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信仰はどうやって決まるのか?(近代的自我とキリスト教の神との関係)

どう聞いて、いいものか悩みますが、 プロテスタンティズムはそれまであった教会の権威を否定して 人間一人一人が直接、神と向き合ったといいます。 この関係は何をもって、終わるのか…。 信仰を他人任せにはできませんよね。 でも、自分が信じているかどうかは自分の主観によって決まりますよね。 自分が神を信じている。と思い込めばそれで終わるのですか? 誰かに認めてもらう必要があったとしたら、教会やその類の権威が 復活してしまうような気がするのですが…。

noname#52670
noname#52670

みんなの回答

noname#80116
noname#80116
回答No.31

 横レスです。  理神論は ほんとうには信仰ではないですよ。  野宿していた羊飼いたちが かれの誕生を知らされ ベツレヘムの馬小屋を探し当てて 会いました。かれらは まだ 何のことだか 分からなかったかも知れませんが 信仰とは そういうことの中に見出されると思っています。  あるいは イエスと共に 十字架に上げられた強盗の一人を思い浮かべてください。イエスを見て 自分の心が現われ 自分で自分のことが分かったのだと思います。信仰は 理詰めではないと思います。  (と言っても 理詰めをおおいにやるのですが とことんまでやるのですが 問題は その理性による推論の内容と 信じるに至ったその信仰内容とは 直接のつながりは ないと言ってよいのではないでしょうか)。   ★ 自分が信じているかどうかは自分の主観によって決まりますよね。 ☆ そのとおりだと思います。 ★ 自分が神を信じている。と思い込めばそれで終わるのですか? ☆ 《思い込む》という表現は 《信じる》とは離れていると見られます。信じていたなら 思いこむ必要はないでしょうから。 ★ 誰かに認めてもらう必要があったとしたら、教会やその類の権威が 復活してしまうような気がするのですが…。 ☆ 《認めてもらう必要》はないと考えます。信じているということを 人にも 公に口に出せばよいのだと思います。(ローマ書10:10)  教会の問題は 新しい質問がありましたね。

noname#66269
noname#66269
回答No.30

話はかなり飛躍すると思うが、 いわゆる自閉症の患者は、自分の目の前に人がいても、その存在に気がつかないらしい。 つまり、彼にとっては、目の前にいる人間は単なる物体であり、 確かに机や椅子に比べて激しく動き回り、時にその頭部から何らかの音声を発するが、 ただそれだけのモノであり、ましてやその物体が意思疎通出来る、 自分と同じような意志ある存在とは、夢にも思わないらしい。 したがって、もちろん彼は真に孤独である。 この広い世界に文字通り自分しか存在しないのであるから。 実は、我々もレベルは異なるけど、この自閉症患者と同じようなものと思われる。 たとえば、我々の周囲では日が照り、風が吹き、雨が降り、 様々な自然現象および人間やあらゆる生物界によって目まぐるしく事象が変転している。 一種の自閉症患者である我々は、そこに統一された意志を見出すことができない。 真の自閉症患者と同じく、我々はそこに事象の変化しか感じることしかできないのである。 真の自閉症患者の病状の原因は、医学では、先天性の脳機能障害と見なされている。 すなわち彼は、自らの部分的な脳機能の欠落あるいは不活発のため、 目の前にある一個の肉体が織り成すさまざま行動から、 その統一した意志を感じ取ることが出来ないのだ。 そして我々自身も、多分、真の自閉症患者と同じく、 広い意味での脳機能の不活発によって、世界の事象を司る神の意志を感じ取ることができないのだろう。 〔治療〕 ではもし、真の自閉症患者に我々の存在を気付かせるためにはどうすればいいだろうか? 彼のしたい様にまた望む様にさせている限りは、多分彼が、我々の存在に気が付くことは永遠にないであろう。 手っ取り早いのは、彼のほっぺたを張り飛ばしたり、食べようとしてるモノを取り上げたり、 彼の意志にそぐわないことを引き起こして我々の方に意識を向かわせることだ。 すなわち、彼に様々なつらい刺激や事故を与えて、自らの意志とは違う意志が存在することに気付かせることだ。 (まあしかし、実際の自閉症の治療において、なかなか事は単純には運ばないようであるが) そして、治癒の最後を決めるものは、 自閉症患者自身が、まだその時点では意識されていないけれど、 ただ、自分とは違う意志の存在があるということを、自ら求めることにおいてでしかないであろう。 振り返って、我々が神を見失っている今の状態から脱するためには、 やはり神は、我々を様々な辛い試練に合わせ、 人間の意志を超えた存在があるということに気付かせようとするのではないだろうか。 したがって、我々の信仰が成就するのは、まさに我々がその神を発見した時である。 確かに、キリストは自らあらゆる試練に耐え、真に神の意志を見出したのであろう。 ちょうど、自閉症の患者がとうとう、自分を親身に世話してくれている自分の家族の存在に気付くように。 そういう意味で、キリストは我々の手本であり、師匠である。 聖書と教会は、その師と仰ぐキリストを感じ取る場所と言っていいかもしれない。 そして、さらに述べれば、 真の自閉症患者がその症状から回復すると、家族とコミュニケーションが取れるようになり、 自らの要望を家族に伝えることによって、望む状態を手に入れることができる。 病気のときには、とても叶わなかったことだが、今や「コップ一杯の水をちょうだい」と家族に言えば、 喜んで持ってきてくれる。 同じように、我々が神の意志を真に見出したとき、 神に我々の望むことを願ったなら、果たして叶わないことがあろうか。 望めば水の上さえ歩け、死人をも蘇らすこともできるようになるであろう。 それが今できないのは、いまだ我々が神の意志を見出せていないからである。 それは、果たして今後可能となるか? 多分それには、我々に多くの試練と、 その試練による我々の脳機能のさらなる活性化が絶対必要なのかも知れない。 そして最後の決定的要因は、 やはり、我々の意志が神の発見を求めるているという、そのことにしかないであろう。

