宇宙と人間の存在について

このQ&Aのポイント
  • 人間の存在と行為と宇宙の関係について質問があります。
  • 人間の宗教や哲学は宇宙万物に関与する必要があります。
  • 宇宙と人間の存在について皆さんの意見を聞かせてください。
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宇宙と人間は偶々生じてきたのですか?

 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail.php?qid=1285468867 に人間の存在と行為(思考や生理作用、並びに感覚活動や受感構成、そしてそれらのreactionを含む)と宇宙の森羅万象, 万物に関する規範的関係性について質問があります。  要するに、人間の存在と行為(思考や生理作用、並びに感覚活動や受感構成、そしてそれらのreactionを含む)も、そして宇宙の森羅万象, 万物も偶々、勝手に生じてきているのではなく、当為規範的に存在するのではないか、という質問です。  皆さんにおかれては、この辺り(あたり)のことはいかがご批判されますか?  人間の宗教や哲学は宇宙万物に基盤を持ち、宇宙万物に価値的に関与する必要を意識しなければいけませんよね。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.5

量子論的世界像において、有限な存在性(=宇宙)は認識されることによって派生しています。 換言すれば、「自我仮説(心=時間の流れ=記憶)と時空仮説(存在=空間的広がり=予測)が、(不確定性原理の相補的不確定性を介して)相補分化している=全てはあなたが存在するための(物理的原理性にまで遡った)補完である」という事なのです。 「全ては、あなたが存在するための(物理的原理性にまで遡った)補完」なら、宇宙は自己の必要であり、完全に自由であって然るべきものにも思えます。 しかし、物にぶつかり、人と争うのはなぜかというと、その場合の自己は「物理的原理性にまで遡った」ものではなく、現象表面的&刹那的な「自己チュー」なものだからです。 いわば、「存在」とは自己矛盾であり、自己チューな意識に対する「規制」なのです。 そうした短絡的自己から、認識の深まりによって“環境”を自己として自覚化し、社会に対しては他我(愛=社会生命的自覚=自律的社会行動)において生きるなら、その意志は永遠の未来においても、宇宙の果てにおいても、予め達成されるものとなり、完全なる自由と無限の幸福が約束されるのです。

krya1998
質問者

お礼

psytexさん、私も仰せのように外界環境というか、自己なる意識がおかれている周囲をそのように理解するべきではないかと思うようになりました。 加えて、私という意識はある存在の真に瞬間的で僅かな範囲のプロセス用具であり、その前後は大いなる根源者という広大無辺な自己が広がっているようです。 有り難う御座いました。

その他の回答 (5)

回答No.6

 とりあえず地球上に発生した生物に視点を定めてみると、いきなり人間が現れたというわけではなく、単細胞の生物?から徐々に、段階的に(規則正しく?)成長してきてその結果、これまでのところ人間が最高の“生物”として現れたのだと思えば、「当為規範」的に存在すると思います。

krya1998
質問者

お礼

yy8yy8azさん、その通りと私も思いましたので皆様のご批判とご意見を賜りたく、質問を起しました。 簡明、直截なご回答をご有り難う御座いました。

回答No.4

仏教的な観点であれば、「たまたま」「生じた」という言葉に該当するのは 因果、縁ですね。原因+縁が結果になります。縁というのが不確定要素にあたります。 確定要素というのは、科学法則などに当たると思います。ただ、その確定要素が起きる 現象において、不確定要素が含まれます。 したがって、100%の確定要素でなければ、即ち、少しでも不確定要素が含まれていれば 「偶々」と表現するのが無難ではないかと思います。

krya1998
質問者

お礼

Teio_Plateauさん、質問者の用語の使い方が不適切でしたね。 仏教の因や因縁についての知見が低かったのですね。 私などの通俗的使用の仕方としては、偶々というのは必然的でないとか、根拠性もなく湖面の波のような起こり方(これも風がふくという因縁因果の結果でしょうが)みたいなものを観念しました。 仰せの仏教的な因、因縁もまぁ偶々の原因となるような契機などがあるという事になるのでしょうが。 私がそういう因、因縁と対義的に観念していたのは、一定の価値や理念に差し向けた使命的必然的となる根拠や基盤がある出現の仕方(自らも関与し、その実践的主格としてさせられ仕方)でした。 仮に(私自身はこの“仮に”を取り払っていますが)創造という宇宙世界観からは、人間と万物は価値的当為の規範存在でしかありえないと存じております。 まぁ多くの方の同感は得られるものではない事は重々覚悟の上の、質問です。 森羅万象、万物は価値理念から出てきて、また価値理念を志向していく当為存在だということです。 そして仰せの因、因縁もそういう根源的な規範的要請からの契機であると存じております。 質問本文のURLもどうかご訪問ください。

回答No.3

こんにちわ 宗教も、哲学も、人間が作ったもの。 人間や宇宙を創ったとされる方がいるなら、 そして、宗教が必要だと思うなら、その方が、つくればいいんじゃないですか?

krya1998
質問者

お礼

ご回答有り難う。 ご回答の内容を批判もしませんし、論駁も致しません。 私自身も青年時代(30歳代の10年。今は74ですが。)の一時期ラディカルな大学労組の書記長を長くしていた頃(60年安保頃)、同じような思考におりました。 そして宗教などはあまり関係せず、哲学も論理と知性という、対象化して扱う手法にのみ関っていました。 ですからお話はよく判ります。

回答No.2

 宇宙や人間が自然にできあがるわけがないから何者かの意思が介在したはずだというなら、その「何者か」は一体どこから現れたの? そんなことが出来る存在が突然現れる方がよっぽど大変では。

krya1998
質問者

お礼

ご回答有り難う御座います。 No.3様のお礼にも書いておりますが、その通りですね。 宇宙や人間とその創造者とかいうもの(者か存在かは別にして)を切り離すことは無理なんでしょうね。 一つの見え方。これが宇宙や人間のありよう、紡ぎと構成の結果でしょうね。 宇宙や人間って手段であり、メディアであり、主格主体かな。 その受け取り方の問題でしょうね。 こんな言い方いけませんかね。実は言い方ではありませんようです。

  • yasuto07
  • ベストアンサー率12% (1344/10625)
回答No.1

4400やビジターというテレビドラマを見てください、答えがあるかもよ。

krya1998
質問者

お礼

早速のご訪問有り難う。評価の一票を投じました。 よろしかったら、yasuto07様のご回答をお願いします。

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