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感情の存在って?

感情の存在は、机があるのと同じくらい確かなものでしょうか? というのがもともとの疑問なんですが。 いえもともとは愛の存在を考えたんですが。 感情が存在することは常識的に自明なことと思いますが、学問的にはどうでしょうか? 科学的にその存在は確かでしょうか? あるいは哲学的な確かさのレベルでしょうか? あるいは幻想の類に入るでしょうか? 脳科学の成果を考えてもいろいろあると思うんですが。 自分で書いてなんですが、感情が存在することは常識的に自明というのの、この場合の「常識」、とは、学問的にどう取り扱われているものなのでしょうか?? 学問のカテゴリーでいくとどのレベルにどこに入るのかわからなくて知りたかったのですが、この哲学のカテがいいんじゃないかと思ったのですが、もともとどこのカテゴリーに入るのかという疑問なので。 特に感情の中でも大事な「愛」の、存在の確かさをどの程度規定できるのか、現在規定されているのか、コップが目の前にあるのと同レベルくらいには「在る」と考えられてるのかどうか知りたいです。 哲学の範疇かどうかもわからないんですが、このことで知識のあるかた、詳しい方おられたら教えていただけませんか?お願いいたします。

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回答No.8

われわれ一般人がこうして色々論じ合う通俗科学のレベルにおいては、 「確かに存在する」というのは要するに、 「化学式に表せる」というとに尽きると思います。 で、脳科学の成果というのも、要するにエンドルフィンだのなんだのと、物質を発見することに躍起になっているわけです。 で、そのレベルで考えると、感情の存在も愛の存在も、机の存在ほど科学的に確かではないのでしょう。 感情は目で見たり手で触ったりできませんが、 肉体そのもので(特にハートで)ありありと感じられるものです。 ですが、昨今は、失感情症、失感覚症などといって、 肉体感覚自体が乏しく、体で感情を感じられない人が増えているようです。 そういう人には感情の存在自体が自明でなく、「心なんて存在しない」などと言い切ったりします。 そういうひとに限って化学式が好きですよね。 ですが化学式のもとである原子よりも、さらにミクロのレベルで見たときには、 すべての存在は「エネルギーを持つ電荷」であり、物質ではなくなる。 人間であろうと動物であろうと、机であろうと空気であろうと、その組成の根源において同等になってしまう。 しかも原子内粒子は、あらゆるところに同時に存在したり、観測者の意図によってそのありようをころころ変えてしまうといった奇想天外な性質を持っているそうです。あらゆるところに同時に存在できるため、時間・空間という概念すら意味を成さなくなってしまいます。 量子内粒子のレベルでは「決まった形態は何もなく、逆にあらゆる可能な存在であり、ありようは他との関係によってしか規定されえない」ため このレベルで考えた場合、すべての事物の科学的存在根拠も同等に不確かであり、同等に確かということになります。 量子論はあまりに我々のリアリティーとかけ離れているので、多くの論者は脇に置いておこうとしています。 でもそこから導き出される世界観、人間観は既存の科学の機械論的パラダイムとは対照的に、ある意味とてもヒューマンで希望の持てるものですので、もし興味があれば調べて見られるといいと思いますよ。 例えば河出書房新社から出ている『フィールド 響きあう生命・意識・宇宙』という本は、ちょっと難しいですが、ほんとうに面白い本です。 「細胞は光を発してコミュニケーションをとっている」とか 「意識は体の外にまで広がっている」とか 「個人の記憶は脳に蓄えられるのではなく、全宇宙で共有されている」 「量子論から見た祈りの効果」とかについて 実証的な研究が紹介されていて世界観が変わります。 すみません、深夜に書いているもので、話があらぬ方向へ行ってしまいそうです。 私自身は 「愛とはあらゆるプラスのエネルギー」 と、単純に考えています。 で、それを感じていく、表現していく、形にしていくことが 「愛する」ということかなと思います。 支離滅裂ですみません。

sheep67
質問者

お礼

とても興味深いです。量子力学は僕自身大好きなので、よくわかります。 下の方で同じようなことをお書きになられていた方もおられました。 ご紹介されてる本はとても面白そうです。一度読んでみたいです。 愛はプラスのエネルギー、素敵な言葉ですね。 理屈ぬきでこういう言葉大好きなんです。 もちろんちゃんと裏付けがあって正しいものと思ってはいますが。 少しも支離滅裂ではないと思いますよ。 回答いただきありがとうございました。

その他の回答 (12)