  • abc2008
  • ベストアンサー率17% (7/41)
回答No.29

 結局、仏教もキリスト教もイスラム教も、その表現は違えどもある存在を信じて、それを拠り所として信仰という形を成しているのですが、そのある存在とは、いずれ科学的に解明されるでしょうが、実は解り易く言えば、一つの大生命体なのです。それを人々は偉大なるものとして神とか仏とか様々に呼びますが、その指し示す実体は同一のものなのです。もっと簡単に言えば、この宇宙全体が一つの生命体なのです。そして、この生命体は素晴らしい知性も兼ね備えていて、我々にその一部を提供してくれたりすることもあるのです。  よく聞くことですが、ある難題を抱えていた人が、ある時突然ひらめいて、その難題を克服したとか、急に思いついて素晴らしいものを発明したとか、いろいろとありますが、これなどはその大生命体の知恵や知識を借りたといってもよいでしょう。つまり、大生命体は巨大なデータベースみたいなものなのです。  ですから、本来誰もがこの偉大なるものとコンタクトもできるし、知らないうちにある意味、接触しているとみてもよいのです。そして、このことを敏感な者は覚り、それを説き教えようとしたのが宗教の始まりかも知れません。つまり、宗教とは当時の科学みたいなものだったということです。  いずれにしましても、真理は一つであり、誰かに認めてもらうなど不要であり、自身一人でその偉大なるものと対峙して行けばよいのです。

noname#52670
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 この質問は教えてgooで、私がした初めての質問であり、 いろんな回答があって私自身当初より随分考えが変わりました。 ご意見参考にさせていただきます。

  • magga
  • ベストアンサー率15% (56/359)
回答No.28

<<やはり仏教は私にとって個人的に何らかの形で克服しなければならない課題のようです。(否定ということではないですよ。)>> 素晴らしいことです。 克服(理解)した暁には阿羅漢になれますw 昔、スリランカがイギリスの植民地であった時代、優秀な学者陣でテーラワーダ仏教の欠点を指摘することによって、キリスト教を伝播しようとしたが、どう考えてもテーラワーダ仏教の欠点を指摘出来ず、逆に自分たちもテーラワーダ仏教の教える真理に目覚めるものさえ出てきて、逆にイギリス人の手によってヨーロッパにテーラワーダ仏教が広がったというれきしもあるようです。 <<maggaさんもよかったら聖書を開いてみてください。それも、神に注目するのではなく。神も神殿も国もなくしても、生き続けた人々。人間に注目してみてください。物事をまた違った風に見られるかもしれませんよ。>> 今目の前の課題がいくらか片付いたときに、物語(僕は歴史・情報を「物語」といいます。)として今に活かすべく読みたいと思います。 何にせよ、よき対話がなされました。 学び多き対話がなされました。 ありがとう。 何故だか、師の「一方的に教えることも教えられることもない。共に教え、教えられているのだから。」この様な言葉が頭に浮かびました。 共に、生きる生命としてお互い精進いたしましょう。 ~では、全ての加護がありますように、生きとし生けるものが幸せでありますように。~

noname#52670
質問者

お礼

回答ありがとうございました。 私もいくつか紹介された著作の中から読んでみたいと思います。 補注として、聖書と言っても長いので、読んでみるのなら 旧約聖書の、コヘレトの言葉をどうぞ。 そこから1節 「愛も憎しみも人間は知らない」 もう少し、私が何かを知りえたら。 そのときはまた。

  • magga
  • ベストアンサー率15% (56/359)
回答No.27

<<少し興味があるのですがmaggaさんは、今まで、仏教そのものを疑ってみたことはありますか?>> 「疑う」ですか。今の能力では解らないことは多々あります。そのことは脇においておきます。 ただ確かめることの「出来る範囲で確かめ」、構築していくだけです。 それしか出来ませんしw 可能性として、いずれ解らなかったことが解るかもしれないし、間違っているという発見するかもしれません。 絶対こうだ!と決め付けることなく、「こういった範囲内で何を論拠にどう考えてどうした結果こうなった。よってこう考える。」の柔軟な構築が僕の選んだ道です。 疑うより確かめる。ですかね。 まったく何も根拠なく信じているわけではないですが、いろいろ調べた結果、かなりの信頼は置いています。 仏教こそ真理だ!とも言いません。 し、すぐに真理と結びつけてはならないとも仏典で言っていますしね。 考え方、言葉の使い方、対話の仕方、などなどかなり厳密に語られているところがかなり論理的道徳的で好きですw まだあまり出来ていませんが…(反省) 興味があったら 「テーラワーダ仏教の実践」「NHKダンマパダを読む(下)」は仏教の全体像。ちょっと専門用語あるかな。「仏法」はサンガから出るとか出ないとか…一番オススメだけど自費出版しかないです。 「いまここに生きる智慧」はキリスト教の方との対談。ここから入られては? 「現代人のための瞑想法」「ブッダの瞑想法」「心の中はどうなってるの」は仏教の瞑想実践を知るには善いかも。 論理学に興味があったら「ブッダと竜樹の論理学」。 経典に興味があったら身近なところで「岩波文庫系の中村元さんの本」「一日一話」「一日一悟り」「慈経」「怒りの無条件降伏」経典集として「ブッダの福音」がオススメです。 ~生きとし生けるものの願い事が叶えられますように~

noname#52670
質問者

お礼

「信仰はどうやって決まるのか?」 ふとした気まぐれから 今回この質問をここでして いろいろ書いたりもしたのですか やはり仏教は私にとって個人的に 何らかの形で克服しなければならない課題のようです。 (否定ということではないですよ。) maggaさんもよかったら聖書を開いてみてください。 それも、神に注目するのではなく。 神も神殿も国もなくしても、生き続けた人々。 人間に注目してみてください。 物事をまた違った風に見られるかもしれませんよ。

