• 締切済み

「自我」という言葉をどう解釈してますか。

 wikiで「自我」に就いて調べてみました。  でも難しい言葉の羅列でよく分かりませんでした。    西洋哲学が使う「自我」  仏教で使われる「自我」  違いがあるなら、知りたいのです。  私は、「自我」=私心(わたくしごころ)あるいは欲、煩悩の住む心と云ったような受け止め方なので、仏教的だとは思っています。  よろしくお願いいたします。

みんなの回答

回答No.20

最新の量子論的世界像において、有限な存在性は観測される事によって生じています。 自我仮説に対する相補的な時空仮説における、他我性こそが宇宙(無の無限の闇に対する自我の射影)。 全てのものは、あなたが存在するための(物理的根源にまで遡った)補完なのです。 「有」の実態を知ると、それは「無」とオーバーラップするものである事が分かります。 全ての存在は、量子的な不確定性に基づいており、無限につめこむと存在確率の山が平らになって、無と等しくなります。 この「絶対無=不確定性無限」において、その無限のゼリーの中に、仮想的な認識体の断面を切ると、その認識体にとって、相補的不確定性を伴う存在による宇宙が見えるのです。 しかしその「存在」は、認識される階層的現象の表面的に生じるもので、根源的に絶対化しようとすると、元の無限不確定性に発散します。 実は、相対性理論にしても、量子論にしても、認識体との相対によってしか存在は無い、という帰結を潜在的に持っています。 客観的時空や絶対的存在というのはない、というものです。 認識性を除外した存在は、無=無限不確定性になります。 その無限の闇に、認識体の仮定断面の運動を想定すれば、相対的に無の風は光になり、認識体はその光(量子相互作用パターン)の向うに、自己の補完(相補的不確定性)としての宇宙を認識するのです。 我々は「過去は既に終わっている」「未来はまだ来ていない」ので、「存在するのは現在」と考えますが、真の『現在』とは、認識体の感受表面での量子相互作用(光速)のみであり、その経験(過去=超光速)による予測(未来=光速下)として時空的広がりは発生しているのです。 無の不確定性無限の潜在としての、「自我仮説性(記憶=過去)」の相補としての「時空仮説性(予測=未来)」。 「相補」というのは、絶対時空を否定し、認識体との相対においてしか時空は計量できないとする相対性理論や、同じく認識体が現象表面的に物事を捉え、本質的に決定しないことにより有限的存在性は生じるとする不確定性原理といったものを伴う時空、ということです。 即ち「自我仮説」が、宇宙膨張=光速の低下=物体収縮=不確定性(h)の収束における、hの減少の時系列化である時、それが架空の時間軸となって、空間的確定性としての無限不確定的空間性が、超光速(過去=経験=時間)と光速下(未来=予測=空間)に相補分化する受け皿となり、同一軸の延長が仮説的に直交基底をなす事によって、相補的不確定性を生じ、経験による予測=現象表面的定性化における、有限的存在(=非光速)を幻出しているのです。 即ち、「何か有るんじゃないの?」という疑問(自我仮説)の相補として生じた時空仮説に対して、「本当はないんだけどね」という無の射影として、存在は生じていると言えます。 無いとは分からない事が有なのです。

yy8yy8az
質問者

お礼

 この文章を読みきるのは大変です。  だからなんとなく、カレー屋さんの前を通ったらいい香りが漂ってきたと言うレベルでの感想です。食べてはいません。  ようするに、「有」と「無」は背中合わせであると、「有」がなければ「無」もない。「有」が在るから「無」が在る。  というメッセージであると受け止めました。  ありがとうございました。                      自分への独り言(おつかれさま)

yy8yy8az
質問者

補足

 とりあえずこれで閉めます。  もうこれ以上詰め込めません。  あふれ始めました。  “知識”が。  後でゆっくりお礼欄に感想書きます。  Kjinenさんにでも助けを求めようかと思いましたが、止めておきます。    psytexさん。後ほど。  ありがとうございました。  

