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伊勢盛時(後の北条早雲)の駿河下向

 伊勢盛時(後の北条早雲)は、駿河の今川家のお家騒動に際して、その解決のために駿河に行ったとのことですが、教えていただきたいのは、3点です。 (1)伊勢盛時の駿河下向は、当時の室町幕府の要職(奉公衆……将軍直属の軍事力で、武官官僚とも呼ぶべき存在であった。)という立場で、幕府の命を受けて仲裁に行ったのでしょうか???幕府の要職にあり、「幕府の命」を受けてということになれば、当時の室町幕府に、そのような権限なり、実力があったのだろうか???応仁の乱の頃で、幕府自体、権威を失っていたのでは??? (2)それとも早雲の妹が今川家に嫁いでいたようですが、妹からの要請があり、妹の子(龍王丸)を助けたいという個人的な理由から駿河に行ったと理解する方が自然でしょうか???  妹や甥を助けたいという「個人的な理由」からだとすると、結果は今川、北条ともに、その後、栄えましたが、当時の伊勢盛時に、今川家をまとめるような実力があったのだろうか??? という疑問が湧いてきます。それと、 (3)伊勢盛時は駿河下向に当たり、軍隊を引き連れて下向したのでしょうか???というのは、軍事力を背景にして、今川家のお家騒動を収めたのだろうか??? という疑問です。

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