• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:キリスト教の言葉を公共の場で用いる友人へ意見したい)

公共の場でのキリスト教言葉の使用について

このQ&Aのポイント
  • 友人が自分の育児サークルでキリスト教の言葉を使うようになりましたが、公共の場では宗教に関連する言動は避けるべきです。
  • 私は彼女に対して意見を言いたいと思っていますが、他の友人関係があるためにサークルを辞めるわけにもいかず、彼女を傷つけずに言いたいです。
  • しかし、私はいつしかキリスト教に対するアレルギーを抱き始めていて、彼女の言葉にイライラしています。いい方法で上手に言いたいです。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.5

好感の持てる人物ならば忠告して上げればいいんじゃないの? 宗教というのは、他人の前でひけらかす物ではないだろうし、俺のように 「おかしいんじゃないか」と思う者がいれば、それはオマエの信仰へ 悪い影響を与える事になるんじゃないの? 俺ならばそう言います。 勇気がないという事は、貴方がその当該人物をそれほど大事だと思っていない と言うことです。したがって、今後の行動は質問者自身の判断に委ねられます。

19971019
質問者

お礼

ありがとうございました。 ハッと我に帰り、自分自身を問いただしてみました。 彼女に、きちんと言います。もちろん、卑下したり、喧嘩する態度ではなく、自分の気持ちを自分の言葉で言います。 自分の言葉を、きちんとまとめ、これから活動してくことがふさわしい新たな場所の提案も含め、彼女そのものの底辺のところでお話ししましょうといいます。 彼女が受け入れてくれない場合は、、、、、、、、、、そのときは残念だったと思い、去ります。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

その他の回答 (9)

回答No.10

No.2です。 No.3さんの意見が気になったので、事実確認をします。 その方は、質問者様もしくは、サークルのメンバー、活動対象の子供たちに布教活動を行っているのですか? ご質問の内容だと、個人の信仰行為の範囲だと理解しているのですけど。 私も一時的な気の迷いでの散財を経験された方には同情しますし、人の心の弱いところを突いた布教活動には賛同しません。 しかし、本件では、そういったことは一切記載されていませんよね? 宗教と言うのは、興味の無い人には本当にくだらないものでしょうが、信仰者には何ものにも代えがたいものである場合があります。 軽率に相手の信仰心を否定してはなりません。 ちなみに、私は無宗教です。 信仰する宗派・教義が無いだけで、宗教そのものは否定していません。 地域的に、宗教というより先祖崇拝の育ちなものですから。

19971019
質問者

お礼

回答ありがとうございました。 前述しましたが、彼女は主導的立場にあり、さようならのときに「イエスキリスト神様の名によって感謝いたします。アーメン。さようなら。」と彼女が発します。 あるときは、みんなで歌う童謡の歌詞を替え歌にして、例ですが「さいたさいたチューリップの花が、ハレルヤハレルヤ」と歌います。 私には布教のボーダーラインがわからないです。。。。。。。。。 彼女にはきちんと自分の気持ちを自分の言葉で伝えることにしました。これから活動してくことがふさわしい場所の新たな提案も含め、お互いが傷つかない歩み寄りのいちばんいいところまで進めるように、あなたを嫌いでないという気持ちもきちんと伝えながら聞いてもらいたいと思っています。彼女が受け入れてくれなければ残念だったと思うしか無いのですが…。 ありがとうございました

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
回答No.9

録音か録画して管理者である館長さんに提示して、 館長さんの判断に任せるのが筋ではないでしょうか。 すなわち、館長さんから、 その時間帯に部屋を借りている責任者さんに 言ってもらうか、質問者さまが その集まりから撤退するかでしょうね。 あるいは、質問者さまが総館長になって 処理する方法も考えられますね。 ブラジルでは、病棟などでは、 宗教・政治・サッカーの話が禁じられているそうですが 日本の病院で、 「政治と宗教の話は厳禁します。 院長」 という貼り紙を目撃したことがあります。 余計のことになりますが……質問者さまは 日ごろ、マイナスのエネルギーを溜め込んでいませんか。 そうしたエネルギーは他者を攻撃するスタイルで 顕現する傾向があるんですよね。 Good Luck!

