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将軍と幕府。

  • 質問No.9198815
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お礼率 16% (2/12)

かつて日本の武家政権での幕府は、鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府がありました。

今まで私は征夷大将軍=幕府だと思ってました。でも自分なりに調べたら必ずしもそうでないと分かりました。「幕府」という定義も曖昧だということも知りました。

昔、高校の図書室で漫画家の石森章太郎さん日本史の漫画を読みました。

その日本史の漫画では豊臣秀吉と福島正則との会話で関白任官しても幕府を創設することが出来ると言う発言がありました。
これは本当なのでしょうか?

幕府とは古代の中華王朝で皇帝が親征しない場合、代わりに将軍が戦場に行き、将軍が陣営を置いたことを幕府の由来のはずでした。

日本でも将軍でなくても、関白や太政大臣、摂政でも「幕府」を創設できますか?

あまり歴史の事を分かってない所もあるので(汗)

こんな矛盾な質問ですみませんが、歴史に詳しい方や、知ってる方の回答をお願いします。

質問者が選んだベストアンサー

  • 回答No.8
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ベストアンサー率 45% (416/918)

「征夷大将軍」の起源は、律令体制下の令外官として、延暦十年(791)に、大伴弟麻呂が「征夷大使」に任じられたことを嚆矢とします。
この頃は、中央政府である朝廷においては、陸奥国を根拠地とする蝦夷征討が大きな課題でした。
そのため、大伴弟麻呂が征夷大使に、また副使として坂上田村麻呂が任じられたものの、実際に征討軍と蝦夷軍が戦闘を交えたのは、3年後の延暦十三年(794)であり、この年に大伴弟麻呂は「征夷大将軍」に補任されました。
戦功をあげた弟麻呂は、翌年1月に京に凱旋。
坂上田村麻呂はこの際の武略が認められ、延暦十五年には陸奥・出羽按察使と陸奥守と鎮守将軍の3つの官職を兼任し、翌年征夷大将軍に任命されています。
田村麻呂は翌年以降、肝沢城・志波城・徳丹城などを築き、蝦夷地経営に力を発揮。
次いで延暦二十三年、田村麻呂は再び征夷大将軍に任じられ、第四次征討が計画されました。
この頃は征夷大将軍が臨時の官であったことが分かります。(実際には中止)

次に征夷大将軍に任じられたのが、文室綿麻呂。
当時、蝦夷の拠点となっていた爾薩体・閉伊の2村を討つことを献言し、弘仁二年(811)三月に征討命令が下され、四月に文室綿麻呂は征夷大将軍に任命されます。
奈良時代の末から約40年に渡って続けられた蝦夷征討はこれで終了。

その後400年近くは、新たに征夷大将軍が任命されることはありませんでした。

征夷大将軍の歴史の中で、重要な転機になったのが、源(木曽)義仲が任じられたという事実です。その後になる源頼朝の任将軍は、義仲が始めた新例を固定化したものとも見られます。
義仲自身は、半月ほどで敗死しますが征夷大将軍というものの存在意義の変化が内包されているからです。それは次の2点です。
(1)征夷大将軍は、「征夷」の名称に何ら関わりのない、天下の兵権を専らにする形式に転じたこと
(2)頼朝の征夷大将軍は、義仲のこの意図を受けて、彼自身には達成することができなかったことを達成したこと
古代以来の東夷征討の形式を借りて、新しい東夷である東国の敵を、朝敵・国家の敵として討つという考えが、征夷大将軍の復活につながったからです。
義仲の征夷大将軍は、古代の征夷・征東の形式に従って、現在の政敵・頼朝を朝敵として討つためのものであったからです。
つまり頼朝の征夷大将軍は、これを否定的に継承するものとも言えるのです。

征夷・征東の観念は、頼朝にとっては現実のものでした。
奥州・藤原秀衡は、陸奥守・鎮守府将軍の地位を獲得しており、頼朝がこれに優越しうる制度上の官職としては、征夷大将軍しかなかったのです。
奥州の武力征討を無条件に正当化する絶対的な公権になる上、秀衡が持つ奥州武門公権である鎮守府将軍に対する意味でも、征夷大将軍以上のものはないのです。