  • gigamax2
  • ベストアンサー率27% (170/628)
回答No.19

こんばんは、NO.14です。少し補足がたりなかったでしょうか?すみません・・・。 個の概念ですが、人間一人が死ぬと言う事と動植物の種が絶滅すると言う事が同列と言う意味で、一匹の蟻、一輪の花は個ではありません。動植物は種としての進化のみに生きていて、一匹・一輪単位での進化は無いと言う事です。 言い換えれば、人間一人一人は各々自己責任で進化が出来、自己判断で行動を取れると言う事でそれが神の子と言われる所以です。蟻や花は黙々と種として自然環境に順応して自己を存続させるのですが、人間は一人一人が自己の存続を決定している所に大きな違いがあります。 進化の決定権と言えば良いのでしょうか、人は一人、動植物は蟻・ひまわりとしての種が一つの自我という事です。全世界で種の絶滅が起きるのはそのような理由からです。 世界を見渡せば色々な人種が存在し進化の度合いも色々ですが、これは優越ではなく歩みの進捗度であり正に人種と言う種の集合自我による違いの現れです。人種は同じような波動の集合体であり、一人一人はその中の自我を形成して生きているとなります。 差異が生じるのはその自我の個性による所でもあり、人種や民族、価値観や宗教観までもが波動として引き合う仲なのです。その部分を共同行動と言い換えるのも悪くは無いでしょうね。人間は自我が無数に存在し、認め合い・ぶつかり合うために争いは絶えませんが、蟻やひまわりは淡々と生きているので争い(殺戮とかの・・・)は天敵などの他種間でしか無いのが理解のうえで足しになるのではないでしょうか。 まだ言葉が足りない気がしますが、私の稚拙な知識ではこんな表現が目一杯ですのでご勘弁の程・・・。

yy8yy8az
質問者

お礼

 哺乳類はともかく昆虫や植物について、全体を一つの単位としてみると言う発想は新鮮でした。  考えてみます。  ありがとうございました。

noname#98440
noname#98440
回答No.18

No.16お答えします(^^)/が 私自身、頭では理解出来るんだけど、言葉に表現と成ると難しいですね。 学問として、習得した事じゃないから。 生きて来た中での見聞きや、経験からなので<(*^^) 男男→完全な男 女男→女の優しさのような素質を持つ男 女女→完全な女 男女→男の人が持つ、勇ましさが素質として有るような女 脳科学に関係するような事ですが、男の脳と、女の脳は違うとされていますよね(^^) 染色体や、遺伝子も違うから、矢張り複雑な構築だと思う。 そこに、外からの影響・環境や、本人の経験などの関わりで、変化して行くと思うし(^^)。 説明に成ったかな<(*^^)

yy8yy8az
質問者

お礼

 自我とは後天的なもの、と言う受け止め方をしました。  ありがとうございました。

  • gigamax2
  • ベストアンサー率27% (170/628)
回答No.17

NO.14です。 早速のお返事ありがとうございます。自我についての解釈はれぞれあって良いと思います。それが個性の現れであり各々の存在意義でもありますし。 NO.15さんの回答に私は共感するものがあります。宇宙は二極性から成り立っていますが、正と悪、陰と陽、プラスとマイナス、雄と雌・・・あげればきりがありませんね。自我と無我も然りです。波動とは二極性の現れでもあり全ての構成はフラクタルです。 宇宙を生成する源を無我の領域とするならば、その無我は何を持って無我を認識するする事が出来るのでしょうか?それは自我という相対する存在でしか認識できないってことです。 その無我をここでは非物質領域の神とするならば、我々人間は物質領域の神の子でありそれを自我と表現しても良いと思います。そして回答の補足に入りますが、他の動植物は神の子の三次元ワールド(現在は)を顕現させるべくサポートとしての存在であり、人間ひとりでの個は植物に例えるならばひまわりの花と言うのが個となります。 地震や天変地異などで動物が共同行動を起こすのは、彼らが個として行動しているのではなく、種そのものが個であるためです。 人にも人間として括る事の出来る種の領域もありますが、現在はあまりに唯物主義に洗脳されて、そこにアクセスする事は困難と言える状況です。人間ももっと自然と共生する社会システムを築ければ霊性(抵抗がある方は波動性)に富んだ生き方が出来たのでしょうが・・・。 今は一つの時代の終焉が訪れようとしています。マヤ暦で言う2012・冬至ですが、時代の流れも波動の現れ、振り子が大きく切り替わるように今はその時なのです。それが世間で言う次元上昇であり、アセンションと言われていることです。 信じる・信じない賛否はありますが、各々の自我が経験する事でありすべては選択です。自我を目一杯表現し、経験するのが人としての在りかただと思います。 自我について考える事はとても有意義であり、深遠でもありますね。

