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「トップが殺されない国」ということについて
本郷和人氏の「考える日本史」という著書に、表題の「トップが殺されない国」という……この質問では「学説」とします。……のがあります。下記は、その全文です。本郷和人氏の著書には、「トップが責任をとらない理由」だとか、同趣旨のこの学説がよく登場します。 最初は、「なるほど、そんなものか」と納得していましたし、偉大な学者先生の説に異論を唱えるつもりはありませんが、ふと、「そうなのかなぁ??」という疑問が湧いてきました。 下記の文章で例に挙げられている3人ですが、鎌倉幕府の将軍なんて、「名目的な存在にしか過ぎなかった」ということらしいし、義昭公にしても、「もう、殺さなければならないほど、脅威の存在、邪魔な存在ではなかった。」ということではないか思いますし、慶喜公にしても、鳥羽伏見の戦いの後、英明な知恵で、うまく難を逃れた、薩摩にしてみれば、「しまった。殺しそこなった」ということだったと思うし、江戸城無血開城と慶喜公が一命をとりとめたことも、考え抜いた山岡鉄舟と勝海舟の交渉手腕に西郷が折らされたということであって、「西郷が、慶喜公を殺す意図はなかった」、あるいは「慶喜公は処刑される予定は、最初からなかった」という保証は何もなかったのではないかという気がしています。 日本史に詳しいわけではありませんが、そもそも、この「学説」が成り立つほどに、将軍や天皇が、自ら戦って敗れたという事例もそんなに多くはないと思いますし、この4例をもって「トップが殺されない国」、「日本は、「地位」に権限もともなわなければ、責任もともなわない国」と言い切れるのだろうか???という疑問です。安倍前総理のことを考えると理解できなくもないのですが、むしろ、現代社会を見るとき、天皇陛下にしても、皇室にしても、会社社長にしても、企業戦士にしても、公務員にしても、「責任」で満ち溢れているのではないか……本郷氏の言う「責任」とは異なるかも知れませんが……という気がしています。 この質問を読んでいただいた方のご意見を伺いたいという趣旨ですので、BAは選ばないで締め切ります。それでもよろしければ、ご意見をお願いいたします。3人の将軍の人物評価、あるいは慶喜公をこき下ろそうという趣旨ではありません。 記 地位が必ずしも大きな力をもたない。権限をオーソライズしない。このことが日本史の特徴。その特徴がいちばん端的にあらわれるのは、政権が終焉を迎えるときです。 たとえば中国の皇帝は唐にしても明にしても、革命を迎えると最後の王様は殺されたり自害することになる。命を断つか、もしくは断たれるのが普通で、生きながらえることがない。つまり、いざというときはトップの地位にある者が責任をとることになる。 しかし日本の場合、鎌倉幕府の最後の将軍、守邦親王、室町幕府の十五代将軍、足利義昭、徳川幕府の十五代将軍、徳川慶喜と、これら誰ひとりとして、腹も切らなければ殺されもしていないのです。 ちがう言い方をすると、責任を取っていない。 この構図は、最終的には極東軍事裁判にまで引き継がれます。あの裁判のとき、判事が東條英機に「お前たちは天皇の命令に従って戦争を起こしたのか」と訊いた。すると東條は「そんなことはありません。天皇は戦争をしろとは一言も言ってない。天皇陛下はこの戦争とは関わりがありません」と答えた。そうすると判事が「ではお前たちは天皇の言うことを聞かない存在なのか」と確認すると、東條は「とんでもない。我々は天皇に忠実な臣である。天皇の意思に逆らうようなことはいたしません」と断言するのですが、これはどう考えても矛盾しています。矛盾しているのですが、東條のなかでは、この矛盾は矛盾ではなかったのでしょう。東條たちには絞首刑の判決がくだされますが、天皇には退位や財産の没収などの罰は与えられなかった。だからこそ戦後に大きな混乱がなかったと評価できますが、結局日本は、「地位」に権限もともなわなければ、責任もともなわない国、と言えます。
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- D-Gabacho
