• ベストアンサー

北条早雲の姓について

伊勢新九郎(早雲)がいつ、どんな理由から北条姓 を名乗ることになったか、サイトで調べましたが 良く解りません(一説には子供の代より名乗ったとでていましたが)、お解りの方よろしく!

  • 歴史
  • 回答数6
  • ありがとう数7

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.4

源平交代政権思想によるものです。早雲は堀越公方=足利氏=源氏を滅ぼし、子孫は関東を支配しました。それを正当化するため平氏を称すしたのです。その中でもかつて関東を支配していて、足利氏にとって代わられた北条氏を名乗ったのです。ただ、早雲ではなく氏綱以降が名乗ったということは、私も知りませんでした。

参考URL:
http://humanzu.hp.infoseek.co.jp/genron/genpei-koutai.html

その他の回答 (5)

回答No.6

資料が無くハッキリしていないのが本当の所です。 関東統治する上で、鎌倉時代の北条家の末裔と名乗った方が都合が良かったからと思います。 徳川家康は新田氏の末裔、源氏の血筋を名乗っていますが、先祖は乞食坊主で何者かはハッキリしていません。征夷大将軍になるにあたり、源氏の末裔でないと名乗れなかったので、新田庄に「得川(今の世良田)」という名前の土地があったのを見つけて、新田氏の末裔を名乗ったようですし。元々は徳川ではなく松平ですし。

tokimune
質問者

お礼

皆様にまとめてお礼します、ありがとうございました、この辺のことはハッキリしていないということですが、具体的な北条家をついで北条を名乗ったというより、北条を名乗ったほうが都合が良かったからと解釈したほうがよさそうですね、ご協力ありがとうございました。

  • 0721919
  • ベストアンサー率22% (2/9)
回答No.5

司馬遼太郎氏の「箱根の坂」という小説は、主人公が伊勢新九郎の物語です。 それに書いてあったと思うんですが、早雲が伊豆を占領した際に北条氏の末裔の屋敷に入ったため、伊豆の領民が「北条どの」と呼ぶようになったそうです。

回答No.3

手元に資料が無くうろ覚えなのですが、確か血縁関係は無いはず。 北条執権家の関東での評判の良さを利用したかったのではと思います。

noname#40123
noname#40123
回答No.2

先日、NHKの「その時歴史が動いた」で「北条早雲」の事を放送していました。 NHK その時歴史が動いた http://www.nhk.or.jp/sonotoki/ 番組紹介のところで書かれているのですが 早雲が生きていた時代は北条氏を名乗っていなかったそうで、二代氏綱の時から、北条と名乗っていたそうです。 生前は、伊勢と名乗っていたようです。 推測ですが、ちょうど知行地が、鎌倉幕府の執権の「北条家」と重なるところがあり、 それで二代氏綱候が「鎌倉幕府・執権の北条家の流れ」としたかったのかもしれないと思います。 正確なところはわかりませんが、戦国大名にはそのようなところがあったのでしょう。

tokimune
質問者

お礼

ありがとうございます、 2代目から名乗った北条は鎌倉の執権北条家と関係 があるのでしょうか? 後北条に詳しい方よろしく!

  • goo0203
  • ベストアンサー率33% (1/3)
回答No.1

自ら『北条早雲』を名乗ったことはないようですヨ。

参考URL:
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Kouen/9078/reki-ise.html
tokimune
質問者

お礼

早速の回答ありがとうございます。 子供の氏綱~氏康では正式に北条姓を名乗っていますね、この北条姓はどこから、何の理由で付いたのでしょうか?

関連するQ&A

  • 小田原北条氏の家紋

    北条早雲の父、伊勢盛定の肖像の衣装に三つ鱗の家紋が描かれていたので疑問におもったのですが … 小田原北条氏が鎌倉北条氏と同じ三つ鱗の家紋を使うようになったのは、いつのころからなのでしょうか?

