• ベストアンサー

徳川慶喜公。将軍退位後の地位、敬称。

江戸城開城までは一応、幕府の組織は存続していたと思います。 そして慶喜公は、将軍退位後も幕府においては最高権力者と思うのですが、幕府や朝廷は慶喜公を何と呼んでいたのですか。 例えば一橋大納言とか。 よろしくお願いします。

  • 歴史
  • 回答数4
  • ありがとう数5

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • f272
  • ベストアンサー率46% (8024/17152)
回答No.2

征夷大将軍の辞任を申し出たのは,慶応3年(1867年)10月24日で,同じ年の12月9日の王政復古の大号令でそれが勅許されました。江戸城が開城したのはその翌年のことですから,それ以前に幕府はなくなり徳川慶喜は将軍ではありませんでした。 > 将軍退位後も幕府においては最高権力者と思うのですが 将軍退位後は幕府の組織は存続していたとしても幕府は存在しません。朝廷の官職としての内大臣はそのままでしたが,これも慶応3年12月9日の小御所会議で内大臣辞職と徳川家領の奉納がきまり,鳥羽・伏見の戦いにもつれ込みます。この時点では徳川宗家の家督権者で,(旧)幕臣にとっては上様,朝廷にとっては朝敵の単なる徳川慶喜です。戊辰戦争中の慶応4年(1868年)閏4月29日に徳川宗家の家督を譲ったので,これ以後は単なる徳川慶喜です。 なお,明治35年(1902年)には公爵に叙せられ,徳川慶喜家を興しました。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 「上様」以上の敬称はないですね。 鉄舟と西郷の会談、勝と西郷の会談では、「上様」と「慶喜」が飛び交っていたのでしょう。

その他の回答 (3)

  • cactus48
  • ベストアンサー率43% (4480/10310)
回答No.4

徳川慶喜は大政奉還後から明治維新になり、明治2年には隠居手当てを 元手に写真、猟、投網、囲碁、歌謡等の趣味に没頭していたと言われて います。その後明治34年に従一位勲一等公爵の称号を得て、貴族院の 議員を務められたとの記述があります。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 公爵の称号を得てからは「公爵」と呼ばれたのでしょう。

回答No.3

公爵じゃないでしょうか?

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 公爵を授けられてからは「公爵」と呼ばれたのでしょうね。

  • oska2
  • ベストアンサー率45% (2188/4848)
回答No.1

>江戸城開城までは一応、幕府の組織は存続していたと思います。 形式的には、存在していましたね。 大政奉還時点でも、政権を朝廷に返しただけで幕府組織は残っていました。 そもそも、征夷大将軍職は朝廷側官位の一つに過ぎません。 >将軍退位後も幕府においては最高権力者と思うのですが、幕府や朝廷は慶喜公を何と呼んでいたのですか。 幕府側関係者は、一橋さま・上様・公方さま・慶喜公です。 急進派朝廷側関係者は、慶喜です。 穏健派朝廷側関係者は、徳川殿・慶喜殿です。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 人それぞれ、立場によって呼び方も変わって当然ですね。 南百年も昔の藩主の子孫を今でも「殿様」と呼んでいる集まりを思い出しました。

関連するQ&A

  • 後水尾天皇退位

    江戸幕府は当時、後水尾天皇の退位に猛反発しましたが、それは何故でしょうか? 秀忠とすれば孫娘の女一宮(のち明正天皇)が即位すれば自分は外祖父で更に強固な権力を握れたはずなのに(幕府と朝廷が融和すると言う意味で) 天皇の退位、親王(内親王)の即位は朝廷、もしくは天皇に決める権利があったのに 何故幕府が口出ししたのでしょうか?