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歴史学の世界(おそらく歴史学に限らず学問全般そうだと思います)では、こういう「考える日本史」のような一般向けの教養書は、有名な歴史学者が書いたものであっても、学説として扱われません。学説として扱われるのは論文として発表されたもののみです。 わたしが学生時代に参加した大学の卒業論文説明会では、一般向けの教養書を参考文献として挙げたものは、内容如何を問わず審査対象外だといっていました。学生が書く卒論も論文である以上、既存の学説をすべて踏まえたうえで書かねばならないわけですが、踏まえるべき学説のなかに一般向けの教養書は含まれないのです。 一般向けの教養書が学問的に無価値とされていることは、当然、執筆する学者も重々承知していますから、論文には到底できないような単なる思いつきを気楽に書き散らしたものが多数出版されることになります。「トップが殺されない国」も本郷和人氏の単なる思いつきでしょう。
- eroero4649
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質問者さん、今の新型コロナウイルス感染症対策分科会(長い名前だなァ)の尾身会長についてどう思いますか。 彼は新型コロナウイルス対策のリーダーですから、この感染拡大を止められなかった責任は問われて然るべきだと思いませんか。 でも思いますよね。「確かに立場上は責任者だ。だけど、彼は提言はできても権限がないんだから何もできなかったら責任を問うのは酷だ」って。11月くらいから尾身会長は「このままじゃ感染拡大する」と言い続けてきましたが、まあなんというか政治家も国民も誰もあまり真剣に耳を傾けていませんし、だからといって尾身会長に何ができるかというとマスコミの前に出てくることくらいです。 これって足利義昭と同じではないでしょうか。義昭ができることは手紙を書くことくらいで、自前で動かせる軍事力はいいとこ数百名です。何万名も動員できる織田信長の足元にも及びません。そら、尾身会長も自分の力で数十人の医師くらいは動かせるでしょう。 幕末に関しては、死んだ(殺されたり切腹した)お殿様は誰もいないんですよ。薩長に一番抵抗したのは松平容保ですが、彼も責任は問われていません。家老の一人が責任を負って(背負わされて)切腹しています。 そもそも戊辰戦争の前に幕府による長州征伐があって、毛利藩主敬親はちっとも責任をとらされてもいません。 戊辰戦争では、千葉の請西藩の藩主林忠崇が「藩主自らが脱藩して薩長と戦う」という前代未聞の行動をしていますが、林忠崇本人はなんと昭和16年に天寿を全うするという数奇な人生を送っています。 なぜ林忠崇が切腹までに至らなかったのかというと、それは「忠義」だったからです。彼は江戸幕府への忠義を貫いたわけで、それは武士道的に「模範」という言葉以外が見つかりません。「忠節を全うした武士を切腹させた」となるとこれ、日本人的に「英雄」「神」です。忠臣蔵の赤穂浪士と同じです。 お約束の私の横道にそれる話ですが、日本人は「忠義」に弱いのです。琴線に触れるのです。弁慶や赤穂浪士のように忠義を貫く人が日本人は大好きで、そのために暴力行為を行うことは「忠節がゆえ」と大目に見てしまうのです。だって赤穂浪士がやったことはテロ以外の何物でもないですから。でも江戸市民はみんな「いよいよ討ち入るらしいぞ」とワクワクしてたのです。江戸というのは夜間は戒厳令が敷かれている町で、夜には木戸が閉められます。それを通るには木戸番に木戸を開けてもらう必要があるわけですが、赤穂浪士が槍だの槌だの持って木戸を通るのを木戸番は見てるわけで、でもだーれも報告しなかったんですね。「ほほう。遂に今夜か」と思いながらね。 隣の家は提灯を掲げて「塀を越えて逃げてくる吉良家の者がいたら射殺せ」と家臣に命じています。ドラマで必ず出てくるシーンですね。この話はどうやら史実だったらしいのです。ってことは、隣の家は提灯と弓矢を用意して準備万端だったってことです。そうじゃなきゃそんなこと急にできないじゃないですか。 忠義ゆえに甘いので、戦前は「五一五事件」というのが起きてしまいます。あれは軍人によるクーデターというか政治家に対するテロ以外の何物でもないのですが、彼らの行動の源になったのが「忠義」であり「義憤」だったのです。「忠義の士が悪徳政治家を誅伐した」ので、国民は彼らに同情して減刑嘆願運動が全国で発生したのです。それ以降軍人が「忠義ゆえの行動」をすると大目に見られてしまい暴走が止まらなくなります。 日米開戦にしても昭和天皇はずーっと「米英との戦争は回避するように」と命じていたのに開戦となってしまいました。それで空襲で東京が焼け野原になって「もう勝つのは無理だから、終戦工作をするように」と命じても、口先で「ははーっ」というけれどちっとも話が前に進まない。それでとうとうあの終戦の詔勅を出して強引に終わらせたのです。昭和天皇が決断しなかったら、太平洋戦争はダラダラと本土決戦になっていたことでしょう。 さて、質問者さんは社会人として責任者のような立場になったことがあったと思いますが、そのときにどれだけ独断で決められる権限がありましたか。