頼朝にとって「東国行政権」は、武家政権としての最初からの主張でした。
「鎌倉殿」としての立場を固めたのは、「東国主権者」としての武門の主張に基づいていたからです。
権大納言・右近衛大将・正二位も与えられたものの、これら都における朝廷秩序では飽き足らず、東国常任の武門支配権として、「征夷大将軍」を要求したのです。
その身が在京しないのに、軍職に任じられる先例は全く存在しなかったため、京から鎌倉に引き揚げる際に、これら役職は辞しています。
征夷・征東の名義と伝統は生きていましたが、東国支配権を白紙委任する辞令を勝ち取った点に、頼朝が征夷大将軍に任じられた画期的意味があったのです。
鎌倉幕府というものも、結局はこの「東国沙汰権」としての、関東武家支配を、その政治の根幹にして成立したわけです。
頼朝が朝廷から授けられた権力の中で、最も重要なものは、日本六十六ヵ国の総守護・総地頭に任ぜられたことによる、軍事警察権と租税徴収権でした。

ところで「幕府」の名称は、当初からあったものではありません。
「幕府」とは、武門の棟梁としての征夷大将軍が、頼朝以降その家政機関を政治機関として徐々に整備していったものであり、その政権の政庁を指すものです。
武家独立の公権が認められた結果として、発生したものであり、決してその名目を求めて、征夷大将軍が幕府を開いたものではありません。

鎌倉幕府は文字通り東国を拠点として、京の朝廷からは独立した武家政治を行ったのですが、これを先例として引き継いだのが、江戸幕府でした。
東国の江戸に拠点を置き、武家に対してだけではなく、朝廷の政治自体にも制約を加え、完全に形式的な存在にしてしまいました。
家康は、頼朝を最大の政治的指導者として仰いでいました。
彼は信長や秀吉のような廷臣武家の道を取らず、また室町幕府のような京公方の先例にも従わないで、江戸幕府としての将軍方式を躊躇なく決定したのは、頼朝の道・鎌倉幕府の範に従ったものでした。
都に組織された天皇の権威・公家の支配に対して、初めてこれらから独立するだけでなく、逆にこれらに優越する、東国の道理、武家の論理を主張したのです。

室町幕府は、京公方政府となることで、武家であるべきものを曖昧不純なものにしてしまい、目的なき融合が、武門政権であることの要求も責任も解消してしまいました。
いわばミイラ取りがミイラになり、武家の棟梁であり征夷大将軍であることが、単なる名目上のものに転落させてしまったわけです。

一方、公家の正義とその支配とを系統的に破壊し尽くし、日本史上、天皇政治・公家政治に制度的にも終止符を打ったのが江戸幕府の将軍政治だったのです。

以上のような歴史の流れの中で、征夷大将軍も幕府も変化し続けていたことを考慮すると、「幕府を開くことができるのは征夷大将軍だけ」「征夷大将軍になれば幕府を開ける」ということ自体が意味がないもののように思います。
あくまで過去の事例は、結果でしかない上に、わずか3例しかないのですから。
お礼コメント
srb68257

お礼率 16% (2/12)

回答ありがとうございます。

小学生や中学生の時には征夷大将軍=幕府という認識でした。
それに授業では1192 創ろう鎌倉幕府と言う語呂合わせもありました(笑)
今では1185年という説が有力なのですね。

頼朝は貴族色が強い平氏政権ではなく、当時の朝廷から嫌われてる(?)東国に拠点置いたのは意味があるのですね。

返信ありがとうございました。
投稿日時:2016/07/15 11:06

その他の回答 (全7件)

  • 回答No.7

ベストアンサー率 16% (1968/11714)

厳密に言うと別に征夷大将軍でなくても幕府は開ける
ただ 最初に幕府を開いた頼朝が征夷大将軍だったので
それに続いた足利 徳川も征夷大将軍になって幕府を開いただけです
様は「慣例に倣った」だけです

