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慶喜の本当の気持ち
- 慶喜は鳥羽・伏見の戦いで幕府軍を裏切り、江戸に逃げ帰った。
- 慶喜の頭にあったのは日本の存立という一念だった。
- 慶喜の行動の本心は命を助けたかったのかという疑問がある。
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”それ以降の会津藩をはじめとして、奥羽越の諸藩の尊い犠牲を 食い止めることができなかったのだろうか? 食い止める努力はしたのだろうか?という疑問が湧いてきます。 どのように思いますか?” ↑ 鋭い指摘ですねえ。 その通りでしょう。 会津藩などは、将軍大事、ということでわざわざ京都まで 火の粉をかぶりにいった藩です。 将軍が、止めろ、と一言言えば、温和しく恭順したでしょう。 ”「心の中」はどうだったのでしょうか” ↑ ただただ生き残りたかっただけでしょう。 彼は頭は良かったようですが、勇気が無かったのです。 司馬遼太郎曰く「覚悟」が足りなかったのでしょう。 ”そもそも将軍という器ではなかったのではないか?、 と考えてしまうのですが。どうでしょうか?” ↑ 全くその通りです。 将軍というのは武士の頭領です。 武士というのは戦争のプロのことです。 その頭領があのざまです。 しかも言い訳がましく、日本の為にどうのこうのと。 どうして切腹しないのだ。 その後の趣味三昧の余生も気にくわないですな。 武士の頭領らしく、なぜ切腹しなかったのかと 胸ぐらを掴んで揺すってやりたいぐらいです。 70を過ぎて最前線に絶った家康を見習って 欲しいものです。
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- eroero1919
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歴史を評価することにおいてしばしば忘れがちなのですが、とても重要なことがあります。それは、「当時の価値観で判断するべき」ということです。 当時においては、藩というのは半独立国家です。少なくとも司法と行政は独立していたんですね。今から300年後くらいに地球連邦という世界国家が生まれていて、未来の人が今の私たちに「なぜ韓国や中国にもっと親密にならないのか。同じアジア人ではないか」と聞かれても「いや、外国のことだし」と思うでしょ。 現代の我々が韓国や台湾の国としての判断に口を出す権利がないように、当時においていかな将軍といえどその身の振り方までは干渉する筋合いはなかったのですよ。当時の人々にとって「国」といったとき、それは日本国のことではなく、自分が生まれた藩のことを指していたのです。当時国内を移動するにも「通行手形」という「パスポート」が必要であったことをお忘れなく。当時の人々にとって会津藩とは「会津という国」なのです。 またもうひとつ、ある意味切実な事情もあったと思います。旧幕府側が新政府に恭順を示しても、納得ができない連中は大勢いました。勝海舟もその連中の処遇には苦慮し、新撰組なんぞは江戸に戻ってきたら「お前らを大名にしてやる」とかなんとか持ち上げてまんまと甲州に追いやってしまいました。甲州で薩長軍に一蹴されて四分五裂になったのは、勝海舟にすれば願ったりかなったりだったと思います。 その抗戦派から領袖として期待されていたのが松平容保だったので、恭順を決意した慶喜派からすると「面倒な連中を引き受けてくれる」というのはありがたいという思惑もあったと思います。私が勝海舟だったら慶喜から「会津藩も恭順を説得した方がいいかなァ」といわれたら「そうするなら会津藩内でそう決めるでしょう。外野から余計なことはいわないほうがいいです」といいますね。 