  • pastorius
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回答No.13

補足です。 主観と客観ですが、客観とはなるべく多くの立場の主観を推定するということであって、純粋客観なるものは存在しないというのがぼくの考えです。客観的であるとはあーとも言えるしこーとも言えるといろいろな側面から考えるという意味ですが、どこまで行っても客観性は主観によってしか創造され得ないんです。 確かに感情と理性の関係も同じですね。理性とはいろいろな感情と感情があーでもないこーでもないと協議した結果の結論です。 コギトエルスムというのは、たぶん全知全能の神様などという絶対他者の概念がはじめにあって、とことんまで自分という主体を排除した結果として自分という主体はやはりいると発見した結果の言葉です。主体を発見するということは客体を発見するということと同義です。主体が消滅すると客体も消滅するのです。同化すると言ってもいい。自分の全ての行動をインシュアッラーと表現してしまうのは「私は神である」というのと同義です。 感情がはじめにあります。感情無くして理性はあり得ません。コンピューターの計算結果みたいなものが理性だとして、コンピューターは入力されるデータが無ければ計算できないということです。個々のデータにあたるのが感情です。 この、個々の原始的なデータにあたる感情は確かに存在するかというのが初期のご質問なんですが、それはもうあるとしか言いようが無いです。計算結果が正しいか間違いかということについては論理的に検討する余地がありますが、データが存在するかどうかというのは検討の余地が無いです。嬉しいとか悲しいとかムカツクという気持ちはあるということが全ての大前提です。そういうシンプルな感情と比べると愛はちょっと奇妙な概念だと思いますが。

sheep67
質問者

お礼

お礼が長くなったもので、補足へ分けさせていただきました。補足の続きのお礼になります。 以前こちらのコーナーで、主観と客観の関係について質問させてもらったんですが、なかなか難しい話になりました。感情は存在するかという話は、この主観と客観の関係を、判りやすいたとえで言い換えたことになっています。下記で書いたように。 もともと、二十歳すぎにこの世界のありように疑問を持って、真っ先にぶつかった問題が、主観世界と客観世界の関係についてでした。その後いろいろ考えて、いろんな結論がでたのですが、主観と客観についても、基本的に同じものという結論なのですが、 そこまでわかっても、基本的には同じでも、なにが違うのかがはっきりしないのです、いまだに。 それゆえに、感情の存在の確かさについて論理的に述べるにいたっていません。 ちなみに、主観世界と客観世界の両方を貫いて延べることのできる表現仕様は、論理的表記しかないと思っています。科学的表記は基本的に主観を排除することが定義にあるので、下の方が量子力学からの感情への切り口で書かれてるのもあるのですが、この科学的というものの定義を考え直さない限り、主観を抱擁した理論などありえないと思っています。 僕は主観と客観を足したものをこの世のすべてと捉えていますが、科学を参考にした論理的考察で、この世のすべてのすべて、主観客観系ーの表記は可能と考えます。 最後に書かれている愛、感情の存在についても、この方法なら可能と思います。ある種、科学的という土台から離れて、主観客観系をまとめるということを第一義におくと、科学万能の時代から、論理性ことがより本質的な土台であるというパラダイムシフトが起こることが自然だと思っています。そうでないと収拾がつかないと考えるからです。感情なくして理性はありえません、という一文をとっても、科学的に証明する、というのは非常に無理があります。100%無理と言い切ることはできないですが、多分無理じゃないかと思います。 再度の回答ありがとうございました。

sheep67
質問者

補足

再度の回答をありがとうございます。 どこまで行っても客観性は主観によってしか創造され得ないんです。~~確かに一理あると思うのですが、そういいきることに抵抗を感じてしまうのは僕だけでしょうか? その後の、主体と客体が同じというところは、まったく同じ意見なのですが、主観と客観は本質的に同じものでそれらの両性質を含むより本質的なものの2つの側面が現れてると考えます。 データが存在するかどうかというのは検討の余地が無いです。~~そうですか、そういいきれるでしょうか?というよりも、存在の定義自体を見直さなければいけないと思うのです。 主観において自分という存在はありえますし、その自分を客観視して客観的な自分も存在します。この2つの異なる?存在という言葉の概念は一体どういうものでしょうか?

  • number0
  • ベストアンサー率10% (13/121)
回答No.12

皆には笑われますが、初めて感情を覚えたときの事を覚えています。 自我が湧きあがるとき、そこにあったものが愛情です。 感情とは、自らが置かれた状況により、様々変化します。 しかし、つまるところ、感情とは幸福に向かい答えを求めるものと言うのが真実だと思います。 ・・というのがまあ、私に与えられている感情であるとも言えます。

sheep67
質問者

お礼

初めて感情を覚えた時のことを覚えてるってすごいですね。これは始めて感情を意識した時、ということでしょうか。そこにあったものが愛情であったというのは、なんか気持ちの暖かくなる感じがします。 感情とは幸福に向かい答えを求めるものだと~~本当にそうだと思います。 人間は感情を有益な道具として自分をより高みへと向かわせ、幸福に近づこうと努力しているんだろうなーと思います。 ご回答ありがとうございました。

noname#117377
noname#117377
回答No.11

あなたは「感情」とはどういうものだと思いますか。(それを「定義する」と言うらしいですが。)感情を理性の反対の存在だと捉えるのは、大いに疑問のあるところです。同時に、「愛」だけが絶対だと捉えるのにも疑問の余地があります。だけれども、それらは現に存在しています。なぜなら、それを「直感的に」感じることのできる人間は、ここに存在しているからです。「存在」をどう定義しますか。我々がここに存在しているということが証明できれば、「愛」も存在していると言えます。そして、逆もまた然りです。コップがあるのと、「愛」があるのと、その確かさは同じです。違うのは精神的要素・物質的要素ということだけですよ。「存在している」ことの証明が、この世の全ての「存在」の証明になります。あなたは「愛」の反対が何だと思いますか。それがこの世に「存在する」なら、「愛」も存在します。いまあなたはここに存在していますか。それが全ての「存在」の証明です。

