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室町幕府の機構について

室町幕府の機構について質問です。 教科書によると、「室町幕府では将軍の補佐役として、三管領をおき、一つの家に力をもたせないようにした。」と書いてありました。 これは、一つの家に力が集中し、倒幕される危険性を回避するためと捉えてよいのでしょうか。 久しぶりに日本史の勉強をしていて気になったので、もしご存知の方がいらっしゃったら、解答をお願いいたします。 また、インターネット上でそのことを確認できるページや文献などがある場合にはそのタイトルや題名など詳しく教えていただければ幸いです。

  • ilmf
  • お礼率100% (5/5)
  • 歴史
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質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • sudacyu
  • ベストアンサー率35% (687/1961)
回答No.5

 実際に幕府組織を作った際に、どのようなことを考えていたか、文書では残っていないので、断言できません。  ただ、歴史上の一般論として、三つに権力が分散した状態と言うのは、比較的安定しやすいという事実はあります。  4つでは、最強のものが一つを飲み込むと、あとの2つは最強のものを押さえられない状況となります。  2つでは、お互いに白黒をつけ争うのが必然。  3つの場合、最強のものが勝手な行動を取ろうとすれば、他の2つが連合して牽制するし、他の二つの連合が強固になれば負けてしまうので、最強のものも後の二者に対して、譲歩するようになりバランスが取れやすいと言うものです。  ローマ史では、帝政ローマになる前に、二度の三頭政治の時代がありました。三人が健在な時は政治的に安定していたものが、一人が欠けると他の二人の権力闘争が始まり、戦いとなりました。  中国の三国時代も最弱の蜀が滅んだ後、すぐに呉も滅びてしまいます。  室町幕府も結局、三管領の中の細川氏と四職の中の山名氏の二つが権勢を誇るようになり、結局「応仁の乱」で激突し、幕府そのものを弱体化させます。

ilmf
質問者

お礼

詳しい解答をありがとうございました。 管領について、それが4つの場合、2つの場合という視点をもっていなかったので、たいへん参考になりました。 当時の様子を読み取ることができる文書がないのは残念ですが、考えを深めることができたのでとても感謝しています。 ありがとうございました。

その他の回答 (4)

  • hazu01_01
  • ベストアンサー率31% (341/1067)
回答No.4

三管領になったのは結果論でしょうね。 場合によっては、細川氏と斯波氏の2氏だけで交代していたのかもしれませんし、細川氏、斯波氏、畠山氏の他に高氏、二木氏、上杉氏なども管領になっていたかもしれません。 高氏、二木氏が初期に衰えたり、上杉氏が関東での勢力に限定されたためと、細川氏、斯波氏が勢力を争い、畠山基国が管領に任じられて後うまくいったため、三管領が定着したのでしょうね。 「室町幕府では将軍の補佐役として、三管領をおき、一つの家に力をもたせないようにした。」は結果論を意図したように論じているだけだと思いますよ。

ilmf
質問者

お礼

解答ありがとうございました。 「結果論としての三管領」という視点でも考えることができるんですね。 また、当時の管領について、そのさまざまな可能性についても教えていただき参考になりました。 ありがとうございました。

  • clarence
  • ベストアンサー率62% (5/8)
回答No.3

足利家の執事が時代を経て管領となりました。ですから、管領と称するようになった当初は細川家と斯波家の両家だけでした。そして、途中から細川・斯波・畠山の3家から交代で就任するようになったため、三管領と呼ばれています。最初から三管領ではなかったということです。 >室町幕府では将軍の補佐役として、三管領をおき、一つの家に力をもたせないようにした。 とあるようですが、おそらくは、前の時代の鎌倉時代を受けてのことではないでしょうか?鎌倉時代は、執権が将軍家を傀儡化し実権を握ったため室町幕府では、管領家を3家、しかも一門にし将軍を傀儡化することを防ぐためだったのでしょう。 また下記のアドレスには、 >管領の権限は,鎌倉時代の 執権などに比べて,極めて弱く,将軍が幼少の場合などをのぞけば,管領が有力守護大名の上にたって権力をふるうことはありませんでした。 とありやはり、倒幕というよりは、管領が将軍に代わって実権を握りにくくするためだと思われます。

参考URL:
http://www.pat.hi-ho.ne.jp/hirosilk/y121.htm
ilmf
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 管領ができた背景について詳しく知ることができました。 また、「鎌倉時代の失敗に学んだという」可能性についても知ることができ、参考になりました。 ありがとうございました。

  • rczd
  • ベストアンサー率29% (33/113)
回答No.2

鎌倉幕府における将軍の補佐役が執権ですよね。執権は北条氏が独占したためか、他御家人を排除し、のちに得宗専制体制を築きました。 すぐ目の前の時代にこのような反面教師がいたからこそ、三家に権力を分散させた…とも考えられます。

ilmf
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 3家に権力を分散させた背景について、鎌倉幕府の反面教師に学んだという視点、参考になりました。 ありがとうございました。

  • yukkkyu
  • ベストアンサー率17% (28/157)
回答No.1

こんにちは。 歴史には詳しくないですが・・・。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%A4%E7%94%BA%E5%B9%95%E5%BA%9C http://www8.ocn.ne.jp/~hien/history04.htm 参考にならなかったら、すみません(;_;)

ilmf
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 教えていただいたページにアクセスしてみたところ、室町幕府についてさまざまなことを知ることができ、たいへん参考になりました。 ありがとうございました。

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