現実に豊臣秀吉は関白でしたが全国を治めて天下に号令を発しました
これも厳密に言えば「幕府」と言えます

ちなみに幕府とは「武家による政所」(武士が政治をおこなう中心地)の事ですから
大阪に秀吉が居れば豊臣幕府と言えたと思います
  • 回答No.6

ベストアンサー率 48% (4501/9349)

「幕府」という言葉が、武家政権を意味するようになったのは江戸中期以降のようです。
頼朝は「鎌倉幕府を開いたぞ」という意識は無かったはず。

征夷大将軍が特別なのは、遠隔地に行くので、いちいち中央の指示を待っていられないと言うことで、賞罰の権利を付与される(節刀を賜る)ということがあったためです。
  • 回答No.5

ベストアンサー率 41% (1101/2638)

他カテゴリのカテゴリマスター
>関白任官しても幕府を創設することが出来ると言う発言がありました。
>これは本当なのでしょうか?

残念ながら、間違いですね。
確かに、将軍に就任しなくても「天皇に代わって、政治を司る事」は可能です。
が、幕府は(その名の通り)「征夷大将軍が率いる武家政権や政庁」の事です。

>日本でも将軍でなくても、関白や太政大臣、摂政でも「幕府」を創設できますか?

先に書いた通り、幕府を創設する事は出来ません。
その代わり、摂関政治を行う事が出来ます。
例えば、平清盛は「太政大臣として、天皇に代わって政治」を行っていますよね。
清盛も、武将です。
平政権時代は、幕府と言わないで「摂関政治」です。

>矛盾な質問ですみませんが、歴史に詳しい方や、知ってる方の回答をお願いします。

日本史は、矛盾だらけです。
例えば、外国人に「将軍」を説明する時は一番苦労しますよね。
一般的に将軍は、軍隊の指揮官ですよね。マッカーサーも、将軍です。
日本の将軍の場合は、軍隊の司令官であるだけでなく「天皇に代わって、政治を行う」存在です。
徳川幕府では、将軍の事を「Tycoon of Japan」と訳して外交文書に記載しています。
  • 回答No.4

ベストアンサー率 19% (1835/9218)

歴史 カテゴリマスター
srb68257さん、こんばんは。


征夷大将軍に限らず、将軍には緊急の場合は天皇の命令を聞かないで処断する権限がありました。この権限が拡大して朝廷から独立した武士が中心となった幕府政権ができました。だから、源頼朝以来、武家の棟梁はこの役職に任じられるのを望んだのです。

日本でも将軍でなくても、関白や太政大臣、摂政でも「幕府」を創設できますか?
いくら身分が征夷大将軍より上でもこれらは朝廷の一朝臣にすぎません。だから開けないのです。ただし、大臣が兼任した場合はこの限りではないです。最も摂関の場合は天皇の補佐という役ですから、常時朝廷にいなければなりません。


その日本史の漫画では豊臣秀吉と福島正則との会話で関白任官しても幕府を創設することが出来ると言う発言がありました。
これは本当なのでしょうか?
例はありません。ただ、幕府が開ける場合、関白を退任してから征夷大将軍に任じられようとしたのでしょう。
  • 回答No.3

ベストアンサー率 36% (2266/6241)

>日本でも将軍でなくても、関白や太政大臣、摂政でも「幕府」を創設できますか?

幕府の定義が明確でないため何とも言えません。

一般的には、征夷大将軍の設置した政権が幕府ですので
関白や太政大臣では駄目です。
  • 回答No.2

ベストアンサー率 43% (7609/17468)

豊臣秀吉は、武家関白を世襲制にして、征夷大将軍に代わる「武家の棟梁」と位置づけ、公家と武士を一括して統率しようとしたので「幕府を開く必要が無かった筈」です。「幕府」は「武士しか統率できない」ですから。

詳しい事は「関白相論」や「 武家関白制」で調べてみると良いです。
  • 回答No.1

ベストアンサー率 21% (46/213)

征夷大将軍になっても、坂上田村麻呂のように幕府を開かなかった人もいますね
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