sheep67
質問者

お礼

我々がここに存在しているということが証明できれば、「愛」も存在していると言えます~~~~まったくそのとおりですね! ただ疑問に思っていることは、中に書かれている精神的要素物質的要素の、この2つがなぜに存在しなにが違うのか、ということなのです。 話をはっしょってしまいますが、愛とは存在そのものだと思ってますので、愛の反対は、なんでしょうねー、非存在、あるいは無視、ネグレクト、と思ってしまうんですが。これでは回答者様の話とちょっと合わないかもしれません。愛の反対の存在はまた別のものをさしておられるのだと思いますが。 いまあなたはここに存在していますか。それが全ての「存在」の証明です~~これもまったくそのとおりだと思います。ただ下で書いたように、自分の存在といっても主観的存在、客観的存在と2つの認識が可能です。そこの疑問が難しいんです。この2つのリンクの仕組みそのものが、感情の存在に答えることになると思うのですが。 今あなたはここに存在していますかーというのは、ある意味、NO1の方の答えに通じるものがありまして、 それはそれでまったく正しいと思うのですが、やはり上のような疑問が残ります。 ご回答ありがとうございました。

noname#50219
noname#50219
回答No.10

弁当と、弁当を持たせてくれる人と、どっちが大切かってことかな。 自然の恩恵と、自然とどっちが大切か。 愛と、愛の証明と、どっちが大切か。 弁当が、愛の証明であると同時に、弁当の持ち主は僕なのです。弁当は大切にできても、愛を大切にするのは難しい。だから、弁当、大事だよね。

sheep67
質問者

お礼

なるほど、とわかったようなわからないような、でも暖かいものが伝わってくる文章をありがとうございます。 いつも愛のこもったお弁当を持たせてもらわれてるのでしょうか?でしたらとてもうらやましいです。いえ、素敵なことですよね。 ご回答ありがとうございました。

noname#15238
noname#15238
回答No.9

興味深い回答が多く、楽しく拝見しました。 質問の仕方は、もうひとつ、感心致しませんが・・・怒りました、・・・ほら、在るでしょ。(笑って下さい。 ところで、私は天邪鬼なのでしょうか、本人はそう思ってはいないのですが、 ひとつ、「感情」は存在しない、と言う事に付いて、詭弁を展開してみましょう。 他のご回答者様が書いておられるように、まず「感情」の外延と申しますか、「感情」とそうでないものを区別しなければなりません。 「感情」の周りには、知覚・感覚・情動・意識と呼ばれるものがあります、全て「外的刺激に対する内的反応」の一種と言えるのではないでしょうか。知覚から順に外的刺激による制約が弱くなり、内的反応が、自律的な要素を強化するように見えます、ここでは、「知覚」と「意識」を外して「感覚」「感情」「情動」の三つの弁別について考えてみます。 まず、「感情」と「情動」の区別は可能でしょうか? 私が考えるに(要するに、文献的資料があったかどうか記憶に無いという意味です)この両者の違いは、質の違いではなく単なる量の違いであると、言い換えれば、両者は同じ者を量的違いにより区別しているだけで、違いは無い。 では、「感覚」と「感情」の区別は可能でしょうか? これは、難しいです。供に「外的刺激に対する内的反応」ですが、外的刺激の制約の強度(量の違いではなく質の)が違います。 ムチ打たれる事に喜びを得るマゾフィストなら、説明不要ですが、質問者様がそうとは限りませんし・・・今、読んでいる本の影響でしょうか、悪い冗談です。 「感覚」と「感情」そのまま比較するのが難しい、これが怪しいですね。 「痛い」原因は誰でも想像できますが「悲しい」原因は、他人にはわからない場合があります、確かに、感覚と感情は別のものかもしれません、しかし、本当の事を申せば、「感覚」と「感情」を別ける分水嶺などありません、そのような意味から言えば、「感情」とは、言語的な分節であり、私たちの一体的な精神を切り刻む誤りである。 如何でしょうか、以下が本題です。 この回答に対して、抱くのは、感覚とも感情とも言えるものではないでしょうか? もう一度繰り返します、感覚と感情が弁別できなければ、論理的に「感情」と言う言葉で指定できる概念は無い。 もう一度繰り返します、この回答に対して、抱くのは、感覚とも感情とも言えるものではないでしょうか? PS 私は、愛については残念ながら、出来る限り、語らない事にしています。 回答は意図的に捻って有ります、尤も、私の勘違いの可能性も有りますが、「正義感」が何かを考えると、私の回答の意図が理解できるかもしれません。当然、このような考え方も有るのではと言う事です。

sheep67
質問者

お礼

とても面白く読ませていただきました。(笑) 感覚とは5感によって感じるもので、感情は、一律に感覚と結びついてるわけでなく、心の作動によって起こるもの、あるいは下のほうの方が書いていたように、自分と外の世界との関係性を示すもの、でいいのじゃないでしょうか??だめですかね~~。 愛についてー語ってほしかったですねー。正義感ですか??? 愛と正義感はとても近いものだというのはわかるのですが・・・。 回答ありがとうございました。