でね、こんなことをいうとちょっと意地悪ですが、質問者さんは慶喜始め幕府側を裏切ったというか、「悪い(幕府を滅亡に追いやった)」という意見になると思うのですが、じゃあ江戸幕府が続くべきだったと思うのですかと聞かれたらイエスという立場でもないでしょう? 実はウチのご先祖は藤堂藩なのですが・笑、一般的に藤堂藩は藩祖高虎公から「裏切りの天才」みたいなことをいわれているわけですが、信長⇒秀吉⇒家康と時代が流れゆく中でしっかり立場を築いて、幕末に至っても「時代が変わった」ことに対して機を見るに敏だったわけですよ。ご先祖を弁護するのですが「何が悪いのか」と・笑。生き残ることが正しいのなら、実に正解じゃないかと思うのですよ。 江戸城無血開城は質問者さんからすれば「情けない」のかもしれませんが、おかげで江戸は火の海に包まれずに済み、そのおかげで当時の人々が書き残した資料や文化がずいぶん残ったわけです。資料はもっとあったはずですが、震災と戦災でかなり失われてしまったと思います。 私は、どう頑張っても幕府側が勝利することはなかったのですから、勝海舟の江戸無血開城は賢明な判断だったと思います。あと、奥州各藩の尊い犠牲といっても、想像より少ないですよ・笑。例えば鶴ヶ城攻防戦の会津側の損害が記録に残っているのですが、それによると、「死者21名(白虎隊は除く)、負傷12名」とあります。鶴ヶ城は銃撃で文字通りに蜂の巣にされたんですけどね。あんまり大きな声ではいえないんだけど、鳥羽伏見の戦いの新撰組の損害も記録に残っていて、確か死者・行方不明者合わせて3名か4名だったと思います。しかもみんな追撃されて大阪近辺で死亡したか敗走のどさくさで行方が分からなくなったかで、たぶん、そのどさくさで逃げちゃったんでしょうね。ドラマでよくドカーンと爆発してみんな死んじゃってるんですが、当時は炸裂弾もないし、あれは全部ウソなのですよ・笑。函館戦争で激戦として有名な二股口の戦いは、4月13日の損害が新政府軍死傷者が23名、一方の土方軍の死傷者が3名と記録されています。
お礼
ご回答ありがとうございました。以前もご回答いただきましたよね。重ねてお礼申し上げます。 『歴史を評価することにおいてしばしば忘れがちなのですが、とても重要なことがあります。それは、「当時の価値観で判断するべき」ということです。』……歴史の見方を教えていただきまして、ありがとうございました。正直言うと、私は「歴史」は大嫌いでしたので、「歴史の見方」というものがさっぱり分かりません。今、この歳になって、何で「日本の歴史」になんか興味を持ちだしたのか、自分でも不思議でなりません。これから、大して長くもない人生にとって何の役にも立たないのに。(*^_^*)歴史を学ぶというのは、「当時の価値観で、歴史の事実をしっかりと判断し、今の私の価値観で、それを評価する」ということ、あるいは「温故知新」ということではないでしょうか? 『当時においては、藩というのは半独立国家です。…………甲州で薩長軍に一蹴されて四分五裂になったのは、勝海舟にすれば願ったりかなったりだったと思います。』というくだりについては、NO,3の方の「お礼」にも書いたように、多少は理解しているつもりです。しかし、「天下の将軍でしょ」という割り切れない気持ちがあるのです。徳川300年は一体何だったのか?という気持ちです。特に、質問にも引用しているように、『慶喜の頭にあったのは、幕府がどうとか薩長がどうとかいう問題ではなく、「日本の存立」ただ一念だったのです。そして、日本人同士が争うという愚かな行為だけは何が何でも避けたかったのです。』とあるから、なおさら疑問に思ったのです。 『その抗戦派から領袖として期待されていたのが松平容保だったので、恭順を決意した慶喜派からすると「面倒な連中を引き受けてくれる」というのはありがたいという思惑もあったと思います。』というのは、大変興味ある見方です。 『私が勝海舟だったら慶喜から「会津藩も恭順を説得した方がいいかなァ」といわれたら「そうするなら会津藩内でそう決めるでしょう。外野から余計なことはいわないほうがいいです」といいますね。』