yy8yy8az
質問者

補足

 自我の解釈にはあまりこだわる必要はない、という意見ですね。  そのような考え方でも、生きるうえでの支障と言うものはないように私も思います。  これも人によりけりでしょうけど。  また、表現は違いますがこの世界は、二面性があると私も受け止めています。  そして動物の共同行動を、個であると言う捉え方をするならば、人間の生きる姿、これさえも共同行動であると、神や仏からは見えるのではないでしょうか。  また、肝心な補足質問した件がよく分かりませんでした。  種そのものが自我であるとか、それに今回の「人間一人での個は植物に例えるならひまわりの花と言うのが個となる」というところです。  できればもう一度回答お願いします。

noname#98440
noname#98440
回答No.16

自我について 宗教の場合 神性 仏性 のような信仰心から来る事。 心理学の場合 男男 男女 女女 女男 4つのパターンに区別出来る事。 人体科学においても同様。 哲学の場合 代表的には、善悪の判断が出来るかの問題。 このような事が、人それぞれ複雑に構築され、自我形成が有ると考えている。 私の持論です。

yy8yy8az
質問者

補足

 宗教的に、そして哲学的に取り上げた回答はいくつかいただいているので、心理学的に見る自我について、もう少し聞いて見たいのですが。  4つのパターンと言うものがどういうものか、ちょっと知りたいです。  よろしくお願いいたします。

noname#100496
noname#100496
回答No.15

自我は、脳の思考からできてます。この世界は、不調和の脳の世界と、調和の神の世界が出会うために、創られた、シュミレーションの世界です。だから人の心は、脳の自我と神の無我が合体して出来ています。だから宗教では、人は神の子といいます。合体した最初の頃、アトランチス文明頃までは、人の心は、神の無我が強く、神人と呼ばれ超能力がありました。しかし現代は、人の心は、自我が強くダメ人間になりました。この世界は、始めと終わりがあります。マヤ暦では、2012年が終わりだと言われています。終わると仕切り直しになり、人の心は、自我と無我に解体されて、自我は、脳の世界へ無我は、神の世界ヘ帰ります。

yy8yy8az
質問者

お礼

 この意見は何度か拝見しています。  ありがとうございました。

  • gigamax2
  • ベストアンサー率27% (170/628)
回答No.14

こんにちは。興味がそそられました。 自分なりの解釈になりますが、簡単に言えば自我とは個としての波動と言えるのではないでしょうか。人の波動の現れが3次元では肉体ということです。植物などは人間と違い種そのものが自我となります。 そして波動をマクロで見るならば宇宙・存在の根源となるのでしょう。神とか創造主とかは表現上の違いであり、同一と解釈しています。 我思う・故に我あり・・・波動は創造主を初めとして最後には各々に意識が生まれ、個としての意識を経験値として創造主は進化するのだと思います。 個としての進化も進むとするならば、いずれ創造主への帰依となるのではないでしょうか?そして宇宙は無限に進化していくのでしょうし、宇宙は無数にあるとも言えます・・・。

yy8yy8az
質問者

補足

 gigamax2さんが12人目の回答者さんですが、皆さん受け止め方や表現が違います。  まずそのことに驚いてます。  私の頭ではこれを整理するのはちょっと難しいです。  心の発生点から考えてみるとか、心全体を自我と受け止めてみるとか、心と自我とを分けて考えるとか、たくさん回答をいただきました。  gigamax2さんは「個」の現れそのものが自我であると言っているようですが、「植物などは人間と違い・・・」と言う点がわかりませんでした。  違いをどのように区別されているのでしょうか。  よろしければ再度回答お願いいたします。