  • tokytime
  • ベストアンサー率37% (43/114)
回答No.7

「感情」は確かに存在するのにどうして確かめられないのでしょうか。 私たちが「五感」で触ったり、見たり、聞いたり、匂ったり、味わったりすることはできません。 なぜなら、感情は「第六感」でしか捉えられないものだからです。 「第六感」・・つまり「物質ではない世界」に属する物ですから、物質で説明、証明するのは不可能です。 では、何故私たちは物質的五感を超えた「感情」を感じることができるのでしょうか。 それは私たちの実体が物質を超えたものだからでしょう。 私たちの本体はおそらくエネルギー(バイブレーション)です。物理学者も物質の究極の最小は物質では無く、エネルギーの振動であるといっているそうです。 その精妙なエネルギーは現在の物理学では証明することも、計測することもできません。 でも、私たちは感じることができます。 なぜなら、わたしたちもそのバイブレーションだからです。 バイブレーションの振動数をどんどん下げていくと一番下位で物質として固定化するそうです。 水も振動数があがると熱湯になり、ついに水蒸気になります。又下げると、どんどん冷たくなり、終には氷になり固まってしまいます。 私たちの感情もエネルギーを注ぎ込むとパワフルな激しい感情になります。 その中でも振動数の高いものが強い使命感や強い博愛の情であり、振動数の低いものが激情といわれる「怒り」、「憎しみ」だと思います。 感情は自分を知る手がかりを与えてくれます。 何に対して「怒ったり」、「喜んだり」、「恐れたり」、「恥じたり」、「わくわくしたり」するかによって、自分が心の底に抱えているトラウマや心が真に欲することを知ることができます。 私たちはいつも自我を通して世の中を捉え、判断しています。 自我はとても打算的だったり、今風の世間的マインド・コントロールにかかっていたりするので、心の底にある本当に自分を幸せにするモノへの欲求など全く無視して決断してしまいます。 そしてあんなに打算して間違いの無いように十分気をつけて決断したはずなのに、なぜか結果は裏切られ、不幸になったりするんだと思います。 自分の感情にいつも細心の注意を払い、耳を傾けることがとても大切です。 心の中のモヤモヤ、恐れ、いやな感じ、なぜか逃げ出したくなる気持ち、避けたい衝動は自分に対する第六感からのメッセージです。 自分自身の問題点、弱点、いつも避けてきた解決すべき課題などを示してくれます。 わくわくした感情、胸いっぱいに溢れる行動への明るい欲求などは自分の進むべき方向への指針です。 頭で考えるのではなく、感情のポジティブな指針に従っていれば、まず大丈夫です。 ポジティブな感情の指針に従って失敗することは、まず無いそうです。 明るいポジティブな感情に従ってそれをどれだけ拡大出来るかが人生の醍醐味です。自分やまわりの家族、友人、すべての人を幸せにしてくれるパワフルなエネルギーです。 さて、「愛」のエネルギーですが、質問者様は幸せになりたいですか?どの位強くなりたいですか? もし、質問者様が今までの私の「幸の見つけ方」の提示を受け入れてくださるとして、幸せに何が何でもなりたいと思い、ご自分の「わくわく感」のするほうへ全力で邁進するとします。この駆り立てられる感情が「愛」だと思います。 「愛」とは「方向のはっきりした意志」だと思います。 勿論、いつも駆り立てられる感情ばかりではなく、 マザー・テレサのような強い使命感に基づいた、揺るぎの無い、大きな博愛の精神も「強い愛」です。勿論、悲惨な境遇の人々を助けたいという強い感情に駆り立てられた「強い意志」なんでしょうが。 これらの物理的に計測不能な精妙なエネルギーは「霊的エネルギー」だそうです。 昔、預言者たちが受け取った「神託」もこのエネルギーによるものであり、現代の霊能者(江原氏のような)が駆使しているのもこのエネルギーであり、超能力者が利用しているのもこのエネルギーだと思います。 物理学的に捉えることが出来ず、証明できないので未だに大槻先生が早稲田の教授職を辞職しないですんでいるんです。 幸せになりたければ、「自分の感情の善悪の判断」に従うことだそうです。言い訳がましい自我の判断よりよっぽど正確で客観的です。 何か困った時は、自分の感情にまず行動の指針を尋ねて見ましょう。 きっと何らかの回答がえられます。 心に湧くか、知人より情報が入るか、たまたま読んだ本、見たテレビに載っているかもしれません。 それもすべて自分で引き寄せたものです。 支離滅裂に感じられたでしょうか? 感情に任せて書いてしまったもんで・・悪しからずお許し下さい。 参考になれば幸いでございます。

