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信仰はどうやって決まるのか?(近代的自我とキリスト教の神との関係)

どう聞いて、いいものか悩みますが、 プロテスタンティズムはそれまであった教会の権威を否定して 人間一人一人が直接、神と向き合ったといいます。 この関係は何をもって、終わるのか…。 信仰を他人任せにはできませんよね。 でも、自分が信じているかどうかは自分の主観によって決まりますよね。 自分が神を信じている。と思い込めばそれで終わるのですか? 誰かに認めてもらう必要があったとしたら、教会やその類の権威が 復活してしまうような気がするのですが…。

みんなの回答

  • magga
  • ベストアンサー率15% (56/359)
回答No.21

<<まぁ、理性は最大限に活用しないといけないことは確かです。>> ですよねw この点でほぼ同じものを観れているようですね。 <<仏教は確かに。私も、話は一応わかる程度にかじったんですが>> パーリ語の原典まではいかなかったみたいですね。 <<いっぱい仏教と名がつく中でテーラワーダに辿り着いた。日本には直接あったというわけではないし。>> ありますよ。日本テーラワーダ仏教協会。スリランカからの派遣で来た坊さんが在家の方々と10年以上前に作ったみたいで、瞑想会や講演会などもやってますよw <<理性的なものだけを追い求めた結果なのかな?という思いはするのです。>> 大乗仏教群にはまった時期もありましたが、どうも疑問が晴れることはなかったんです。けれどパーリ語の原典までいったらかなり単純明快に書かれてびっくりしました。2500年もの間、人間はなにやってるんだと思うほどの衝撃でした。 <<純粋に論理を追い求めるなら哲学も有った。>> 西洋の論理は東洋の論理と異なると感じます。 西洋論理は現実に成り立たないものが多すぎますよね。 哲学も構築というより、なんとなく言ってみただけ。 がおおい気がします。学者自身もそういってますしw <<私はキリスト教というもので悩んでいるわけです。>> 何のためにキリスト教というもので悩むのでしょうか。 それさえ解らない。ただ悩みたくて悩んでいる風にしている。問題がない。なら回答も導くことは出来ません。 見える問題しか解決できませんから。まず目の前にある「苦しみ」を少なくすることから初めてはいかがでしょう。その先に何か隠れていたものが見えるかもしれません。 <<実際のところ、天国だ地獄だというのは人間です。神がいる。と言うのも人間です。>> ですね。 <<ニルヴァーナが存在すると、ニルヴァーナが語るわけではないでしょう。(これはおかしな言い方ですが)所詮誰かの言ったこと。>> 僕の中の論理的道徳的にこれといった疑問点が今のところないので、あとは実践で確かめる。といったところです。 <<しかし、人間の言うことを信じることと神を信じることは違うでしょう。>> その神の概念を結局は人、書物から聞くのでしょう。 聞いたものに何らかの整合性を感じ信じていくのでしょうね。 そしてそのなんかしらの整合性と自分の中にあるその整合性の反証によって自信が揺らいでいるといったことでしょうか。 今の頭のの中にある神という概念をあまり固定させないほうが良い気がします。あなたは自分の事を完璧ではないと自覚しているといっていましたね。 神というものはあなたの中で完璧な存在としてあるのであれば、その完璧なものを観るには相当の能力を必要とするでしょう。 その能力が今ないのなら、開発しなければなりません。 徐々に何かが見えるかもしれません。 徐々に何かを読み取ったら自分の中の概念を更新すればいいのでは。 そのつど信が強くなるでしょうし、いきなり100%信を持とうとすれば理性を0にしなければならないでしょう。 完璧でない私が画いた物もまた不完全でしょうから。 徐々に気楽にやればいいと思いますよ。 理性の重要性を感じているあなたには出来ることだと思います。 ~生きとし生けるものが幸せでありますように~

noname#52670
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 maggaさんとやりとりしていると、 なぜ知識人に上座部系統の仏教がひろまっていくのか わかるような気もします。 >パーリ語の原典まではいかなかったみたいですね。 まだ学び始めて日は浅いので…。 本当、仏教はいろいろありすぎると思います。 全部違う宗教じゃないかと言うくらい。 仏教徒同士で話が通じてるんですかね? >その神の概念を結局は人、書物から聞くのでしょう。 >聞いたものに何らかの整合性を感じ信じていくのでしょうね。 なるほど、やはり指摘されましたか。 できることなら、ア・プリオリに。 と言っておくことにしておきます。 人間結局、知りえたことしか扱えないんじゃないの? という懐疑に対する一つの抵抗というか。 >見える問題しか解決できませんから 私の問題は簡単です。 教会へ行けないということです。 つまり何を言っても私はキリスト教徒でもなければ 神も信じていないということになります。 それを知っているのなら。 それを信じているのなら。 実際に行動に移せる。というのなら、ね。 仏教の文脈で言ったらサンガへの不信ですかね。