  • magga
  • ベストアンサー率15% (56/359)
回答No.26

<<もともと仏教に興味を持ったのは、原始仏教とかの論理性であることは私も否定できません。そうじゃなかったら今も仏教の話すらしてなかったと思います。>> ぜひ上座仏教学んでみてくださいw <<仏教を技術や方法論として捉えていませんか。そんな感じに捉えていませんか?>> はい、心を調御して生き方を清らかにするための実践方法。 だと思っていますよ。 一切の悪を犯さないこと、善に至ること、心を清らかにすること。これが諸仏の教えである。(ダンマパダ183)ですから。 怒らないためには。欲張らないためには。理性的でいるには。どうしたらいいのか。自分のため人のためになることをするにはどうしたらいいか。人間関係で失敗しないためにはどうしたら。 何事にも優れ、しっかりとして、まっすぐしなやかで、賢明で裏表がなく、人の言葉を良く聞き、柔和で傲慢で無い人になるために。どうしたらいいか。 その方法を、生き方を具体的に説いたのが仏教だと思っています。 <<少なくともキリスト教は技術ではないのです。天国への行き方の方法論でもないのです。生き方です。(今の時点での私が考えるに)>> 生き方こそ大事ですよね。善く生きるための実践方法が。 善く生きるためにはどうしたらいいのか、悪を犯さぬためにはどうしたらいいのか、心を清めるにはどうしたらいいか。そしてなぜそうなるのか。 <<だからどんな思想ともやっていけると。>> 人格の向上・精進を否定する考え。論理・道徳・理性を一切認めない考え。慈悲喜捨の否定。これらの思想とは同居できないでしょう。 言ってることも論理的に理解できて、道徳的だと納得して、試したらそのとうりだった、もしくは経験していて確かにそうだと判断する時に受け入れられないならば、かなり厚い我見に執着しているでしょうから。この道には来ない可能性が高いですね。 仏教は信じろ!的なものではありませんし。 「理性があるなら調べてみてはどうだろう。」が基本でしょう。 「脅し、甘やかし」もありませんのでいつも少数派です。 でも僕としては人の理性は曇って見えなくなることがあっても、なくなることはないと思っているので。実践可能な人は多いのではないかと憶測いたします。 科学技術を一部認めたように。 <<そんな風に考える私が思うに多分、お釈迦さんはスジャーターと出会ってなかったら悟れてなかったのではないでしょうか。>> 死んだら次の生で悟ることになったでしょうね。 今この教えを今生で聞けたのは彼女のおかげだといえるかもしれませんね。スジャーターさんには感謝です。

noname#52670
質問者

お礼

少し興味があるのですが maggaさんは、 今まで、仏教そのものを疑ってみたことは ありますか?

  • magga
  • ベストアンサー率15% (56/359)
回答No.25

<<私もあまりそういうのには関心がなかったのですがカトリックは黙想とかあるようです。禅と交流してるようですし。>> 上座仏教にも交流があった神父さんがいたと聞いたことがあります。 ということはキリスト教の人でも問題なく実践できるのかな? キリスト教の鈴木秀子という人もやってるみたいですしね。 スマナサーラ長老と本も出してますね。 「今ここに生きる智慧」 <<なぜ信じたいのか?うまく伝えられるかどうかわかりませんが 仏教的にこう言ってみることにします。それは「スジャーター」に会うためだと。>> ごめんなさい。 解らないです、、 <<お釈迦さんが出家して6年間、瞑想しても苦行しても、つらいばっかりで駄目でしたよね。>> ですね、無色界の四禅定までだったそうですね。 <<死にそうになって村娘スジャーターから粥をもらって一命を取り留めますよね。そして、苦行も止めてしまう。仲間がそれに失望していなくなり、苦行という自分がやってきたことも否定するしかなかった。>> 無色界の四禅定までが限界だったんでしょうね。 これでは悟ったことにはならないと。 苦行もやったがこれではだめだと。 <<でも、その後、やっと悟るわけですよね。>> ありのままを観ることで。 ヴィパッサナー瞑想・正念ですね。 <<私たちは当然悟ってないのでしょうから、こちらのほうが役に立つような気もするのです。みんな悟ろうとするから法話のほうにいく>> でしょうね。 <<ただの村娘でしかないスジャーターの存在の大きさってどれくらいのものでしょうかね。神はもちろん神で人間ではないですがこれを取り上げたほうがわかりやすいかなと。>> スジャーターの功徳はすごい事でしょうが… …解らないです、、 <<それにこれなら、信仰がつらかったりすることの一応の説明になるのではないでしょうか。>> いろいろ修行・苦行しても駄目だった。●死に掛けにスジャーターに布施してもらった。違う方法で修行したら悟った。その方法を聞き納得し実践する人が増えサンガを作った。在家の人もその方法を聞き納得し実践した。 これと信仰の辛さの説明…解らないです、、 ●の時点で「今までの瞑想じゃあせいぜい無色界の四禅定までだ、苦行もしたがただ苦しいだけで悟りの役にたたない無意味だ。少し休もう。」 肉体の維持に役立つ布施をスジャーターから受ける。 …信仰=苦しい=苦行=役に立たない=無意味だ? 多分…違いますよね。 <<余談ですがこれって、いわゆるアートマンとか仏性とかもちださずにもってことですかね?>> 他教のアートマン・ブラフマ(梵我一如)な考え方はお釈迦様自身否定されてるでしょう。仏性のほうは最近の考え方なので2500年前にはないですから。でも上座仏教ではちゃんと言ってるみたいですよ。 憶測するに大乗仏教を学ばれているようですね。 パーリ仏典まで学んでみてください。 僕も齧った程度ですが、かなりスッキリしていていいですよw

noname#52670
質問者

お礼

いつかパーリ仏典は読もうかな…とは思ってはいますが…。 英訳のダンマパダが本棚にしまいっぱなしです(汗) もともと仏教に興味を持ったのは、原始仏教とかの論理性であることは 私も否定できません。 そうじゃなかったら今も仏教の話すらしてなかったと思います。 ただ、私の持っている問題意識を考えると 大乗に進まざるを得ないというところがありましたので、まぁ。 >違う方法で修行したら悟った。 >その方法を聞き納得し実践する人が増えサンガを作った。 ここにmaggaさんの考え方が現れていると思いますが 仏教を技術や方法論として捉えていませんか。 だからどんな思想ともやっていけると。 そんな感じに捉えていませんか? 少なくともキリスト教は技術ではないのです。 天国への行き方の方法論でもないのです。 生き方です。(今の時点での私が考えるに) そんな風に考える私が思うに 多分、お釈迦さんはスジャーターと出会ってなかったら 悟れてなかったのではないでしょうか。 もちろんスジャーターはただの村娘です。 そして、長い苦行生活の末であることはもちろんで。

