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バターン死の行進について

  • 質問No.2826410
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お礼率 0% (5/506)

バターン死の行進とはアメリカ軍の捕虜を遠くの捕虜収容所まで歩かせその結果多くの米兵が死んだ事件です。これは戦争犯罪と言われていますが、捕虜を収容所まで歩かせるのは普通ではないでしょうか。8万もの捕虜を収容所まで車等で送るのは当時、機械化が進んでいた米軍でも無理ではないでしょうか?ましてや機械化が遅れていた日本軍ならなおさらです。しかも日本軍は鉄道があるところでは鉄道を使ったといいます。護衛の日本軍も歩いて護衛したらしいのですが、日本軍は、銃などの荷物を持っています。丸裸の米兵より過酷なはずです。さらに収容所までの道のりで十分な水を与えなかったといわれていますが、護衛の日本軍も多くがこの行進で死んでいます。(生きて虜囚の辱めを受けず)がモットーの日本軍が予想を大きく上回る8万もの捕虜をえたとき水が少ないジャングルで8万人の水を確保するのは無理なんじゃないでしょうか。

結論としては、8万人の捕虜を得たときそれを収容所まで歩かせるのは、そのままそこで殺したりするよりはよっぽど人道的だと思うのですが、なぜこれが戦争犯罪なのですか。

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  • 回答No.3
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ベストアンサー率 42% (757/1772)

1942年当時のアメリカ人は、今の日本人と同じように「歩くのは自分で希望する場合。遠くに行くのや重いものを運ぶには動力車両(自動車、列車)を使う」のが常識でした。米陸軍も当然その常識に則って運営されていました。今の陸上自衛隊も同じで、通常は、陸自隊員は車両に乗って移動します。レンジャー訓練で、30キロを重装備を負って走破したりするそうですが、それはあくまで「訓練」です。

一方、昭和17年当時の日本人一般はともかく、日本陸軍は「どこにでも歩いていくのが基本。荷物は本人が担ぐか馬などの駄獣で運ぶ」のが常識でした。実際、中国大陸を南北に歩いて満洲から香港まで移動した、なんていう体験談も聞いております。日本陸軍ではそれが普通でした。先ほど「今の陸自では、レンジャー訓練で30キロの道を重荷を背負って走破」と言いましたが、戦前の陸軍では
「30キロ以上の装備を背負って、足に合わない軍靴を履いて行軍する。1時間に10分の休憩を込みで時速6キロで行軍する『6キロ行軍』では、『30キロの重荷を背負ってのマラソン』であり、一回の行軍で半数が倒れることもあった。足には大きな血豆ができているのが当然、針を刺し、タバコの灰を擦り付けて『治療』した」
のが「普通」でした。今の自衛隊のレンジャー訓練が日常繰り返されていたようなものです。成人男子の平均身長が150センチ台、今よりずっと小さかった当時の日本人に何でそんなことができたのか、正直私には全く理解できません。日本陸軍の兵士になるくらいなら自決しますね。私なら。
# 上記は歩兵部隊の話で、重機関銃や山砲を担ぐ兵はもっと辛い目に遭いました。想像もしたくありません。

この「どこにでも歩いていくのが基本」と言う日本陸軍の常識を「クルマに乗って移動するのが基本」の米軍捕虜に当てはめたからたまりません。護送の日本兵から見れば「何も持たずに歩いてるんだから楽だろう」と思えるわけですが、米兵から見れば「地獄の責め苦」です。

「バターン死の行進」は約70キロだそうですが、70キロというと東京から小田原くらいでしょうか。この距離を
「8月の一番暑い時期、時々激しい雨(スコール)が降るが雨宿りせず歩き続ける」
「未舗装路。ズック靴でも履いた足は泥水で容赦なく濡れるが、乾かすことはできない」
「食料と水は僅か」
「地面に横たわっての休憩のみ。宿泊などはない。」
条件で歩かされたらどうですか?21世紀の日本人である私ですと、途中で落伍しそうな感じがします。当時の日本兵からは笑われるかもしれませんが。

