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「自分を愛す」ってどういうことだと思いますか?

starfloraの回答

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  • starflora
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回答No.12

    わたしが出てくることでもないのですが(わたしは恋愛カテゴリーには、基本的に回答しません。それは、このカテゴリーの質問は、「質問」の形を一見取っていても、実は「答え」をすでに当人が知っていて、他の人に、「そうです」と言って欲しいがために、質問していることが大部分だからです。恋愛相談で質問する人は、答えをすでに持っているのです)。     >「自分を愛する」ってどういうことですか?     人は、どのような人でも、「基本的に」自分を「愛しています」。それが分かるのは、次のように考えると明確でしょう。「私は自分が嫌い。私は、あんな風だったらいいのに、自分を愛することができるのに、って思います」という表現を考えてください。     この「私」を他者に置き換えて見るのです。「私は、あの人が嫌い。あんな人とは、もう本当に会いたくない……(そして、本当にどうでもよいので忘れる)。私はあの人が嫌い。ここがいやで、あそこもいや。せめて、ここはこうなって欲しい、あそこはこうあって欲しい」     ここで、「ああいう人は嫌い」の場合、本当に嫌いだと、それで終わりです。忘れてしまい。思い出しても、「ああ、あんな嫌いな、どうでもいい人もいたなあ」です。それに対し、「あの人がこうであったらいいのに」というのは、仕事上の関係等で、どうしても関係しなければならない場合は、「必要上で、要請」しているのですが、別に、自分の自由で、いつでも分かれることのできる相手に対し、そう思う場合は、実は、相手に何かの未練や、もっと正確に言えば、「価値」を置いているのです。価値があるので、もっと望ましい人だったら、と思うのです。     これを自分自身への評価に戻すと、「私は、こうだっらもっといいのに、と思い、いまの自分を愛することができません」という時、何故、「こうだっらいいのに」と思うのかです。また、「私は自分が嫌い」というのは、本当に嫌いな場合、「自殺」とかします。自分をこの世から消し去るのです。こういう理由で自殺する人は多くいるのですが、その人たちは、おそらく、自殺した後(というのは変ですが)、結局、後悔していると思います。     これは、どういうことかと言うと、人は、基本的に「自分を限りなく愛している」のです。愛しているからこそ、真剣に自己嫌悪になるのですし、こうであったらいいのにと切実に思うのです。どうでもよい通りすがりの他人について、決して、こういう感情は起こりません。人は、根本的に自己を愛しているのです。     仏教では、この「自己愛」を「執着心」のように言って、それを克服するのが悟りの道だという風に通俗的に理解するのですが、実は間違っているのです。     >「自分を愛する」ってどういうことですか?   >「自分を愛する」ために、どうすればいいのでしょう?       ここで言っている「自分を愛する」というのは、根元的な自己への愛以外の何かを語っているというか、念頭しているのです。     宗教的には、すべての人が根柢的に「わたしと同じである」、「わたしを愛するとは、すべての他者を愛するのと本質的に同じ事だ」という真理の認識になるのですが、こういう認識は、精神異常者か、聖なる人、例えば、イエズスとか、名も知れぬ、無名の聖なる人以外には、なかなかなれません。神秘体験をしても、そこから、普遍の愛の認識に進む人もいますが、神秘体験を自己のナルシシズムの根拠にしてしまう人が大部分です。     ナルシシズムは否定されることではありません。否定されるべきなのは、ナルシシズムしかないのに、普遍愛をわたしは知っているとか、普遍愛を悟ったとか、勘違いすること、自己傲慢に陥ることです。AUM真理教の教祖が、この典型だったでしょう。     人は誰でも、どんなに社会的に認められていない人でも、どんなに異性に相手にされない、容貌のよくない人でも、自分を根元的に愛しています。自分が美しくなく、誰も相手にしてくれないので自殺する、という時、この人の「自己愛」は、自己を滅ぼすほどに強かったのだということを逆に示しているのです。自分を限りなく愛するからこそ、自殺できるのです。     それぞれの人が、このような限りない自己愛を持っているのです。そこで人間と人間の関係において、特に、何ゆえ、この人と恋愛関係にあらねばならないのかというような、自己の意志や好みで、どうとでもなるような関係の場合、それぞれの「自己愛」が露呈してくるのです。すると、エヴァンゲリオンの「はりねずみのディレンマ」ではありませんが(これは、エヴァンゲリオンが典拠ではなく、心理療法などの通常の比喩です)、互いにもっと近寄りたいが、近寄ると、互いの自己愛があって、相手を拒否するので、それが互いに痛いので、また離れるということになります。     