  • magga
  • ベストアンサー率15% (56/359)
回答No.24

<<maggaさんが神への信仰を基本的に「甘え」や「縋りたい助けて欲しい」と捉えてるところが面白いというか、なんというか。>> 神の信仰に対しての考えといいますか…、あなたの発言の、信仰したい理由が「その苦しみは実在そのものだから」だったので、考えられる要因はこれかなと憶測したまでですw <<確かにキリスト教を単純に愛の教えと考える人は、悩まないんですがね。そして、悩むなら苦しみをなくしたら。となってしまいます。それならもっといい方法があるよと。>> もっと良い方法といいますか… そちらには心に対する・人格向上に関する体系的な実践・改善方法はあるのでしょうか?あまり詳しくないので解りませんが。 キリスト教徒が認める範囲内で科学技術を駆使するのは問題ないでしょう。それと同じで仏教の実践を試みてもまったく問題ないと思うのです。 <<しかしそれは違うと思うのです。というのも別にキリスト者は苦しみをまるでなかったものにしたいというのではないと思います。なんというか自分から不幸になりにいくところがキリスト教にはあります。>> そうだとしたらずいぶん辛い信仰ですね… <<キリスト教のおそらく傍から見ていて一番の不可解な点はなんだって、あんな神を信じるのか?だと思います。もっとマシなのがあるだろうと。>> また戻ってしまいますが、だったらなんで信じたいのでしょう?「もっとマシ」という言葉から観るに、最高のものの下の下以下のもののようにしているのになぜ? このような疑問が浮かびます。 <<これに関しては言葉足らずでした。投稿して気づいたのですが人間と神は敵対関係にある。それだからこそ、愛を持って和解しなければ。ということです。>> 神「愛・慈悲喜捨」≠人間「欲怒りに満ち、無知」 これを和解させるということは神「愛・慈悲喜捨」に歩み寄る事とも考えられませんか。 考え方によれば人間がかってに「欲怒りに満ち、無知」によって敵対対象にしているのでしょうから、自己開発して人間の「欲怒りに満ち、無知」を破らねばならないという風に。 「和解=慈悲喜捨そのものになること。目指すこと。」になりませんか? なるのであれば仏教の人格向上の道とも少しつながる気がするのですが。 いかがでしょう。 ~生きとし生けるものの願い事が叶えられますように~

noname#52670
質問者

お礼

>そちらには心に対する・人格向上に関する体系的な実践・改善方法はあるの>でしょうか? 私もあまりそういうのには関心がなかったのですが カトリックは黙想とかあるようです。禅と交流してるようですし。 なぜ信じたいのか? うまく伝えられるかどうかわかりませんが 仏教的にこう言ってみることにします。 それは「スジャーター」に会うためだと。 お釈迦さんが出家した後、6年間、瞑想しても 苦行しても、つらいばっかりで駄目でしたよね。 死にそうになって村娘スジャーターから 粥をもらって一命を取り留めますよね。 そして、苦行も止めてしまう。 仲間がそれに失望していなくなり、苦行という自分がやってきたことも 否定するしかなかった。 でも、その後、やっと悟るわけですよね。 私たちは当然悟ってないのでしょうから、 こちらのほうが役に立つような気もするのです。 みんな悟ろうとするから法話のほうにいくけど ただの村娘でしかないスジャーターの存在の大きさって どれくらいのものでしょうかね。 神はもちろん神で人間ではないですが これを取り上げたほうがわかりやすいかなと。 それにこれなら、信仰がつらかったりすることの 一応の説明になるのではないでしょうか。 >まず、出家でないと悟れないわけではありません。在家でも可能と説きま >す。他の信仰を持っていても実践すれば可能と。あくまでも説くのは実践 >方法です。 余談ですがこれって、いわゆるアートマンとか仏性とか もちださずにもってことですかね?

  • magga
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回答No.23

<<その苦しみは実在そのものだから。でしょうかね。>> ここは同感です。 しかし「苦が実在するから信じたい」がわかりません。しかもなぜその対象が神なのかも…。縋りたい助けてほしいといったところでしょうか。 仏教はそこで苦を減らす実践方法を説きます。 甘えたところで堕落しさらに苦しむことになるよと。 甘えないできちんと現象を観て自分を観なさいと。 そして解決に向けて精進しなさいと。 <<私が自分のことをキリスト教徒でないと否定したら、逆にそれはおかしい、と思わざるを得ないというか?>> いいえ結構理性的な考え方を持っていると憶測いたします。自分の持つ教えに徹底的に何が何でもしがみついて離れない我見の強い人、といった感じはしません。 <<この世界のどこにも真実の教会なんて存在しないでしょう。あるとすれば移り行く教会だけです。だからといって、この世界にあるものを否定できましょうか?>> 出来るとかんがえます。 論理的道徳的に成り立たないものはねw 「殺すことこそ生きとし生けるものに対しての救済だ!それは善い事だ。」と信じている人たちのこの考えを肯定できましょうか? <<教会を政府にたとえるならだいぶ私はキリスト教的にはアナーキーな考え方をしています。基本的には教会なんて不要だと思います。現実には政府は必要です。でもどんな政府が理想かなんて知りません。もともと不要だと思っているのですから。>> 教会は不要だが必要です。理想的かはどうでも良い。だって不要だから。 よくわかりませんが、論理的道徳的に反する教えを説く団体があったなら、そこに何の意味があるでしょうか?必要でしょうか? <<仏教徒に聞くなら。サンガは所詮、幻想ではないですか?なぜ、悟る個人個人が問題とされながら仏門に入ったかはいらないかが問われるのですか。上座部ならなおさら、出家したかどうかが問われるでしょう。しないで悟れたら、出家者の権威を否定することになるでしょう。>> まず、出家でないと悟れないわけではありません。在家でも可能と説きます。他の信仰を持っていても実践すれば可能と。あくまでも説くのは実践方法です。 出家なら成長が早いのは容易に想像できるでしょう。何かを住み込みでみっちり修行するのと、毎日少しずつ修行するのではもちろん差は出やすいでしょう。もちろん個人個人センスの差異があるでしょうから人それぞれの成長度合いがあるでしょうが。 とにかく、出家を大事にするのは多くの生命にこの実践方法を伝え残すことで、生きとし生けるものの役に立つから。そしてここまで伝えていただけたのもサンガあってこそでしょう。だからサンガを大事にします。サンガのお坊様方も我々の心の成長を促してくれます。 <<逆になぜあなたがたはこのように心を強くするといって、様々な人に言って回れるのですか?>> 苦しみからの解放。誰もが望むことでしょう。その解決法を不完全ながらも実感し、少しでもお役に立てれば幸いという思い。 幸福な人が増えれば楽しいでしょう?笑顔が増えれば楽しいでしょう? 単純なことだと思います。 <<還俗についてどう思います?>> 「お帰りなさい。よく頑張りましたね」 といった感じでしょうか。ずっと出家でいても、死ぬまでに悟らなければそれもまた還俗でしょう。皆それぞれ頑張っている生命ですし。出家して心を清めようとすること自体尊いことでしょうからw <<「神はあなた方を愛している」「神を愛せ。」「汝の敵を愛せ」よく聞きます。つまり神は人間にとって敵です。人間的に、信仰とは戦いです。神とは敵です。>> こういった解釈は出来ないでしょうか。 「あなたが今「怒り」感じ嫌ってしまうような人でも、生きるうえで困難な道に導く人・現象・自分も一切を平等に心配し慈しみ、助け合いなすべきことをしなさい。」 敵というのは怒り・不快をもって排除したい対象に使う言葉でしょう。 <<しかしそれが、愛です。だからキリストは勝利です。>> 「敵はあなた方を排除しようとしている」「敵を排除せよ。」「汝の敵を排除せよ」つまり神は人間にとって排除すべきものです。神とは排除対象です。 こんな感じになってしまいそうです。 神を排除し払拭することが目的なのでしょうか。 それが勝利なのでしょうか。 単に「怒り」を排除・滅そうとするなら 仏門に同じ部分もあるのかもしれません。 勝利が、自己の「欲」「怒」に対する勝利ならば。 ~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~

