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おおらかさについて

toshi-booの回答

  • toshi-boo
  • ベストアンサー率54% (19/35)
回答No.9

西洋哲学を専攻している者として、一言述べたいと思います。 西洋哲学の一般的な特徴―それは長所でも短所でもあります―としては、きわめて論理的であり、予想されうる反論などを全て紹介し、批判していくという傾向が見られます。(だからといって、東洋哲学は全くそうではないというわけではありません。特に論理学などは東洋でも研究がなされてはいましたし) それが、西洋哲学においては一見すると他者を排除する哲学のように見える原因ではないでしょうか。(もちろん、排他的側面の強い思想もありましたが、別にそれは西洋だけの問題ではないでしょう) ある「真理」に対してあまりに多くの例外を認めては真理とは言えなくなるからこそ、徹底して「批判」するのだと思います。 しかし、ここで言う「批判」は全てを「否定」するものではありません。 フォイエルバッハやマルクスはヘーゲルの生身の人間存在のない哲学を批判する一方で、その論理学などは継承しました。ヘーゲルは理性や感性、悟性についてはカントに学びつつ、批判し、独自の「精神運動」の現象を発見しました。 例を挙げればキリがないのでこれくらいにしますが、 西洋哲学における「おおらかさ」の欠如が他の論を徹底的に批判するという側面からそう見られるのであれば、それはやや現象論のような気がします。

mcqgogo
質問者

お礼

専門家の方に真摯にアドバイスいただき光栄です 質問そのものに不備があったため、一笑のもとに付されても止むなしと思っていましたので… 質問の前提の意味をあなた向けに説明させていただきます 自己矛盾と受けとられるかも知れませんが、西洋哲学の持つ素晴らしい側面は、妥協を排し真理を追及する姿勢に感じています 何故ならその姿勢が結果として科学技術に端的に現われ、月に人類を送り原爆まで造り出したと捕らえているからです 西洋哲学の歴史は自然と向きあう過程でとてつもないパワーを生み出してしまったわけです おそらく東洋のものの考え方ではどちらも不可能なことでしょう 一方で、生み出した産物を如何に扱うか、知恵の学、哲学にはそれらをコントロールし、世界を実践に導いてゆく責任もあると思っています マルクスの試みは失敗しましたが、実践を目指したその意味で評価されるべきでしょう その視点で自分なりに今の世界の眺めた時に、「何のための学であるか」西洋哲学はその包括的な問い掛けが必要だと感じたのです 争いにおいて(ここでは戦争までをも念頭においていますが)力を得たものこそ、「おおらかに」他を受け入れる視点を持つべきだと思ったわけです 批判や論争については、その目的を見失わない限りにおいて僕は肯定派です

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