……「例え」だとは思いますが、「明晰な将軍」も勝海舟に相談しなければならない状態であったとしても、「あなた、将軍でしょ」という気持ちです。 『質問者さんは慶喜始め幕府側を裏切ったというか、「悪い(幕府を滅亡に追いやった)」という意見になると思うのですが、じゃあ江戸幕府が続くべきだったと思うのですかと聞かれたらイエスという立場でもないでしょう?』……申し訳ありませんが、いくら読み返しても、記述していることの意味が理解できませんのでコメントは避けます。ただ「江戸幕府が続くべきだったと思うのですかと聞かれたらイエスという立場でもないでしょう」というのは、そのとおりです。おそらく、私の、無知に基づく想像でも、内戦の長期化など多少の紆余曲折はあっても「武士の時代」が続いたとも思いません。質問の文章に誤解を生じる表現はあるかも知れませんが、質問にも「慶喜の行動の結果に対する「政治的評価」はどうでも良いです。質問ではありません。」と書いたように、歴史の結果に対して良い、悪いという評価を下すために、質問したわけではありませんし、最近、幕末・維新に興味を持って本を読みあさっているだけで、歴史を評価し、評論する実力は、まだ持っていません。質問にも引用しているように、『慶喜の頭にあったのは、幕府がどうとか薩長がどうとかいう問題ではなく、「日本の存立」ただ一念だったのです。そして、日本人同士が争うという愚かな行為だけは何が何でも避けたかったのです。』とあるから、将軍として、何かやるべきこと、やらなければならないこと、できることがあったのではないか、という疑問が生じただけです。それと鳥羽伏見の戦い以降の彼の行動と明治以降の彼の生活ぶりから慶喜という人の人間像に迫れる何かがあるのではないか?それを歴史に詳しい人がどのように感じているかを知りたかったのです。 あなたのご先祖様についてコメントするのは止めときます。(笑) 『江戸城無血開城は…………一方の土方軍の死傷者が3名と記録されています。』……誤解のないように、あえて記述させていただきますが、江戸城無血開城を、「今日の日本」を前提として評価するとき、また「歴史の結果」として評価するときに、私は「情けない」とは、評価していません。上述したように、将軍としての、そして人間としての慶喜像の一部を覗きたかったのです。 戊辰戦争の被害者については、調べたことはありませんが、イメージよりはかなり少ないですね。また、認識を新たにしました。ありがとうございました。
- sonohinioware51
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会津藩など奥羽諸藩の抗戦への彼の態度 もう幕府という巨大企業は解散に向かい、自分は代表取締役の地位を降りたのだから、どうこうする立場に無い、というのが本音でしょうね。 もう一つ、いつの時代も、どの国でも、超エリートというものは他人に対し、非情で無責任なものなのです。 将軍の器か否か 希代の英才だと思います。とにもかくにも新たな時代を切り開いた一人とは言えませんか?なにも薩長や土佐だけの功績ではないと思います。逆説的な意味でですが・・・・ 鳥羽伏見の戦における、大阪からの逃亡について 頭脳明晰ゆえに時代の趨勢を見抜いていたのでしょうね。インテリほど、斬ったはったの血みどろの戦いには弱いのです。 暗愚な将軍ならば、江戸は火の海となったことでしょう。 引退後、自ら駿府に退き、カメラ・自転車・ゴルフ等、最新の流行を楽しみました。頭の良い人には違いない。計算ずくで、そういう後半生の方が有利である事を見抜いていましたね。
お礼