noname#52670
質問者

お礼

>しかし「苦が実在するから信じたい」がわかりません。しかもなぜその対>象が神なのかも…。縋りたい助けてほしいといったところでしょうか。 >仏教はそこで苦を減らす実践方法を説きます。 甘えたところで堕落しさらに苦しむことになるよと。 maggaさんが神への信仰を基本的に「甘え」や「縋りたい助けて欲しい」 と捉えてるところが面白いというか、なんというか。 確かにキリスト教を 単純に愛の教えと考える人は、悩まないんですがね。 そして、悩むなら苦しみをなくしたら。 となってしまいます。それならもっといい方法があるよと。 しかしそれは違うと思うのです。 というのも別にキリスト者は苦しみをまるでなかったものにしたいと いうのではないと思います。 なんというか自分から不幸になりにいくところが キリスト教にはあります。 私自身、教理家ではないので、これが正しいものとは いえませんが。かといって、事実から目をそらして そんなことはない、神は世界を愛している。足りないのは あなたの信仰だ、なんてそんなふざけたこともいえません。 いう必要もないですし。 キリスト教のおそらく傍から見ていて一番の不可解な点は なんだって、あんな神を信じるのか? だと思います。もっとマシなのがあるだろうと。 >神を排除し払拭することが目的なのでしょうか。 >それが勝利なのでしょうか。 これに関しては言葉足らずでした。投稿して気づいたのですが 人間と神は敵対関係にある。それだからこそ、 愛を持って和解しなければ。ということです。 ってなぜか私は護教のほうに回りますね。 その気になればキリスト教否定もできるのに なぜか、こっち側に立つんですよね…。本当に不可解です。

  • magga
  • ベストアンサー率15% (56/359)
回答No.22

<<やりとりしていると、なぜ知識人に上座部系統の仏教がひろまっていくのかわかるような気もします。>> 倫理的なな整合性。道徳の厳密な解説。段階的かつ実証的な実践方法。 かなり魅力的ですw <<仏教はいろいろありすぎると思います。全部違う宗教じゃないかと言うくらい。仏教徒同士で話が通じてるんですかね?>> 上座と相性がいいのは禅宗でしょうか。 大乗はほかの宗教といってもいいと思うものも…。仏教と名乗らずに開祖の教えとしたほうが妥当に感じますね。仏陀の教えではないと言ってるものも「仏教」と名乗っているのもあるみたいですしw <<ア・プリオリに。と言っておくことにしておきます。人間結局、知りえたことしか扱えないんじゃないの?という懐疑に対する一つの抵抗というか。>> その懐疑を払拭するためにも、どこもまで経験的に体験的に知りえるか、扱えるのか、実践する必要がありますね。 <<私の問題は簡単です。教会へ行けないということです。つまり何を言っても私はキリスト教徒でもなければ神も信じていないということになります。>> ちょっとした疑問があります。 以前「協会は必要ない。一人一人でやればいい。」といっていた気がしますが、やはりあなたにとって協会は必要なのでしょうか。 そして理性的に冷静に考えて、あなたの行こうとしている協会、そこにいる人たちはあなたの中にあるような懐疑を完璧に払拭しきれていると考えているのでしょうか。 その人たちは論理的実証的な解決策を持っているかもしれませし、「最大限生かすべき理性」を捨てよといわれるかもしれません。 論理的実証的な解決策を持っていないのであれば、何のためになりましょう。 そこにあなたの言う神がいるわけでもないでしょう。 あなたにとって「神」なるものを信じることを どういう論理をもって必要とするのか、私には解りかねますが。 「俺のこと信じないやつは駄目だ!理性道徳知ったことか!駄目だ!駄目だ!」 といった了見の狭い、他の生命を否定し貶めるような…そんな「神」でなく、「愛・慈悲喜捨そのものである神」であれば。 信じたいという気持ちはひとまず置いておいても。 あなたが理性的道徳的な人間になることは、あなたの言う「神」なるものからしても決して恥ずべきことではないのでは? <<仏教の文脈で言ったらサンガへの不信ですかね。>> 上座部は疑問があったら速やかに質問するのが基本ですから…。 納得のいく回答が得られないかもしれませんが。お坊さんにもいろんな人がいるでしょうから得意なこともあれば不得意なこともあるでしょう。そのときは得意とする他のお坊さんに質問するだけです。 仏弟子として恥ずべき坊さんがいるなら、説教してあげればいいでしょう。それぞれが一人一人自分なりに頑張っている生命ですから。自分が成長するように、その生命が成長するように働きかけてあげればいいのだと思います。 <<心>> 信じたい心があり、信じるには納得のいく論拠が必要。その論拠がないから苦しい。 このような感じでしょうか? ここでひとつ。 なぜ信じたいのでしょうか。 「自己責任の放棄。他の責任にしたい。」 このような気持ちがあるならばすぐに「信じたい」を捨てたほうがいいと思います。 あなたの思う神が「愛・慈悲喜捨そのものである神」であれば。 その気持ちを望まないでしょう。 成長の妨げになり、自他共に苦を生み出す原因になります。 その神にとっても望むことではないでしょう。 あなたの思う神が「愛・慈悲喜捨そのものである神」で、その心に対する憧れの感情によって信じたいのであれば。 「信じたい」を横においておき、その心に近づく努力をしたほうが良いと思います。 その神もそれを喜ぶでしょう。 「全ては神の愛・慈悲喜捨を受けた作品」と言うならば、多くの生命が成長し幸福を手にすることを喜ばずにいるでしょうか。助け合うことを喜ばずにいれるでしょうか。 このように思うのですがいかがでしょう。 ~生きとし生けるものが幸せでありますように~

