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背信

はじめまして。 40代独身男性です。過去に恋愛経験もありません。  私にはこの世で唯一のかけがえの無い親友がいます。 60代の女性ですが、この世で初めて私を一人の人間として扱ってくれた命の親といってもいいほどの存在です。 彼女には肉親同様、或いはそれ以上の愛情を持っています。 精神科のカルテに「希死念慮アリ」と書かれている私が、 今こうして生きているのも彼女の存在があってこそだと確信しています。 ところが私はまだ浮世の煩悩から脱することが出来ません。 彼女と一緒に歩いているときにも、 一人で街に出たときにも、 若い(同世代の)異性がいるとつい目で追ってしまいます。 不可能な夢でしかありませんが「結婚」「子供」などということも夢想してしまいます・・・ 彼女はそれを怒りはしません。 ただ、あなたの幸せを願っていると言うだけです。 けれども、私が彼女と別個に幸せになるということは、 自分の中では許されないことなのです。 自分の「親」であればそういうこともあるでしょう。 しかし彼女は血のつながっていない「異性」です。 「あなたが幸せになれば・・・」といっても、 それは母親のそれとは意味が違います。 私が昔の女性であれば、親の悲しみを思えば親を捨てて嫁いで行くということは考えなかったかもしれません・・・ 私は彼女のおかげで人間になれた・・・とは言いません。 私はまだまだ人間には成り切れていません。 (多分永遠に) しかし彼女と一緒の時には「人間らしい」自分を感じることが出来るのです。 「生涯娶らず」・・・その誓いを自分の中で立てられずに、 異性に色目を使う自分が許せません。 何故心理学のカテゴリーを選んだかというと、 はっきりとはわかりませんが、何か、「親子の関係」に似たものを感じるからです。 私は子供の頃から抑圧が強い人間だったように思います。 それは、親から刷り込まれた「善・悪」の判断というよりも、 「母を悲しませることはしたくない・・・」 という気持ちからでした。 親、恩人を踏み台にした幸福など有り得ないと思います。 要領を得ない質問になりましたが、 ご意見を伺えれば幸いです。

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  • iye
  • ベストアンサー率41% (23/55)
回答No.7

#ANo.1,2,3です。 皆さんご指摘のように、せっかく「人間らしい」自分を感じられるようになってきてるのなら、 日々の人との出会いを大切にしてその時々の心の躍動を感じられるようにできるといいですが。 それこそが、「人間らしい」と思います。 そういう新鮮な体験を全部無駄にしてしまうのは、残念なことではないでしょうか。 これは、悪循環を成して、余計に世界を色褪せたものにしてしまう。 「宗教色」を帯びる関係というのも、まさに「人間らしい」と思いますが。 それから彼女以外の対象に目が向くのは、何も性愛的なことに限らないのではないでしょうか。 親しみを持って接せられるひとは他には皆無?  性愛的なもの以前に人とのかかわりに関しても抑制がかかっているのではないでしょうか。 または、不安や傷つきやすさを感じているのでは? もしそうなら、「結婚」「子供」にしても、仰る通り「夢想」に終わってしまう。 誰とも親密な関係を構築できないと諦めてしまっていることが、彼女との関係をよりピュアなものにする。 すると、また抑圧が強くなる。 「希死念慮アリ」の貴方を全的に愛してくれる対象があるなら、それを頼りに、せめて、もっと生を楽しむゆとりはあってもいいかもしれません。 それは決して、彼女の「悲しみ」には繋がらない気がします。

noname#79626
質問者

お礼

お礼が遅くなって申し訳ありません。 数日間PCが不調だったものですから。 確かに「親しみを持って接することのできる人。心を許せる人」は 彼女以外にいないので、ご指摘は的確だと思います。 そうですね。 ちょっと欲張っているのかもしれません。 彼女といるときだけ人間らしい自分を感じる。 皮肉なことに異性に目が行くほどエネルギーがあるのも 彼女と一緒にいる時が多いですね。 彼女といるときに「生を実感できている」それでいいのかな・・・ 重ねてアドバイスありがとうございます。

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その他の回答 (7)

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.8

#6です。 「殉ずる」という行為には「覚悟」が伴なうように思います。 ここに無理を感じて、これが私の懸念するところなのです。 先の件の返事も記入済みです。 「心という海」は本当に底知れませんね。  

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  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.6

