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とっさの行動では理性は働かないのか

カテゴリーとしては脳科学になるかと思いますが、そのようなカテはないのでここに質問させて頂きます。 最近、子供が川や海で溺れてしまい、それを助けに入った親や大人が亡くなってしまう痛ましいニュースを耳にします。そこで疑問に思ったのですが、このような場合助けに行く者は理性が働いているのでしょうか?自分の命を投げ打ってまで他者の命を助けに行くということは平常時では考えられないことだと思います。 このような状況下における人間の脳の働きについて知りたいと思っています。できればそのようなテーマを扱った本などがありましたら教えてください。学問的なものを望みます。よろしくお願いします。

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  • ruehas
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回答No.3

こんにちは。 我が身を省みず溺れる子供を助けるという「利他的な行動」は、それは「大脳辺縁系の情動反応」によって成立する「問題解決のための能動的な回避行動」に当たります。そして、これは「情動行動」という無意識行動であり、大脳皮質の司る「理性行動(意識行動)」とは性質が全く異なります。 さて、「咄嗟の行動」では理性というものは原則的に働きません。 まず、理性行動とは未来の結果を予測した「計画行動(意識行動)」であります。これに対しまして、咄嗟の行動とは即ち「無意識行動」でありますから、ここで未来の結果を予測するというのは不可能です。従いまして、「咄嗟の無意識行動」に理性が働くということは原則的にあり得ません。 では、それは具体的にどのようなものなのでしょうか。 我々高等動物の「行動様式」といいますのはその脳の構造上、以下の三系統に分類されます。 「本能行動:(本能行動・無意識行動)生命中枢」 「情動行動:(学習行動・無意識行動)大脳辺縁系」 「計画行動:(学習行動・意識行動)大脳皮質」 ご覧の通り、大脳皮質における計画行動が唯一「未来判定」を行なうことのできる「理性行動(意識行動)」であり、残りのふたつは何れも「無意識行動」であります。ですから、「咄嗟の行動」とは、その状況においてこの二つのうちどちらかが選択された結果ということになります。 ではここで、「道徳的行動」とは何かといいますと、道徳観といいますのはその社会の慣習や価値観に従うものでありますから、それは必ずや「学習行動」でなければなりません。 上記のうち、本能行動を除く、情動行動と計画行動は学習行動であります。ならば、我々人間の道徳観には、 「無意識の道徳観」と 「論理的な道徳観」 という、この二種類が存在することになります。 「無意識な道徳観」といいますのは大脳辺縁系に獲得されるものであり、我々は生まれ育った社会の慣習や価値観を子供のころから繰り返し学習します。 その結果、 「道徳的行動:報酬」 「非道徳的行動:賞罰」 といった判定基準が獲得され、これに基づく「情動反応」が本人の意志に関わらず必然的に発生することになります。 我々動物の行動選択とは、 「報酬刺激:接近行動(報酬行動)」 「嫌悪刺激:回避行動」 必ずやこの基準に基づいて行なわれる、全てが原則的に「利己的な選択」でなければなりません。 同じ無意識反応でありながら本能行動と異なる点は、それは遺伝的にプログラムされたものではなく、生後環境における個人体験を基に大脳辺縁系・扁桃体に学習・積み重ねられた後天的な「反応規準」であるということです。 次に、「論理的な道徳観」といいますのは大脳皮質の学習記憶に基づき、未来の結果を予測した計画行動であります。そして、果たしてそれは、その社会の道徳観に従うならば、必ずや自分の未来に利益が発生するであろうことを予測し、「未来報酬に対する価値判断」を行うということです。 では、そんな理不尽な考え方のどこが道徳観で、何が理性行動なのかということになりますが、これが即ち生物学的な原則に従う我々動物の「利己的な行動選択」であります。ですから、道徳行動とは「社会的価値観に従うもの」、理性行動とは「感情に従わないもの」というだけであり、我々が概念として扱う「道徳」と「理性」といいますのは生物学的には本質的な違いというものは何処にもなく、その行動原理は「未来報酬に対する利己的な選択」として、どちらの場合も生物学的な原則にきちんと従っています。 このように、我々動物の行動選択といいますのは、本能行動、学習行動の別なく、その全てが「利己的な選択」でなければならないというのが生物学の原則であります。ならば当然、この原則に従うならば我々には自分を省みず溺れる子供を助けるということはできないことになります。 これに対し、生物学者リチャード・ドーキンスはその著書の中で、溺れる我が子を助けるという「利他的な行動」は「遺伝子の利己的な振る舞い」であると述べています。