noname#52670
質問者

お礼

>なぜ信じたいのでしょうか。 なぜでしょうね。 信仰など苦痛そのものですが。 でも、その苦しみは実在そのものだから。でしょうかね。 仏教徒も苦は在るといってるようですし。 ところで、あなたは、私がキリスト教徒もしくは神を信じている 人間だと思いますか? 少なくてもこれまでのやり取りの中で。 私が自分のことをキリスト教徒でないと否定したら、 逆にそれはおかしい、と思わざるを得ないというか? >以前「協会は必要ない。一人一人でやればいい。」といっていた気がしま>すが、やはりあなたにとって協会は必要なのでしょうか。 私の問題の始まりはカルトです。 私の知りえたキリスト教はカルトです。 もし私の知りえたキリスト教が全てであるなら。 懐疑は深いです。 この世界のどこにも真実の教会なんて存在しないでしょう。 あるとすれば移り行く教会だけです。 だからといって、この世界にある ものを否定できましょうか? 教会を政府にたとえるなら だいぶ私はキリスト教的にはアナーキーな考え方をしています。 基本的には教会なんて不要だと思います。 でも、アナーキーは問題が多いでしょう。 現実には政府は必要です。でもどんな政府が理想かなんて知りません。 もともと不要だと思っているのですから。 それに私は洗礼などの権威まで否定できません。 客観性の欠如です。そして私は客観的にキリスト教徒ではありません。 仏教徒に聞くなら。 サンガは所詮、幻想ではないですか? なぜ、悟る個人個人が問題とされながら 仏門に入ったかはいらないかが問われるのですか。 上座部ならなおさら、出家したかどうかが問われるでしょう。 しないで悟れたら、出家者の権威を否定することになるでしょう。 逆になぜあなたがたはこのように 心を強くするといって、様々な人に言って回れるのですか? 還俗についてどう思います? >あなたの思う神が「愛・慈悲喜捨そのものである神」であれば。 愛の神。なるほど。 「神はあなた方を愛している」 よく聞きます。 「神を愛せ。」 よく聞きます。 「汝の敵を愛せ」 つまり神は人間にとって敵です。 人間的に、信仰とは戦いです。神とは敵です。 しかしそれが、愛です。 だからキリストは勝利です。

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    キリスト教系私立小学校目指して1年子供と切磋琢磨しましたが不合格でした。 その中で教会に導かれ、自分も洗礼を受けようと聖書の教えを学んで いたのですが不合格になったことによって夫より 「神様にお願いすれば叶うんじゃなかったのか?(嘲笑)」 などと信仰に対して心無い言葉をかけられてそれがきっかけで 教会へ行くことができなくなってしまいました。 今回の不合格によって信仰することを無駄、馬鹿げた事と思われて しまったようです。 そして私にも確かに神様を信じていても、落ちてしまったことにわだかまりが 出来てしまいました。 今後私が家族の反対や自分の中の不信感に打ち勝ち信仰を持つにはどうすればよいでしょうか・・・。

  • 100%の信仰ではありません。(キリスト教徒)

    3年前に洗礼を受けたプロテスタントのキリスト教徒です。 教義に疑問を抱き、1年半ほど教会を離れたあと、3ヶ月ほど前からまた教会に通うようになりました。 ですが、教会や牧師の教えに、100%頭から同意するという気持ちは、今もありません。 たとえば、自分は輪廻転生はあると思いますし、他の宗教の教えにも興味はあります。他の宗教を否定する気持ちは全くなく、共通するところや、互いに学べるところがあると思います。 聖書に関して曲解もあるような気がしてなりません。 つまり、イエス・キリストのことは大好きなのですが、 人間のつくった教義に対しては、不信をいだいてます。 聖書を読みつつも、精神世界の本や、ヒンズー教、仏教のことも少し勉強しています。 聖書以外にメインで読んでいるのは、パラマハンサ・ヨガナンダ氏の著作です。彼の設立したSRFなる団体にも顔を出しましたが、すでにヨガナンダ氏の理想とは離れた集団になっていると思われたため、行くのはやめました。 自分がこのように考えるのは、 信仰への興味が薄いのではなく、信仰を真剣に考えた結果です。 しかし、このような考えを持っていることは、教会の人には言えないまま、申し訳ない気持ちを抱えつつ、少し距離をおいたつきあいをしています。 本当はもっと仲良く付き合いたいのですが、このように隠し事をしている状況では、居心地も悪く感じています。 また、隠したままでいるのが心苦しいだけでなく、自分の考え・状況を理解してくれる人がほしい、と思います。 自分の状況を、クリスチャンの人に話してみるか、 キリスト教会とは別に、またスピリチュアルな集まりなどに、どんどん顔を出してみるか・・さらに秘密が増えてしまうわけですが・・ 一人で信仰を求めようとして教会を離れたこともありますが、 うまくいかず、自分は一人でやっていける段階にはない、ということもよく分かりました。 信仰の仲間といえる人が欲しいのです。 うまくまとまっていない質問文ですみませんが、 アドバイスをください。お願いします。