  • 伊勢盛時(後の北条早雲)の駿河下向

     伊勢盛時(後の北条早雲)は、駿河の今川家のお家騒動に際して、その解決のために駿河に行ったとのことですが、教えていただきたいのは、3点です。 (1)伊勢盛時の駿河下向は、当時の室町幕府の要職(奉公衆……将軍直属の軍事力で、武官官僚とも呼ぶべき存在であった。)という立場で、幕府の命を受けて仲裁に行ったのでしょうか???幕府の要職にあり、「幕府の命」を受けてということになれば、当時の室町幕府に、そのような権限なり、実力があったのだろうか???応仁の乱の頃で、幕府自体、権威を失っていたのでは??? (2)それとも早雲の妹が今川家に嫁いでいたようですが、妹からの要請があり、妹の子(龍王丸)を助けたいという個人的な理由から駿河に行ったと理解する方が自然でしょうか???  妹や甥を助けたいという「個人的な理由」からだとすると、結果は今川、北条ともに、その後、栄えましたが、当時の伊勢盛時に、今川家をまとめるような実力があったのだろうか??? という疑問が湧いてきます。それと、 (3)伊勢盛時は駿河下向に当たり、軍隊を引き連れて下向したのでしょうか???というのは、軍事力を背景にして、今川家のお家騒動を収めたのだろうか??? という疑問です。

  • 北条早雲と斎藤道三

    これから、司馬遼太郎の「箱根の坂」と「国盗り物語」を読もうとしているのですが、どちらも長編で、途中で何が何だか分からなくなるのではないかと思い、事前の知識を得ておきたいと思い質問しました。 この二つの小説は、「下克上」の時代の幕開けを告げる北条早雲と斎藤道三の物語だと思うのですが、以下のことを教えて下さい。 (1) 小説を読む上で知っておいたほうが良い二人の共通点と相違点。 (2) この二人を知るための、他に推薦できるような小説。

  • 大河ドラマでなぜ北条早雲をやらないのか

    NHKの大河ドラマも最近は人材不足で主人公が次第に小物化。同じ人物を何回も取り上げたりNHKも苦労していますな。ところが、その一方で当然取り上げられてしかるべき人がずっと取り上げられないままになっていると思いませんか。偶然とは思えません。意識的に避けられているとしか思えません。そうです。いわずと知れた北条早雲です。どこの馬の骨ともしれない武士が流れてきて、謀略と戦争で関東の雄にのし上がって行くーこれくらい大河ドラマ向きの話があるでしょうか。主要な戦国大名でやっていないのはもう関東の北条と九州の島津くらいしかありません。あれだけ戦国時代が好きなのですから戦国時代を始めた北条早雲には戦国時代を終わらせた信長・秀吉・家康と同等の敬意が払われてしかるべきでしょう。「日本の歴史って戦国時代が大部分を占めているのですか?」って聞きたくなるくらい大河ドラマは戦国時代が好きですよね。早雲より優先度が低いと思われる人物も多数取り上げられています。山内一豊なんか大した仕事はしていないが世渡り上手、ゴマすり上手で出世ーある意味でサラリーマンの理想なんですかね。新島襄ならともかく、新島八重って誰?と言いたくなる様な新島八重とか、元寇だけしか見せ場のない北条時宗とか、山本勘介とか直江某とか黒田官兵衛とか人材不足のため最近ではトップではない人物も取り上げられています。それなのに全国に先駆けて戦国時代を開始した北条早雲を取り上げないのはどう考えてもオカシイ。冗談ではありません。大河で取り上げられれば観光客が押し寄せて大変な経済効果を生みます。小さな町小田原にとっては大きな違いです。「また今度もダメだったのか。」と小田原の人は落胆すると同時に「これだけ落選し続けるということは不運では済まされない。北条早雲をやらせないように何らかの力が働いているのではないか?」と疑問と怒りを感じ始めているのではないかと思います。地元だけではありません。北条早雲をやることは低視聴率と人材不足に苦しむNHKにとってもメリットがあるはず。それなのになぜ北条早雲をやらないのでしょう。おそらくNHKには「大河ドラマで北条早雲をやってくれ。」という声が殺到しているが、NHKはそれを握りつぶしていると想像されます。 北条早雲をやらない理由としては 1.NHKのお偉方の中に北条早雲を嫌いな人がいる 2.北条早雲の版権を持っている人が「NHKにはやらせん!!」と息巻いている などが考えられると思いますが、実際のところはどうなのでしょう。

  • 後北条氏の本当のお墓はどこにあるの、あったの?