ですが、質問者さんの仰る通り、これでは遺伝的に繋がりのない他人に対してはあっさり適応されません。 どういうことかと申しますと、それは飽くまでドーキンスが研究する「遺伝子の利己的な振る舞い」というものの「生物学的な意義」を特定するために述べられたものであり、我々の身体の生理学的構造に基づいて実際の行動を説明したものではないということです。このように、ドーキンスの解釈といいますのはその目的と意味が違いますので、くれぐれもこの辺りを取り違えるわけにはゆきません。というよりは、ドーキンス自身もこのような論説は社会的に少々軽率であると気付くべきです。 では、これを実際の脳の構造に基づいて生理学的に解釈するとどういうことになるでしょうか。 我々高等動物の脳内には行動選択に携わる中枢が三系統あり、上記で述べました通り三種類の異なる行動様式が選択されます。 我が身を省みず溺れる子供の命を救うためには、まず、生命中枢にはそのようなプログラムが存在しませんので、本能行動では基本的に無理ということになります。あるとすれば母親が外敵の前に身を曝すといった行動ですが、これは後で述べる「攻撃行動」と原理は同じです。 これに対しまして、大脳辺縁系の情動行動は無意識行動でありながら生後環境から新たなプログラムを書き換えることができます。ですが、これによって接近行動が選択されるためには、それは必ずや「報酬」として学習されていなければなりません。ならば、自分の死というものを理解しているならば、執り合えずこのような学習が成されるということは常識的に考えられません。 では、自分と我が子に価値判定を行い、これに基づいて我が子を選択するならば、それは未来の結果を予測した立派な理性行動であります。ですが、このような場合は通常、本能行動としての「回避行動」と情動反応の「恐怖状態」によって身体に「行動抑制」が掛かりますので、よほど意志が強くなければ実行することはできないはずです。 我々にどうしてそれができないかは、これは当たり前のことでありますからこれ以上くどくど申し上げる必要はありませんが、ならば、この条件においてそれが可能となる状況とは何かと言いますと、唯一それは、「咄嗟の無意識行動」において、尚且つ「行動抑制」の掛かっていない状態ということになります。では、それがいったいどういう状態なのかと言いますと、飽くまで「助けられると思って飛び込む場合」は除きますが、質問者さんもご指摘なさいます通り、それは決して通常の状態ではなく、いわば「極限状態」というものであります。 動物が外敵に襲われ、生命の危険に曝された場合、 「本能行動としての回避行動」 「恐怖情動に従う逃避行動」 「安全な未来に対する選択」 全ての中枢の判定は「逃げる」で一致します。 では、退路を絶たれ、追い詰められて逃げ場を失いますと、今度はそこで「攻撃行動」が選択されます。 これがどういうことかと申しますと、この場合「回避行動」という中枢の判定はそれまでと全く変わってはいません。ですが、問題の解決が成されないために已む無く行動だけが変更されたということであります。従いまして、このような動物の「咄嗟の攻撃行動」といいますのは、問題解決のために選択される「能動的回避行動」と分類されます。 溺れる我が子の姿は如何なる者にとっても痛烈な「嫌悪刺激」と判定されます。通常、これに対しては「回避行動」が選択され、動物は逃げようとするわけですが、この場合に限っては、我々の理性や感情が必ずしもそれを許しません。果たして逃避への道は絶たれ、己の未来を知ることもなく無我夢中で水に飛び込む、このような「問題解決のための能動的な回避行動」が無意識のうちに選択されるという、極めて痛ましい結果となります。そして、それは通常では体験することのない「生命の危機」といったものに対する大脳辺縁系の「強烈な情動反応」によって成立するものであり、それが我が子であるならば条件は飛躍的に強固になると思います。 このようなものは一種の「カタストロフィー」であり、「急激な刺激による無秩序の発生」と捉えることができます。「何故、無秩序か」といいますと、ここでは生得的に定められた本能行動としての「行動抑制」が正常に働いていないからです。攻撃行動や母親が外敵の前に身を曝す行動は、この行動抑制が解除された状態であり、それはカタストロフィーが本能行動として適用されたものということになります。 では、ここで未来の結果というものを予測し、何故、理性を以って思い留まることができないのでしょうか。それは、大脳辺縁系の情動反応といいますのは発生するまでは知覚することができないからです。従いまして、大脳皮質がそれを知覚するまでは全てが無意識行動ということになり、それまでに行動が実行されてしまうのでありますならば、未来の結果を予測し、それを抑制することは不可能ということになります。 このように、「咄嗟の無意識行動」に理性というものは働きません。