お礼
ありがとうございました。 質問者さん、今の新型コロナウイルス感染症対策分科会(長い名前だなァ)……笑・たしかにそう思うけど、政治家が、「もっと長くしろ」といえば、もっと長くなるような気がします。例えば、「新型コロナウイルス感染症対策緊急対策分科会」とか。笑「長いほうが重々しいように感じるんじゃないのかなぁ???」と漠然とした根拠で、どっかの役人が考えたんじゃないかなぁ。長けりゃいいってもんじゃないけど、政治家に受けるんじゃないかなぁ???などとつまらないことばかり連想が次々と。実際は、歴史の積み重ねも信用もなにも感じさせられないネーミングということをさらけ出しているだけだと、私は思います。 尾身会長についてどう思いますか。……私には、明確な根拠は見出せませんが、漠然と、「かわいそうな人だなぁ、責任の防波堤にされながら、権限を持たされていない、しかし、もしかしたら責任をとらされるかも」と見ています。もしかしたら、「もう、責任をとらされつつある」のかも。 彼は新型コロナウイルス対策のリーダーですから、この感染拡大を止められなかった責任は問われて然るべきだと思いませんか。……複雑ですね。私は、「然るべき」とは思いませんが、最終的には、「責任を問われる」というか、政治家に「責任を転嫁される」のではないか、あるいは「然るべき」結果のターゲットになっているのではないか???という気がしなくもないです。責任の取らされ方の「格差」のようなものは感じます。せめて、私は、一国民として、「尾身会長さんの立場を、理解してあげる必要があるのではないか」と、そして、それ以上に、私たちは、「彼の発信する言葉」を己のために、理解し、行動する必要があるのではないかと感じています。 「確かに立場上は責任者だ。だけど、彼は提言はできても権限がないんだから何もできなかったら責任を問うのは酷だ」って。……その辺は私は、まったく逆に考えています。コロナ対策に限らず、うまくいかなかったら、「責任者ではないけど、責任をとらされる」のではないかと。誰かがそうならざずを得ない。うまく表現ができませんが、例えば国や地方の行政の機関の中で、「審議会」とか、今回の「専門家会議」とかありますよね。名称は違っても、「権力のご都合主義で使われている」という基本的な構造は、変わっていないのではないかと考えているのですが、コロナの「専門家会議」というのは、「政治家も分からない難しい問題」なので、表に出さされすぎているのではないかと。つまり、結果次第で、「責任を転嫁される」という、政府にとって、まさにご都合主義の典型的な防波堤にされているような気がしています。逆いうと、政治家に「責任」ということについての覚悟がない、「責任」から逃避しようとしているということじゃないかと。 政治家も国民も誰もあまり真剣に耳を傾けていませんし、……政治家のことは快く思っていませんが、だからと言って、私も、政治や世の中のことを真剣に考えているかというと……恥ずかしいです。悩ましいです。むしろ、「年金生活に胡坐をかいている」と思われても仕方がないかも。病気がちだったので多くはありませんが。 それと、私じゃなくて、「政治家」ということに視点を置いてもらうと、「政治家」が、「政治屋」に落ちてしまった、という気持ちも持っています。「愚直でもいいから、真剣に国民に訴える」ということをしないし、国民の方も、例は悪いかもしれないけど、なんでも、かんでも「お金」、「何でもかんでも補償」という風潮のようなものが……経済のことはまったくオンチですが、たとえば、今回の「ウィルス」にしても、日銀はいくらでも印刷するといっているのだから、10万でも、100万でも、1000万でも貰えるわけですよね。でも、「それって、借金じゃないの???……いずれは返さなければならない。」