ご回答ありがとうございました。 歴史に「IF」は意味がありませんが、もし「暗愚な将軍」であったとしても、戦っていれば、戦いはどうなっていたか分かりません。ましてや「頭脳明晰な将軍」だったのでしょ。はたして、「江戸が火の海」となったか、どうか? 質問のきっかけは、ご回答にある、まさに「頭脳明晰ゆえに時代の趨勢を見抜いていたのでしょうね。」ということなのです。「時代の趨勢を見抜いていた」結果があの行動なのですか?……というのが大きな疑問なのです。それとも「時代の趨勢を見抜いていた」にもかかわらず、計算を自分のためにだけ使ったということなのでしょうか。そうだとすれば、まさに、「モッタイナイことをしでかしました」ですよね。
- kusirosi
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・質問のひとつは、それならば、それ以降の会津藩をはじめとして、奥羽越の諸藩の尊い犠牲を食い止めることができなかったのだろうか?食い止める努力はしたのだろうか? 慶喜さんは「容保にも定敬にも、最後にあった時、軽挙妄動せず、時勢を考えよと言っておいた。 その後の自分は、隠居し、言うべき立場ではなかった」と述べてますね。 このへんが、水くさい、冷たいといわれるんでしょうが、 去る者は追わず、来る者は拒まず という慶喜さん流処世術なんでしょうね。 ・結果 、松平定敬は函館まで行き、新選組と共に戦い、隠居後許されて、西南戦争では官軍変じた帝国陸軍に旧桑名藩士を率いて志願、鹿児島まで行って西郷軍と戦うことになるのですが\(^^;)... ・質問のふたつめは、鳥羽・伏見の戦いからの、彼をあのような行動にかりたてた本心というか、まさに、「心の中」はどうだったのでしょうか?ということです 「慶喜個人は、殺されてもかまわないが、歴史に記される自分の名が、惜しい」という気持ちが、 慶喜の後半生を左右したのでしょう。 慶喜が、京都で一会桑政権を組織し、将軍をしのく権勢にあった時、 足利将軍家の尊氏・義詮・義満の木像の首が菩提寺から盗まれ朝敵として賀茂川の河原に晒される足利三代木像梟首事件が起こりました。 尊王を家訓とする水戸徳川家から、一ツ橋に養子に行った慶喜にとって、自分の名が、そのように朝敵とされることは、耐え難いことでした。 慶喜の野望は、一会桑政権に、朝廷や諸藩を協力させ、 ゆるやかなかたちでの討幕の盟主に、自らがなり、 幕府や将軍を廃絶しなくても、 自らが太政大臣関白等になり、幕府将軍より上の立場になり、 開明派幕臣を引き抜き、天皇と自分の名で 近代国家を作り、歴史に名を残すことでした。 皮肉にも、自分が倒される対象の将軍になりましたが、 将軍になる前は、慶喜が 尊王討幕に一番近い実力を持っていました。 野望は果たせず、 自分が主役から降ろされ、遊び人元将軍として観客に回った慶喜ですが、 大政奉還、江戸無血開城などで、歴史に名脇役として、実際以上に美化され、 歴史に名を残したことに、満足しているのではないでしょうか。( ^^) _旦~~
お礼
私の質問に沿ってご回答いただきありがとうございました。 『慶喜さんは「容保にも定敬にも、最後にあった時、軽挙妄動せず、時勢を考えよと言っておいた。』……ということなのですか?「他人事」みたいな言い方なのですね。将軍というのはその程度ものなのですか?その程度のものなのだと考えれば、その後「何故あのような展開になったのか?」ということも少しは理解できますが。幕府が、あるいは将軍が命令した行動ではないにしても、会津藩や長岡藩の戦いは一体何だったのか?あの犠牲は何だったのか?という疑問が消えません。あくまでも、藩としての行動であったとしても、……むしろ、新政府軍が無理矢理に仕掛けた戦争ということなのですかね。幕末・維新がますますおもしろくなりました。 『「慶喜個人は、殺されてもかまわないが、歴史に記される自分の名が、惜しい」という気持ちが、慶喜の後半生を左右したのでしょう。』……NO,2の方の回答にも、そのような趣旨のことがあります。しかし、どうしても「名を惜しむということと、行動が合致しない」ように思えてしまうのです。「殺されてもかまわない」という気持ちがあったのであれば、将軍として、「もっと犠牲を少なくするための」やり方があったように思えてならないのです。 