Directio
質問者

お礼

理性的な道徳的行動と、とっさの道徳的行動に間にはどうやら本質的な違いがあるようですね。興味が沸いてきました。自分でももう少し調べてみます。この手のテーマを扱っていて信頼のおける本がありましたらアドバイスを下さい。 ありがとうございました。

その他の回答 (2)

  • rukuku
  • ベストアンサー率42% (401/933)
回答No.2

はじめまして 「学問的」とは言えないのですが、とっさの行動というのは、これまでの経験や訓練が影響してくると思います。 また、とっさの行動では、いくつかの選択肢の中から“最善”なものを選ぶのではなく、“最初に思いついたもの”が選ばれると思います。そして、その行動には「自分自身の危険」については気づいていないと思います。 ご質問の例では、「自分の命を投げ打って」と意識は全くなくて、「とにかく助けなければ」と思い、「泳いで助けに行く」という選択肢を選んでしまったのだと思います。助けに行った人が、「泳いで助けに行く」と言うことが危ないと言うことを「知っていても、とっさの場合に思い浮かばなかった」のか「全く知らなかった」のどちらかだと思います。

参考URL:
http://www.kitanippon.co.jp/contents/appear/4/64.html
  • lyumama
  • ベストアンサー率36% (8/22)
回答No.1

こんにちは。 リチャード・ドーキンスという動物行動学者を知っていらっしゃいますか? この方が唱える「利己的遺伝子の解釈」では、自己犠牲に対して遺伝子の観点から説明をしておられます。 例えば、人は自分を犠牲にしてどこまでなら他人の命を救えるか。 配偶者、子、親、兄弟、姉妹。 人間に関わらず、他の動物であっても、自分の子供が外敵に狙われていると、自分の身を投げ打って助けますよね? ドーキンスは、そういった場合、親の遺伝子が自分を犠牲にしてでも子供の遺伝子を救うよう命令すると唱えています。   遺伝子からすれば、危険にさらされている子供の遺伝子と、助けようとしている親の遺伝子は同じものなのですから、どっちが助かっても同じことです。 けれど、子供の方(若い方)が、将来的に自分のコピーをたくさん残してくれる可能性が高いので、親に子供を助けさせるわけです。 ただ、これはひとつの「学説」なので、これだけを妄信してはいけないと思います。質問者さんがおっしゃられている脳科学という分野だけではなく、心理学や本能、私が言った遺伝子レベルでの話もありますし。 私だって、自分の子供に限らず、他人の子供や犬猫が危険にさらされていたら、遺伝子など関係なく助けるように動くと思いますが、逆にそうでもない人だっているでしょうし。 これはもう本当に心理的な問題ですよね。 この話に興味が湧かれましたら、ドーキンス氏の著書を読まれるとよいと思います。

Directio
質問者

お礼

ドーキンスですか、名前は聞いたことあります。早速読んでみます。 ただこの考え方だと他人の子供を助けることや、数年前にあった線路の下に落ちた人を助けようとした日本人と韓国人が電車に引かれてしまった事故などの説明はできませんね。 ありがとうございました。

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