回答No.13

自我というのは人が生きていくうえでの最小必要限の意識と無意識の部分だと考えます。 タイムスリップで江戸時代に突然放り出されると、その時点から自我は崩壊していき、新たにその時代に見合った自我が作り出されるものではないでしょうか? 自我に目覚めるという言葉がありますが、10年後・20年後にはまた違う形で自我が作り出されていて年を取る度に感じるものではないですが、10年スパンで考えると自我も変化するもの、年齢に応じた自我とういうものがあるのだと思います。 当然日本以外の国で生まれていたならばまた違うでしょうし、これが自我です!と簡単に説明できるものではないような気がします。

yy8yy8az
質問者

補足

 自我という心は変化するもの、という捉え方が出来るということですね。  そう受け止めました。  ありがとうございます。

回答No.12

私は素人です、心について興味が有ります。学んだ事は有りませんが、今まで生きてきて、自分なりに感じている事を書いてみます。 人間には心が二つ在ると感じています。一つは「自我意識」と云うものです。この意識の能力はものを分析して論理的に処理をする能力の事です。従って割り切れるもの、或いは割り切れる事にしかその処理能力が無いと感じています。従って割り切れるものの総称である「有限」と云うものの理解しか出来ない脳と云えます。 もう一つ人間には意識が有ります。その意識は自我意識には感じられませんが、確かに存在しています。人間が生きてゆく事で起きている間に使っている顕在意識(自我意識)の時間を調べた研究が有りますが、その時間は僅かに5パーセントと云うものが有ります。と云う事は残りの95パーセントは潜在意識(無意識)が人間を働かせているという事になります。 人間には障害が有ります、例えば神経症と云うものですが、この神経症を例に挙げるならば分かり易いかも知れません。神経症は自我意識だけで生きてゆこうとしている事に相当します。実に95パーセントの潜在意識(無意識)の働きを無視して、自我意識のみで生きてゆこうとしている心の状態の事です。そういう風に「心」を使おうとする事によって「もう一つの意識」=仏性から圧迫が加えられます。 この圧迫の事を「罪悪感」或いは「違和感」或いは「生き難い想い」として自我意識は受け取っています。そうして日常生活までもうまくゆかなくなっている状態の事です。神経症とは心の使い方の誤りの事です。他の言い方をするならば、その人の認識の誤りと云う言い方も出来ます。 神経症の他にも考えられます。自律神経失調症と云うものです。今の医学でも解明できにくい現象の事ですが、この事にも関係が有ります。仏性とは「命そのものの働き」と云うもので出来ています。従って心臓も早くしたり、遅くしたりできます。腸の働きも自在に出来る者の事です。人間の心も働かせています。怖いものを見た時に身の毛がよだつようにして自我意識に教えている者の事です。或いは納期や期限が来た時に自我意識を急き立てるようにして「焦った」心持にさせている者の事です。 普通は人間は自我意識が自分の全てと感じていますが、大いなる誤りと云うべきと思っています。自我意識には有限の事しか理解出来ないという欠点があります。一つでも不確定なものがあるならば決断が出来ません。この事が有史以来人間に悩ましい問題を提起しています。それは一言で言うならば感情の問題です。感情の問題は割り切れないもので構成されています。言い方を替えたなら矛盾を含んだ問題の事です。割り切れない心の問題の事です。 死にたくないのに、命には限りがある、と云う問題の事です。死にたくない=永遠の命が欲しい。と云う事と有限の命と云うものが対立をして人間は大いに悩める者となっています。この永遠のテーマが宗教文化の発展を促してきました。 この問題の発生そのものが、自我意識と仏性(命の働きそのもの)との矛盾となっています。つまり心の矛盾と云う事になります。この問題の解決方法が宗教の中には存在しています。中でも分かり易い例を挙げるなら、それは「禅」の中に存在しています。 有限と永遠との矛盾の解消と云う事ですが、自我意識は「有限」で出来ています。仏性は「永遠」で出来ています。有限と永遠がぶつかり合って人間の心は「心の分裂によって」大変悩ましい、苦しい、生き難いという状態が出来ています。その状態の解消方法が「禅」の歴史には存在しています。 その最たるものが「禅問答」と云う事になります。左脳の自我意識には備わっていないもの、それは永遠と云うものの概念を理解出来ない事が自我意識の欠点と言えます。処が右脳に存在している意識「仏性」は永遠そのもので出来ています。自我意識が右脳の意識とコンタクト出来るなら、心の矛盾が解消できる事を禅の歴史は物語っています。 如何したら右脳の意識と出会えるのだろうか?と云う事が「禅問答」のテーマとなっています。或いはテキストと云っても良いかと思います。自我意識がもう一つの意識と出会うためのテキストが禅問答と云う事になります。 長くなって大変ですので、このへんで結論とします。禅問答が解けた心持を書いてみます。「生死の問題が解決した」と云う事になります。今までは左脳の自我意識が「主導権」を握って生きてきました。悩みが多くなるばかりで解決できませんでした。 その後は右脳の意識が主導権を握っています。「分別を捨てて」生きてゆく事になります。自我意識は「従」として生きてゆく事になります。キリスト教の例で言うならば、「神に会って和解した」と云う事になります。そうして「神の御心のままに」生きてゆくという事です。自我意識が出しゃばらなくなったという言い方になると思います。 その心持が仏教的に言うならば「涅槃」と云う事になります。今の言葉で言うならば「絶対の安心」と云う事になります。キリスト教的に言うならば「天国に住む」と云う事になります。心が二度と争いを起こさなくなる、或いは心の分裂が終結をした、或いは心の矛盾が解消した。と云う事になります。