19971019
質問者

お礼

回答ありがとうございました。 自分自身の気持ちを彼女へきちんと話すことにしました。もちろん、きちんと丁寧に。 そっか~。マイナスエネルギーを溜め込んでしまってるんですね。わたし。 イケナイ、イケナイ。 気づかせてくれてありがとうございました。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
noname#197650
noname#197650
回答No.8

No.3です。 余計なお世話だとは思いますが、再び回答します。 それは、「聞き流せ」とか「距離を置く」とか愚にもつかない回答が多いからです。 こういう回答をする人は、宗教の厄介さ(特に会うのが不可避な人が宗教人の場合) を理解できてない。 聞き流すくらいでどうにかできるくらいの連中ならこっちは悩んでねーって話です。 私を含めてロクな回答してねーな、と思いました。 以上!

19971019
質問者

お礼

とんでもないです。ロクな回答だなんて。ありがとうございました。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • michael-m
  • ベストアンサー率50% (2725/5435)
回答No.7

別に貴方の勝手な拒否反応ですから意見のしようもありません。相手に何の意図も無いのであれば、人に強要しているわけで無いなら問題ないです。 それにこれからは街中にいても普通に外人さんがいるのが当たり前になり、貴方のサークルにもいつ外人さんがやってくるか分かりませんね。 そんな時外人さんが普通に「ジーザス」とか「エイメン」と言うたびにいらいらしても相手は意味が分からないでしょうね。 だいたい宗教を禁止するといっても勧誘を禁止するだけで、他の人から見れば私たち日本人の言動も宗教と取られるかもしれない。頂きますやご馳走様も宗教と言えば宗教になりますよ。それとも貴方はそれを子供に教えないんでしょうか? 逆に無宗教を強要することも相手の信仰の否定を強要することに変わりはないです。 ご存知でしょうか?「公共の場で信仰的な言動をしてはならない」と言うのは共産主義か社会主義、あるいは独裁政権下だけです。つまりこれを禁止している日本は世界から見れば「成功した社会主義」であって自由主義では無いんです。 政治的言動など生活をしていればいくらでも出てくるはず。政治とは生活そのものの話です。市や県にもっとサークルに手当て補助して欲しいと言うのも政治ですよね。市などが公民館貸し出しに制限を設けるとか言い始めたらどうします?そういう問題も公共の場ではしてはいけない? 日本では公共と言う理解、自由と言うものの理解がまともに教育されていない。「政教分離は政治から宗教を追い出す事だ」などと見当違いの解釈がまかり通っている。そんな嘘だらけの教育を受けてきたから、公共の場で宗教と政治の話はしないなんて曲解が出てきてしまうんです。 嫌なら距離を置く、それだけのことです。なぜ付き合っていかなければならないのでしょうか? それよりこれまでの教育委員会や日教組の洗脳を少しずつでも解いていったらいかがでしょうか?

19971019
質問者

お礼

回答ありがとうございました。 そうだったんですか。。。。。 「公共の場で信仰的な言動をしてはならない」と言うのは共産主義か社会主義、あるいは独裁政権下だけです。つまりこれを禁止している日本は世界から見れば「成功した社会主義」であって自由主義では無いんです。』 そういうこと、全然知りませんでした。ありがとうございました。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • sazae-san
  • ベストアンサー率17% (28/158)
回答No.6

子供やあなた自身に強要している訳ではないのですよね? それなら何が問題なのでしょうか?布教活動とでもなさそうですし、口癖なんでしょうか? 育児サークルの活動に支障が出るなら、はっきりと辞めて欲しいと伝えればいいと思います。 (宗教系の団体に見られる、とか) それ以外ならば、聞き流すしかないと思います。

19971019
質問者

お礼

回答ありがとうございました。 彼女は主導的立場にあり、さようならのときに「イエスキリスト神様の名によって感謝いたします。アーメン。さようなら。」と彼女が発します。 私は布教のボーダーラインがわからないです。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
回答No.4