鳥羽・伏見の戦いの以前に『自らが太政大臣関白等になり、幕府将軍より上の立場になり、開明派幕臣を引き抜き、天皇と自分の名で近代国家を作り、歴史に名を残すことでした。』ということがあったのですね。勉強不足で理解していませんでした。これでまた、幕末・維新がますますおもしろくなりました。 「歴史に名脇役として、実際以上に美化され、歴史に名を残したことに、満足しているのではないでしょうか。」……慶喜像の一端が少し見えてきました。 大変勉強になりました。ありがとうございました。以前にもご回答いただいていますが、お目にとまりましたら、これからもよろしくお願いいたします。当面、もう少し、幕末・維新を学んでみたいと思っています。
- 007_taro
- ベストアンサー率29% (540/1831)
司馬遼太郎氏が、慶喜公について、家康以来の明晰な頭脳を持つ将軍と評しています。 しかし、その明晰な頭脳故に、幕末の諸外国の日本への動きを見通した際、また内部の勤王派攘夷派の動きにより何が引き起こされるのかを考えた結果、日本の存亡もあったと思いますが(当時の諸外国に対する日本人のアレルギー反応のような嫌悪感と、植民地化されるという恐怖感は相当だったらしい)、同時に、貴人に情無しと言われる通り、家康公の作った”幕府”(諸大名とかそういう細かいものは考慮せず)をむざむざと自分の代で壊されることを恐れたこと、そして代々続いた将軍という職についた以上、命が惜しいというよりも、幕府を壊したという汚名がつくことを恐れたのではないかと確か書いていたように思います。それを考えると、気持ちというより、多分、理性とか家訓とか思考的判断に基づいて行動した、と言うのが近いのかなという気もします。 幕府が無くなれば、当然汚名も何も残らないと我々は考えますが、当時の人達は家系に汚名を残すことが末代までの恥ですから、何をしても回避したかったのでしょう。そもそも江戸幕府は、諸藩を統括していたとは言え、幕府には諸藩から一銭も入ってこなかったし、藩は藩で個別に方針を決めたので、不戦を説得して回るほどのつながりは薄かったかもしれません(善し悪しは別として)。 会津藩の松平氏は、警護する対象の幕府軍の長たる将軍が不戦となれば、戦う意味はなし(むしろ会津藩は幕府に忠実であったがために、酷い目に遭う訳ですが)。しかし、自分が仕えた幕府の祖である家康公の墓所、東照宮の宮司となっていることや、新選組の慰霊碑は松平氏が引き受けたそうですから、おめおめと生き残ったのではなく、自藩を含む幕府のために戦った人達の弔いを行い、後世も幕府に対する思いはずっと残っていたと思います。
お礼
ご回答ありがとうございました。 「幕府を自分の代で壊されることを恐れたこと、そして、その汚名がつくことを恐れた」のであれば、戦ったのではないでしょうか?慶喜の行動は、「家康以来の明晰な頭脳」が得た結論のように思えないのです。 「家系に汚名を残すことが末代までの恥」というのは、理解できますが、慶喜の行動は「汚名を残した」ことになるのではないですか?その上、「幕府」までもなくしています。
ソ連のゴルバチョフみたいな感じじゃないですか?。アメリカからの開国要求や、国内の不満、江戸幕府がいっぱいいっぱい、似てます。基本的に江戸幕府が、もうこの辺で、って感じです。
お礼
ご回答ありがとうございました。「もうこの辺で、」というのは、なんとなく分かりますね。ただ、どうしても「もうこの辺で、」というのと、彼の行動の仕方、処理の仕方とが合致していないように思うのです。
お礼
ご回答ありがとうございました。 そうなんです。日本が結果として、どうなったかという問題は別にして、ご回答にもあるように、慶喜には、武士としての「覚悟」がなかったと思うし、明晰な頭脳を持った将軍といわれながら、やるべき事をやらなかった「大きな罪」があるような……どうしても、この気持ちが抜けなくて……質問しました。