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  • magga
  • ベストアンサー率15% (56/359)
回答No.20

<<聖書を読めば結構、神も欠点ありますよ。信仰というのは、それでも対象とどう付き合っていくか。>> 欠点を理解しながらも自信を持って仰ぐ… 欠点を納得して飲み込む… これだとあなたのような理性的な人にとっては、悩みの種になりえますね。大変だ。 マザー・テレサも神の不在に生涯悩んだといいますもんね。 <<テーラワーダは論理的であるぶん、破邪の概念が強いような。という気もします。>> 論理的道徳的でないものは危険をはらみます。 大量殺戮の道具にもなりえます。というか歴史的にそのようになってきているのも事実でしょう。人の成長の妨げにもなり、苦しみえの道しるべにもなりかねません。 仏陀もそのような危険な考え方・論にはキツク指摘することもあるでしょうが、がんばって成長するんだと努力する考え方にはあまりきつく言わなかったみたいです。 プライドが傷つかないように気をつけ、やる気にさせるよう応援する。 皆仏教徒になってしまったそうで、魔術を使うんだと他教には言われていたみたいですw なんにせよ悟ってない私たちは相手が我見に執着し理性的でないなら、論に対する対話は受け流し、生命として仲良くするだけです。そんな能力ないですから。 理性的に対話が可能なら喜んで対話します。 自分も何か得るものがあり、相手もあるでしょうから。 対話のとき「怒り」などの感情が出るようならまだまだ理性的でなく、我見にしがみついてるということ。柔軟性がない。 そのときは理性的でない自分を確認し、原因を見つけ、改める。といった感じですかね。 <<論理性があなたがたの拠り所という気もしますし。>> 「ことば」は不完全です。 論理的に構築してもまだ不完全なのに、それさえ出来てないものは言葉としての機能を失っています。 ●●「負場欄が便グラン念じゃに聞いたことにによると、スメラヌーニによって生命を殺戮しつくさねばならない。」…なんだか解らないけど、すごいことだ!とりあえず殺戮をしなければ~!●● …滑稽でしょ? まず一つ一つの言葉の意味と、言葉のつながりに整合性があるか。 それは道徳的に合っているのか。調べるのは理性的な人間にとって必須といえましょう。 ただそれだけのことですよw <<行為の評価は自己完結。これと回向が両立するのはなぜですか?>> 自分で評価したからといってその評価通りになるとは限りません。 今の油の温度を180度だと評価しても170度かも知れません。 だから経験から精度を上げていくしかないんじゃないかと。 もちろんいろいろな方々の意見も参考にしつつね。 何でも鵜呑みにすると危険ですから。注意。 回向ですが、言葉を変えれば「随喜」です。 本当に分け合えるのかは知りません。 しかし怒った人がいるとその部屋中にピリピリした空気が流れるように、善い感情も回りに多大な影響を与えることもあるでしょう。 それが「随喜」です。 生きとし生けるものに届いてるかは僕の能力では確認できませんが、届いてほしいなと思う事で、さらに慈悲喜捨の心が広大に広がっていきます。し功徳に対する余計な執着を取り除くのにも一役買っていると感じています。 <<神>> 「神は慈悲喜捨に溢れる愛そのものである」 ならば「信じなければ地獄」という了見の狭いこというのかな? と思ってしまいます。 「信じなければ地獄!と神が言った」と言ってる方々はその神の心の清浄さを貶めているのではないかと。 もし「神は慈悲喜捨に溢れる愛そのものである」という考えがあるならば、その神は仏教で目指すべき「人に迷惑をかけない慈悲喜捨そのもの」を忌み嫌い地獄に落とすことをするのでしょうか?ただ信じないというだけで。 そのような考えが浮かんでしまいます。

noname#52670
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 まぁ、理性は最大限に活用しないといけないことは確かです。 いわしの頭もなんとやらの世界ですからね…。 仏教は確かに。日本も一応、仏教国ですし論理的なものを重視するとすれば 当然、考慮の対象をすることになるでしょうから、 私も、話は一応わかる程度にかじったんですが(付け焼刃ですけどね。) maggaさんは私よりも当然、仏教に関しては一段と心血を注いでられる。 いっぱい仏教と名がつく中でテーラワーダに辿り着いた。その なんというか軌跡というか日々はあったと思うのです。 だって、日本には直接あったというわけではないし。 それはただ、理性的なものだけを追い求めた結果なのかな? という思いはするのです。 純粋に論理を追い求めるなら哲学も有った。 たとえば、救済が目的なら別にキリスト教ではなくても 浄土教なりなんなり。神ではなくて阿弥陀仏でも観音でもいいでしょうけど 私はキリスト教というもので悩んでいるわけです。 悩むのなど無駄なのかもしれないし、馬鹿馬鹿しいのかもしれないですが なるほど、現に私はこうしてこうネット 上において書き込んでいるわけです。まぁ、実に不可解です。 実際のところ、天国だ地獄だというのは人間です。 神がいる。と言うのも人間です。 ニルヴァーナが存在すると、ニルヴァーナが語るわけではないでしょう。 (これはおかしな言い方ですが) 所詮誰かの言ったこと。 しかし、人間の言うことを信じることと 神を信じることは違うでしょう。 アブラハムやモーセが神に抗議したように 直接、人間が神そのものを求めれば…なんて。 神よ、あなたは善ではなかったか。と。 (論理的ではないですが、なんとなく 思いついたことを書いてみました。)