こんにちわ 私も宗教に嫌悪感をもっている者です。 あなたは、「いいかげんにして」と、言いたいほどなのに、 なぜ、まだ彼女と仲良くしていたいのか、わかりません。 先日、悩みがあって、知り合いに相談したところ、 私の話しをきかず、創価学会の説明ばかりしていて、 本当に、「いいかげんにして」という気持ちになりました。 その後、その方とは、音信普通にしています。 もちろん、その方も良い方で、これからも仲良くしたいと思いましたが、 また、宗教の話しになるかと思うとうんざりで、連絡していません。 参考になれば、幸いです。

19971019
質問者

お礼

回答ありがとうございました。 うーん、なんでまだ仲良くしていたいんでしょう。 彼女からイエスを取り除いた部分のよさを知っているから、、、、だと思います。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
noname#197650
noname#197650
回答No.3

宗教にハマってる人はホントにタチが悪いですよね。 私の場合は、会社の上司でした。 上司の顔を立てて、初めは付き合っていたのですが、 あまりのバカバカしさに、「バカかお前」と何度もいいそうになりました。 結局、やんわりとお断りするようにしました。 私の場合はそれから完全に付き合いを断っています。 会ったり、連絡を取るとストレスになるので。 質問者様の >これからも付き合いはしていきたいと思っています。 は少々甘い気がします。 それは、さておき 私の場合は、「教えが難しいので」 とかって断りました。あとは相手が何を言っても、 「私には合わないので」と言うか、シカトしてやり過ごしました。 それでは、質問者様の悩みが解決しますように。

19971019
質問者

お礼

複数回の回答をありがとうございました。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
回答No.2

布教活動もなさってるんですか? 布教目的でないサークルで強引に布教活動をしているのであれば、モラル上の問題はあると思います。 しかし、公共の場と言っても、他人に迷惑をかけない程度なら問題ないと思います。 日本では信仰の自由が認められていますし、表現の自由もあります。 貴方を含め、第三者が不快という程度では、憲法で保障された自由を制限することは出来ません。

19971019
質問者

お礼

複数回の回答をありがとうございました。上記でお返事しています。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • yasuto07
  • ベストアンサー率12% (1344/10625)
回答No.1

あなたも他の宗教用語を使えば良いのでは、

19971019
質問者

お礼

回答してくださり、ありがとうございました。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

関連するQ&A

  • 聖書(賛美歌)の言葉を英訳したいのですが・・・

    アクセサリーを取り扱う仕事をしております。 私自身はクリスチャンではないのですが、クリスチャンのお客様に以下の文章を英訳して彫って欲しいとの依頼を受けました。 一応、自分でも訳してはみたのですが、なかなか難しいです。(自信がありません) 相応しい英訳がわかるかたどうぞ助けてください! 主の祝福が イエス・キリストの愛憐れみが 私しもべにありますように。 アーメン です。 どうかよろしくお願いいたします!

  • キリスト教の真髄について

    カトリック教徒となって久しい私ですが、最近キリスト教の真髄ともいえる「私達の罪のあがないとして、イエスが十字架に掛かって下さった」ことに躓き始めました。未信者の友人に「2千年前の異国のイエスと、現在の我々と、何の係わり合いがある?」と聞かれて、うまく答えられませんでした。 私は、ボーンクリスチャンなので、理屈ではなく、体でキリスト教の空気を吸って育ちました。 なので、友人に聞かれて、初めて「はっ」とさせられました。 毎夜FEBCの放送が私の支えですが、未だ不信仰者の私です。 お恥ずかしいのですが、贖罪のイエスの意味を分かりやすく教えて頂けたら幸いです。

  • イエス・キリストの言葉について

    新約聖書の「マタイによる福音書 24 15~16」と、「マルコによる福音書 13 14」に、イエス・キリストの言葉として次のように書いてありますが、  「預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら(読者は悟れ)、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。」 この文で、「読者は悟れ」と言う文言も、イエス・キリストが言ったことなのですか?  それとも、「読者は悟れ」というのは、マタイやマルコが書いた文言なのですか?