  • 神に意志はあるか

     1. まづ 神は無いという信仰をお持ちのみなさんには むしろ一般論として 神には《人間に対して意志を見せるつもりはない という意志》がある。とお伝えしましょう。  2. ふつうは われという一人の主観の内において〔のみ〕 神はわれにその意志を示すことがある・・・とわが主観が思ったとしても 誰からも後ろ指をさされるということはない。と考えられる。  3. 神とわれとは タテの関係であり われと他のわれとは ヨコの関係である。  4. タテの関係が 信仰とも呼ばれる《非思考の庭》なる動態である。   ヨコの関係は 《思考の緑野と感性の原野》とでマジハリ(交通)をおこなう社会的な人間関係である。  5. ちなみに ヨコの関係なる場に 信仰から脱皮した宗教が棲息している。   宗教は 非思考から思考に移っているので 言わば《信仰という蝉の抜け殻》である。オシヘとは そういうカスである。  6. で要するに 神に意志があると見るのは 非思考の庭なる信仰にあっての話であり その場合のみである。  7. もし 《われ ‐ われ》なるヨコの関係において 神には意志があると成ったとすると たとえそうだとしても 直接の意味は生じない。タテとヨコとは 直接のカカハリを持たない。タテは 非思考なのだから。  8. ヨコの関係において神について話をしてもよいでしょうが それは基本的に神についての感想やまた思想としての話に限られる。 神論や信仰論〔ましてや宗教〕といった搾りカスと 生きた神や生きた信仰とは 別です。  9. つまり 人間どうしのヨコの関係では 神に意志があるとたとえ主観が見ているとしても その神の意志は お呼びではない。   フクシマは 神罰だといった夢物語にしかなりません。  10. それでも――つまり いま述べた話の全部をもってしても それでも――わが主観なる非思考の庭にわが固有の時を憩いながら過ごすとき 神は この世界のすべてのものごとをつうじて われにつねにメールを送って来てくれていると思ったとしても 何の問題もないでしょうね。(読めるか どうかの問題がありますが)。  ご批判を歓迎します。(率直に考えるところにしたがって 応答します。つまり反批判をもおこないます)。

  • キリスト教信仰に向いていないのでしょうか

    キリスト者の方に質問です。 聖書の記述で大宣教命令に違和感があります。 宣教・伝道はそれ程重要なことでしょうか。 個人的にキリスト教に関心はあるのですが、献金・奉仕も継続するのは不可能に近いです。 このような場合、キリスト教を信仰することは難しいでしょうか。 行動力が不足している人間も向かない気がします。 無教会主義に関してはどのように思われますか。 自分自身、教義の思い込みのように錯覚する時が多々あります。 哲学のように計画的に思考することは到底向いておらず聖書解釈も疲れます。 自分が可能な方法で歩んできましたが、 ここまで行き詰っているということは、やはり宗教に向かない性格なのでしょうか。 個人的には教会組織に頼らずに歩んでいきたいと思っています。 独りでは、やはり行き詰ってしまうのでしょうか。 教会員では無いので、牧師にも相談できず困っています。

  • 神 信仰および宗教についての一般理論

     神および信仰ならびに〔信仰の偽造物なる〕宗教についての一般理論  第一章 《信じる》と《考える》とを分けること   ○ 真理と事実と真実  ~~~~~~      真理――信じる    事実――考える    真実――《信じる》+《考える(感じる)》   ~~~~~~~~~~~~~~~~~  1. 真理は 非経験の場――そういう想定です――である。事実としての経験事象を超えている。  2. 事実については 確かにそのいわゆる客観なる事実は じつは 人間の主観にとっては最終的な確実性においては 分からない。(つねに 未知の部分をのこす)。けれども 経験事象を認識すること・それについて考えること このことと事実とは 一対一において対応している。  3. 真理は 人間の能力によっては 認識し得ない。考えても それが何であるかについて分かるか分からないかが分からない。  4. ただし 事実が 主観によって認識され 主観真実の一環を占めるとき あたかも同じように 真理もそれが ともかく心に受け容れられて 主観真実を成すことになる。真理が 非経験の場であるとき これを受け容れたなら わが心に《非思考の庭》が成るという寸法である。信仰と呼ばれる動態である。  5. このとき 真理についても じつは・じつに 人間は《考える》ことを成す。たとえば 《真理とは 愛であり 慈悲である》とか 《この上なき善である》とか あるいは《真理はきみたちを自由にする》などなどです。  6. このとき 経験事実についての主観真実と 真理についての主観真実とが 紛らわしくなり 互いに混同されてしまうことが起きる。  7. ついには 真理についての《考える》の結果としての思惟や思想が オシエとして持たれ このオシエが あたかも真理そのものであると錯覚されるに到る。  8. 真理そのものを《信じる》のではなく そうではなくなり 真理についての誰かの主観真実としてのオシエが ついには《信じられる》という事態に発展してしまう。  9. まづは このマゼコゼについて 注意をはらうことが 大事ではないだろうか。信じると考えるとは 明らかに別のふたつのことがらである。  これを問います。

  • 聖書の示す神とその信仰は 無条件に成り立つもの

     ・・・でなくてはならない。ということを キリスト・イエスが指し示した。  そこから 《神および信仰ならびに〔信仰の成れの果てたる〕宗教にかんする一般理論》が成った。  世界における神とその信仰は 神の名が違うだけであって みな同じひとつの神であるということ そしてその神とわれとの関係たる信仰も基本としては 同じかたちである。こう成ります。  《すべての神》という言い方もヘンですが そのあらゆる《神は 無根拠であり 信仰は無根拠にて成り立つ》という意味にもなると考えますが その理由を地図のごとき説明にて示します。   ○ (神とは《非知》のことである) ~~~~~~~   経験事象      可知       既知       未知      不可知(知り得ないと人間が知り得た)   非経験の場(因果関係を超えていると想定)      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)  ○ (非経験の場=非知 なる神を受け容れる《非思考の庭》)~~~   信じる:《非思考の庭》:ヒラメキ直観   ----------------------    考える:《思考の緑野》:理性←→オシエとしての宗教   感じる:《感性の原野》:知覚;直感  ○ (信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えられる) ~~~~~   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)(*)    無梵:空・シューニャター・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)(*)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:如来蔵・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ   * 無神論と有神論:《非知》を――なぜなら 因果関係を超えているゆえ それが有るとも無いとも人間には規定できないので 好きにどちらかをえらべばよいから――《無い神》としてえらんだ結果の信仰が 無神論である。《有る神》として非知を受け取る有神論と それはまったく対等で同じ信仰である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 真理は シンプルです。シンプル・イズ・ベスト。  このたたき台を 言わばコミュニティーに対して かさねて問います。