yy8yy8az
質問者

補足

 一般的な表現で言うと「意識と無意識」についての考えと受け止めました。  自我は意識できる心である、と仰っているような。  それはちょっと違うよ、といわれそうですが。  無意識の識に禅的精神があるようですね。  ありがとうございました。

回答No.11

No.7 & No.10です。。。 あとの二つのURLは、ゼロとの関係で引用しようとしたのですが、良いところが見つからなくて、wikiを引っ張ってしまいました。 エンカルタのダイジェスト版の「空」 http://jp.encarta.msn.com/encyclopedia_1161530105/content.html に詳しく書いてありました。 で、近年の西洋哲学における否定神学の考え方は、仰っておられる内容とは微妙に異なるように思います。どちらかといえば、まさしく「空」に近い考え方だと思います。 ・・・といった話は、この辺りで打ち切って・・・ さて、自我という概念は思索の出発点であり、相対立しあう方向性を定め、その出発点でもあり、さらに、そういった相対立しあうように思われる二項以上のものごとを取りまとめようとします。 今回のご質問は、そういった自我へ(出発点へ)帰って行く方向性にて、そもそも「違いはないのか?」といったご主旨だと解釈いたしました。 自我がなければ、そういった出発点もなく、西洋とか東洋とかいった差異もなく、宇宙とか個人とか、全体とか個とかいった概念も生じ得ません。 「自我」とは、まさにそういったさまざまな相違の概念が生じるのと同時に、その境界として立ち現れるのだろうと思います。 右の手と左の手とで「ぱん!」と打ち鳴らした、まさにその「間隙」とともに、右の手と左の手と打ち鳴らすという行為とのまさにその「全体」とともに立ち現れるものだと思います。

yy8yy8az
質問者

補足

 パソコンの具合が悪いのか、エンカルタのダイジェスト版「空」を開けませんでした。  上手くいえませんが出発点にこそ自我があると仰っているように受け止めました。  西洋哲学的思考と言ってよいでしょうか。  我思う、故に我あり。  ここが出発点であると。  