他者との自由な関係では、「自己愛」があるが故に、他者との関係がうまく行かないということが起こるのです。     >「自分を愛する」ってどういうことですか?   >「自分を愛する」ために、どうすればいいのでしょう?     ここでいう「自分を愛する」というのは、他者への愛・配慮を、自分自身への愛・配慮より優先しつつ、自分自身を愛する・配慮するとは、どういうことか、という問いです。これは、形から見て分かるように、ディレンマになっているのです。「自分を愛する」ことに焦点を置くと、他者を本当に愛していないことになり、自己執着で、エゴイズムだと思ってしまうし、他者を本当に愛したいと思うと、すべてを他者に委ねることのできない自分を見いだし、私は、利己主義だとなるのです。      答えは、「自分自身に自信や余裕があること」になります。「自信」よりも「余裕」の方が重要です。「余裕」というのは、「自分のなかに、他者をどれだけ住まわすことができるか」という余裕です。同棲しても、相手を心のなかに住まわせていないと、一緒の場所に住んでいても、簡単にエゴが衝突すると喧嘩別れになります。社会的に別れられない状況で、仕方なく一緒に生活していると、段々相手の「エゴ」や「ナルシシズム」が分かってきて、なるほど、この人はこういう人なのか、という理解ができると、そういう人の「エゴ・わがまま」なら、寛容に受け入れて挙げよう、認めてあげようという心理になった時、実は、そういうエゴを持つ他者を自分の心に住まわせたことになるのです。     互いに相手を自分の心に住まわせることができたので、恋愛は終わっても、友情は続いて行くという場合が、相手を自分の心に住まわせるということの例になります。     相手が自分をどう評価してくれるのか、まず、他者の評価に関係なく、自信を持って他者と関係を結びたい、交際したい、そのためには、自分に自信を持つ、自分をまず愛することだということから、質問が起こっているのですが、「相手の評価が気になる」ということは、実は、「相手の評価は相手のものであって、自分ではどうしようもないのだ」という真理の自覚がたりないのだとも云えます。     あるいは、相手の評価、他者の評価は、自分がどう願い、どう努力しようと、相手次第であるという真理を認めたくないという心があるのです。「自分を対人関係のなかで真に愛する」とは、他者の心は自分の自由にはならないという真理を知って、相手の評価や反応はともかく、わたしはわたしの思いで行動し、その結果、相手が自分を認めてくれなかったとしても、それでいいではないかという「心の余裕」の構成になるのです。     「自分を愛するようになるにはどうすればよいか」は、「多くの他者を自分の心に住まわせることのできる心の余裕」を、どうやって築くかです。貴方は、何人かの母である訳で、自分の子ども達は、「自分の心に住まわせている」のです。     色々書きましたが、わたしの人生の経験から出てくることは、人は、或る他者に対し「誠実」であれば、その他者が、「心ある人」であれば、貴方の「心の誠実さ」は、その人に伝わるということです。すべての他者が心ある人ではないし、人それぞれ、自分の心に住まわせる人の数には限界があります。貴方をその心に住まわせてくれない人は、どうしても、どうもならないのです。     悟ったようなことを書きましたが、人と人の関係は「心の出会い」に究極的にはなるということです。意識して相手に配慮するのは大いにいいことです。外見的にも人間の角が取れてきますし、最初は、外見でほとんどの人間は判断するので、これは配慮して、損ではないと思います。しかし、配慮の見返りは期待しても、仕方ないというのもあります。他者の心は他者のもので、貴方の自由にならないからです。     他者の反応に関係なく、無私で相手に配慮するというのも崇高ですが、結婚詐欺に陥った人は、実はそういう心理になっています(正確には、「自己愛」を計算の上で肯定してくれた相手を失うと、自己が「無価値」となるので、必死になるのです)。相手の「心に誠意」がなければ、自分が幾ら誠実でも意味がないのです。     努力していれば、カイロス(幸運)が、微笑するというのが、この世の法則です。努力しなくとも、カイロスの微笑はありますが、努力しないよりした方が、カイロスの微笑は多くなり、また、本当に重要なカイロスは、努力すると訪れます。     すでに、生きてきた経験の豊富な貴方に、わたしのような者が何を云えるのか、というのがあります。     人の運命は「出会い」で決まると云えます。その時、努力し、誠実であろうとつとめていた場合、その報酬は、どのような形かは分かりませんが、何時か報われるでしょうし、それは、死の直前かも知れません。     日々を誠実に、精一杯生きていれば、心はおのずと、広くなって行くでしょう。それは間違いなく云えるのです。他者や世界との関係は、星の定めにあります。人間の力では、どうしようもないということです。     そう思うと、心に少しの「余裕」ができるでしょう。この「心の余裕」が、貴方をより大きな人にし、貴方の言う、自分自身を愛する道に通じているのです。   

