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仏教は「性欲」及び「恋愛欲」という煩悩をどうとらえているのか?

仏教の教えによれば、(簡単に言うと)「全ての苦しみは煩悩から来るものだ。だから修行をして煩悩をなくせ」ということになりますよね。 ですが、性欲は簡単に「処理」をすることができても「恋愛欲」については「処理」をすることも「なくす」こともなかなか難しいことだと思います。 私は一般人であり、修行僧でも何でもありませんので、山にこもって恋愛欲をなくそうとするつもりは(少なくとも今は)ありません。 ですが、この恋愛欲によって現に今、私は苦しんでいます。「大切な人」がおらず、孤独であることに苦痛を覚えています。 この解決方法として仏教はどのように答えてくれるのでしょう? 仏教にこだわらなくてもいいかもしれません。他の宗教や哲学・思想・学問等によってこの苦しみが癒されるのであればそれもいいと思います。 思想系に詳しいお方のアドバイスを頂ければと思います。どうぞよろしくお願い致します。

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  • musokunin
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回答No.5

  性欲や戀愛感情は生命體としての基本的な欲求の一つですが、欲求そのものは、否定すべくも無いものです。色々な欲求に囚はれて苦しむことで「煩惱」となります。「自分には大切な人がゐない。大切な人と出逢ひたい。作りたい」などの欲求が心を亂し、囚はれるならば、日々の生活は狂おしいものになりかねません。   自分から「大切な人を欲しい」と求めるのではなく、すぐ近くにゐる人の中に、「すばらしいところ。大切にしたいところ」を見出してみるのは如何でせう。自分の行爲、行動を意識的にして、周りの人から、大切に思はれる自分になれるやうに努めてみるのはどうでせう。   この世の中は、關係の密度は異なるにしても、互ひに繋がりを持つてゐます。絶對的な孤獨といふことは許されてもゐません。そのやうな世界、あなたの周りに展開している世界を大切にし、あなたの周りにゐる人を大切にすることで、あなたの周りには「大切な人」が澤山出來ることでせう。   まづ、朝、少し早めに起きることです。玄關前を掃除して、ついでに隣の家の前も掃除したら如何でせう。一年間續けると、お隣さんが、あなたにとつて大切な人に見えてくることでせう。毎日、顔を合はせる見知らぬ人に、挨拶をしてみませんか。毎日すれ違ふだけの人が、あなたにとつて大切な人に見えてくることでせう。   「煩惱を無くす」などとは考へないことです。「煩惱も人生の調味料だ」くらひの考へで、「煩惱に囚はれない」ことを心がけませう。

murphy7
質問者

お礼

なるほど。今までの私にはなかった視点です。自分の身の回りの関係性についてもう少し考え直してみようと感じました。回答ありがとうございました。

その他の回答 (6)

noname#31063
noname#31063
回答No.7

再度No.3です。興味があって読んだ本の中から紹介します。 お釈迦様自身は「煩悩」を体系化されていませんでしたが、 諸部派により理論化されていきました。 ○●煩悩○● は身体を苦しめる「三毒(さんどく)」又は 体に付きまとう「三垢(さんく)」と例えられています。 ・貧欲(とんよく)=むさぼりや執着、一般的な欲望 ・瞋恚(しんに=嫌悪、憎悪、怒り、拒否反応すること ・愚痴(ぐち)=「無明」諸侯無情の真実に暗い というのが煩悩だそうです。 そして人間を構成しているものは「五蘊(ごうん)」で 五蘊により生じる苦しみを「五蘊盛苦(ごうんせいく)」といいます。 ・色蘊(しきうん)=物質的肉体 ・受蘊(じゅうん)=感受作用、感覚、知覚、印象などを感じる作用 ・想蘊(そううん)=観念作用、思い出すこと ・行蘊(ぎょううん)=意志とそれに伴う行為 ・識蘊(しきうん)=認識作用、判断、区別する働き 五蘊で形づくられた体や心の働き全ては、 自然界から一時的に借りているだけのもので、 霊魂や実体としての自我はないと考えられます。 これを「五蘊無我」といいます。 その対極が五蘊皆空(ごうんかいくう)で 人間の体は見せかけだけで本体がなく、 存在は「空」である。 他の要素がないと成立たない「泡」と同じである。 五蘊無我になって「自我の愛着を捨てて解放されなさい。」という教えです。 凡人には無理ですね…。 ○●仏教における愛○● 人間の根源的な欲望は 「渇愛(かつあい)」=際限無く広がり続ける衝動や執念、満たされない欲望のこと。 ・欲愛(よくあい)=性的快楽、財力、権力、日常にある欲望 ・有愛(うあい)=生存願望、死後の存在も残したい欲求 ・無有愛(むうあい)=自殺などに向かう虚無的な欲求 渇愛の原因は無明縁起の理(ことわり)を知らないことだとされ、 「少欲知足(しょうよくちそく)」を知ることだとされます。 仏教の幸福の方程式で 欲望と達成感のバランス感覚には 上座部仏教(南部仏教)と大乗仏教では若干の違いはあるようですが、割愛。 下記の参考文献「もう一度学びたい ブッダの教え」は 仏教本の紹介と解説がたくさんあってわかりやすいです。 激しくお勧めします。