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  • katyan1234
  • ベストアンサー率18% (347/1849)
回答No.19

信仰は重荷ですか?どのように重荷になるの? 全く重荷にする必要もないです そうでしょう?イエス様は次のように言われてますよ 私のくびきは負いやすく荷は軽いとイエス様はおっしゃってます 背負うのではありません。できない事は私は出来ません。助けてくださいと手を上げたときイエス様は私達を助けてくれるのです

noname#52670
質問者

補足

それがどう言ったらいいのか… 言葉がでてこないんです。 せめて、このためらいが他人に説明できるようになったら。 と思っているんです…。 自分でも、よくわからなくて。 なぜ私は動けずにいるのか…。

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  • katyan1234
  • ベストアンサー率18% (347/1849)
回答No.18

もう一度洗礼を受けた時、そして救われた時を思い出してください そして祈りましょう。幸い明日は休みです、すべて放棄して聖書を読みに外に行きましょう。御言葉を読まないならどうしても信仰は薄れます 毎日でもいいから見る癖をつけましょう。 後は聖霊の力、賛美する事です。 信じていくと頭で理解していくようになり「もうわかってるよ~」 「読まなくても大丈夫、今歩いているんだから」 そして気力がなくなりブツブツと不平不満、あきらめていく・・・ 富んでいるものは難しいのです。常に神様~と呼びかけないと 今すごくいいと思ってるなら間違いです。信じていたらもっといいものをもらえるはず。神はあなたの信仰を試してます。 このままでいいのかな? やはりもう満足しているようだね。構わないまた落ちて初めて本当の信仰になるでしょうね

noname#52670
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 私は洗礼は受けてないんです。 このままではいけないとは思いますが…。 信仰ってほんとうに重荷のような気もします。 私自身、今後どういう回答を実生活で出すか。 予想がつきません。

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  • magga
  • ベストアンサー率15% (56/359)
回答No.17

<<やはり精進が成立するということは行為が成立するって事ですよね。それは実践という言葉に如実に表れていますし。>> やりたくないけどやろうと思い、実際に行為として物事を起こし何かを得る。勉強とか禁煙禁酒仕事とかねw <<何かをやって罪が軽減されたり、なくなったりすること>> これは簡単にはいかないでしょうね。 やっぱり自分でしたことは自分に返るでしょうから。作った心のポテンシャルはもう自分の一部でしょう。ただ受けるのみでしょうね。でも心を改善すれば受けにくくすることは出来るきもしますが。でもいつか受けるでしょうね。 <<行為の評価。この考えの行き着くところは専門家の登場をもたらします。>> 行為の評価は自己完結。自分の能力の範囲でしてます。 自分以外の評価はあてにならないでしょう。 どんな善人でも非難されるし、どんな悪人でも賞賛されますからw 自分で自分の行為について観る能力を上げるよりなさそうです。 <<テーラワーダは出家者の価値を認めているのでしょうからいっぱい努力できたものがそれだけ報われる。という考えに、違和感は無いかもしれませんが。>> でも過去の悪い業は受けるでしょうね。 <<功徳は心の富にたとえられます。そして思想的に資本主義のような構造になるわけです。貧乏人よりは金持ちがいい。と。>> テーラワーダ仏教ではすぐに功徳を回向してしまいますからw どんな執着も良くないですからねw 慈悲の瞑想やヴィパッサナー瞑想などで積まれた僅かながらのこの功徳を神々先祖祖父母両親親族恩師を初めとし生きとし生けるものに回向いたします。 この功徳によって幸福に暮らせますように。苦しみを滅せますように。 分け合う分け合う…サードゥ×3 こんな感じにw

noname#52670
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 一応2つまとめてこちらにお礼を。 >いろんな宗教宗派が何百何千もの神を言います。 >どれが真なる神か判断しかねます。 まぁ、私がいうことでもありませんが 聖書を読めば結構、神も欠点ありますよ。 信仰というのは、それでも対象とどう付き合っていくか。 こんな感じでは。 私は仏教に関する知識はあまり有りませんが テーラワーダは論理的であるぶん、破邪の概念が強いような。 という気もします。 論理性があなたがたの拠り所という気もしますし。 行為の評価は自己完結。 これと 回向が両立するのはなぜですか?