  • イースターとキリスト教会について、教えてください。キリスト教会は、唯一

    イースターとキリスト教会について、教えてください。キリスト教会は、唯一神を信じる宗教といわれているのに、キリストの復活に際して、どうしてその神とは関係の無い、否むしろゲルマン民族の神の名前に由来するような「イースター」を使うのでしょうか?また、いつからだれによってそういう習慣ができたのか?詳しく知っておられる方教えてください。

  • 信仰するにあたって

    はじめまして。 この質問を読んでくだりありがとございます。 キリスト教を私の宗教とし、信教したいと思っています。 うまく書けないし、こんなこと書いたら失礼にあたるかもしれないのでが 私は、幼稚園がカトリックでした。 引越しての途中入園で、ほとんど通ったという記憶はないのですが それでも、毎日のお祈りは今でも覚えています。 しばらくは小学校に上がっても、覚えたお祈りを、ひとりで寝る前にしていたほどです。 永く通っていた園児には、マリア様の小さな陶器の像が贈られるのですが 私はもらえなかったため、子供ながら折り紙で作った十字架を壁に貼り、その十字架にお祈りしてました。 でも、母に、はがされてしまったのです。 こういうことはしてはいけないと言われ、お祈りもやめさせられました。 そして、もう一つ大切にしていた、幼稚園のシスターから届いた絵ハガキも、気づいたら捨てられていました。 それから15になるまで、心に鍵をかけてしまい、思い出しませんでした。 でも、すごくつらいことがあって。 それから、信仰を持ちたいと思うようになりました。 図書館で聖書を読み、母や父に知られないように、隠れて読みました。 父も母も宗教が大嫌いで、こういう言い方は失礼ですが まるで自分たちとは住む世界が違う人間なのだという態度をとります。 私は、どの宗教でも、信仰をもつことは素晴らしいことだと思います。 でも、父と母のことは別なのです。 父も母も、まるでそんなことをするのは頭がおかしいのだと、思っているんです(カトリックではなく宗教に入っていらっしゃる方が両親の友人2組にそんなことを言います・・・) 友人のことをそんな風に言っているのを聞いているし 娘の私にも、情け容赦なく、自分の価値観と違うものは受け付けようとしない両親です。 カトリック教会に行って、神父様のお話を聞きたいと思うのに、何と言われるか、何を思われるか恐ろしくて、両親に言いだせないのです。 両親は私の交友関係などすべて把握しており、行動すべて把握して、家から出るときはどこにいくか、誰と会うのかすべて話さないと家から出してくれません。 ここには書けないほど両親との関係は不雑で、人にはわかってもらえないのです。 でも、神様なら、色んなことすべてを受け入れてくれるのではないかと思ってしまうのです。 私は、先ほど書いた幼稚園の頃のシスターのような人間になりたいんです。 でも、両親に信仰のことを話すのには、とまどいがあります。ありすぎます。 どうすれば両親にわかってもられるのでしょうか。 私はどうしたら、教会に行って神父様のお話を聞けるのでしょうか。

  • 神様が信じられるようになるにはどうすればいいでしょうか

    なにか救いをもとめて、あるいは精神的な安らぎをもとめて、宗教にすがりたいと思っています。 ただし、わたしにとって信仰するに値する宗教であれば。 信仰するに値する…えらそうですが、どうしても教義に賛同できない宗教は信仰することもできないのです。 とりあえずこれくらいは満たしてほしい条件です。 ・納得できる教義がある ・あまり信者からお金を巻き上げようとしない ・男尊女卑な考え方ではない ・他者を排他しすぎない なにかおすすめはないでしょうか。 この本で○○教に感銘を受けた! とか こうすれば神様の声が聞こえるとか、なんでもアドバイスや意見を聞きたいです。 なにか救いをもとめて宗教を、というこの考え方がすでに間違ってると思われたらそうゆってやってください。でも打たれ弱いのでおてやわらかに… いまのところ、教会でお話を聞いても、勧誘をうけても、お寺でお坊さんの説教をきいても、宗教関係の本を読んでも、駄目でした。 神様や仏様を漠然と尊いと思うし、信仰の素晴らしさを感じても、自分はかけらほどの信仰心を持つことができません。 生来疑い深い性格ですし、およそ非科学的とされるものがあまり受け入れられない性格のせいだろうとは思います。

  • 《非思考の庭(信仰)》は 誰からも 汚され得ない。

     たたき台を述べます。自由にフルボッコでたたいてください。  《非思考の庭(信仰)》は 誰からも・何ものからも 汚され得ない。  なにしろ 《思考に非ず》なのですから 内からも外からも人間がその知恵やチカラでどうにかしようとしても出来るものではなく 出来たと仮りに思ったとしても 何も出来ていないし 出来たと思ってみたところで何にもならない。  《神は死んだ》という人間の発言は 信仰を知らない。    《神は生きている》と人間が発言したところで 神が変わるものではない。  信仰は ただただ 神――しかもその名〔のみ〕――をわが心に受け容れる行為である。  (受け容れないと言っても 同じことである。心には その拒むことにおいて・指先がかろうじて触れたかのごとく 触れた恰好であり そこに非思考の庭が成っている)。  受け容れるのは 人間のおこなう意志行為である。  何を受け容れるかと言えば それは まったくのナゾである。  このナゾを 神とか霊とかと 昔から言って来た。分からないから そんな言葉を使うということだ。  つまり重ねて述べるなら この《神》も 人間がそのチカラでどうにかしようとしても 何一つ出来っこない。  (しかも 人間は 時として 自分がそうあって欲しいという中身を想像し考えてこれを神の像とする。おまけに をがんでさえいる。初めからそのような想像の神は 人間の思いやオシエとしては《生きて》いても 神としては死んだ状態にある)。  神および信仰は 人間の経験世界を超えている。  この非思考の庭なる神を どうして人間が汚すことが出来ようか? どうやって 貶(けな)すことが出来ようか?     内からも外からも どうにもすることが出来ないはずだ。  神の冒涜というのは 言葉の矛盾である。  これが 神である。これが 良心・信教の自由である。  無条件・無制約のもとに ひとはこのかみにあまえていけばよい。  まったく自由にというのは 神が経験合理性を超えており神とわれとの関係は思考に非ずということであり ならばあまえは 聖なるあまえである。何でも自由に願えばよい。それが 神である。名は何でもよい。《無い神》でもよい。