って気がするのです。そのことを政治家が、国民に訴えない、、また、裏でこそこそと、それこそ裏金が動いている。私たちも目を背けてしまう、また、マスコミも自分たちの真の役割を真剣に果たそうとしない、そこに、「格差」だけじゃなく、「格差が生み出すのゆがんだ本質」が現れてきているような。コロナに限らず、国家だけでなく、自分自身も、取り巻く多くの困難な問題に目を背けてしまう、そして自分さえ良ければと、気づかないふりをしてしまう……そんな漠然とした「不安」のようなものはあります。そして、一番怖いのは、「そのことさえも気づかない」ということではないかと。 尾身会長に何ができるかというとマスコミの前に出てくることくらいです。……これが、一番つらい役割なんだと思います。フィクサーはこんなことしませんよね。マスコミ対応させられるのは、政治家を除けば、「最後に責任をとらされる……便利な人」です。出来の悪い奴が、表に出ないでフィクサー面している、ここに一番の問題があるのじゃないかなぁ???と、「私」は思います。この議論は、今の国家の仕組みの根幹にまで発展する話だろうという気がします。私には、無理です。 これって足利義昭と同じではないでしょうか。義昭ができることは手紙を書くことくらいで、自前で動かせる軍事力はいいとこ数百名です。何万名も動員できる織田信長の足元にも及びません。……すみません。まだ詳しくないので、笑われるかもしれませんが、義昭って、ドンキホーテみたいなところがあるような気がします。それでも、「愛されはしないけど、なんとなく憎めない、……アンパンマンというのがあるんだけど、その中のホラーマンみたいな」笑笑……コロナ対策に限らず、今の日本の政治家に、「最も足りないもの」のような気がします。 薩長に一番抵抗したのは松平容保ですが、~~忠臣蔵の赤穂浪士と同じです。……私が疑問に思ったのは、本郷氏の言う「トップ」とは、どの範囲だろうか???ということがありました。それで、文章のとおり、天皇と将軍を前提に置いたのですが、これを大名、あるいは、それ以下にまで広げてしまうと、それじゃ石田三成は、豊臣秀頼は???……と。死に方は別にしても、「負けること、すなわち死」というのは、少なくとも古代から、江戸時代前期までは、「原則だったのではないか???」という疑問もありました。 お約束の私の横道にそれる話ですが、……ありがとうございます。私は、誤解力にたけていますが、それでもよろしければ大歓迎です。 日本人は「忠義」に弱いのです。~~そうじゃなきゃそんなこと急にできないじゃないですか。……ほかのことは分かりませんが、私は、「ワクワクしてた」というのに賛成です。的外れかもしれませんが、忠義とか何とかよりも、「ワクワクしてた」ということの背景に、庶民まで含めて、「よっ、待ってました」というのがあるような気がするのです。「忠臣蔵」とか「水戸黄門」とか、「安心してみていられる」、「待つことが苦痛でない」、「待つことの楽しみ」とでもいうのか、現代人にも通じるけど、少し失いつつあるもの、そういうものがあって、結果として「忠義」が成立したし、「水戸黄門」が現代にも通用するドラマになったのではないかという気がしています。 忠義ゆえに甘いので、戦前は「五一五事件」~~それ以降軍人が「忠義ゆえの行動」をすると大目に見られてしまい暴走が止まらなくなります。……すみません。まだ、「戦前」にさえも、到達していません。 昭和天皇が決断しなかったら、太平洋戦争はダラダラと本土決戦になっていたことでしょう。……そうですか。自分の生まれた時代なのに、古代とか、中世とかを行ったり来たりして、「昭和」が、まだまだもどかしいほど、遠いのです。「昭和」に至らないかも???と。泣・笑 さて、質問者さんは社会人として責任者のような立場になったことがあったと思いますが、そのときにどれだけ独断で決められる権限がありましたか。……笑、難しいですね。思い返すと、組織内の立場の変化によっても、「求められる判断と行動はかなり違っていた。」という気もしています。極端に言うと、組織ですから、「独断で決められる権限は、なにひとつありませんでした。」、ともいえるし、「これは、相談しないほうが良い、相談されても、上司も迷惑だろう」ということで、自己判断(勝手に)を迫られることも結構ありましたね。笑。誰でも、どんな立場の人でも同じだと思いますが、「責任」と「結果に対する覚悟」というのは、心に秘めていました。かっこいいやり方ではありませんが、私のような能力のない者が、職場を回していくために持つべき最低の心得であり、最期に求められるものでもあると、現職の頃は思っていました。
