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幕末における御三家、親藩の態度

鳥羽伏見の戦いの前後頑固な保守の東北地方は別にして、伊予久松、桑名の松平などの親藩は佐幕派で幕府維持にまわりました。薩長が倒幕を始めたとき特に御三家の中でも筆頭の尾張が官軍方についたのはなぜですか。また他の紀州や水戸、さらには高松など親藩といわれた諸藩はなぜ官軍に味方したのですか。賊軍といわれるのが怖かっただけが理由でしょうか。また、前田家などは場所が東北ではないけどどのような動きをしたのでしょうか。 どなたか教えていただけませんか。よろしくお願いします。

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noname#113190
noname#113190
回答No.1

ご承知のように幕末の主な大名家は一橋家の血統に繋がる人物が藩主となり、それに対抗しているのが系統的には水戸の血を引く一橋本家という捻れ現象でした。 尾張藩も例外ではなく、一橋系が藩主を務めていましたが、14代慶勝は支藩の高須家から入った人物で、水戸の血縁ですから、勤王の考えに近い人物です。 家臣も2派に分れ、付家老の竹越を中心にした佐幕派と成瀬を中心にした勤王派で、青松葉事件というクーデターで、慶勝・成瀬ラインが佐幕派の粛正に成功し、官軍に加わります。 紀州藩は元々8代吉宗の実家であり、それ以降も将軍を出しているので佐幕派でしたが、幕末に14代茂承が藩主になると政治的には蚊帳の外に置かれ、15代将軍の当て馬にされたり、長州征伐で冷遇されたために佐幕熱が冷めてしまい、勤王に傾いてしまいました。 加賀前田家は元々日和見な家風ですから、単に情勢を読んだだけでしょう。

ebaramachi
質問者

お礼

御三家や親藩が必至になって幕府の維持に力を注がなかったのも時勢的な要因がかなりあったのかもしれませんね。「もう幕府が支配する時代は終わった」というような見方があったのかも。 回答ありがとうございました。

その他の回答 (1)

  • oska
  • ベストアンサー率48% (4105/8467)
回答No.2

>高松など親藩といわれた諸藩はなぜ官軍に味方したのですか。 高松藩は、水戸藩の分家です。 初代藩主は、徳川光圀の兄、二代藩主は光圀の長男と代々養子縁組を行っています。 幕末でも、水戸9代藩主斉昭と高松9代藩主頼怒は兄弟で、共に水戸7代藩主治紀の3男・次男なんです。 また、水戸藩・高松藩は代々尊皇攘夷なんです。 (井伊直弼暗殺も、水戸派です) 鳥羽伏見の戦いで、高松藩は幕府軍側として戦闘を行っています。 が、薩摩・長州側が錦の旗を掲げた為に、薩長は官軍、幕府軍は賊軍になり敗走。 薩長軍と戦っていると思っているのに、一夜で官軍と戦っている事になったのですからね。 高松城は土佐・丸亀・多度津藩預かりになり、藩主は謹慎。 官軍へ賠償金支払い+家老の首+鳥羽伏見戦での指揮官の首を差し出す事で許されました。 水戸藩の分家は、高松藩とほほ同様な行動をしています。

ebaramachi
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。他の親藩や譜代も幕府維持にあまり積極的ではなかったのでしょうね。時代の流れを的確に読んでいたのでしょうか。それが分からなかったのが長岡藩を除く東北諸藩かも。

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