というわけで、日本軍の実情など一切顧慮しない米軍軍事法廷により、「バターン死の行進」が「捕虜虐待行為」と認定されたわけです。

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  • 回答No.9

ベストアンサー率 35% (687/1961)

 参考までに。

 日米の攻守が所を変える転換点となった昭和17年頃は、戦線の状況について大本営陸海軍部は日本国内に戦況情報が漏れないように情報操作・検閲をかなり徹底して行っていました。

 しかし、私の伯父が出征し戦死した昭和19年頃には、軍がいくら情報隠蔽を行っても国民には状況がかなりわかっていました。
 敵軍撃破の新聞記事はほとんど信じていなかったし、細かい状況の書かれていない手紙は、苦難を意味しているとはっきり認識していました。

 私の父の兄弟は7人、母の兄弟は8人で(15人の内、3人が戦没。)、従兄弟はそれぞれ50人以上いました。(百人以上の従兄弟の内、10人以上が戦没しています。)

 従兄弟の中には、職業軍人であった人や軍属・輸送船の乗組員(この人は二度撃沈され、生還しています。)であった人もいました。(決して特殊な家族構成ではなく、当時の一般的家族構成です。)
 ですから、国内で食料が配給になったり、学徒動員がなされるころには、国民にもほぼ戦地の状況がわかっていて、祖父は祖母に「伯父(の戦死)を覚悟して送り出すように。」と言ったことを母から聞きました。結局フィリピン近海で輸送船が撃沈されて死にました。
 送り出す方のおば達の話を聞いた感じでは、どちらにせよ本土決戦となって、1億総玉砕だから早いか遅いかの違いだという気持ちであったそうです。

蛇足:
 身長175センチ、体重75キロあった父は、重機関銃の担当で3人一組でそれぞれ50キロ以上の機関銃部品を持って歩いたそうです。(ロシア国境にいて、移動があまりなかったので戦争中は比較的楽であったそうですが、終戦後シベリアに抑留され、何度も死ぬような思いをしたそうです。)
 
 インパール作戦に参加し生還した伯父は温厚な紳士でしたが、インパール作戦について法事で甥・姪が集まったときに聞いたところ、「陸軍の馬鹿が・・・」と吐き捨てるように言ったきり、何も詳しいことは喋りませんでした。
 おばによると、伯父は現役召集であったため、同じ部隊に小学校の同級生が何人か居て、彼らの餓死を見取ったそうです。

 新聞にあったある人の「父の怖い話」
>>父は船乗りで、戦争中は兵員の輸送船に乗っていた。船倉を何段にも仕切って、兵士をぎっしりと乗せていく。だが、5回出撃して5回ともアメリカ軍の潜水艦に撃沈された。
 護衛艦が台湾あたりまでは一緒に航行してくれるのだが、制海権の外へ出ると、つまり本当に危険な海域に出てしまうと損失を恐れて帰ってしまったというのである。
 無論、護衛艦に見放されると、船乗り達はもう先が読めるので、身軽になって覚悟をする。ところが船倉の兵士達は攻撃に備えて装備を固めようとするのである。
「そんなことをしていては、船と一緒に沈んでしまう。銃も弾も捨ててしまえ。」と船乗り達は盛んに言うが、兵士達は頑として首を振る。
「お国から賜った銃である。捨てるなんてもってのほかだ。」
 兵士達はなおのこと力をこめて銃を抱き、ゲートルをきつく巻き直したというのである。そして船はいつも二発の魚雷で夜の海に沈められた。船倉の兵士たちは一発の弾丸を打つこともなく海の底へ沈んでいった。
 そのような戦死を遂げた兵士達が南方への航路に沿って、おびただしく眠っている。<<

 合掌。
  • 回答No.8

ベストアンサー率 42% (757/1772)

No3の者ですが、No6さんのご回答に補足させて頂きます。なお、「ガダルカナルやインパールの戦闘は、仮に米軍であれば責任者が軍法会議にかけられるべき『日本軍による日本兵の殺害』である」と言うご意見には同感です。