#5です。 >仮に彼女が望まないことであるにせよ、彼女ナシの幸せというものを私は自分に許せないのです。 :言葉の綾なのかもしれませんが、言い違え自体にも必ず無意識の意味は存在するわけで、「許せない」という感覚自体にやはり無理があると捉えるのが適切だろうと私は考えます。 彼女と「終生一緒にいたい」ということでなければ不自然ということです。 また、本当にそう思っているのであれば、「余所見」はあくまで一時的なものに過ぎないわけですから、そのことをそう深く悩む必要性は出てきません。 このあたりの無意識に関して少しお考えになってみるのも無駄ではないような気がします。

noname#79626
質問者

お礼

PCの不調でお礼が遅れましたことお詫びします。 「言い間違い」はありません 「カノジョナシノコウフクヲ、ワタシハジブンニユルセナイ」 そのままです。 極端に言えば、 「何を殺さなければならないか?」ということになれば、 それは自分の中にある外部への欲求。 仮に一時的なものであるにせよ、私が秋波を送っているのは「敵側」の人間です。そしてそれはこの世での唯一の「味方」への背信行為です。 確かにいずれも「不自然」ではあります。 しかし彼女に背くことよりも自然に背くことのほうが大事だと思うのです。 普通には到底わからない心理だと思います。 物心ついたときから、 常に世間に唾を吐きかけられてきたものだけがわかる感覚だと思います。 「殉ずる」ということは不自然なことでしょうか。 何に? 彼女に? 「自分に」 アドバイスありがとうございました。

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  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.5

>親、恩人を踏み台にした幸福など有り得ないと思います。 :「踏み台」の意味によっても違ってくるのかもしれませんが、受けた恩によって相手より人間的に成長することは踏み台とは言わないでしょう。 相撲などスポーツの世界でよく言われる「恩返し」もこういった意味になっていると思います。 恩というものは本来与えられる側だけではなく、与える側にとってもメリットのあるものだと思われます。 リビドーの纏綿対象が存在するということはある意味で幸福なことだからです。 宗教家などが不幸な人間を貪るように探そうとするのは、無意識的ですがそういった満たされぬ自己欲求に基づいています。 朝青龍が高砂親方の立場を考慮していないかのようにモンゴルへ帰りたがったのは、心理的に考えると正解だったと私は感じます。 あそこで恩人である師匠のためと耐えて国内に留まったとしても、結果はどうあれ、師匠に対する抑圧的な不満を抱えることになったはずです。 弟子がそのような心理状態で過ごすことを容認するような親方が果たして本当の恩人と言えるかどうか、答えは明らかでしょう。 >何か、「親子の関係」に似たものを感じるからです。 :かなりご自分を分析されているように感じます。 おっしゃるとおりだと思います。 ありきたりですがエディプスコンプレックスの典型と申し上げてよいのではないでしょうか。 通常このコンプレックスは昇華され現実的な対象にとって代わられるわけですが、それを許さないほどの固執が過去のpokochan2さんを支配していたのでしょう。(現在は疑問を感じている分、脱皮が図られようとしているように思われます) 60歳の方と夫婦という形態は健康的、すなわち現実的とは言えないわけで、なおそこに固執するということはリビドー纏綿対象に「明らかな年齢差」を必要としていることになるでしょう。 「>若い(同世代の)異性がいるとつい目で追って」しまうのは、自然で健康的なリビドー発散の下地が存在している証明ではないでしょうか。 >不可能な夢でしかありませんが「結婚」「子供」などということも夢想してしまいます・・・ :とのことですが、「不可能」という認識自体が、(全てを委ねることが許された幼児的精神性の時代から離れたくない、という)過去への固執から導き出されていることにお気づきになるとよいと思われます。 >けれども、私が彼女と別個に幸せになるということは、 自分の中では許されないことなのです。 :そうしたくないという感情に過ぎないのではないでしょうか。 許されることではない論理が成立しないように思います。 親を捨て恩に背くことになるので結婚しない、という論理が誤りであるように。 「>あなたの幸せを願っている」という彼女の言葉は信用すべきで、pokochan2さんが犠牲となって彼女はそれを喜んでくれるような方なのでしょうか? 結婚していて浮気をしようというのとはわけが違うわけですから、ここで犠牲という言葉を使うことは大げさではないと思います。 pokochan2さんの無意識としては、一人前の男として独立独歩を歩むことが怖いために、彼女をだしにして自己の可能性を封じ込める(新しい可能性を拓くことを回避する)言い訳をしていることになるような気がします。  

