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55年体制までの経過
1955年に社会党が統一されますよね?その理由ってのは鳩山一郎首相が改憲を主張していたため、憲法改正に必要な衆議院の2/3の議席数を他の勢力に確保させないために、左右社会党が統一されたのですか?また、その保守合同がおきたのはなぜですか?多少難しくてもかまわないので、教えてください。
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まず、議会制度のもとでは、政党は何よりも少数よりも多数党であることが有利であることはいうまでもありません。また代議員は選挙のための資金や支援組織が強力であるに越したことはありません。 日本社会党は、1945年(昭20)の創立当初より様々な派閥の寄り集まりでしたから、はやくも47年の社会党内閣成立ごろから左右の党内闘争による両派分裂が表面化しました。そして、51年のサンフランシスコ講和条約に対する評価をめぐり組織としても分裂するにいたったのでした。 さて、左派は労農派マルクス主義を標榜する「革命派」で、ソ連一辺倒、当時の社会的風潮や労組組織をバックアップにして支持を拡大しました。いっぽう右派は、対ソ連不信であり、議会制度によって多数を占めようとする穏健指向でしたが、組織基盤は脆弱でした。 この対立は、53年当のソ連がスターリン死去をきっかけに東西冷戦緩和政策に転じたことで、日本国内でも左右の対立する根拠が薄れ、たがいの折衝工作によって合同を見るにいたったのです。 また、当時の鳩山内閣が進めようとしていた日ソ国交回復交渉を政党として支援するため、団結する必要があったことも一因でした。もちろん右派のなかには左派主導の日ソ国交回復交渉には嫌悪感を抱く者もあったでしょうが、最初に書いたように政党人であるには強力な資金や支援基盤がなければ当選できない現実もありますから当時は大勢についた、ということです。 しかし、ご承知のように僅か数年で、社会党は再び分裂して右派は民社党を結成することになります。 55年当時の左派政党に興味がおありなら、小島亮『ハンガリー事件と日本 一九五六年・思想史的考察』中公新書 をお勧めします。