sheep67
質問者

補足

ご回答ありがとうございます。 とても興味深い文で読ませていただきました。とてもよい、なんというか、とても良い人生哲学というか、教訓指針という感じで、読んでいてとても励まされました。 今のところ、たくさんの方から多面的な回答をいただいていまして、お返事したいのですが、難しくて頭を抱えてる状態です。 tokytimeさんがあるいは一番近いかなとも思って書くんですが、もともとの質問には書きませんでしたが、 僕自身は、愛情を、あたかもコップを見せるように、お弁当箱の中身を見せるように「これが愛だよ」、と人に見せてあげることができて、「なんだこれが愛なんだ」と簡単に知ることができたら、どれだけ多くの、愛を知らない人や、ゆがんだ愛しか知らない人(あるいは自分自身もですが)が、救われるだろう、とふと思いついたのが最初です。 でもいきなりこの質問では問題あるかと思って、感情の存在の是非を問う形に、少し普遍的抽象的な形で質問してみたんです。 現在も皆さんのご回答を参考に考え中です。いろいろな答えをいただき興味深いのですが、話が深いのでなかなか補足や、お返事御礼をするところまでいきません。すみません。

  • bofd
  • ベストアンサー率25% (8/32)
回答No.6

「存在する」とはどういうことか、というテーマだけで一つの論争になるので難しい問いですね。 まず、人が「あるものが存在する」と思うとき、「あるもの」はそれ以外のものから区別されています。そして、「あるもの」と「それ以外のもの」が存在する場があります。また、存在するものによって、区別の仕方や存在する場が異なります。つまり、「もの」によって「ありよう」が違います。 感情を定義するのは難しいですが、表情や行動などの目に見える変化が起こる際に、それに先立って人の中から生じ、自覚できる、変化の原因となるもの。という感じでしょうか、もちろん表面的に変化がなくても、感情の変化はありえますが、内部と外部を際立たせて表現してみました。 そう考えると、感情が存在する場は人の内部(脳科学でいう神経系?、一般的に言う心?)です。その内部にあるものの変化や、それ自身が持つ性質によって個々が際立ち、それらを「感情」と呼んでいるのだと思います。机の場合は、人の外部の空間が存在する場であり、「机」自身が持つ性質(特に道具であることが重要、さもないとただの木切れを繋いだものになってしまう)によってそれ以外の存在物との差異が際立ち、区別されています。このように、二者は「ありよう」が違うので、どのような場に存在する確からしさなのかによって、答えが変わってくると思います。ただ、一般的に多くの人がどちらも「ある」とわかるので、個人の主観の内には「感情は存在する」と言ってもいいのではないでしょうか。 加えて、感情の「ありよう」は川と似ていると思います。川は常に流れ、変化していますが、単なる水の流れではなく、ある程度の大きさを持ち、ある程度決まった場所を流れています。同様に、感情も変化しつづけますが、単なる人の変化ではなく、行動などの起因となる点で「ある決まった場」で生じるものなのだと思います。水が流れ続ける限り川が存在するように、「ある決まった場」で変化が生じるうちは、感情は存在するのだと思います。

sheep67
質問者

お礼

2者のありようが違う、本当にそのとおりですね。 一般にも自分の感情をコントロールする、という表現が使われますが、これを見ても、感情は、かなづちとかと同じで、人の本質が操る道具に過ぎないことがわかります。 その意味で、愛とそれに類する感情と、一般の喜怒哀楽とは明確に線を引ける別のものといえるのではないでしょうか? すみません、川に例えられてるのですが、今ひとつよくわかりません。 ある決まった場での変化の「相」が感情、という意味なんでしょうか? ご回答ありがとうございました。

noname#31063
noname#31063
回答No.5

「感情」が存在する為には発信源と受信能力のある器官が必要ではなかろうかと思います。 つまり「感情」は(机のように)単独で他と境界があって存在しうるものではなく、永遠に波という過程の観測しか出来ないものではないかと思います。 物理もミクロな量子力学まで行きつくと科学の詩=哲学になるそうですが、心理学もミクロな「美」や「善」についての感情を確証たる体系で立証出来ないものではないだろうか?と素人ですから無責任に思い、そうでなければ、すみませんです。 感情分野を形で示し残せるものが「芸術」となりますが、音楽もそれ自体は波であり無形ですから感情と一番似て現せるものかもしれません? 感情表現能力(感情音?)は、思考錯誤して複雑であるが故調和が取れなくなっていったり、壊れやすかったりするものから、熟練者がひらめき創る質素な傑作まであるようですよ? でも音を知らない人でも感情はあります。感情とはどこで鳴らされ、どこで受け入れられ、そしてどこで再現させられているのでしょうね?やはり脳でしょうか?(逆質問してしまった…どなたか)

sheep67
質問者

お礼

感情は波というのはとても量子力学的な感じがしますね。 この世の客観的存在は波と粒子の両方の性質を兼ね備えたものだというのは量子力学の大前提ですしね。 感情に発信源と受信機が必要なら、物質にも同じことはいえると思います。物質世界がそもそもなぜ存在するか、にはいまだわからない理由があると思いますし、目などがなければものを認知できないからです。 感情がどこで鳴らされ~というのは確かに問題ですね。それが言い換えれば、主観世界はどう位置づけられるか、と言い換えることができると思うんですが。 ご回答ありがとうございました。