noname#79626
質問者

お礼

はじめまして。 長文のご丁寧なアドバイスありがとうございます。 朝青龍と高砂親方の例え話はとてもわかりやすいです。 お答えの最後の部分、とても考えさせられます。 私が「犠牲」になってけっして喜ぶような女性ではありません。 寧ろご指摘のように「親離れ」を恐れているのに似た感情があると思います。 「幸せになって」「いい人と巡り会って」と言われる度に、刃物を突き刺されたように感じるのは、何か親から見放されるように感じるのは何故かといつも思います。 多分彼女がこれまでの人生の唯一の理解者であるため、 彼女なしの人生をイメージできないからじゃないかとも思うのですが。 束の間の快楽のためにかけがえのないものを失いたくない。 考えれば考えるほどわからなくなってきました。

noname#79626
質問者

補足

自分の中でもどのような感情が渦巻いているのか判然としません。 ただ、普通の感性の持ち主には不可解だろうし、理解不能かと思いますが、 hakobuluさんが言われた「犠牲」という言葉、私はどうなろうとも、 彼女の「犠牲」になるということは有り得ないと思っています。 仮に彼女が望まないことであるにせよ、彼女ナシの幸せというものを私は自分に許せないのです。 彼女に命を与えられた以上、生きるも死ぬも彼女と一緒という気持ちです。 なんだか宗教色の強い話になってきましたか? 要は彼女だけが私の唯一の理解者であると言う気持ちです。 こういう気持ちって、アツアツのカップル以外にもあるんですね。

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  • snakesoul
  • ベストアンサー率35% (36/101)
回答No.4

はじめまして。 >若い(同世代の)異性がいるとつい目で追ってしまいます。 これこそ人間らしい行動です。 ところで、 人間みんな右往左往しながら成長していくものです。 私はそんな方々を見捨てたりはしませんよ。

noname#79626
質問者

お礼

はじめまして。 アドバイスありがとうございます。 「見捨てる」「見捨てない」 私がここまで彼女のことで葛藤するのは、質問文にも書きましたように、 これまでの人生で、(親は置いておいて)「彼女だけが」唯一、私を見捨てなかった人だからです。そしておそらくこれから先も。 わたしをいつまでも見捨てない人は彼女だけでしょう。 それを愚かしくもエロスの誘惑に幻惑されて一番たいせつな存在を傷つけている。 なかなか目が覚めない。 右往左往、じぐざくでもとりあえず前に進んでいれば、寄り添ってくれる人もいるでしょう。 でもメリーゴーランドのように、いつまでもグルグルと自分の尻尾を追いかけている犬のような者は早晩「見捨てられる」ということも事実じゃないでしょうか。

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  • iye
  • ベストアンサー率41% (23/55)
回答No.3

#ANo.1,2です。 深い関係性・・親子、恋人同士、親友・・・。 いずれにしても、時間と空間の広がりの中にある存在にとっては、Only Youとういうのは決して到達できない、けれど、求め続ける理想のようなものではないでしょうか。 愛し合う若いふたりは、愛の大きさを競い合う。 冷めた見方をすると、実現するのは、二人の関係性の中にとどまっている間だけ。 愛し合い、傷つけ合いながら。 Only Youを求めると同時にYou and I そして、Others・・・。 あとは、個のあり方の問題でしょうか。 束縛と自由の狭間での選択。 愛し方は規定されないもの。 自分なりの愛し方でしか人を愛することはできない。 また回答になってないですね。すみません。 でも貴方は、おそらくすでに答えを知ってみえる。または、誰も正解を知らない。 余計な回答はすべきでないか・・・。

noname#79626
質問者

お礼

重ねてお礼ありがとうございます。 「余計な回答」と言うものは親身になっていない、冷やかし本意などの 回答以外にないと思います。 色々と考えてくださって感謝しています。 確かに一連のお答えのように、 どこか「親子の相克」というか「親子の運命」に共通するものを感じているのですが、それはなにかわたしにもはっきりしません。 確かに人は自分なりの愛し方でしか人を愛することは出来ないし、 必ずしも、私の愛情が相手の望む形に合致するとは限らない。 でもそんなことを頭で分かっていても、身は裂かれる思いです。 率直に言えば、「エロス」(性愛)という欲望?が私の中から消滅すれば おそらく彼女はonly you になると思います。 しかしそういいながらやはり私は「心の去勢」を望んではいないのです。

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  • iye
  • ベストアンサー率41% (23/55)
回答No.2