  • 慶喜の本当の気持ち

     「家康の再来」とまで評された慶喜ですが、鳥羽・伏見の戦いでは、総大将でありながら、幕府軍を裏切り、江戸に逃げ帰りました。又、その後も、ひたすら恭順謹慎の態度をとり続け、江戸城の無血開城までしてしまいました。  慶喜は、「あの時は、ああするより他なかった。やっぱり、あれが一番よかったんだ」と語り、そして、『慶喜の頭にあったのは、幕府がどうとか薩長がどうとかいう問題ではなく、「日本の存立」ただ一念だったのです。そして、日本人同士が争うという愚かな行為だけは何が何でも避けたかったのです。』      http://www.h3.dion.ne.jp/~urutora/yosinobu1.htm と紹介されていますが、 質問のひとつは、それならば、それ以降の会津藩をはじめとして、奥羽越の諸藩の尊い犠牲を食い止めることができなかったのだろうか?食い止める努力はしたのだろうか?という疑問が湧いてきます。どのように思いますか?もっとも、松平容保でさえも、生き延びて従一位に、嫡男は華族に叙せられているので、慶喜にとっては、その他は雑魚であり、どうでもよい存在だったのかも知れませんが。 慶喜も、明治維新後に従一位勲一等公爵、貴族院議員となり、大正2年まで人生を謳歌されたとか。  質問のふたつめは、鳥羽・伏見の戦いからの、彼をあのような行動にかりたてた本心というか、まさに、「心の中」はどうだったのでしょうか?ということです。歴史上の人物、ましてや他人の本心は分からないとは思いますが、想像でもかまいません。私には、政治的意図などはなく、単に「命が惜しかった。助かりたかった」ということではないか?彼は、そもそも将軍という器ではなかったのではないか?、と考えてしまうのですが。どうでしょうか?  慶喜の行動の結果に対する「政治的評価」はどうでも良いです。質問ではありません。

  • 江戸幕府の終わり

    ある本に「1867年10月14日、江戸幕府の第15代将軍徳川慶喜が政権を朝廷に返上しました。これをもって江戸時代は、終わりました。」と書かれていました。  そして、ある本には、「1868年3月14日、公家や各藩の大名たちを京都御所に集め、天皇にかわって三条実美が、新しい政治の方針を示した五か条の御誓文を読み上げた。これをもって江戸時代は、終わりました。」とありました。 約半年の違いなのですが、歴史上、どの時点をもって江戸時代は、終わったと考えられているのでしょうか。  大政奉還しても旧幕府の考え方を持った少数派がいて、幕府としての機能を果たしていたという考えの人もいました。いろいろな考えがあると思います。よろしくお願いします。

  • 深心院は徳川(一橋)宗尹が何歳の時に亡くなった?

    徳川(一橋)宗尹の生母である深心院(しんしんいん)は、徳川(一橋)宗尹が何歳の時に亡くなってしまったのでしょうか? 徳川(一橋)宗尹の生母である深心院(しんしんいん)は、徳川(一橋)宗尹が何歳の時に亡くなってしまったのかを教えてください。 ※ 深心院(しんしんいん): 江戸幕府の8代将軍・徳川吉宗の側室で、徳川宗尹(一橋徳川家初代当主)の母。 俗名は梅(うめ)、久。 徳川 宗尹(とくがわ むねただ): 江戸時代の一橋徳川家(御三卿の一つ)の初代当主。一橋宗尹とも名乗った。

  • 吉宗は、最も朝廷や天皇を軽んじて馬鹿にしていたか?

    8代将軍・徳川吉宗は、江戸時代の歴代の徳川将軍の中で、最も、朝廷や天皇を軽んじて馬鹿にしている将軍だった、のでしょうか? 8代将軍・徳川吉宗は、歴代の徳川将軍の中で、最も、朝廷や天皇を軽んじて馬鹿にしている将軍だった様に思うのですが、どうでしょうか? 朝廷や天皇を軽んじて馬鹿にしていたからこそ、徳川吉宗は、(秀忠ー家光からの)宗家の血筋ではないのに、将軍になれたのではないでしょうか? 江戸幕府も初期の頃は、対外的には朝廷や天皇を重んじている姿勢を見せていたと思います。さもなくば、外様大名たちに付け込まれる原因となりますから。 しかし、あの頃(徳川吉宗が将軍になった頃)は、大坂夏の陣から100年が経っており、もはや、そのような事を心配して、朝廷や天皇を重んじている姿勢を見せる必要はありませんでした。 寧ろ、大坂夏の陣から100年が経過して、なまってきて、公家寄りになってきた(特に、6代将軍・家宣は、自身の御台所の父を始めとする公家と仲が良かったようです。)江戸幕府を引き締めて、はっきりとした武家政権である事を示す必要がありました。 それで、朝廷や天皇を軽んじて馬鹿にしていたからこそ、徳川吉宗が将軍に選ばれたのだと思います。 8代将軍・徳川吉宗は、江戸時代の歴代の徳川将軍の中で、最も、朝廷や天皇を軽んじて馬鹿にしている将軍だった、でしょうか? どうかを教えてください。