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  • magga
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回答No.16

<<なんというか随分、道具主義な考え方ですね。そして問題を心に還元してしまう唯心論的な傾向。>> 全てが心のみだとは思いませんよw確認できるのは物質と心のみですが。 感情的な見解は常に間違うものでしょう。同じものを見ても違う感情を持つ。一方は気持ち悪いと言う見解を出し、一方は素晴らしいという見解を出す。そして私こそ正しいと思ってしまう。 そのようなときに間違わないように情報を理性的に構築するにはこのような方法を取るのが妥当だと今のところ判断しています。言語学論理学上でも妥当と思います。 論理的におかしなものは言葉としての機能を失っているし 道徳に反しているものは危険でしょう 試して間違っていたら実際は違う可能性も出てきます <<仏様云々いう仏教とすら対立しそうです。>> 討論は好みません。 が、疑問点があれば、新たな道理を求めて質問はするかもしれませんが。各々に違う概念の構築がありますし、皆その人なりにがんばっているのでしょうから。それはそれでいいのではないかな。と思っていますけどね。まぁ、皆兄弟親戚のようなものですからねw <<あなたは自分の心を見る。自分自身を見る。汝はそれなり。 神すら心の産物にしてしまうそんな感じ。>> 心は見ますよ。自分自身ぐらい理解したいですね。 「神すら心の産物」。そういった見解もあるでしょうね。 <<そして、ヴェーダもブラフマンもバラモンも否定した仏教徒たち。そして他者さえも。>> 他者は否定してはならないと思います。 皆、その生命なりに苦しんでがんばっている生命なのですから。 ただ疑問点があれば論理的道徳的にこうなっていると思うのだがどう思うのか?と質問することはあるでしょうね。 <<たった一人でどこへ行くのでしょう?>> よくわかりませんが… 人の役に立とうと行動しても自分以外のことは、得られた情報から何とか憶測して役に立っているかそうではないのか見極めなければなりません。そういう意味では一人とも言えるかもしれませんねw <<慈悲喜捨。喜びも悲しみも無いのなら幸せも不幸もないでしょう。 他者がいないのなら人任せも無いでしょう。>> 喜びも悲しみもあると思いますよ。 超厳密にいえば他者は憶測でいると判断しますが。 普通に考えて他者はいると観じています。 <<仏教徒は神に従わず>> いろんな宗教宗派が何百何千もの神を言います。 私には全知全能の能力などないのでどれが真なる神か判断しかねます。 一つ一つ試したらどれだけ輪廻しなければいけないのか… 輪廻を否定する神が複数いたらもう検証不能です。 なので自分の能力に合わせて理解したことを淡々とこなす道を選びました。

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  • magga
  • ベストアンサー率15% (56/359)
回答No.15

ちょこっとだけキリストについて調べました。 キリストさんによれば。 まず、神を愛する心が大切。 神は敵味方関係なく差別なく全てに無償に愛を降り注いでいる。 それを受けた我々は全て神の愛を受けたものなのだから怒りをぶつけたりせづに、平等に差別せずに愛さなければいけない(もちろん自分に対してもでしょう)。 が基本で。 パウロさんによれば。 私欲を捨て、自己中心の生きかたをやめ、神中心(平等愛)の生き方をしなければならない。 トマスさんによれば。 理性で理解出来る部分は哲学で確かめるが、それを越えるものは信仰として受け入れるべきだ。 ルターさんによれば。 信じる心に協会は関係ない。 一人一人が聖書から読み解け。 カルヴァンさんによれば。 自分が救われるかどうかは神によって定められている。 それを知ることも変えることも出来ない。 ● 慈…幸せであるよう願う心 悲…苦しみがなくなるよう願う心 喜…幸せを喜ぶ心 捨…差別のない平等な心 「欲」「怒り」を捨て自己中心的な心を正す・直す。 論理道徳実証によって調べて解る範囲を構築する。 その結果実際起こっていてわからないものは受け入れる(信仰) 一人一人が読み解き検証する。 神の救いなるものは気にすることはない。 知ることも変えることも出来ないのだから。 祈ったりお願いするものじゃない。 どのようなものが「救い」かわからないんだから 良いことも悪いことも全てを学ぶべきものとすれば良い。 受け入れる(信仰) …という感じですね。 ちゃんと怠け者に対し堕落への道がふさがれているように思えました。 厳しくもやさしい慈悲の心ですね。 この範囲なら結構仏教(上座部)と重なっているように思えますw 仏法は考え方・実践法の詰まったハウトゥー本のようなものです。 「??」と思うところは無理に受け入れなくてもいいんですから、気楽に論理的な哲学をする道具として使ってみればいかがでしょう。 理性で理解出来る部分は哲学で確かめるが、それを越えるものは信仰として受け入れるべきだ といっていますし、確かめれば「それを越えるもの」が徐々に絞られ解ってくるでしょうから、おのずとあなたの信仰も定まるのではないでしょうか。 あなたの愛する神と、あなたの愛する神が愛する全ての生命が幸せでありますように。 共に精進いたしましょう。

