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拈華微笑

我が家に四字熟語の日めくりカレンダーがあるのですが、今日のお題は 「拈華微笑」(ねんげみしょう) ことばを用いずに、心で相手に伝えること。「拈」はひねるという意味。説法のとき、釈迦が黙って蓮の華をひねると、その意味を悟った一人の弟子だけが微笑んだので、釈迦はその弟子にだけ仏法の奥義を伝えたという故事から。 と書いてあります。この解説の中の、釈迦が蓮の華をひねった、というのはどういう意味があったのでしょうか?ネットで調べても上記のような程度の解説しかありません。

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質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • marienbad
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回答No.3

「拈華微笑」を理屈で言えば、 蓮の花はとてもきれいだが、濁った水でしか育たない。 綺麗と汚いが合わさった清濁一如のところを表しています。 例えば人間は綺麗でしょうか?汚いでしょうか? 尚、リンクページにも記載されているように、釈迦は弟子の摩訶迦葉が微笑まれた時点で「仏法が伝わった」とされています。 「一人の弟子だけが微笑んだので、釈迦はその弟子にだけ仏法の奥義を伝えた」というのは誤りです。 これは仏法とは教わるものではなく、気付くものだからです。

参考URL:
http://www.pandaemonium.net/menu/devil/Makakasy.html

その他の回答 (3)

  • Big-Baby
  • ベストアンサー率58% (277/475)
回答No.4

#1です。「法門」とは「仏の教え」のこと。「無上の法門」とは「無上の仏の教え」「最高の仏の教え」ということです。お釈迦様のジェスチャーはそうした仏法の奥義を暗示するものであったということだと思います。普通の人が見てもわかるものではありません。

回答No.2

「拈」の字は、「ひねる」というよりは、「指でつまむ」といった意味です。 霊鷲山という山で、ある時、お釈迦様が説法するために登場しました。けれど何も話さず、ただ黙って一輪の花をつまんで皆に示したのですが、誰もその意味が分からず、摩訶迦葉というお弟子だけがその意味を悟り、にっこりと微笑し、それによって、お釈迦様の真の教えが摩訶迦葉に伝わったという故事があります(もちろん、史実ではないと思いますが)。 「この一輪の花を見よ。この中にすべてがある」と、暗に示したのです。言葉ではなく心で真理を伝えたのです。「以心伝心」というのは、ここから来ています。 まあ、この「真理」というのが何かということは、坐禅でもして悟りを開かないと分からないのでしょう。

0621p
質問者

お礼

その真理が何か?というのが知りたいところですが、それは簡単にわかるものではない。そいうことですね。ありがとうございました。

  • Big-Baby
  • ベストアンサー率58% (277/475)
回答No.1

禅宗用語はなかなかむずかしいですね。中国語版Googleで検索してみました。 下記のサイトによると、釈迦の動作は無上の法門を暗示しているのだそうです。なかなか普通の人ではそこまで読めないですよね。 http://blog.roodo.com/famscl/archives/1626667.html

0621p
質問者

お礼

そのサイトを見ても中国語なのでさっぱりわかりませんが、そのようなことが書いてあるのですか、しかしそれも何のこっちゃわかりません。ありがとうございました。

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