  • 十字架に磔にされたキリストの言葉の正しさと奇蹟

    十字架に磔にされたイエス・キリストの七つの言葉は、正しいのに。 何故、聖書には余計な「キリストの復活」という奇蹟が記述されたのですか? 1>「父よ、彼らを赦して下さい。なぜなら、彼らは何をしているのかわからないからです。」(ルカの福音書23章34節) 2>「アーメン、あなたに言います。あなたは今日私と共にパラダイスにいます」(ルカの福音書23章43節) 3>「ギュナイ、そこにあなたの子がいます」「そこに、あなたの母が」(ヨハネの福音書19章26節-27節) 4>「エロイ・エロイ・レマ・サバクタニ(わが神、わが神、どうして私を見捨てられたのですか。)」(マルコの福音書15章34節)「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」(マタイの福音書27章46節) 5>「私は渇いている(ディフォー)」(ヨハネの福音書19章28節) 6>「終わった(テテレスタイ)」(ヨハネの福音書19章30節) 7>「父よ、私の霊をあなたの手にまかせます」(ルカの福音書23章46節) 私は、十字架に磔にされ死を迎えるイエス・キリストに仏性が働いていたと思うのです。 このことから、イエス・キリストは、人が神の使途であると信じることは、他人から批判されて、罪となると云う事を示しました。 同時に、自らの信仰は人間の幸福の源であると云う事も示しました。 「キリストの復活」の記述は、キリストの言葉の正しさを台無しにしています。 イエス・キリストが示した、自らの信仰による幸福と自由を無にしています。 聖書の奇蹟は、強固な組織を作って、功利主義を導くために記述されたのですか?

  • 聖書についての質問です。イエス・キリストが律法を成就した、という言葉が

    聖書についての質問です。イエス・キリストが律法を成就した、という言葉が出てきますが、私はイエスキリストが、十字架で死に、復活することにより、律法の要求を完全に満たしたので、律法が成就され、結果律法が不必要になり、破棄されたのだという理解をしていました。  ところがある方から、キリストは罪を犯さなかったなのだから、律法を全部守ることができた。律法を完全に守って成就したのだ。その方が十字架についてくださったから十字架に意味があるのだと言われちょっと混乱してしまいました。  キリストは神ですから、律法を完全に守ることはできた方ではあったと思いますが、そういう方法を通して、律法を成就したとなると、キリストの十字架は、極論を言うと律法の成就には関係ないことになってしまうような気がして、その方の意見にははなはだ疑問なのです。  「キリストが律法を成就した」ということは、どうやって成就したのか教えてください。私は普通のプロテスタントのクリスチャンです。よろしくお願いします。

  • 「よげん」してもらいなさい。「キリスト教」

    少しキリスト教を学んでいます。 近くの学校に有名な講師の方がくるそうで、キリスト教のクリスチャンの友人に「よげん」してもらいなさいといわれました。 この「よげん」というのは「予言」の意味ではなく「預言」ですよね。 聖書のなかに「預言」とか「預言者」とかいう言葉が頻繁にでますよね。 「予言」と「預言」ってどう違うのでしょうか? 私は自分の未来のことを見てくれる人だと思っているのですが、そしてその方に「預言してください」と言いたいのですが、言葉を勘違いしていたら恥ずかしいので・・・・。 是非ともお知恵をいただけないでしょうか?

  • キリスト教の方の他宗教についての考え方

    キリスト教の方は、他宗教は一切信用しないのですか?聖書の中には、キリスト教は永遠に唯一絶対の存在である、偶像崇拝はいけない、というような内容が記されている箇所がありますが、キリスト教の方には、キリスト教以外の宗教を受け入れる、認めるということは難しいのでしょうか? 私の彼はアメリカ人でクリスチャンです。私のほうはもともと我が家が別の宗教をしており、小さい頃からその中で育ってきました。しかし、「神様はひとつ。全ての宗教の源はひとつ」という教えがあるので、私はキリスト教も仏教も全ては天地創造の唯一神からのものであると信じています。しかし、クリスチャンの彼には私のような考えが納得いかないようで、ちょっときついことを言われてしまいヘコんでしまいました。今はほとんどメールでのやりとりなのですが、その中で「クリスチャンにならないのなら一緒に歩いてはいけない」と。すごくショックでした。私は別の宗教をしているけれども、他の宗教から学ぶべきものもいっぱいあると思っています。そしてイエス様も信じているし、聖書だって読むし、教会にだって何度か行ったことがあります。しかし、彼は私が別のことをやっているというのに納得がいかないようです。仏教など他にもほんとの教えがいろいろあるだなんて信用ならないようです。私は私の教わっていること、思っていることを一生懸命に伝えましたが、まだ彼からの返事を待っている状態で、いったいどんな反応が返ってくるのかと、不安な気持ちでいっぱいです。クリスチャンの方から見れば、わたしみたいな考えかたは納得いかないもんなのですかね?