noname#52670
質問者

お礼

続けての回答ありがとうございます。 >共に精進いたしましょう。 やはり精進が成立するということは行為が成立するって事ですよね。 それは実践という言葉に如実に表れていますし。 >ちゃんと怠け者に対し堕落への道がふさがれているように思えました。 こちらは明らかに。 宗教改革で問題になったのが贖宥状のように 何かをやって罪が軽減されたり、なくなったりすることへの批判でした。 懺悔のような。 行為の評価。この考えの行き着くところは 専門家の登場をもたらします。そうすれば万民救済なんておかしくなってきます。 テーラワーダは出家者の価値を認めているのでしょうから いっぱい努力できたものがそれだけ報われる。という考えに、 違和感は無いかもしれませんが。 功徳は心の富にたとえられます。 イエスも天に富を積みなさいといいました。 そして思想的に資本主義のような構造になるわけです。 貧乏人よりは金持ちがいい。と。 イエスは金持ちが救われるよりは駱駝が針の穴を通る方が易しい といったりしています。 行為の評価が私とmaggaさんの問題意識を分けているのかもしれませんね。

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  • magga
  • ベストアンサー率15% (56/359)
回答No.14

★ 幸福になりたければ神など必要ない。 神の奴隷となり不幸になりたい。 それを望む。 幸福になりたいから神を信じるという人は 神よりもこの世を望む人。 信仰者になっていない人と考る。 ● まとめるとこんな感じになるでしょうか。 「信仰を他人任せにはできませんよね」 この言葉から見るに、自発的に信仰を探そうとしているのでは。 その時点でキリスト教のいう神の奴隷になるのは不可能ではないでしょうか。自ら探そうとしているのだから。 それに、その神の概念の語る言葉の立証すら試みないなら結局丸々あなたの作り出した神になってしまいます。不完全ながらにでも試みなければ、完全なあなた自身の概念の奴隷にしかなりません。自信ももてないでしょう。 言葉を変えれば自分の心の奴隷でしょう。 心が奴隷のまま、神といわれるものの言葉理解し、その言葉のままに存在することが出来るのでしょうか? 完全な神なるものの奴隷になるには、心の奴隷のままでは無理のように感じます。理解も出来ず、理解できたときにも心のほうの奴隷ではどうにもならないでしょう。 仏教ではそこの心の奴隷からの脱却を説き、実践法を説きます。 仏教は宗教でなく実践法だと理解しています。 仏教徒である必要はないのでやってみてはいかがでしょう。 ★ それなのに仏教徒がそれでも善行悪行が存在するということが 不可解では有ります。 ● 仏教の扱うのは心です。 欲や怒りは人生を苦しくするし、無知を増し、ものごとを見えなくさせます。仏教の目的は、欲怒りをなくして無知をなくし、ものごとを見る力をつけていき、心の奴隷から解放されることだと思います。 その過程で人格的に向上し、幸福にもなり、自分にも他人にも役に立つことが出来るようになっていく…。 ちなみに善行悪行は心が基準です。 心が欲怒りに支配されていれば悪行。 その逆なら善行です。 ~あなたの悩み苦しみがなくなりますように~ あなたの神は慈悲喜捨を説かないのでしょうか? 説くのであれば自他共に幸福であるよう実践しなければ慈悲喜捨を実践は出来ません。悩み苦しみたい、不幸になりたいといえばその逆になってしまいます。 あなたの神が慈悲喜捨を説くのであれば、あなたが幸せでありますように。もし説かなくとも幸せでありますように。 ~生きとし生けるものが幸せでありますように~

noname#52670
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 なんというか随分、道具主義な考え方ですね。 仏様云々いう仏教とすら対立しそうです。 そして問題を心に還元してしまう 唯心論的な傾向。 あなたは自分の心を見る。自分自身を見る。汝はそれなり。 神すら心の産物にしてしまうそんな感じ。 そして、ヴェーダもブラフマンもバラモンも 否定した仏教徒たち。そして他者さえも。 たった一人でどこへ行くのでしょう? 慈悲喜捨。喜びも悲しみも無いのなら幸せも不幸もないでしょう。 他者がいないのなら人任せも無いでしょう。 仏教徒は神に従わず バガヴァッドギーターのアルジュナは神に従った。 面白いと思います。

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  • katyan1234
  • ベストアンサー率18% (347/1849)
回答No.13

