「鳥羽伏見の戦い」と「朝敵」ということ
藤堂高虎のことや鳥羽伏見の戦いにおける津藩の判断のことを調べているうちに、その背景に、勅使から、「朝敵扱いすると迫られやむを得ず……」とか「錦の御旗を掲げたため、断りきれなかったとか……」ということがあったとわかりました。結果として、藩祖高虎の教えまで持ち出されて、「裏切り者」としてそしられることになったようですが……。
また、徳川慶喜も、新政府軍が、「錦の御旗」を掲げたことにより、「朝敵になってしまった」ということで大坂を退いた……個人的にはそのように理解していませんが。……という解説もあるようです。
「朝敵」という言葉は、結果として、「鳥羽伏見の戦い」の勝敗を決定づけることになったと理解しています。
いろいろ思いを巡らせているうちに、ふと、当時における、「朝敵」ということや「天皇」の存在の意義というか、その重さというか???が気になりました。
拙い歴史知識ですが、承久の乱のおり、鎌倉幕府の御家人たちは、当初、朝敵になることに不安を抱いたといわれていますが、結果として、「錦の御旗」を掲げた後鳥羽上皇が鎌倉幕府に敗れます。つまり、「武士」が、「朝敵」という不安・怖れに打ち勝ち、払拭した「戦」だったのだと思います。以降、後醍醐天皇の一時的な巻き返しはありますが、天皇、朝廷が、「戦」に登場した歴史はないと理解しています。というよりは、南北朝の争乱以降、天皇、朝廷は、「戦」をする力を全く失った存在、まさに「武士の時代」が700年間続いたと理解しています。
教えていただきたいことは、4点です。4点すべてのご回答にはこだわりません。
1 上記の私の認識に間違いはあるでしょうか???あれば指摘をしてください。
2 鳥羽伏見の戦いで、津藩のほかに、「朝敵」になることを恐れて、幕府軍から離反した藩はありますか???
3 700年間に及ぶ「天皇、朝廷の空白」ののち、「錦の御旗」がよみがえったその原動力は何でしょうか??? やはり、古代からの「万世一系」というものに対する、日本人の畏怖のようなものがあるのでしょうか???「空白」という表現は適切ではないかも。
4 「朝敵」に対する津藩や徳川慶喜の反応にもかかわらず、「朝敵」とされながらも、なおかつ戦っていった、「反政府軍」の原動力は何だったのでしょうか???単に「大きな時代の変わり目って、こんなもの」ということでしょうか???
お礼
今回はありがとうございました。色々調べると、薩摩、長州、尾張、越前に宮中警固が任じられ・・・・ということが分かりました。ありがとうございました。