  • キリスト史観は 終えられて あたらしい世界へと。

     1. イエス・キリストは モーセやアブラハムより先にいた。   ▲ (ヨハネによる福音 1:1-5 ) ~~~~~~~    はじめに ことばがあった。   ことばは かみとともにあった。   ことばは かみであった。   このことばは はじめにかみとともにあった。   すべてのものは ことばによって成った。   成ったもので、ことばによらずに成ったものは何一つなかった。   ことばの内に いのちがあった。   いのちは 人を照らすひかりであった。   ひかりは 暗闇のなかでかがやいている。   くらやみは ひかりをとらえ得なかった。   ▲ (マタイによる福音書 13:16-17) ~~~~~   16:しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。    あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。   17:はっきり言っておく。    多くの預言者や正しい人たちは、    あなたがたが見ているものを見たかったが、    見ることができず、    あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、    聞けなかったのである。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    2. つまり ヨハネ福音のほうは キリスト・イエスについて語っており マタイのほうはイエスがみづから語った言葉です。  3. これにしたがうと イエスは キリストなる神として モーセやアブラハム(=《預言者や正しい人たち》)よりも前にいたことになります。    4. その正否をうんぬんする前に すべては表現の問題であるというようなかたちでここでは扱います。その表現の歴史としてでも 世界は動いて来たと見るひとつの主題です。  5. すなわち キリスト・イエスを俟ちのぞみつづけた歴史。これをメシアを待望するという恰好のキリスト史観と名づけます。    6. さて そのアブラハムからの二千年ほどの歴史は 別の質問で取り上げていますので措いておきますが たとえばイエスの時代において ペテロを初めとする弟子たちも イエスがメシアだとは分からなかった。という問題があります。  7. イエスが十字架上に去って行ったあと初めて かれがキリスト・イエスだと分かった。イエスが捕らえられたときには 自分たちは逃げ去ったほどでした。  8. 生前には――イエスはみづからが神の子であると自称さえしていたが―― ペテロらは 分からなかった。口では言っていたが 《虚構――イエスの大嘘――》を捉え得なかった。この問題です。  9. それは 次の聖句を引き合いに出して説明されるようです。   ▲ (出エジプト記 33:21-23) ~~~~~   21: 更に、主は言われた。     「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。     あなたはその岩のそばに立ちなさい。   22: わが栄光が通り過ぎるとき、     わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、     わたしが通り過ぎるまで、     わたしの手であなたを覆う。   23: わたしが手を離すとき、     あなたはわたしの後ろを見るが、     わたしの顔は見えない。」   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  10. つまり 生前のイエスについては 弟子たちの目は覆われており イエスの正体が分からなかった。死後やっと キリストの背面を見ることが出来た。《顔――神なる真理そのもの――》は 見えない。と。      11. でも キリスト史観は 成就した。と――言うなれば《ことばの民》なる民族にとっては ことば・ことば・ことば・・・として歴史が推移するというかのように――捉えられているものと考えられます。    12. この虚構が なかなか捨てがたいようだと思われ 受け容れられたのでしょう。どこまで分かったのかを別としても。  13. ことばを《こと(事・言)の端》として捉える民にとっては このキリスト史観をどのようにあつかうのがよいか?   13-1. たぶん 辻褄は合っている。か。   13-2. 二千年ものあいだ 語られたコトバを追って 人びとの歴史がいとな        まれたと言われても こたえようがない。か。  14. といった問題もさることながら――つまり 一応そう触れておいた上で―― ここでは このキリスト史観について それが成就した途端にもうその使命を終えたという見方を持ちます。  15. そうして そのことによって 世界のすべての人びとにとって あたらしい世界を用意した。と考えます。キリスト史観がです。  16. あたらしい世界とは 何か?   17. あえてこの質問ではたたき台を必ずしも用意せず みなさんからいろんな見解をお聞きしたい。否定的な見解もありましょうが どうでしょう?  18. 質問者のひとつの焦点は キリストの背面を人間は見ることが出来たとするのならば そのような《神のうしろ姿》とは どういうことか? です。  19. 神の正面の姿を見ることができる(出来た)と説くシュウキョウの問題もあるかと思いますが・そして質問者としてはそういうふざけた自己表現はもう論外としたいと考えていますが いづれにしましても どうでしょうか?

