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この詩の解釈

次の詩はどう解釈しますか?みなさんの御意見お待ちしています。 このもろい器を、あなたは何度も何度も空(から)にし、そしてまた新鮮ないのちを満たし続けられる。この葦笛を、あなたは丘や谷に携えていかれ、永遠に新しいメロディを吹き鳴らされた・・・・あなたの無限の贈り物は、私のとても小さな手にだけやってくる。時代は過ぎていくが、あなたは注ぎ続けられ、それでもなお満たすべき空きは残り続ける。    ――ラビンドラナート・タゴール「ギタンジャリ」より

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  • aster
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回答No.1

  最初の二行ほどを読むと、これは「ギータンジャリ」だと思いましたが、その通りです。 ここでの「貴方」は、神か、または神に匹敵する河・自然などだと思えます。 「このもろい器」というと、普通、人間の肉体を意味するはずです。あるいは人間の魂かも知れません。人のいのちは消えるが、神は不断にいのちを再び与えられる。または、魂に幾度も失意が訪れるが、それは神の命で、神は、魂を再び満たし甦らせてくれる、という意味にも読めます。 神は、自然を芸術と美と音楽で満たされ、どのような小さな場所でも、神の葦笛の音色の響かないところはない。神は、世界を美しく維持される。そして、そのような神の恵みを真に受け取ろうと、知ろうとすれば、それはささやかな、掌を開けば、そこに神の無限の恵みが宿る。 時代がいかに変化し、時が過ぎ去っても、神の恵みは、限りなく私たちに訪れ、私たちを慰め、生かしてくれる。それでもなお、人は不完全故に、満たされることはないが、神はそれでもなお、満たし続けてくれる。 私たちは、ささやかな小さな存在であるが、神は、その私たちに恵みを様々な形で与えて下さり、その恵みを知るには、心謙虚に小さな掌を差し出せば、そこに無限の恵みがあることが分かる。人は時代と共に、何時でも満たされない何かを持つが、神は無限の愛や恵みで、なお、美や慰めや命を注ぐことをやめない。 神は自然に内在し、いたる所、神の恵みに満ちている。そして喜びは、掌を差し出せば、そこにある。人間は満たされないものだとしても、神の無限の愛や恵みは、尽きることなく、自然に顕現している。 神の創造は常に新しく、私たちは、新しい私たち、新しい世界に生きる私たちを見いだす。万物は流転し、人は満たされないが、神は、生命を、美を、恵みを私たちや世界に注いで、無限に尽きることはない。  

masa1214
質問者

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