  • 足利義昭

    書籍を読んでいて、「室町幕府第15代将軍足利義昭は織田信長に反抗して追放された。」とあったので、ふと、「義昭のその後」というのが気になってウィキを閲覧してみると、生き延びているのですねぇ。それに驚いたというか、おのれの無知にも驚きましたが「関白秀吉、将軍義昭」の時もあったのですね。 漠然とした質問なのですが、 1 義昭は、殺されないで、なぜ「追放」で済んだのでしょうか??? 2 義昭は、なぜ「将軍職」を降りたのでしょうか???秀吉からの圧力があったのでしょうか??? 3 それと、根拠のない漠然とした印象なのですが、江戸幕府第15代将軍の徳川慶喜とダブって見えてきました。この「根拠のない漠然とした印象」というか「徳川慶喜とダブって見えた」ことは単に無知によるものなのでしょうか???幕府崩壊後も生き延びたとか、天寿を全うしたということ以外に二人に共通するものがあったら教えてください。

  • 大和朝廷の正式な廃止

    江戸幕府が徳川慶喜の大政奉還で廃止,解体されたわけですが,大和朝廷は正式に明治政府になったと考えてよいのでしょうか.大和朝廷の始まりの話はあるのですが,終わりに関する記述を見たことがありません.中学生のとき,社会の先生に聞いたのですが,「明治政府になったんだろうなぁ..」とのことで,よくわからないといっていました.ご存知のかた,いらっしゃいますか?

  • 江戸時代の「大名改易」

    「幕府は江戸時代を通じて、諸大名を一つでも減らすことを考え続けていた」という見方があります。 6代家宣以降(1709年以降)幕末までのおよそ160年間に改易された件数は、wikiの「改易」によればわずか19件です。 そこで質問ですが「諸大名を一つでも減らすことを考え続けていた」と言えますか。 幕府は、大名改易に関してどんな基本方針をもっていたのですか。 家宣以降は、将軍権力の改易・転封をちらつかせて大名を統制したというよりは、大名家をなんとか存続させてやろうと務めたと見る方がよいのではないかと思うのですが、如何ですか。 よろしくお願いします。

  • 闇にひそむ「朝廷の裏歴史」とは?

    日本史の教科書・参考書どれを見ても武士の時代(鎌倉・室町・戦国・江戸)は 朝廷・天皇家に関する記述が極めて少ないです。 「天皇家の家系図」を見ても、江戸時代の天皇は聞いた事のない名前ばっかりです。 武士の時代における実質的な政権は、朝廷ではなく幕府にあり、天皇は名目上の 最高位でありながら、陰の存在だったという点は理解しておりますが、この時代、 朝廷内ではどんな動きがあったのか気になります。 幕府では新井白石・徳川吉宗・田沼意次などが活躍している間に 朝廷ではひっそりと血みどろの権力争いが行なわれていたのかもしれません。 摂政・関白の座をめぐって、あるいは天皇の擁立をめぐって、五摂家が覇権争いを 演じていたのかもしれません。 「次の関白の座はわが近衛家の物ぞ。一条の手に穢されてなるものか」 「近衛の横暴極まれり。いざわれら一条家の再興を」 みたいな感じで、何か面白そうなストーリーが闇に潜んでいそうな気がします。 私は権力争いの話が大好物で、戦国時代の群雄割拠、現代史で言えば 戦後の政党・派閥抗争なんか面白いと思っているので、江戸時代の朝廷でも 権力争いでもあれば面白いかと思ってみました。 朝廷の権力闘争の歴史についてのサイトや書籍を御存知の方はいらっしゃいますか? また、この歴史について何か御存知の方は何でも教えて下さいませ。

  • 足利義満が・・・

    足利義満が室町幕府の歴代将軍で最高の権力をもてたわけって何なんですか?? お願いします!!