「餓死が待っているような戦場に親族を送り出した、一般の日本国民の意識も異常となっていたように思います」

内地の家族に、自分の身内がどこでどのようにしているのかは一切知らされません。戦死した場合に、戦死公報と言う形で伝えられるだけでした。それもしばしば遅延や漏れがありました。

昭和17年の時点で、太平洋戦線の少なくとも3つの戦場では飢餓が発生していました。

1. アリューシャンのアッツ、キスカ。占領早々に米軍の封鎖が始まり、餓死者こそ出たと記録されていませんが、多くの輸送船がアッツやキスカの近海で沈められ、守備隊は2分の1、3分の1の減食を強いられました。アッツ玉砕から奇跡的に生還した兵士の手記では「上陸の直後から米軍の空襲に曝され、まともな兵舎は最後まで作れなかった。補給はほとんどなく、まともに食ったこともなかった」と記されています。

2. ニューギニアのポートモレスビー攻略を目指した南海支隊。昭和18年に入り、この部隊の生き残りはブナ周辺で玉砕します。

3. ガダルカナルの将兵。

日本にいる家族は誰も
「自分の夫や父や息子が補給を絶たれた島で餓死しつつある」
なんて知りえません。どこで戦っているのかも、通常は知ることができませんでした。兵士が家族に居場所を知らせようとすれば、軍事郵便のハガキに検閲を潜り抜ける形で書くしかありませんでしたが、そんな兵士は普通いません。下手すればスパイとして摘発され、軍法会議ですから。

さらに、日本陸軍の兵士は、「召集解除」や「帰省休暇」なんてことはありません。中には、支那事変(昭和12年)の最中に召集されて、昭和20年まで家に戻れなかった兵隊さんもいたくらいです。米軍では一定期間前線に出れば一定期間は後方での休養、慰労休暇を与えられましたが、日本陸軍の常識にそんなものはありません。「動員されて戦地に出れば、戦争が終わるまで生きては内地に戻れない」のです。

#日本海軍の場合、軍艦が内地に戻った際はある程度帰省が許され、戦争の実情が家族に漏れることがあったようです。

ガダルカナル戦の後も、生き残りの将兵は、例えば仙台の第二師団は内地には戻らずにマレー方面に駐屯、次いでビルマに転戦します。

第2師団
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC2%E5%B8%AB%E5%9B%A3_(%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%BB%8D)

ガダルカナルで生き残った第二師団将兵で、その後のビルマでの悲惨な戦闘をさらに生き残った人は実在したようですが、家族がガダルやビルマの悲惨な飢餓、米英軍との絶望的な戦闘の様子を知ったのはあくまで戦後のことです。軍事郵便では「自分が生きている」ことしか伝えられず、本人が帰省して自分の口で話すことは論外なのですから当たり前です。

なお、戦闘を重ねれば兵士は死傷して、あるいは病気で減って行きます。ですので、上記の第二師団の場合は、支那事変以来常に外地を転戦し、確か「数十回」の補充を受けています。死んだり重傷で戦えなくなった兵士の補充は常に内地から戦地の一方通行ですが、重傷で召集解除となって戦争継続中に内地に戻れた兵士がどのくらいいたのかどうか?この辺は識者の方にお願いします。軍隊での重傷とは「四肢を一本以上失う、両目の視力を失う」というくらいのものです。
  • 回答No.7

ベストアンサー率 29% (35/120)

死の行進が原因で死亡した捕虜は全体の3%(8万人中2300名)で2万数千名は行進中に逃亡したといわれています。
2300人が多いか少ないかは置いといて、
日本軍監理下の捕虜が死んだのですから、理由はどうであれ、その責任は負わなければなりません。
こうするより方法は無かった、といった類は、死んだ人間から見れば正当な理由とはいえません。
  • 回答No.6

ベストアンサー率 35% (687/1961)

 No1.3の方の回答が最も適当ではないかと思います。

 日本は、第1次世界大戦でドイツ・オーストリアと戦い、これらの国の捕虜4700名ほどが日本の捕虜収容所で暮らしました。
 それぞれ断片的ですが、以下のサイトに記された参考サイトなども訪れて見れば、大体全体像がつかめると思います。