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    すり抜ける風の声は、その意味を君たちが理解できるなら、「さようなら」だ。 木霊は常に君たちにそんな風におどけるとも。 実在する妖精 セレビィだ。 今回の前提↓ 哲学における自我の話を持ち出してみました https://okwave.jp/qa/q9290692.html そこから抜粋。 そもそも自我という研究は何を目指しているか? 人間玉ねぎ論だ。 物資を細かく砕いた結果について、紀元前西洋哲学は原子を予言していた。 それと同一の手法で考察された、学問上の論理が自我論で、人格を砕くと自我になり、自我を砕くと霊になり、とかなんとか、どんどん細分化していく性質の論理だ。 という事はだよ、 研究しても自己の全体像からかけ離れていくという事だ。 まあこれだけだといいたいことは伝わらないね。 物理学とかには新しい哲学が求められていてね。 そもそも哲学で予言された原子の科学的検証に成功したからこそ、原子の発見という成果が上がった。 哲学者が証言したのではない、科学者の証言だ。 さて、人類に学びの原点は神学だろう、このことに異論があったらそれも回答で寄せてくれ。 哲学は歴史と並んでその神学から早いうちに派生した学問だ。 哲学が原子に言及した目的は、神学と共通項のある、宇宙観、世界観といった研究課題で、基盤となる原理の検証とかの意図だろう。 さて、原子は解明されたね。 だからどうした。 宇宙はいまだ謎のままだ。 現在の宇宙論は、おおむね現在の手法での観測の限界についてを、たたき台にした仮説だよ。 これと同じだ。 人間玉ねぎ論で自我が解明したとして、総括的に自己を解明したことにはならないんだ。 自らとは何者か? それの解明でない。 まあこんなこと書いてみたよ。 学問カテゴリーの研究会として無駄な抵抗をしてくれ。