参考URL:
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4791613708/503-2817493-7143153?v=glance&n=465392
  • m41
  • ベストアンサー率30% (346/1127)
回答No.6

N05の方がすばらしい事を おしゃってます。 このカテで何度か書かせていただいてますが 悟りとは諦めや現状維持ではないはずです 何故御釈迦様は苦行は必要ないと説かれたか 肉体を自ら痛めつけ其処から生れる満足感は贅沢三昧に暮らす人の満足感となんら代わりは無い己の自己満足である・・・・ 山にこもって恋愛欲をなくそうとするつもりは(少なくとも今は)ありません>そんな事をする(苦行)必要は無いのです。 この恋愛欲によって現に今、私は苦しんでいます。「大切な人」がおらず、孤独であることに苦痛を覚えています。>此れは決して煩悩ではないと思います。 「全ての苦しみは煩悩から来るものだ。だから修行をして煩悩をなくせ」>煩悩とは悟りとは 足る事を知り全ての人の幸せを考えるゆとりと行動だと私は思います 現状に感謝し満足しながら皆が幸せになることを考える 自分がこんなに幸せなのだから他の人も もっと幸せになれるようにしなくては成らない此れが悟りだと思います。 あくまで私なりの考えなので あしからず

  • psss
  • ベストアンサー率28% (59/209)
回答No.4

No1 の者です。  注意していただきたいのは、釈迦は恋愛や結婚を罰するわけではありません。  あくまで、「結果」として愛(は執着なので)を捨てよ、 ということになるだけです。  乱暴な言い方になりますが、判りやすく言えば、 愛にも、人生にも、執着しない、全ての事柄を、 どうでもいいこと、だと思えればいいわけです。 それが悟りへの道だと説いているわけなんですね。  

noname#31063
noname#31063
回答No.3

恋愛欲=人恋しい。 大切な人は それだけ自分の気持ちを成就させるためにも 必要な存在なのですよね。 私も詳しくはありませんが、 修行や智慧、思想によって 煩悩を処理したとは考えません。 お釈迦さまは 身分や妻子を捨ててまで壮大な計画を持ったのです。 その為の使命感や達成感は 煩悩を満たす以上に快楽だったと思います。 ある宗教で恋愛や結婚を罰するのは それ以上の使命感と 精神力が必要であるからだと思います。 普通は疲労すると性欲どころではなくなりますが、 落ち着いた充実感が持てていたのでしょう。 今時の宗教家は どんな使命感をお持ちなのかと、?ですが。 人恋しさは遺伝子に組みこまれた精神の保存本能。 肉欲は肉体の保存本能です。 自立の遅い子孫を大切に育むためには 恋愛を継続させるのが有利と設定している 遺伝子の策略。 でも独立精神の強い理性も遺伝子にあるようです。 その遺伝子の策略を見切るのです! 失恋の悲しみ、人恋しくて切なくなるのは 子供を持てない、亡くした悲しみに似せているのです。 神様は遺伝子の策略に乗ってばかりでない オリジナリティーな人間も欲しくなり 笑いを作りだし人間独自の快楽を成就させようと 大脳新皮質を発展させたお陰でしょう。 煩悩を処理したのではなく 思考する脳が新たな欲を作り出し影を薄くしたです。 つまりそれほど苦痛でなったかもしれません。 宗教でなく生物になっちゃいました。 気晴らしに読んでいただければ幸いです。

  • takeru123
  • ベストアンサー率20% (5/24)
回答No.2

 No.1の方もおっしゃっていますが、基本的に恋愛も煩悩の一つであり、悟りを得るためには、煩悩の火を消さなくてはいけません。少なくとも原始仏教は基本的に出家主義で、出家者の恋愛は認められていませんね。  煩悩の火を消し、涅槃に達するための方法として原始仏教では、「八正道」を唱えています。 八正道 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%AD%A3%E9%81%93  質問者さまは具体的な悩みをお持ちのようですが、それならば本ウエブサイトのカテゴリー「ライフ」の「恋の悩み・人間関係」にも質問をされると良いと思いますよ。私も悩んだときに、ここに質問して、いろいろな方から励まして、いただきました。

  • psss
  • ベストアンサー率28% (59/209)
回答No.1

 釈迦の教えの基本は「全ての執着を捨てよ」ということなので、あなたのいういくつかの「欲」も、それを努力により消すことがすなわち修行と言っていいでしょう。  「どのように消すのか」という「答え」は与えられるものではなく「自分で見つける」ことにこそ意味があり、それが修行です。  ですから、手っ取り早く「その答え」が欲しいのなら、別の宗教を当たった方がよろしいかと思います。  また、ひとくちに仏教といえど、門派によって教えに違いがあります。  また、派によっては、釈迦の言葉を「独自に」解釈し、なんらかの答えを持っていることもありますので、そちらにすがるのもいいかも知れませんが、私は派ごとの詳細な教えについては、ほぼ無知です。

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