 ​http://www.geocities.jp/kraumjp/reisenaruto2newpage7.html
 ​http://www.city.kasai.hyogo.jp/02kank/08sisi/huryo.htm
 ​http://homepage3.nifty.com/akagaki/furyo.html

 人道的に扱われましたし、後に日本に帰化した人もいたくらいです。

 これが、第二次世界大戦では一変します。

 アメリカと開戦した時点で、中国戦線が既に泥沼化し、前線へ補給物資が届きにくくなり、食料の現地調達はかなり一般化していました。この頃既に前線では日本軍の「捕虜の保護」は、実際上かなり困難になっていました。(普通の国の軍隊なら、この段階で撤退するわけです。)

 しかし、そのまま国力の限界を超えて戦争の継続をし、人道的配慮をすることができなくなり、そのうち人道的配慮をしないのが普通となってしまった結果、当時の日本軍の基本的考え方・処置が、「当時の国際的基準から見て異常である」という状況が恒常化してしまいました。
 
 更に戦況が悪化してから日本軍の行ったインパール作戦やガダルカナル島攻防戦(餓島と言われました。)などは、被害者が日本軍であったために人道問題になっていませんが、異常そのものの作戦です。
 こんな作戦がアメリカで立られ実行されたとしたら、作戦指導した者は軍法会議で確実に責任を取らされ、餓死者に対しては一般の戦死者の遺族年金だけでは済まず、慰謝料請求の裁判沙汰となるはずです。
 餓死が待っているような戦場に親族を送り出した、一般の日本国民の意識も異常となっていたように思います。

 インパール作戦では、徒歩主体の日本軍の進行速度を早くするために携帯する食料は5日分とし、その後の食料はイギリス・アメリカの中国援助ルートの拠点であったインパールを占領しているから、多量の物資が手に入り問題ないとの計画でした。(もちろん、インパールは占領できませんでした。)

 このインパール作戦の立案をした参謀は、ノモンハン事件(当時、小競り合いという印象を与えようとして事件という名前をつけたようですが、立派な対ソ連戦争です。日本軍の機械化・機動力・補給能力の不足を露呈した戦いでしたが、その後の戦争に生かされることはありませんでした。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2658227.html )で関東軍参謀として作戦計画を作成しました。

 アメリカの行った日本国内に対する無差別爆撃・原爆投下も明らかに戦争犯罪です。(無差別爆撃は、日本が中国の重慶に先に行っています。アメリカが、日本に対して無差別爆撃を行っていなかったとしたら、重慶爆撃も南京大虐殺と同じように問題化したでしょうね。)
 戦争の後半には、アメリカも長期にわたる総力戦と戦死者の増加で経済的・精神的余力がなくなってきて、異常が目立つようになります。
  • 回答No.5

ベストアンサー率 19% (63/324)

もう一つの問題としてバターン半島にいた米軍は既に5ヶ月も籠城しており、当たり前の話ですが大半の兵士が疲労困憊し、食料も欠乏し、マラリアにかかっていたものも大勢いたことがあげられます。
このため犠牲が大きくなってしまったわけですね。
とは言え行進をさせなければ、当然ながら犠牲者は更に大きくなっていたわけですから、勝者の言いがかりなのは確かでしょう。
  • 回答No.4

ベストアンサー率 37% (173/457)

「8万人の捕虜を・・・そこで殺したりするよりはよっぽど人間的だと思う」
恐ろしい考えですね。
「人間的」と言うのであれば、過酷な条件で行進させ、多数の捕虜を死なせてしまったことを、率直に反省するのが良いと思います。
  • 回答No.2

ベストアンサー率 14% (73/504)

アメリカが戦勝国で、日本人が黄色人種だからですね。
  • 回答No.1

ベストアンサー率 23% (194/809)

そういう考え方もあるらしいね。

捕虜を収容する余裕がないような国家が戦争なんかやるな、ってことなんだろうね。
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