- spock4
- ベストアンサー率28% (293/1040)
多分ですが、トップは将軍ではないですから。 建前上は、あくまで天皇陛下ですね。そこから権威の一部を委託されている、と言う形でしょうか。 そもそも、諸外国は王朝そのものが交代してますから、前の王朝のものを根絶やしにする、と言うことは普通なのでしょう。日本の場合は、王朝(天皇家)の交代は無かったですから。(南北朝は微妙ですが) また、昭和天皇は、マッカーサーに「戦争の責任は全部自分にある」とおっしゃられたと、読んだ気がするのですが。 これって、責任を取ってますよね。
お礼
ありがとうございました。 日本の場合は、王朝(天皇家)の交代は無かったですから。……私の疑問の本質ではないのではないのですが、ご回答は興味深いです。「王朝(天皇家)の交代は無かった」という根拠は何でしょうか??? 私は、日本史のことは詳しくありませんが、「王朝(天皇家)の交代」は、あったのではないかと感じています。むしろ、南北朝なんて、「天皇家内部」ことであって、王朝の交代といわないのではないかと。そんなことはどうでもいいという気持ちがあります。それでも、今の皇室は、私たちにとっては、敬うことのできる存在だと思わせてくれるところに、天皇なり、皇室の意義があると思っています。 多分ですが、トップは将軍ではないですから。 建前上は、あくまで天皇陛下ですね。……本郷氏の考え方は、天皇も将軍もトップだという前提だと思います。 また、昭和天皇は、マッカーサーに「戦争の責任は全部自分にある」とおっしゃられたと、読んだ気がするのですが。 これって、責任を取ってますよね。……お言葉が事実であるかどうかは、私には知識がありませんが、私の認識では、昭和天皇というのは、「戦争の責任は全部自分にある」というお言葉以上の責任を感じておられたのではないか???と認識しています。私も戦後生まれですが。
お礼
大変参考になるご回答ありがとうございました。 歴史学の世界~~一般向けの教養書は、有名な歴史学者が書いたものであっても、学説として扱われません。……表現の仕方が分かりませんでした。最初は「本郷理論」とか考えたのですが、「まてよ、こんなの理論とは言わないのではないか」と眠れないままに考えながら、「ああ、これだ」という適切な用語を思いついたのですが、布団の中で、他のことを考えているうちに、その「用語」が何だったか、忘れてしまい、……しかも、「その用語か何だったのか???」どうしても思い出せません。それで、仕方なく「学説」としてしまいました。 (>_<)!(^^)! 内容如何を問わず審査対象外だといっていました。……審査対象外の質問にご回答いただきましてありがとうございました。 あらためて、「歴史学」って、何だろうと、考えてみました。即座に答えの出る命題ではありませんが、「誰が、どこで、何を書いたか、何を言ったか???」ということよりも、「信じるか、信じないかという、きわめて単純なことで成り立っている」という側面もあるような気がしました。いかがでしょうか???むしろ「それだからこそ、私のような素人でも取り組める、チャレンジできる」という気もしています。 一般向けの教養書が学問的に無価値とされていることは、当然、執筆する学者も重々承知していますから、論文には到底できないような単なる思いつきを気楽に書き散らしたものが多数出版されることになります。……そうなのですか。知りませんでした。(>_<)「けしからん」と怒りたいところなのですが、巷の本屋には、「単なる思いつきを気楽に書き散らしたもの」が陳列されているという覚悟でページをめくったほうが良いという教訓ですね。経済評論家にもそんな側面があるような気がします。「当たるも八卦、当たらぬも八卦」、逆いうと「信じるも勝手、信じないも勝手」みたいな。 「執筆する学者も重々承知していますから」……知らなかったのは私だけだったのですね。まぁ仕方ないですね。今更、「論文を手に入れて」というほどの気力も体力も寿命も残ってはいませんが、これからも、「単なる思いつき」を相手にしながら、また、皆さんに教えてもらいながら、自学していきます。よろしくお願いいたします。