マタイ福音書16:19の解釈(ギリシア語に解決の鍵)
http://scripturetext.com/matthew/16-19.htm
マタイによる福音書のなかの16:19を読んでいて、どうしてドイツ語聖書の Eberfelder と Schlachter が "werden" を使用しているところを Luther の訳では "sollen" を使っているのかの理由をずっと考えています。
Eberfelder では "auf der Erde binden WIRST" "WIRD in den Himmeln gebunden sein," "WIRD in den Himmeln gelöst sein."のように "werden" を使っている一方、ルターでは "sollen" を使っています。つまり、Eberfelder では英語で言えば "will" を使っているのにルターでは "shall" を使っているのです。英語のバージョンにも "will" をあてているのもあれば "shall"を使っているのもあります。
一方、私の齧っているいくつかの言語ではすべて werden 、つまり単純未来で表現できているようです。つまり、ラテン語では未来完了、フランス語とスペイン語では単純未来です。
ほかの言語では区別しないのに、どうしてドイツ語と英語では "will" と "shall" を区別するのか悩みました。前者が「単純未来」で後者が「運命、摂理」を表す、ということまでは理解しています。どうもギリシア語の "future indicative" という用法に私の疑問に対する解答の鍵がありそうな気がします。
(1) εσται [simple indicative]
(2) δεδεμενον [perfect passive participle]
(3) λελυμενον [perfect passive participle]
(1)と(2)あるいは(1)と(3)の組み合わせが、「単純未来」とも「運命・摂理」とも解釈しうるようなニュアンスを帯びているのではないか、と推測しました。実際はどうなのでしょうか?
http://www-users.cs.york.ac.uk/~fisher/cgi-bin/gnt?id=01161929#h
お礼
あ、見透かされてますね!オメガ(!)が長母音とは、またひとつ知識が増えました。 君の瞳に乾杯!