noname#3557
質問者

お礼

あらためまして、starfloraさん、回答をありがとうございます。 翻訳の件のときは本当にお世話になりました。その後残念なことに仕事の話は流れてしまい、力を貸してくださったstarfloraさんをはじめとする皆さんに悪いなぁ、という気持ちがしていました。このような形での事後報告をお許しください。 話をこのカテゴリーに戻しまして・・・。 starfloraさんがとても長い回答を寄せてくださったので、ちゃんと読まないと!と思いました。書いてくださった意味をどれだけ理解できているか少し心配ではありますが、読んだ後にホッとした気持ちになったのは確かです。 「私にもできるかも知れない」という感じです。 相手の気持ちは相手のものであるから自分ではどうしようもない。 相手が認めてくれないことがあってもいいんだ。 誠実な相手には伝わるだろうけれど、そうでなくても自分のせいと思わなくていいんだ。 ・・・こう思えばそんなに難しいことでない感じがしてきます。 「他人を自分の心に住まわせる」という表現はわかりやすいですね。これはただ単に「相手を受け入れる」というのより、強制的でない感じが伝わってきます。相手を自由に遊ばせて(この言い方は適切でないかも知れないですが)いる感じ?自分の子供を例にあげていただくと一層わかりやすいですが、同時に、元夫を住まわせることができなかった(しなかった)んだなぁということも考えました。(これは少し複雑だ・・・(-_-#) 「自分を愛す」ということは(少し極端ではありますが)、「自分って大好き!」ということかと思っていましたが、必ずしもそうでなくてもいいんだ、「精一杯自分なりにそれに向かって努力している」ということでも段階的にはいいんだ、と思いました。 見返りは期待しないで出来るだけ自分なりに誠実に相手に接して行く中で、だんだんと自分の心の中に住まわせる人の数を増やせたらいいな、と思います。 具体的に何に向かって努力していくのか、ということは目には見えないけれど、何かが見守っていてくれる、そう思って生きていきたいと思います。 思っていることを全部、うまくお伝えすることはできなかったかも知れません。 でも、私のために回答くださったこと、本当に嬉しく思いました。 とても勇気付けられました。 また時折このページを思い出し、初心にかえりつつ進んで行きたいと思います。 ありがとうございました!

noname#3557
質問者

補足

starfloraさん、こんにちは。恋愛のカテゴリーに回答くださってありがとうございます。このところ忙しく、すぐに補足、お礼ができなくて申し訳ありませんでした。これからじっくりと読ませていただいて、再度お礼をさせていただいてもよろしいでしょうか?お待たせしてすみませんが、宜しくお願いいたします。

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