#ANo.1です 失礼しました。回答がずいぶんズレてましたね。 これまた、ついでに借り物の解釈をすると、阿闍世コンプレックスに近いでしょうか。 礼を失した表現になってしまいますが、ご容赦願いながら書くと、 包み込んでくれる愛情と、呑み込まれるような愛情。 これに似た葛藤もある? 「丸ごと」愛するなんて、そうはできるものではない気がしますが。 そこから生まれる罪悪感を減じるのは難しい。 彼女の許しがさらなる罪悪感を生む。 極端に一般化してしまうと、「他人より多くもらってしまっている」気がするというのが、罪悪感のもと、でしょうか。 だとすると、相手と対等であろうとすれば、その罪悪感を消し去ってしまうことはできない。 エロス(?)に相当する部分に代わる何かを相手に返さない限りは。 感謝の気持ち、敬愛の念が伝わるだけでは済まないのでしょうか。 あるいは、貴方ご自身が幸せになることでは。

参考URL:
http://www005.upp.so-net.ne.jp/jikokaifuku/kotoba52.htm
noname#79626
質問者

お礼

お返事ありがとうございます。 どう考えたらいいのかやはりまだ迷います。 ユーミンの歌に「少しだけ片思い」というのがあるのご存知ですか、 『少しだけ片思いI Love YOU MORE THAN YOU・・・YOU LOVE ME ・・・♪』 多分彼女の気持ちはこういうことだと想像します。 これを解消しない限り、私の罪悪感は消えないような気がします。 「感謝」や「敬愛」ではないのだと思います。 わたしが逆の立場でも女性に「感謝」や「尊敬」されても嬉しくないと思います。 では彼女はもっと「恋愛」的なものを求めているのか? そうではないと思います。 ただ、「丸ごと」の愛情を求めているのかなと感じます。 現に彼女は私を丸ごと愛してくれています。 所謂 ONLY YOU!です。 でもわたしは質問にも書きましたように、 彼女にONLY YOU ではないのです。

noname#79626
質問者

補足

なにがONLY YOU にさせないのか? 端的に言えばわたしの中のオスの部分です。 「エロス」が邪魔をしているのです。 そして人との関係において、 性愛というものが如何に儚いものであるか、 頭ではよく理解しているのです。 しかし恋愛経験のないわたしにとって、 未知の「エロス」を捨て去ることが出来ずにいるのです。 それが彼女の悲しみの元であり、私の罪悪感の源じゃないかと感じています。

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  • iye
  • ベストアンサー率41% (23/55)
回答No.1

表面的な見方をすれば、古典的ですがエディプス・コンプレックスの文脈で考えると分かりやすいかもしれませんね。 「母なる対象」や「内的な女性像」、「それを投影した実在する他者」に対しての思慕と、 そういう積極的な心の動きに対する禁制、抑圧。 >ところが私はまだ浮世の煩悩から脱することが出来ません。 ・・・煩悩というより、健康な欲求ではないでしょうか。 >親、恩人を踏み台にした幸福など有り得ないと思います。 ・・・自己の外界に対する働きかけは、 成長、自律のひとつの表現と捉えることはできないでしょうか。 「踏み台」ではなく、それぞれの対象を内在化して、ともに生きていく感覚みたいな。 使い捨てになるわけでもないですよね。 愛する人が巣立っていくのは、淋しさと喜びが混じり合うもの。 新しい世界を切り拓いて行くのは、不安が伴うことでもある。 >けれども、私が彼女と別個に幸せになるということは、 自分の中では許されないことなのです。 ・・・貴方が幸せになることが、彼女の幸せを損なうことになるのでしょうか。 「親を捨てて嫁いで行く」みたいな、何か、事情がおありなんでしょうね。 浅薄な理解で恐縮です。

noname#79626
質問者

お礼

お返事ありがとうございます。 自分でも頭の中や心の整理が出来ないまま・・・というかそれが出来ずになにか手がかりが得られるかと質問しました。 多分私の抱いている愛情と向こうが私に対して抱いている感情は同じものではないのだと思います。わたしは、相手を「恋愛」(エロス?)の対象としては見ていません。自分のなかではそれ以上の、言ってみれば「親」と同等の位置に彼女を置いているような気がします。 一方彼女はおそらく私を「異性」として見ていると思います。 私は彼女を尊敬し、大いなる愛情を感じながらも、片一方で、「エロス」の対象を求めています。 彼女は丸ごと、 私は必ずしも「丸ごと」ではない。 その差が彼女の悲しみの源になっていると考えると、 全的に彼女に愛情を注ぐことが出来ない自分が情けない人間に思えるのです。 自分の中に「彼女の外で」幸せになることはなにか「親殺し」に近いような感覚があるのです。

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