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死ぬ自由

haskap48の回答

  • haskap48
  • ベストアンサー率29% (27/92)
回答No.6

●論理的に考えた場合 質問者さんは、どういった形であれ他人の意思や自由を「奪う」行為に対して、社会的に、ある意味での窃盗罪(例えですが)は適用されないのか?ということをお聞きになりたいのですよね。 「生きたいと願う人を殺すこと=「命」を奪うこと」 「死にたいと願う人を生かすこと=「意思」や「自由」を奪うこと」 上記のように、意思や意思といった観念的なものと、絶対的な「命」をごっちゃにして考えているから、混乱するんじゃないでしょうか? これを同レベルで整理すると、 「生きたいと願う人を殺すこと=「命」を奪うこと」 「死にたいと願う人を生かすこと=「命」を与えること」 になります。 「命」の定義は人それぞれですが、基本的に命を「尊いもの」として考えるとします。 「許す」という言葉は「罪」に対して使う言葉です。 「尊いものを与えること」に、罪は適用されないと思います。 なので、基本的に「許される」のだと思います。 ●感情的に考えた場合 >他者がそれを奪うことに対して責任は負わないのか? 許されるのか? 「責任」とはどういうことでしょうか? たとえば自殺しかけたAさんに、「死ぬな」と言ったBさんは、その償いとして、刑期や罰金が科される必要があるのではないか?ということでしょうか。 もしそうだとしたら、キツイようですが、甘ったれるなと思ってしまいます。 本気で死ぬつもりなら、Bさんのいないところでひっそり死ぬこともできます。 Aさんは「Bさんのせいで自殺できなかった」と言うかもしれませんが、生きることを決めたのは、他ならぬAさん自身なのです。 それを人のせいにするのは、恥ずかしいなぁ、情けないなぁと思います。 なので、Bさんは「許される」と思います。

noname#32404
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >●論理的に考えた場合 命がなければ思考も意思もない、つまり「意思」<「命」という不等式が成立して同列ではないということですよね。それは理解できますが「命」≒「尊いもの」という考えを、すべての人が持っているとは限りません。その時に「あなたの考えは間違っているから(強制的に)なおしてあげる」というのは、傲慢な気がするんです。 「許す」という言葉は適切ではなかったかもしれません。しかし、そこには責任があるんじゃないんでしょうか。「良いことをしたんだから、責任も何もなくただ感謝されるだけ」と考えるのはやはり傲慢な気がします。そこに何の躊躇も疑問も持たないことに違和感を感じます。 人はそれぞれ考えを持っていますし、持つも持たないも自由です。しかし国で生活する以上その国の法律は守らなければなりません。それに社会で生きていく以上その社会の共通価値観を共有しなければ生活できません。それは宗教という形で存在しているのかもしれないし、習慣という形で存在しているのかもしれないし、それ以外の形もあります。社会とはそういうものだと思っています。ですが、共通価値観として存在している「命は尊いもの」という価値観を共有できない人がいたとして、その人が死を選んだときにそれを止める事はできるんでしょうか。そこに誰も躊躇や疑問を持たない(ように見える)んですが、それに違和感を感じます。 >●感情的に考えた場合 確かに本気で死ぬつもりならひっそりと一人で死ねば良いし、そういう場合は止めてほしいという気持ちがあるので、むしろそれを汲んで止めてあげる優しさが必要かもしれません。そういうケースは私が疑問に感じている意思とか自由は無い気がします。 責任とは具体的に何か・・・わかりません。それを探したい訳でもありません。なんていうか何も考えずその意思を無視していいんだろうか? と疑問を感じるんです。

noname#32404
質問者

補足

別のタイトルを考えるべきだったと反省しています。あと改めて自分の表現力のなさに気づかされました。 私は自殺を肯定している訳ではありません。それに自殺者を引き止めた人を責めるつもりも全くありません。それが正しいということを、宗教や法律を超えて確認したかったんです。

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