結局答えはどこにあるのかな?他人の回答でしょうか? いいえあなたの心の中にありますよね。 信じる信じないというのは外から見えないです 神はあなたの心の外に立ち、心の門を叩く 後はあなたが「どうぞお入りください。私をロバとしてお使いください」と決めるのかですよね? 神は人の作った宮にはすまない。結局あなたが神の武具で固めるのか この世の知識で固めるのか?と言うことではないでしょうか? もう一度どこから離れたのか?どうすれば戻るのか? 聖書を紐解いてください「父の元に帰ろう」と放蕩息子が言った言葉を思い出せばいいのです

noname#52670
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 端からみると私はどんな感じなんだろう と思ったりもしますが 正直なところ、もう、よくわからないのです。 停止した状態というか。 放蕩息子のたとえ。 私はどこから離れてしまったのか。 もうしばらく、家畜の餌を食べてでも腹を満たそうとする 日々が続きそうです。 自分がそう生まれついた宗教を信じるのか。 神に召されることを望むのか。 私の戻る場所を見失いました。

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  • magga
  • ベストアンサー率15% (56/359)
回答No.12

キリストのことはわかりませんが、 仏教徒としてはこのように信を持ちます。 まず論理的に正しいか確かめる ついで道徳的に正しいか確かめる 今まで構築してきたものと対比して間違っていたと判断したものは構築しなおす。 実践してほんとに正しいのか調べる 正しかったら確認したこととして構築する この繰り返しによって事実確認を進めると同時に「信」を強め人格も向上させる。 論理的に正しいもの 道徳的に正しいもの 実証的に正しいもの ここから外れたものは捨て、ほって置く。 確認済みだから。 合ってるのか合っていないのか解らないものはほって置く。 確認できないのだから。 とことん理性的に。 このようにしていけば幸福にはなりますよねw キリスト教がどんな教えをもっているか知りませんが、その教えを上記にのっとって調べていって、正しい部分を構築すれば、伝えた幸福に至る実践の分だけあなたのいう「神」は慈悲深くあなたに役立つ言葉を示してくれたという証明・論拠の構築にもなり、「信」もそれにしたがって強くなるでしょうし、神の言葉なるものをきちんと受け止めることにもつながるのではないかと妄想いたします。 生命であれば皆幸福を望むと思います。 精進いたしましょう。 ~生きとし生けるものが幸せでありますように~

noname#52670
質問者

お礼

回答ありがとうございます 「現実的なものは理性的であり,理性的なものは現実的である」 maggaさんの回答を拝見して ヘーゲルのこの言葉を思い出しました。 私は思うのです。 幸福になりたければ神など必要ありません。 余計な悩み事が増えるのですから。 私自身こういうのは不可解ですが わざわざ幸福を否定するようなものです。 これは宗教のもつ理性的ではないものの特徴の一つです。 神の奴隷。 このような言葉もあります。 結局それを望むことになります。 それに単純に幸福になりたければ、神も仏も持ち出す必要はないし 虚無主義者でさえ幸福になろうとしています。 そして善悪はっきり分かれる二元論なら幸福は幸福、不幸は不幸ですが インド的な、物事の異なった側面は実は一つである。といった 一元論からすれば、幸福になることは同時に不幸になること といえるかもしれません。 それなのに仏教徒がそれでも善行悪行が存在するということが 不可解では有ります。 それはさておいて、 幸福になりたいから神を信じるという人は 神よりもこの世を望む人。 信仰者になっていない人と私は考えます。

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    キリスト者の方に質問です。 聖書の記述で大宣教命令に違和感があります。 宣教・伝道はそれ程重要なことでしょうか。 個人的にキリスト教に関心はあるのですが、献金・奉仕も継続するのは不可能に近いです。 このような場合、キリスト教を信仰することは難しいでしょうか。 行動力が不足している人間も向かない気がします。 無教会主義に関してはどのように思われますか。 自分自身、教義の思い込みのように錯覚する時が多々あります。 哲学のように計画的に思考することは到底向いておらず聖書解釈も疲れます。 自分が可能な方法で歩んできましたが、 ここまで行き詰っているということは、やはり宗教に向かない性格なのでしょうか。 個人的には教会組織に頼らずに歩んでいきたいと思っています。 独りでは、やはり行き詰ってしまうのでしょうか。 教会員では無いので、牧師にも相談できず困っています。