  • キリストが人殺しを許すのは何故

    昨日、短気なアメリカ人クリスチャンの彼と喧嘩した時に、聖書の教えを守る守らない以前に、もっと人として大切なことあるんじゃない?と聞きました。彼は婚前前交渉NGとか、イエス様がヤキモチやくからイエス様以外への祈りNG、とか禁止事項的なものを頑なに守り抜いていますが、人として何か大切なことを欠いている気がすると前々から思っていました。クリスチャンじゃない日本人のほうが考え方大人だなと感じたこともあるし、心が広いと感じたこともあります。(人を許せなかったり怒りやすかったり。それなのに彼と付き合っているのには、それ以外で彼の魅力があると感じているからです) すると、人間は完璧にはなれないからいい人になんてなれない、と言い張ります。 私の言っているのはそういうことではありません。神と比べてどうこうじゃなくて、人として、人間レベルでのことを話していたのです。 殺人者も自分も、罪を持つ人間には変わりはない、と言っています。 もう呆れました。 人間は罪を持っているけど、神は慈悲深いから人間が神に許しを求める限り、救われたいと思う限り、神は許してくれるのだそうです。 この考えは知っていましたが、 じゃあ人殺しの人はどうなるのか、 と思いこんな質問をしました。 なぜ、許しを求める限り殺人者は神によって許されるのか。 被害者の人生はやり直せないのに 殺人者の人生は何度でもやり直せるのは何故か。 シェイクスピアの言葉で、 人殺しを許す慈悲は人殺しを育てる、みたいなのがありますが、 これを支持する私にとって、 殺人をも許す神は慈悲深いとは言えない、と思います。 むしろ神のしなければいけないことは、殺人を許すことではなく被害者の命を殺人者から守ることではないのですか? それができない神がなぜ全知全能なのですか? また、キリスト教者であればどんな人でも救われるが、キリスト教者によって殺された人は救われないのですか? とにかくこの問題について納得したいです。これが解決されない限りキリスト教を好きになれません。それが意味することは、キリスト教を好きになれなければ彼のことも完全に愛せないということだと理解しています。別れないために解決策を求めているので別れたほうがいい、というご意見はお控え頂けると嬉しいです。 特にクリスチャンの方、よろしくお願い致します。 散文で大変申し訳ないです。