    箱根の早雲寺に北条五代の墓と言うものがありますが、これは同寺が小田原合戦の際秀吉に焼かれてから、江戸時代に復興される際、北条氏の流れを受ける狭山藩北条家により建立されたとか。 では北条早雲や、氏綱、氏康の本当のお墓は、どこに、どのような規模で営まれたのでしょうか。多分秀吉に焼かれた際に破壊されてしまったのでしょうが、何か記録とか残っていないのでしょうか。 今後発掘調査などで発見される可能性、あるいはおおよその場所の見当くらいはついているのでしょうか。かつての広大な早雲寺境内も部分的に発掘調査されたことがあるんじゃないかと思うのですが、その辺情報を教えてください。

  • 「北条早雲」「聖徳太子」「任那日本府」は存在しなかった???

    1)「北条早雲」と呼ばれている人物 名字は伊勢、名は長氏、あるいは盛時、通称は新九郎。 号は早雲庵宗瑞。または伊勢宗瑞。 正式な名のりは、平長氏、あるいは平盛時。 北条氏を称したのは子の氏綱の時であるので 従って、「北条早雲」は存在しなかった。 2)「聖徳太子」とは呼ばれている人物 本名は厩戸皇子。 別名、豊聡耳・上宮王とも呼ばれた。 『古事記』では上宮之厩戸豊聡耳命と表記される。 『日本書紀』では厩戸皇子のほかに豊耳聡聖徳、豊聡耳法大王、法主王と表記されている。 聖徳太子という名は生前に用いられた名称ではなく、没後100年以上を経て成立した『懐風藻』にて初めて見られるものである。 従って、「聖徳太子」は存在しなかった。 3)「任那日本府」 『肥前風土記』(713年成立)松浦郡条に「任那日本府」が見え、 『日本書紀』(720年成立)崇神天皇条~天武天皇条に「任那日本府」が多く登場し、 『新撰姓氏録』(815年成立)に「任那」と見えている。 しかし、6世紀の正式な国名は「倭」であり「日本」ではなかった。 日本という国名が正式に用いられるのは、天武天皇の時代以降。 従って、「任那日本府」は存在しなかった。 以上の理屈により、現在は「北条早雲」「聖徳太子」「任那日本府」は歴史上存在しなかったという者がいます。 「北条早雲」と呼ばれている人物は歴史上存在しなかったのだから、伊勢宗瑞、あるいは平盛時と呼ぼうということです。 (韓国では「任那」の存在すら認めていませんが・・・) あなたは以上の理屈は正しいと思いますか? つまり「北条早雲」「聖徳太子」「任那日本府」は歴史上存在しなかったと思いますか?

  • 後北条氏の滅亡は、氏直の時代を読めず政治力不足?

    北条早雲以来、たった5代(早雲→氏綱→氏康→氏政→氏直)で、秀吉の小田原城攻めにより、孤立無援、同盟軍や和平の仲介の無いままに滅亡したのでしょうか? 何か北条氏直の時代感覚の無さや外交軽視と徳川家康の領地拡大への深謀術数(氏直は家康の娘・督姫の婿でもある)で上手く秀吉を焚き付け利用し、漁夫の利のごとく、北条氏を孤立化させ滅亡させた陰謀があったように思うのですが・・・ また、氏政・氏照兄弟の切腹、氏直の高野山への追放は厳し過ぎるように思うのですが・・・ 北条氏の滅亡この辺の事情や経緯、史実や諸説をお教え願えませんか?

  • 北条政子は源政子という名で呼ばれない理由?