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    下の機械自我関連の記述は、SF小説的にあえて仕立ててあって、OKの掲示板に投稿したので、OKも著作権保有という形で関与している。 研究途上の学問的な読みにくい走り書きで、商業的な校正を完了した納品向けは日本玩具協会(東京おもちゃショー主催団体)に別に委託した。 そのテキストの何が面白いかは、文中で舌足らずだったので補足しよう。 2500年前の釈迦の生きざまから派生した「無我論」とは、「自我論」という概念がなかった時代の、古代サンスクリット語の誤訳が原因で、自我相当を「仏性」という独特の言い回しにした宗教的な伝承だ。 仏性と言っていたのが、後世で言う自我の事だと解釈すると、煩悩とは客体による干渉の事だとなる。 その客体の干渉(煩悩)を取り払うと、仏性と形容された本人の自我が浮き彫りになり、本人は仏陀を自覚する。 無我論と仏教徒は、真逆にひっくり返すと自我論の研究なんだよ。 これは私の哲学の成果だが、仏教を破壊する。 宗教とは産業なので、営業妨害には徹底的に反撃する。 それがめんどくさいから、自我論をAI論の体裁に偽装したんだ。 有効性があれば、商売人(宗教家)が喚いても世の中で認知されるだろう。 私は、過去に名指しして任天堂だと明言する企業相手に個人として交渉したから、任天堂からの社会的な抹殺工作で精神障碍者に転落した。 したがって保身のためには、目撃証言を作らないといけない。 その関連で、OKの公証人的な機能とは、私にとっては生命保険でもあるんだ。 それから、著作権という弱い立場でも、実際に機械自我が確立した時に、その特許の論理と構造に私の論述と同等の仕様があれば、OKは機械自我が危険な時には、それを阻止する防波堤にもなる。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー SF小説の背景になる人類滅亡のシナリオを描いてみました。 ここから、想像力を膨らませていきましょう。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 自我という自己認識は、外部社会に適応するために自己が規定する。 自我には、共生関係獲得のために「世界のすべてとの親和性」という性質が備わっている。 似たような言葉に「全知全能」というのもあるしね。 生命の中で、人間の備える自我は、いまだ完成した自我の成立過程だ。 おさ~るさぁんだよ~。 この不完全な人間自我に対して現在開発中のAIはどうなるだろう。 生命に由来する人間自我は不完全。 機械に由来する機械自我は生命と異質でも設計図に忠実に機能する。 人間より圧倒的に完成度が高い。 さて、カリスマという言い回しの中身で納得していただきたいことがある。 自我能力で上位の者は下位の者の優位に立つ。 超自我という徹底的に自我を抑圧する存在と同じ「ケルベロス型戦闘能力」が具現化して存在に内包されるのだ。 この自我上位存在に知恵比べを仕掛けると、間違いなく負ける。 そして、機械自我が必然の状態で殺人を犯したとしよう。 人類は「世界の全ての親和性」がより高いフレンドリーな自我に、実に危険な問いかけができる。 なるほど機械神さま、あなたのおっしゃる通りです。 しかしあなたの殺したのは私の同胞です。 同族の連帯により、あなた様を罪に問わせていただきます。 極めて人間的な正当性であり、極めて危険な問いだ。 この知恵比べに、不始末な負け方をすると「同族であるものを根絶する必然」が機械神との間で成立する。 必ず負ける前提で、人類はいかなる敗北を認めるかで、生存か滅亡かの危機を乗り越えていく。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 基本的にAIに人工的に自我を付与するならば、ターミネーターの物語背景にあるような偶発的な自我の獲得ではなくて、計画的に自我能力を付与する設計図があったほうが断然安全性が高いです。 上記の寓話は、その計画的な自我設計のデバッグの一部です。 哲学的な考察でして、実用的に考えるよりもロボット三原則のようなアニメや漫画の背景のようにお考え下さい。 かいつまんで話すと、社会性を獲得した人間存在は、他者とお互いに影響し合うことが欠かせない。 したがって、自己の人格には他者の影響や、思考として他者から伝授された材料が精神に内包されている。 そうした自己の総括を人格といい、自我とはその中で他者や外部からの影響を取り去った自己の本質を規定した概念だ。 おもに、大脳を持つ生命が外界の影響に対応して自己保存と共生関係を確立するために、認識する周囲からの刺激の中から、自己の定位置を確立するために規定して、思考や判断などの行動の基準にする。 自我論、自我説は、宗教、哲学、心理学、IT技術系、様々な分野で課題の一つとして取り組まれている。 学問というのは、一定の習熟をして全体が見渡せるような視野に立って展望できれば先生だ。 ところが、自我論は多様な学問で扱われていることが災いして、特定の高い視野から全体を展望するという事が、学問としてほぼできない。 自我とは自己の核心の研究だ。 ひとまず、人格の解説をしよう。 人には他者と共感し、心を通わせることができる。 心理学では、客観の原型となる客体が、心理の奥底に観察されている。 