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関東管領・その2
前回、関東管領の初期の混乱について質問し、回答をいただきました。 今回、関東管領の行方について教えていただきたく再度質問させていただきます。 1・関東管領上杉氏を譲渡された謙信は死後、景勝には管領職を譲っていなかったのでしょうか?(つまり最後の関東管領は謙信?) 2・景勝が名乗っていないとして、織田家家臣、滝川一益が関東管領を名乗っていたというのは事実でしょうか?何かの本で読んだ記憶がありますが・・・ 3・信長が足利義昭を追放し、足利幕府終焉状態では公方の補佐である関東管領そのものが意味を成さないと思うのですが、その時点(義昭追放時)で関東管領を名乗っている家(氏)はありましたか? 以上よろしくお願いします。
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1400年代後半からの関東の勢力について。 そもそも関東管領とは、鎌倉(古河)公方の補佐として関東に下向したはず。複雑で判りにくいので当時の関東情勢を教えてください。 1・どのようなきっかけで鎌倉(古河)公方と関東管領は権力を争うはめになったのでしょうか? 2・幕府は混乱を収めるために、新たに堀越公方をたてていますが、最初から関東管領のような補佐を任命してはいなかったのでしょうか? 3・山内上杉家の方が扇谷上杉家からみて主筋であるのにこちらも関東管領家を名乗っています。これは自認するところから名乗っているのでしょうか?それとも公式に幕府から認められていたのですか?(関東管領は何人いても良かった?) よろしくお願いします。
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現在では、室町幕府の鎌倉公方は鎌倉府の長、関東管領はその補佐職として(実態はともかく)、用語が定義されていると思いますし、日本史の授業などでもそう教えています(少なくとも私はそう習いました)。 しかし、以前はその職名が一つずつずれて考えられていた節があります。 手元にある『日本史年表』(三省堂編修所編、三省堂、昭和39(1964)年2月10日3版発行)を見ると、 「1349(正平4)年、9月足利基氏関東管領となる」 「1405(応永12)年、10月上杉憲定、関東執事となる」 「1449(宝徳1)年、1月足利成氏関東管領となる」 「1466(文正1)年、6月関東執事上杉顕定、成氏を討つ」 などの記事が見られます。 同じ項目を『新日本史年表』(鳥海靖編、三省堂、1995年4月20日第1刷発行)で見ると、それぞれ、 「1349(正平4)年、9月足利基氏、鎌倉公方となる」 「1405(応永12)年、10月上杉憲定、関東管領となる」 「1449(宝徳元)年、1月足利成氏、鎌倉公方となる」 「1466(文正元)年、6月関東管領上杉顕定、成氏を討つ」 となっています。 ただ、 「1411(応永18)年、2月上杉氏憲、関東執事となる」 は両者に共通していました。 また、 「1455(康正元)年、6月成氏、古河による:古河公方」 「1457(長禄元)年、12月足利政知、伊豆堀越による:堀越公方」 の記述も共通しています。 30年の間に関東管領が鎌倉公方に、関東執事が関東管領に変わったようですが、これはなにかきっかけとなる史料の発見や学説の発表などがあったのでしょうか。それともただ三省堂編修所が取り違えていただけなのでしょうか。また、前者とした場合、修正されたのはいつ頃なのでしょうか。さらに、上杉氏憲の関東執事のみ元のままなのはなぜなのでしょうか。 いずれかのみとも回答いただける方がいらっしゃったならば、ぜひともご教授下さい。
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謙信の義理堅さは私の過去の質問でも皆様回答してくださいました。 彼の人の義理堅さから推測するにやはり自分の死後は景虎に家督と関東管領職を「返上」しようと考えていたのではないかと。 buchi-dog様の疑問からすると私の考えなど幼稚なものかもしれませんが、例えば本当に関東管領の地位が欲しければやはり憲政を殺さずに傀儡化し操る、または強要して地位を譲り受けるぐらいはしたのではないでしょうか。やはり何の興味も無かったのでしょうね。 また関東への足掛かりである上野を失ったことはやはり国自体の体力のこと、対武田への政治のことがあるとはいえ、関東管領なんて、と言う考えが景勝にあったのかもしれませんね。 2・一種の比喩と考えてください やはり司令官ですか。関東までチカラを伸ばす余地はなかったのなら関東管領は無理がありますね。 3・京を追われたとしても将軍職は剥奪されていなかった。関東管領もまだ健在でも、これはおっしゃるように筋が通りますね。 征夷大将軍は義昭没後、家康が宣下を受けるまで空白でしたし、このことでも良くわかりました。矛盾はありませんね。ただ実質権威はやはりなかったのですね。 いつも詳しい回答ありがとうございます。
補足
buchi-dog様、いつも私の乏しい知識を埋めてくださいまして感謝しております。