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足利6代将軍について
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足利義教ですけど、御神籤で将軍になりましたが、その前職は天台宗座主、言わば宗教界の大物ですので、自分自身は神仏によって選ばれた人間との確信を持ったと思います。 現代人は神意というと胡散臭く思いますけど、この時代は中国でも西洋でも、徳のある人間に神が地上の王権を与えるという考えは一般的で、王権が衰えるということは、王が徳を失い、神に見放されたと考えます。 従って、当時の人間はそれほど違和感を持たなかったと思いますし、その後の政治を見ますと、足利義教自身は自分の行動は神仏の意思と確信を持っていたと考えられます。 そのため、比叡山を攻めて逆らう僧侶を殺し、根本中堂に火をかけていますけど、自分の古巣ですから、宗教の欺瞞は承知しており、祟りなどまったく怖くなく行動します。 彼によって、足利氏は最大領土を得て、全盛を迎えます。 最後は家臣の赤松氏に殺されますが、絶頂の内に亡くなったのは、なんとなく織田信長とオーバーラップする部分があります。 大体、足利氏は代々酒癖が悪くて、足利義教も酒に釣られて赤松邸を訪れますけど、彼に限らず、酒で身を滅ぼした将軍は何人かいます。
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- louvrebear
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簡単なことだけ。 御神籤ですが、京都の岩清水八幡宮の神前で厳格に行われました。つまり、御神籤の結果は神の意思だということなのですね。当時でしたらその結果に正当性を与えることは常識だったのでしょう。
先の回答者さんが書いるて通り、義持が後継者を指名しないまま亡くなり、その弟四人の中で、誰と言って突出した人もなく、誰がなっても争いなるから、くじ引きになったわけだけど、ひょっとして質問者さんは「くじ引き」という事に違和感を感じてますか? 現代人が「くじ引き」というと、「あみだクジ」や、大売出しの「ガラガラ」のような物を想像しますが、「そんなふざけたもので決めちゃったの?」という違和感ですか? それなら、この「くじ引き」というのは、今の感覚とはちょっと違う物です。 それは方法という意味ではなく価値観の違いで、もし、現代で一番近い物を探すとすれば、神社の「おみくじ」かな? つまり、この「くじ引き」は神様のお告げという事。 今、大河ドラマでやってる山本勘助なんかも、ドラマや小説では、現代人に違和感があるため、軍師=作戦参謀のように描かれてますが、本当の軍師は「占い師」です。 「今日は日が悪いから合戦はやめましょう」とか、「今日はこの鎧がラッキーアイテムなんで、これ着てください」とか「今日は北が良い方角なので、北に向かって攻めましょう」とか、そんな相談をしていた人が軍師なのです。 当時の人は今では想像できないくらい、神仏のご加護という物に執着していたんじゃないかな? ただ、神を恐れずイカサマをやってのけたふとどき者もいただろうから、結果がイカサマかどうかは別問題。
- carwing
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当時権力中枢で影響力を持っていたといわれる満済という僧が日記を残しています。 なぜくじになったのか義持の心を推し量る事しかできませんが、一つにこの時期の室町幕府は義満の代ほどの絶対権力はないとはいえ、安定しておりました。 しかし有力守護の発言力も大きく、遅かれ早かれ自分の都合の良い後継者を掲げて争うのは目に見えていたでしょう。 彼らとて戦になれば大軍同士被害が大きいですから、避けたいはずです。そんな中くじという提案が出たのは、この頃はまだそういった政治的駆け引きが通用する時期だったというわけです。 くじの細工については・・・果たしてどうだったのでしょうね。 皮肉な事にこのくじの結果生まれた将軍の末路が、穏便な政治など望むべくもない戦乱の世に突入するきっかけになってしまったと言えますが。
- tanuki4u
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ひとつには 四代将軍の義持の性格。 ひとつには くじには神意が宿るという考え。 義持は、「自分が決めても、どうせ 君たち重臣達が決めるんだろう?じゃ 決めないよ」なんてことを言っていたそうです。 父親である、三代将軍義満が、義持を将軍のまま、義持の弟、義嗣を元服に於いて親王並みにしたように、弟が偏愛された経験などがあり、ちょっと偏屈だったようです。
- mastar
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兄の4代将軍足利義持の子である5代将軍足利義量が急逝し、義持も1428年に後継者を決めないまま死んでしまったところ、公平に将軍を決めようということでくじ引きだったようですが、実際は仕組まれていたとの説があります。
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