    北条政子は源頼朝の妻となったのに、「源政子」と言われずに、「北条政子」と呼ばれるのはなぜなのか。 疑問1 この時代に妻となっても、夫の姓を名乗らないのが習慣であったのか。 疑問2 政子の手紙などには、署名を「源政子」としたものはないのか。また、「北条政子」としたものはあるのか。 疑問3 通称で言えば、細川ガラシャは夫の姓で呼ばれるが、これは、戦国時代へと時代が下り、習慣が変わったからなのか。あるいは、キリスト教徒という特殊な理由でなのか。

  • 大河ドラマの謎

    NHK大河ドラマ主人公の小物化は目を覆うばかりです。かっての主人公は信長とか秀吉とか天下人だったのに最近の主人公は大名の家臣。黒田官兵衛の最終回では家康が如水に「戦のない世を作ることを誓った」ということになっていますが、これって史実なんですか?(戦のある世にしたのはあんたたちじゃないのかいって言いたいですが)。小物に史実以上の働きをさせて取り繕っているような感じです。これはつまり文句なしに主人公にしたいような大物がいなくなっているということでしょう。深刻な人材難です!ところがその一方でとっくの昔に取り上げられてしかるべきある人物がずっとやらないままになっているという、とっても変な現象があります。その人物は  (1)戦国時代を切り拓き  (2)数多くのエピソードを残し  (3)関東を制覇した もう、お分かりですね。そうです。言わずと知れた北条早雲です。北条早雲くらい大河ドラマの主人公にふさわしい人はそういません。流浪の武士から身を起こし、八面六臂の活躍、瞬く間に関東を制覇(実際はそうでもないようですが)。何といっても戦国時代を切り拓いたのです。この北条早雲を差し置いて他の誰が出る権利があるのでしょうか。北条早雲より優先度の低い人も多数やってるのに、それなのに北条早雲の番が回ってくる気配が一向にありません。前回の質問では北条早雲より優先度が低いにもかかわらず出ている人の例として山内一豊、北条時宗、新島八重を挙げましたが、他にも優先度の低い人はいっぱいいると思います。秀吉に敵わないと見るやさっさと降参し、家康が天下を取りそうと見るやさっさと徳川に鞍替えー結局のところ強いものにへつらうばかりだった伊達政宗、大河ドラマの主人公にするにはあまりにもスケールの小さい赤穂浪士、いくら人を斬り殺しても歴史の中で何の役割も果たしていない宮本武蔵、鎖国という日本史上最大の愚策で日本の進歩を止めてしまった徳川家光、時代に逆行し陰惨なばかりの新撰組、家康に向かってこぶしを振り上げたはいいが、こぶしを下ろすのに困ってしまった直江兼次ー何だか歴史上の人物の悪口大会みたいですが、それに引きかえ「関東に独立国を作るという雄志を持ち、謀略を駆使して堀越御所、小田原城などを次々に乗っ取り、関東に覇を唱え、大河ドラマのために戦国時代を始めてくれた北条早雲」は最優先でやるべき人材であることは明らかではないでしょうか。もちろん、北条早雲も「国中が麻のように乱れ、親子兄弟が争い、強盗殺人放火やりたい放題の恐怖の時代にした張本人」という見方も可能です。しかし大河ドラマの制作陣はそんな戦国時代が大好きなのですからこのことは北条早雲をやる理由にこそなれ、やらない理由にはならないでしょう。早雲が戦国時代を始めてくれたおかげで?大河ドラマを作ることができるのですからNHKは早雲に感謝しても良いくらいだとさえ思います。このように北条早雲は  (1)大河ドラマのコンセプトにピッタリ  (2)知名度がある(前回の質問では「北条早雲て誰?」という回答もありましたが...)  (3)北条早雲以外にいい人材は乏しい  (4)NHKは早雲に恩義がある ということを考えれば早雲をやらないのはまったくおかしなことだと言わねばなりません。早雲をやらないで直江兼次をやるなんて早雲を故意に外しているとしか思えません。早雲のやっていることも実際には侵略やら、だまし討ちやらですが、「時代に逆行し陰惨なばかりの新撰組」などより夢があるような気がしませんか。大河ドラマのコンセプトを見ていると「北条早雲のためにある番組」と言っても過言ではないように思います。