noname#17334
noname#17334
回答No.4

>感情の存在は、机があるのと同じくらい確かなものでしょうか? それでは、仮に感情がない・・・そう仮定してみましょう。 まず、手順として感情の定義ですが 無いものを定義しても始まらない・・という理屈はさておき、世間で感情と よぶものは、実はこういうもので、それは実際には存在しない。 そういう論証が可能かどうかということを考えてみましょう。 >というのがもともとの疑問なんですが。 古来、主観というものが存在することは哲学の前提です。 自分というものがいて、何かを感知している・・これは否定できない事実と いうことでしょう。 では、感情とこれまでいい習わされたものは、どういうものなのでしょうか。 仏教では「知」「情」「意」の三要素をとらえて意識の基本としています。 知は、知覚であり認識であり、情報を得て解釈を行うことです。 思考そのものです。 「情」は、論理的な思考の結果、想起される心理状態を指します。 つまり、嫌悪感や好感や喜怒哀楽の心情の表出です。 攻撃的な感情、友好的な感情、忌避したいと思う感情、同調し内包されたい という気持ち、 そして最後は「意」です。意とは意思です。やろうと思うこと、やりたくないと思う こと。人は考えているだけでなく行動しなくてはいけないのでその行動の元と なるものを意思と呼ぶわけです。 普通は、知覚と知恵で考えたら 正しいと思うことでも、嫌だなウザイな怖いなと 感じて、やめとこうという意思になる こういう順番で人間の脳は動いているらしいです。 >いえもともとは愛の存在を考えたんですが。 だったら感情よりも愛について質問してください(^^) >感情が存在することは常識的に自明なことと思いますが、学問的にはどうでしょうか? 感情とは何か・・・という学問的論考は多数あります。 なぜなら、心理学という学問領域の大半はそのことを扱っているからです。 感情というものが存在しないとしたら、心理学そのものが基盤を失います。 「The Managed Heart」 Arlie Hochschild 1983の翻訳版である、「管理される心」 石川准、室伏亜紀訳 世界思想社 をお読みになると以下のことが書いてあります。 ホックシールドは「感情」を、見ることや聞くことと同じく、世界を知る一つの方法であると 定義します。  「感情とは、現実と自己の関係について教えてくれる感覚のことである。」 つまり、目の前の現実に対して自分はどういう関係にあるか、それを教えてくれるものが 感情だと言っています。ごちゃごちゃした机の上はイライラした気分になるし、 美人を見たら、うきうきする。というのはとりもなおさず、自分が現実とどういう関係で むきあっているかを自分に教えるものであるということです。 「私たちはそれによって自分が何を欲し、あるいは期待していたはずなのかということや、 自分はどのようにして世界を認識してきたはずなのかということを推定する。」 つまり、ケーキを見て嬉しくなるのは、ケーキを食べることを期待している甘党の女の子 であるだろうし、美人をみて萎縮するのは、自分が女性というものとどう向き合ってきたか ということの表れだと言うのです。 >科学的にその存在は確かでしょうか? 心理学が科学でない・・ということは傾聴に値する発言かもしれません。ひところマーケティング はサイエンスかアートかという論議もありました。 感情が科学的に存在を否定されたら、心理学者はそのへんの占い師やまじない師と同じ になってしまいますね。 心霊科学も心理学も同じ土俵にのぼって相撲をとるはめになります。 さて、話を最初にもどします。 感情が存在しないとしたら、人が泣く原因を何と呼んだらいいのでしょう。 感情が存在しないとしたら、親父が怒鳴りまくる原因を何と呼んだらいいのでしょう。 感情が存在しないとしたら、合格発表の掲示板の前で喜ぶ原因を何と呼んだらいいのでしょう。 感情が存在しないとしたら、子犬が道端に捨てられていて可哀相だと思う原因を何と呼んだらいいのでしょう。 感情が存在しないとしたら、驚かせたり、怖がらせたり、喜ばせたり、悲しませたりする原因を何と呼んだらいいのでしょう。 それより簡単なのは、生命と感情の相関性を否定したら、自己増殖的な機械を作れば ロボットも人間同様に自立的な社会を作ることが可能ということになります。 感情と呼ぶものが存在しないとしたら、人は自己と現実との関係性を何を持って認識 すべきか・・・ということになります。 工事現場を歩いていて、上から鉄骨が落下してきた。 さて、感情がない場合 「落ちてきて、頭に当たったら自分は死ぬ。死ぬとどうなる。  (1)飯が食えなくなる。  (2)彼女に会えなくなく  (3)会社の仕事が中断する  (4)親の老後を面倒見るやつがいなくなる  (5)まだやってないことがいっぱいある。 要するに、生きている目的に立ち返って、いき続ける原因を究明し 今死ぬことが、合目的でないという結論に至るか、もしかしたら 生命保険で思わぬ金が入るかもしれないし、そっちが結果的に得では ないか・・・などと考えている間に、鉄骨の下敷きになります。 そこは、よくしたもので『恐怖』という感情がまず想起されて有無をいわせず 身を隠す行動をとらせるのです。 