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羅生門とエゴイズム

aonekoの回答

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  • aoneko
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回答No.1

とてもとても主体的に作品を読んでいらっしゃいますね。 文学作品は読者が自由に解釈して楽しむものですから、 この方はなんてしっかりしているんだろう、と大変頼もしい印象を受けました。 さて「解釈」というのは、見たり聞いたりしたものに対する説明で、自分の心をフル稼働して言葉にしたものを、他人に「どうだ」と聞いてもらうこと。 そしてその相手とのやりとりの中で自分の(そして相手の)解釈を深めていくということ。 ・・・という考え方を私は持っておりまして、 早速質問コーナーに入らせてください。(笑 ■「平安末期」と「大正の今」の何を対比しているか分からない■  これは非常におもしろいところに気づかれたな~と思いました。 ただここには「文化」や「生活」と言葉を挙げられたのみで、具体的に何を対比しているのかが分かりません。 「平安末期の民衆の生活=質素で貧しい」「大正時代はそれに比べて物が豊か」という物的な面だけでなく、人間の心・精神面においても対比しておられるのでしょうか? ■「自分を失わない」「自分を持つ」において、「自分」とは何を意味するのか分からない■  死人の毛を抜く老婆を目撃して、一瞬正義感のようなものを覚えた下人が、 (「悪に対する反感」「何の未練もなく、饑死を選んだ事であろう」「悪を憎む心」など)、 老婆の話を聞いた後、「きっと、そうか」「己もそうしなければ、饑死をする体なのだ」と老婆の着物をはぐという正反対とも見える行動の変化がありますね。 ここまで揺れ動いた行動を通してみて、下人の「自分」というのはいったいどういうものなのか、あなたのお考えを詳しく伺ってみたく思います。 「下人の心」を解くところから「人間のエゴイズム」という問いに対する答えが見えてくるかもしれません。 ■芥川が民衆に何を警告しているのかが述べられていない■ 警告・警鐘というのは「気をつけろよ、危ないぞ」ということですが、 大正時代の人々にとって、何が危険なのだと芥川は考えていたのでしょうか。 もしよろしければ、上の3つの点について、jm4cvpさんのお考え・解釈をお聞かせくださいな。

noname#129397
質問者

お礼

 ご意見を有り難うございました!鋭い質問をされて私もどきっとしましたが、自分なりの考えを書いてみます。 ■「平安末期」と「大正の今」の何を対比しているか分からない■  羅生門の世界で、下人は、今まで揺れ動き、「盗人になる」ということを肯定できずにいたが、老婆のやっていること、その話を聞いて、盗人になるという勇気がでました。逆に言えば、下人は老婆の話によって盗人になるのを決め、その瞬間自分の意志(考え)が消えてしまったのではないかと思いました。 ■「自分を失わない」「自分を持つ」において、「自分」とは何を意味するのか分からない■  「自分を持つ」とは、「自分の考えをしっかり持つ」ということだと思います。たとえば、話し合いなどで、多数派の意見につられずに、自分の意見を持ち続けて、納得いくまで主張し続ける。「頑固」ではなくて、「自分の意見をしっかり持っている」のだと私は考えます。  下人は、今まで他人に使われる身で、自分の考えを持たずにも生きていけたと思いますが、突然放り出されて、自分の考え(盗人になるか餓死するか)を持たずまま老婆に出会い、老婆につられてしまった。と思います。 ■芥川が民衆に何を警告しているのかが述べられていない■  私の考え過ぎかもしれませんが、私はいつも「豊かになって、何も努力しなくてもいい生活ができる時代だからこそ、自分の意志をしっかり持って行動しなければ他人につられ、いつしか他人に使われ放題の自分になってしまうのではないか。」と考えるようになりました。そういうと貧しいとつられにくいということになってしまいますが、確かに周りも貧しいと、自分を助けてくれる相手も限られてくるかと思います。そうすると自分の意志が大切になる。と思います。  平安時代、洛中で自分を支えてくれる主人を持ち、自分を持たずにも働けた下人が突然放り出され、自分の意志を見失ってしまう情景を描き、大正時代の人々に、「おまえもこうなってはいないか?」と呼びかけている。これが羅生門、いや芥川のメッセージに聞こえるのです。  これが私の羅生門の考え方です。

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