  • 神 信仰および宗教についての一般理論

     神および信仰ならびに〔信仰の偽造物なる〕宗教についての一般理論  第一章 《信じる》と《考える》とを分けること   ○ 真理と事実と真実  ~~~~~~      真理――信じる    事実――考える    真実――《信じる》+《考える(感じる)》   ~~~~~~~~~~~~~~~~~  1. 真理は 非経験の場――そういう想定です――である。事実としての経験事象を超えている。  2. 事実については 確かにそのいわゆる客観なる事実は じつは 人間の主観にとっては最終的な確実性においては 分からない。(つねに 未知の部分をのこす)。けれども 経験事象を認識すること・それについて考えること このことと事実とは 一対一において対応している。  3. 真理は 人間の能力によっては 認識し得ない。考えても それが何であるかについて分かるか分からないかが分からない。  4. ただし 事実が 主観によって認識され 主観真実の一環を占めるとき あたかも同じように 真理もそれが ともかく心に受け容れられて 主観真実を成すことになる。真理が 非経験の場であるとき これを受け容れたなら わが心に《非思考の庭》が成るという寸法である。信仰と呼ばれる動態である。  5. このとき 真理についても じつは・じつに 人間は《考える》ことを成す。たとえば 《真理とは 愛であり 慈悲である》とか 《この上なき善である》とか あるいは《真理はきみたちを自由にする》などなどです。  6. このとき 経験事実についての主観真実と 真理についての主観真実とが 紛らわしくなり 互いに混同されてしまうことが起きる。  7. ついには 真理についての《考える》の結果としての思惟や思想が オシエとして持たれ このオシエが あたかも真理そのものであると錯覚されるに到る。  8. 真理そのものを《信じる》のではなく そうではなくなり 真理についての誰かの主観真実としてのオシエが ついには《信じられる》という事態に発展してしまう。  9. まづは このマゼコゼについて 注意をはらうことが 大事ではないだろうか。信じると考えるとは 明らかに別のふたつのことがらである。  これを問います。

  • 聖書の示す神とその信仰は 無条件に成り立つもの

     ・・・でなくてはならない。ということを キリスト・イエスが指し示した。  そこから 《神および信仰ならびに〔信仰の成れの果てたる〕宗教にかんする一般理論》が成った。  世界における神とその信仰は 神の名が違うだけであって みな同じひとつの神であるということ そしてその神とわれとの関係たる信仰も基本としては 同じかたちである。こう成ります。  《すべての神》という言い方もヘンですが そのあらゆる《神は 無根拠であり 信仰は無根拠にて成り立つ》という意味にもなると考えますが その理由を地図のごとき説明にて示します。   ○ (神とは《非知》のことである) ~~~~~~~   経験事象      可知       既知       未知      不可知(知り得ないと人間が知り得た)   非経験の場(因果関係を超えていると想定)      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)  ○ (非経験の場=非知 なる神を受け容れる《非思考の庭》)~~~   信じる:《非思考の庭》:ヒラメキ直観   ----------------------    考える:《思考の緑野》:理性←→オシエとしての宗教   感じる:《感性の原野》:知覚;直感  ○ (信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えられる) ~~~~~   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)(*)    無梵:空・シューニャター・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)(*)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:如来蔵・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ   * 無神論と有神論:《非知》を――なぜなら 因果関係を超えているゆえ それが有るとも無いとも人間には規定できないので 好きにどちらかをえらべばよいから――《無い神》としてえらんだ結果の信仰が 無神論である。《有る神》として非知を受け取る有神論と それはまったく対等で同じ信仰である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 真理は シンプルです。シンプル・イズ・ベスト。  このたたき台を 言わばコミュニティーに対して かさねて問います。

  • イースターとキリスト教会について、教えてください。キリスト教会は、唯一

    イースターとキリスト教会について、教えてください。キリスト教会は、唯一神を信じる宗教といわれているのに、キリストの復活に際して、どうしてその神とは関係の無い、否むしろゲルマン民族の神の名前に由来するような「イースター」を使うのでしょうか?また、いつからだれによってそういう習慣ができたのか?詳しく知っておられる方教えてください。