しかも早雲は単に大河ドラマの主人公に適任であるだけではありません。日本史は多士済々、主人公に適任の人材は早雲以外にもいっぱいいます(というようなことはなく、すでに人材が払底していることはこれまで見てきたとおりです)。北条早雲は単に適任であるだけではなく、早雲をやることはNHKの義務、責任です。そのわけをご説明しましょう。もし「大河ドラマ史観」なるものがあるとすればー日本の歴史は源平合戦に始まり、いきなり戦国時代に飛びます。そして戦国時代が日本史の大部分を占め、やっと江戸時代が始まったかと思うともう幕末です。こんなことになってしまった原因の一つは太平記物語と北条早雲という二大タブーがあったからです。この二つを放送できなかったために源平合戦と戦国時代の間をつなぐことができません。このままではまるで源義経が戦国時代を始めたみたいな、まるでおかしなことになってしまいます。「大河ドラマ史観」で日本史の重要人物を挙げると、鎌倉時代を始めた源頼朝、室町時代を始めた足利尊氏、戦国時代を始めた北条早雲、安土桃山を始めた信長と秀吉、江戸時代を始めた徳川家康、明治維新を始めた坂本龍馬となります。このうち頼朝、信長、秀吉、家康、竜馬は何回も出ているのに足利尊氏は1回だけ、早雲に至っては0回、というのは明らかに公平を欠いています。山本勘助や直江兼次、黒田官兵衛といった小物でさえ出場機会を与えられているのに、です。山本勘助と足利尊氏はともに出場回数1回ですが、勘助は尊氏と同程度の重要人物なんですか?いったい山本勘助が何時代を始めたというのでしょう。ましてや北条早雲は日本史の大部分を占める戦国時代の創始者ではありませんか(大河ドラマ史観では、の話です)。源平合戦と戦国時代の間の空白を埋め、戦国の始まりを説明することはNHKの義務です。戦国の始まりを説明するのに黒田官兵衛必要でしょうか?黒田なんかより早雲に御登場いただくことがNHKの喫緊の課題です!北条早雲は戦国時代の原点=大河ドラマの原点のはずではないでしょうか。 大河ドラマで北条早雲をやらないのがいかにおかしなことであり、NHKは故意に北条早雲を避けていることがご理解いただけたでしょうか。ここからがやっと本題です。太平記の場合には放送できない公式な理由がありました。北条早雲にはそんなものはないと思います。したがって北条早雲を放送できないのはNHKにとって公表できない、隠しておきたい裏事情があるのではないかと思われます。その裏事情とは何かというのが私の質問です。NHKが太平記と北条早雲を避けて日本人に間違った歴史観を植え付けた罪は大きいです。もっとも太平記の方は避けざるを得なかったわけですが、なぜ北条早雲を避ける必要fがあるのでしょう。乱世に彗星のごとく現れ、裸一貫から大国を築きレジェンドとなった北条早雲。本当はNHKも北条早雲をやりたくてやりたくてうずうずしているのではないかな。しかしある理由から北条早雲は大河ドラマにできない。その理由は太平記のように公表できるものではない。その理由はもっと問題にされても良いのではないかと思いました。前にも同じような質問をしたのですが、私の真意が伝わらなかったようなので再度質問させていtだきました。

  • 後北条氏と鎌倉について

    後北条氏の創始者と言えば伊勢宗瑞ですが、なぜ彼は本拠を鎌倉でなく小田原に定めたのでしょうか? 宗瑞の子氏綱の代から伊豆・相模(強いては鎌倉)の地に由緒ある名字“北条氏”を称しますが、その後の関東経略を進めて行く上での後北条家と鎌倉の関係、鎌倉の位置づけはどの様なものだったのでしょうか。 確かに戦国の世、要害堅固な小田原こそ居城に相応しいかも知れませんが、鎌倉も天然の堅固な地として有名ですよね。新しい城下町造りに鎌倉では古きしがらみが大きかったのでしょうか。はたまた滅ぼしたとは言え名族三浦一族の勢力圏として久しいからでしょうか。 関東制覇を目指す上で小田原では西に偏りすぎの感が否めません。西から大軍で攻められては伊豆の関を破られたら一撃?・・・・(現に天正18年には・・)