのか。 そこが、この作品の解釈をするに当たって大きなポイントではないでしょうか。 下人の行為…「自分が生きるためにと悪を犯す」→エゴイズム 人間のエゴイズムを描くって…ただこれを描くことが目的か? 私は声を大にして「否!」と言いたい(笑) この下人を肯定する、もしくは否定することが ひいては「エゴイズム」の肯定/否定につながり 作品の解釈として抽出されるのではないでしょうか。 (とりあえず、肯定・否定はおいといて) ということで、 少しは何か、役に立てますでしょうか?

noname#129397
質問者

お礼

 ご意見を有り難うございます!  やっぱりエゴイズムについて考えを持っていたのは私だけではなかったのですね。それにしても羅生門の世界は奥が深く、いろいろな考えを聞くことができました。  下人を肯定・否定かどうかがエゴイズムと重なってくるというのはなんだかすごいですね。  すばらしいご意見を有り難うございました。

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