つまり、学習した知恵のようなもの、生存本能のようなものが瞬時に感情を おこさせて行動に移させる。 「あっ 危ない!」 そう思った瞬間に身をかわす。 感情がなかったら、人は崖から落ちて死んでいるだろうし 子供を生んでも、こんな痛いものじゃまだと思って捨てているかもしれない です。 また、不幸な人をみて涙を流して同情する気持ちがなかったら、未だに 人種差別や貧富の差はなくならないどころか利己主義がはびこりもっともっと 悲惨な状況になっていただろうし、そもそも「悲惨」という表現すら共感をもって 受け止められはしないでしょう。 そのうでさらに、 現在の科学では、感情には神経生理学的な側面があるということもわかっています。 最新の科学によると、感情とは生理学的な視点におけるアミノ酸鎖の間 (神経ぺプチドと受容器の間)の相互作用にほかならないのだそうです。 まぁ、心と身体は表裏一体ですから、心で起こっていることは身体の反応としても何か 形に表れないといけないわけですから当然といえば当然ですが。 感情は身体の正常な生理学的過程ですが、中には愉快な感情も不愉快な感情も記憶されています。 この記憶には想像上のものも誤解によるものも含まれます。 したがって、これは「感情の現実」といって、感情の根差す実際の現実とは区別されます。 >あるいは哲学的な確かさのレベルでしょうか? そうではないでしょう。病気でさえ心因性という症状がおこり、上記の「感情の現実」に起因して 脊椎が曲がったりする事象が起こっている以上、再現性があって論理的に因果関係があるもの として、「感情」は科学が扱う対象として300年以上昔から確かなものとしてあるのではないですか? 決して非ユークリッド幾何学のような、あるいは理論物理学以上の有益な学問領域が確率されて います。 感情を「不確かな存在」と言い切るのなら、電気だってそうです。 電気はビリビリくるものだけど、その存在は実は曖昧だという言い方もできます。でもオームの 法則からはじまって、電磁気学、発電、電気の応用製品は果てしなく、コンピュータも直流の電気で 動いているし、ハイビジョンも電気だなかったら見れません。 >あるいは幻想の類に入るでしょうか? そんなこと言ったら心理学者は怒ります。 私にはよっぽど電磁波のほうが幻想の世界に近いですけど。 >脳科学の成果を考えてもいろいろあると思うんですが。 それが、さきほどの 神経ぺプチドと受容器の間の相互作用 という学説ですね。 あるいは感情スタピライザーと呼ばれる薬品や脳内モルヒネや ベータエンドルフィンなど化学物質と脳の作用もかなり豊富にしられて きています。 しかし、それは心というものの物質(肉体)に落とした影だという考え 方もできるわけで、アインシュタインが偉いからってアインシュタインの 脳の構造をしらべてみてもそこから、彼の思考の結果が出てくるわけで はないです。 >自分で書いてなんですが、感情が存在することは常識的に自明というのの、 >この場合の「常識」、とは、学問的にどう取り扱われているものなのでしょうか?? 心と感情と脳や神経の働きを説明した本は、講談社ブルーバックスや中公新書や 岩波新書にすぐれたものがあります。 宮城音弥とか茂木 健一郎とかオススメします。 >学問のカテゴリーでいくとどのレベルにどこに入るのかわからなくて 心理学と大脳生理学ですね。 >知りたかったのですが、この哲学のカテがいいんじゃないかと思った >のですが、もともとどこのカテゴリーに入るのかという疑問なので。 なぜ、心理学カテにしなかったのですかね? >特に感情の中でも大事な「愛」の、 これ間違ってます。 愛は感情ではないです。人を信じるというのは単に感情ではないですよね。 感情というのは、愛しいとか、恋しいというのはそういう部類ですが 信じるというのは意思です。 愛は、感情のように生まれいずるものではありますが、意識して 育てるものです。愛は決して「感情」の範疇にくくってしまっていい ものではなく、理性や意思と複雑にからみあって心にひろがる意識なのだと 思います。 感情に従って行動することと愛によって行動することでは中身が違います。 愛は感情も理性も意思をも動かす大きなエネルギーです。 確かに、愛の対極には、恐怖や孤独や嫌悪がありそれは明らかに感情で はありますが、愛は感情の一種と呼ぶには、他の感情と異質すぎます。 >存在の確かさをどの程度規定できるのか、現在規定されているのか、 感情は、規定されて学問として研究されています。病理学的にも 心理学的にも。 しかし愛を扱う学問は宗教学をおいてほかにはなさそうです。 むしろ愛は学問の範囲外なのではないでしょうか。 幸福の科学が宗教団体であるように愛の科学は、あまり科学的では ないです。 性愛の科学というのはこの際別の範疇ですから置いておきます。 >コップが目の前にあるのと同レベルくらいには「在る」と >考えられてるのかどうか知りたいです。 科学的に「愛」が確かなものかどうか・・・これは私も寡聞にして聞いた ことがないですねぇ >哲学の範疇かどうかもわからないんですが、このことで知識のあるかた、 >詳しい方おられたら教えていただけませんか?お願いいたします。 愛については「恋愛・人間関係の悩み」にお詳しい方々がたくさんいます。