  • 信仰するにあたって

    はじめまして。 この質問を読んでくだりありがとございます。 キリスト教を私の宗教とし、信教したいと思っています。 うまく書けないし、こんなこと書いたら失礼にあたるかもしれないのでが 私は、幼稚園がカトリックでした。 引越しての途中入園で、ほとんど通ったという記憶はないのですが それでも、毎日のお祈りは今でも覚えています。 しばらくは小学校に上がっても、覚えたお祈りを、ひとりで寝る前にしていたほどです。 永く通っていた園児には、マリア様の小さな陶器の像が贈られるのですが 私はもらえなかったため、子供ながら折り紙で作った十字架を壁に貼り、その十字架にお祈りしてました。 でも、母に、はがされてしまったのです。 こういうことはしてはいけないと言われ、お祈りもやめさせられました。 そして、もう一つ大切にしていた、幼稚園のシスターから届いた絵ハガキも、気づいたら捨てられていました。 それから15になるまで、心に鍵をかけてしまい、思い出しませんでした。 でも、すごくつらいことがあって。 それから、信仰を持ちたいと思うようになりました。 図書館で聖書を読み、母や父に知られないように、隠れて読みました。 父も母も宗教が大嫌いで、こういう言い方は失礼ですが まるで自分たちとは住む世界が違う人間なのだという態度をとります。 私は、どの宗教でも、信仰をもつことは素晴らしいことだと思います。 でも、父と母のことは別なのです。 父も母も、まるでそんなことをするのは頭がおかしいのだと、思っているんです(カトリックではなく宗教に入っていらっしゃる方が両親の友人2組にそんなことを言います・・・) 友人のことをそんな風に言っているのを聞いているし 娘の私にも、情け容赦なく、自分の価値観と違うものは受け付けようとしない両親です。 カトリック教会に行って、神父様のお話を聞きたいと思うのに、何と言われるか、何を思われるか恐ろしくて、両親に言いだせないのです。 両親は私の交友関係などすべて把握しており、行動すべて把握して、家から出るときはどこにいくか、誰と会うのかすべて話さないと家から出してくれません。 ここには書けないほど両親との関係は不雑で、人にはわかってもらえないのです。 でも、神様なら、色んなことすべてを受け入れてくれるのではないかと思ってしまうのです。 私は、先ほど書いた幼稚園の頃のシスターのような人間になりたいんです。 でも、両親に信仰のことを話すのには、とまどいがあります。ありすぎます。 どうすれば両親にわかってもられるのでしょうか。 私はどうしたら、教会に行って神父様のお話を聞けるのでしょうか。

  • 神様が信じられるようになるにはどうすればいいでしょうか

    なにか救いをもとめて、あるいは精神的な安らぎをもとめて、宗教にすがりたいと思っています。 ただし、わたしにとって信仰するに値する宗教であれば。 信仰するに値する…えらそうですが、どうしても教義に賛同できない宗教は信仰することもできないのです。 とりあえずこれくらいは満たしてほしい条件です。 ・納得できる教義がある ・あまり信者からお金を巻き上げようとしない ・男尊女卑な考え方ではない ・他者を排他しすぎない なにかおすすめはないでしょうか。 この本で○○教に感銘を受けた! とか こうすれば神様の声が聞こえるとか、なんでもアドバイスや意見を聞きたいです。 なにか救いをもとめて宗教を、というこの考え方がすでに間違ってると思われたらそうゆってやってください。でも打たれ弱いのでおてやわらかに… いまのところ、教会でお話を聞いても、勧誘をうけても、お寺でお坊さんの説教をきいても、宗教関係の本を読んでも、駄目でした。 神様や仏様を漠然と尊いと思うし、信仰の素晴らしさを感じても、自分はかけらほどの信仰心を持つことができません。 生来疑い深い性格ですし、およそ非科学的とされるものがあまり受け入れられない性格のせいだろうとは思います。

  • 《非思考の庭(信仰)》は 誰からも 汚され得ない。

     たたき台を述べます。自由にフルボッコでたたいてください。  《非思考の庭(信仰)》は 誰からも・何ものからも 汚され得ない。  なにしろ 《思考に非ず》なのですから 内からも外からも人間がその知恵やチカラでどうにかしようとしても出来るものではなく 出来たと仮りに思ったとしても 何も出来ていないし 出来たと思ってみたところで何にもならない。  《神は死んだ》という人間の発言は 信仰を知らない。    《神は生きている》と人間が発言したところで 神が変わるものではない。  信仰は ただただ 神――しかもその名〔のみ〕――をわが心に受け容れる行為である。  (受け容れないと言っても 同じことである。心には その拒むことにおいて・指先がかろうじて触れたかのごとく 触れた恰好であり そこに非思考の庭が成っている)。  受け容れるのは 人間のおこなう意志行為である。  何を受け容れるかと言えば それは まったくのナゾである。  このナゾを 神とか霊とかと 昔から言って来た。分からないから そんな言葉を使うということだ。  つまり重ねて述べるなら この《神》も 人間がそのチカラでどうにかしようとしても 何一つ出来っこない。  (しかも 人間は 時として 自分がそうあって欲しいという中身を想像し考えてこれを神の像とする。おまけに をがんでさえいる。初めからそのような想像の神は 人間の思いやオシエとしては《生きて》いても 神としては死んだ状態にある)。  神および信仰は 人間の経験世界を超えている。  この非思考の庭なる神を どうして人間が汚すことが出来ようか? どうやって 貶(けな)すことが出来ようか?     内からも外からも どうにもすることが出来ないはずだ。  神の冒涜というのは 言葉の矛盾である。  これが 神である。これが 良心・信教の自由である。  無条件・無制約のもとに ひとはこのかみにあまえていけばよい。  まったく自由にというのは 神が経験合理性を超えており神とわれとの関係は思考に非ずということであり ならばあまえは 聖なるあまえである。何でも自由に願えばよい。それが 神である。名は何でもよい。《無い神》でもよい。