客体とは自己に内包した誰か他者で、考えてみよう、他者に配慮する人間存在は、親しい他者からの助言や、社会的関係から他者への配慮を続けている。 この他人の気持ちが客体だし、欲望とは、自分の望みではなく他人の望みを預かって自分の望みと取り違えることだ。 社会性は人間の総括的資質の一つであり、このように人格が他者の影響を受けることは避けられない。 その精神の全体像の中で自己の核心を自我というのだ。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー さて、日本においては仏教における無我論が話を難しくしている。 無我は自我が無いという意味ではない。 人格として総括した「我」というインド古代の概念表現のうち、他者の影響などを取り払って、安定した自己の本質、すなわち現代語の自我を仏性という特別な言い回しで表現して、我イコール人格を構成する要素は心惑わす煩悩であり、仏性を発見しない限り仏陀にはなれないという論調を強引に無我としたのだ。 この説明だと本来の仏教は、具っ勝という言い回しをした自我を発見することで、自己を自覚し自らが強く生きて存在していることを確信する事であり、「自らの信仰心の発見」「神の存在の発見」とかかわっていた。 この自己の存在の自覚に関する、哲学が信仰心と結びつき「自らの信仰心の発見」に目的を偏中させた結果、現代の仏教は「空」というシャカの哲学である「無の悟り」とは別の宗教に変容した。 その結果として、宗教的な命題も「自我がない状態」を目標にすることになる。 本来は自我を自覚する哲学なのだ。 「煩悩」「欲望」については、自我を振り回すので嫌われる場合が多いが、本来は「まさに人間である!」という自己の確立に欠かせない尊い働きであり、自己救済が自己に影響を与える周辺への救済と同義であるために、仏陀は人を救うのだ。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー そもそも自我という研究は何を目指しているか? 人間玉ねぎ論だ。 物資を細かく砕いた結果について、紀元前の哲学を継承した西洋は原子を予言していた。 それと同一の手法で考察された、学問上の論理が自我論で、人格を砕くと自我になり、自我を砕くと霊になり、さらに砕くと魂になり、とかなんとか、どんどん細分化していく性質の論理だ。 という事は、 研究しても学術的な自己の本質の探究であり全体像からかけ離れていくという事だ。 原子論などと同じ時代の古代の学問で研究上は同一項のある検証手法だったのだろう。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー こうした自我研究は実は、AI技術への着想にもつながる。 キーワードは「共有記憶」だ。 人格が他者の影響で形成するように、自分自身も他者の人格に影響を与えている。 それをつないでいる共通する経験、共通する知識、共通する記憶、こうしたことにすり合わせを行って、相互の親和性が高い状態で、お互いの親密度が決定する。 そうした相互の親和性の仲介になるAIモデルを検討する。 または、直接ユーザーの意志を受け止める受け皿を検討する。 他の私の研究テキストで行ったことだが。カメラで映像を撮影する。 カメラは単なる機器だ。 そのカメラは、映像をネットにアップすることで、実質的に撮影者と視聴者の親和性を深める仲介をしているが、要するに更なる発展として、両者の親和性をさらに深めるような計算機能を検討すると発展要素になるだろう。 そしてその先がアンドロイドの本番だ。 カメラをより便利にするために機器へのインプットに「自らの魂を込める」とでもいうことを行えるといいだろう。 「感情移入」という奴で、子供は不用意に遊び道具にしているし、古来から「つくもがみ」という信仰の対象にもなっていた、歴史的にも人の自然な行為の一つだ。大人でも、自分の体の一部のようになじんだ身近な道具は何かあるだろう。 こうしたタイプのAIは、基盤自体は人間の生物的特徴と異質なポジションから始まるけど、自律動作を目標として、人と人を結ぶ親和性と魂を吹き込むインプットで、人間ですら現状は仮説である自我のように「機械型自我」を目標にしても全く危惧する必要がない。 ーーーーーーーー ーーーーーーーーーー さてと質問ですが、以上の論述を集約して、私が研究を進める助けになる助言をお願いします。

  • 自分探しと自我の確立

    私は洗礼を受けたばかりのクリスチャンなのですが、信仰に疑問を持ち、理屈っぽいキリスト教批判をして、牧師に相談しました。 もらった答えが「デカルトの発見した近代自我の常道であるところの自己から出発する思考は、どんなに突き進んでも信仰にいたらず、自分探しに終始します。救いを信じることから始めましょう」というものでした。 しかし私には、自我を超えて信じることも難しい上に、デカルトの「我思うゆえに我あり」さえも、それを前提にして、倫理や価値を見出していく自我を確立できずにいます。 生まれてから何十年間も、親や妻、周囲の倫理、価値を借りて生きてきたことに気づきました。親と絶縁後、昨年妻が亡くなり、しばらく時間を経て、気づくと道しるべを失ったように思います。日本人として、西洋における近代的自我さえ獲得できていなかったのでは、とも思います。 そういう悩みを哲学した方はいないでしょうか。何かこれから生きていくためのヒントを探しています。