sheep67
質問者

お礼

長文をありがとうございます。とても興味深く読ませていただきました。 中で気になった点をいくつか。 「愛は心に広がる意識である」というのはまったく同感です。裏を返すと、恐怖の中枢や、快感の中枢はあっても、愛の中枢はいくら脳を分析しても決して見つからないと思っています。それは総合的な存在ですから。というより総合的感情のデフォルトな状態が愛だと思っています。これは下の方の文内のリンクのページに書かれていたことと同じです。 この問いかけは心理学のカテに入りますか?僕としては、悩んだんですが、心理学は心の中を扱う学問で、僕の問いはその心の枠組みと外界との関係についての問いなので、非常に迷った挙句哲学にしたのですが・・・。 感情が心理学的にも病理学的にも規定されてるのはよくわかります。でもその存在の性質、確かさが規定されてるわけではないです。ただ問答無用であることを前提に成り立っている両学問でありますから、少し話がずれるのではないかと思います。 愛が科学的なものかどうか、これは下に書いたんですが、主観と客観はどう結びつくかという一点に絞られると思います。ただそこがどうしても答えが出ないで悩みます。 親切なご回答をありがとうございました。。

  • pastorius
  • ベストアンサー率48% (538/1110)
回答No.3

# 感情の存在は、机があるのと同じくらい確かなものでしょうか? 机だって私たちが机であると定義することによって初めて机であることができます。 机と椅子と床と天井と窓と壁を概念区分しているのは私たち自身です。机自身が「私は机である」と主張しているわけではありません。 # 感情が存在することは常識的に自明なことと思いますが、学問的にはどうでしょうか? すみません、学問的にどうかということはわかりません。 感情が存在することが常識的であり自明であると考えられるのは、感情というものが存在するという認識を多くの人たちと共有することができるからに他なりません。多くの人たちがそうだと思えば裸の王様だって服を着ていることになります。 # 科学的にその存在は確かでしょうか? # あるいは哲学的な確かさのレベルでしょうか? # あるいは幻想の類に入るでしょうか? # 脳科学の成果を考えてもいろいろあると思うんですが。 科学とか哲学とか脳学とかいったものが生まれる以前から感情というものはありました。それは主観的には悲しいとか嬉しいとか悔しいといった気持ちです。犬や猫でも表情は作れないにしても喜びの感情を持っていて表現します。奴らがそれらを「感情」という抽象観念として認識することは無いかもしれませんが。 科学が感情を充分に定義できているのかどうか知りませんが、少なくとも感情の存在が科学的に否定されたということは無いようです。 精神分析学では「全ては幻想である」という唯幻論なんてのもありますね。共同幻想論とか。 # この場合の「常識」、とは、学問的にどう取り扱われているものなのでしょうか?? ご質問に回答できずすみません、学問的にというのはわかりません。 常識とは或る社会の中で広く共有されている考え方といった解釈でいいと思います。感情というものは存在すると世界中の多くの人達に広く信じられているのです。 科学的常識だってどんどん新しい発見に覆されてゆきます。ちょっと前までは健康のために日光浴をすべきだ言われてましたが今では皮膚癌になるから紫外線など浴びるべきではないと言われています。まるでアフリカ人がみんな皮膚癌で死んでるような言い草です。 もしかすると10年後には感情なんてものは無いというのが常識になってるかもしれませんが、10年後の世界の人々が笑ったり悲しんだり怒ったりすることが無くなっているということは無さそうな気がします。 # もともとどこのカテゴリーに入るのかという疑問なので。 なるほどですね。 たぶん回答の欲しいカテゴリーで聞けばいいんじゃないでしょうか。 ライフでもメンタルヘルスでも心理学でもいいと思いますし、物理学や化学のカテに「感情とは物理学的に定義されていますか」と質問すると数式や化学記号で説明してくれる人が出てくるかもしれません。 ここで聞くとぼくみたいなクドい回答が出てきます。 # コップが目の前にあるのと同レベルくらいには「在る」と考えられてるのか 存在自体については、それぐらいのレベルで信じられているのではないでしょうか。神様以上に一般的な観念だと思います。 ただ愛という観念に対する日本における意味付けは平安時代と今とでは変わっていると思います。愛という観念に対するイメージは、たとえば時代の中で流行している歌だとか映画だとか、クリムトの絵画であるとか、そういったもので形作られていると思います。映画や歌での使われ方を見る限り現代において世界的にはウォーアイニーもイッヒリーベディッヒもアイラブユーも同じような意味で使われていると思います。 何かお役に立てたでしょうか。

sheep67
質問者

お礼

とても面白い回答をいただいて、内容的に自分に近いものがありますので、とてもよくわかります。どの内容も非常に腑に落ちるもので、いちいち納得していました。とても参考になります。 下でも書いたのですが、感情の存在、という言葉はそれ自身ある種の矛盾でして、感情は主観的なものの代表なのに、存在とは客観そのもので、2つの相容れないものをつないだおかしな問いかけともなりえます。 言い方を変えると、主観と客観はどういうつながりを持っているのか、というややこしい問いをしてしまったみたいで、恐縮です。 ご回答ありがとうございました。

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