  • キリスト史観

    (1) イエス・キリストは モーセやアブラハムより先にいた。  ▲ (ヨハネによる福音 1:1-5 ) ~~~~~~~   はじめに ことばがあった。  ことばは かみとともにあった。  ことばは かみであった。  このことばは はじめにかみとともにあった。  すべてのものは ことばによって成った。  成ったもので、ことばによらずに成ったものは何一つなかった。  ことばの内に いのちがあった。  いのちは 人を照らすひかりであった。  ひかりは 暗闇のなかでかがやいている。  くらやみは ひかりをとらえ得なかった。  ▲ (マタイによる福音書 13:16-17) ~~~~~  16:しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。   あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。  17:はっきり言っておく。   多くの預言者や正しい人たちは、   あなたがたが見ているものを見たかったが、   見ることができず、   あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、   聞けなかったのである。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    ☆ ヨハネのほうは キリスト・イエスについて語っており マタイのほうはイエスがみづから語った言葉です。  これにしたがうと イエスは キリストなる神として モーセやアブラハムよりも前にいたことになります。    その正否をうんぬんする前に すべては表現の問題であるというようなかたちです。その表現の歴史としてでも 世界は動いて来たというひとつの主題です。  (2) イエス・キリストを俟ちのぞみつづけた歴史。  アブラハムは 七十歳をすぎているのに この神から――あたかもお告げがあるかのように―― 《故郷の地を去って 行きなさい》と言われ そのようにしました。  その子孫としてモーセは その神に名を尋ねたとき    《〈わたしはある〉 それが わたしである》              (出エジプト記3:14)  という答えを得たと言います。  さらにそのあと 伝えによると ダヰデという人は     《きょう わたしは おまえを生んだ》(詩編2:7)  という言葉を その神から聞いたそうです。  イザヤという人に到っては 《主なる霊が わたしに臨んだ》と表現する歴史に到りました。    これは主がわたしに油を注いで     貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね     わたしを遣わして心の傷める者をいやし     捕らわれ人に放免を告げ・・・(中略)・・・るためである。               (イザヤ書 61:1-3)  (3) 俟ち望まれたキリスト・イエスの登場。  その後 時は飛んで――アブラハムからニ千年でしょうか―― イエスという人が出たというわけです。  イエスが 《自分の育ったナザレに来て いつものとおり安息日に会堂に入り 聖書を朗読しようとして立ち上がった》時のことです。        すると 預言者イザヤの巻き物を渡され 開くと次のように書いてあ   る箇所が目に留まった。      主の霊がわたしに臨み      油をわたしに塗った。      主がわたしを遣わしたのは      貧しい人に福音を伝え      捕らわれ人に解放を・・・告げ知らせるためである。          (つまり イザヤ書61:1-2)    イエスは巻き物を巻き 係りの者に返して席に坐った。会堂の人びと   は皆 イエスに目を注いでいた。そこでイエスは      ――この聖書のことばは 今日 耳を傾けているあなたたちに       実現した。   と話し始めた。         (ルカによる福音4:17-21)  (4) このとき――さらには 十字架上に去って行ったそのときに―― 言わばキリスト史観が完成したと思われます。  神と人間との関係の歴史が――人間のことばによる表現上―― ここまで 及んだのだと捉えられます。  まるで 千年二千年もの時間をかけて ことばをもてあそぶかのように。  (5) 理論としては 存在論である。  《存在》――《わたしは ある(エフイェー)》――をめぐる理論としては これで 完成だと言ってよいのではないでしょうか。  《わたしはわたしである》という自己到来とその自己の自乗(冪)を繰り返す動態。  (6) アブラハムやモーセや ダヰデやイザヤらは このイエスの登場を待っていたと どうして言えるのか?  むしろイエスの退場の仕方に焦点が当てられる。     (α) イエスは磔にされたまま 人間として去って行った。その意味は もし《神の子なら そこから降りて来てみろ》とあざける声を承けて神として十字架から降りて来ていたなら それは神の力による奇蹟であろう。だから そんなことは 人間には出来ないと人びとは思ってしまう。   (β)  けれども人間としてだけではなく 神として去った。その意味は もし人間としてだけならば それは単なるひとりの殊勝なしかも目立ちたがり屋の人間がやったことだ。で済んでしまう。   (γ) つまりその暗闇の中でかがやく光は ただ道徳や信念やあるいは科学としての光に終わってしまう。   (δ) あるいは ひとりの奇特なやからの一編のパーフォーマンス(芸術作品)だと見なされて終わってしまう。   (ε) すなわち確かに闇を照らす理性の光あるいは感性の輝きとして世界を明るくしたかも知れないが そこまでである。闇そのものを晴らすことは出来ない。   (ζ) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあて照らしただけではなく イエスはみづからがキリストなる神として わが心の燈心に火をともすことを成した。   (η) それは 人間にできることではない。神・その霊のみがよく成し得る。と示した。   (θ) しかもこれらすべては 大ウソである。一編の虚構である。   (ι) この虚構が 虚構ゆえにも 世界史上ただひとつの特異点であり核反応である。  (7) ペテロや弟子たちも イエスが去って行ったあと初めて キリスト・イエスだと分かった。  生前には――イエスはみづからが神の子であると自称さえしていたが―― ペテロらは 分からなかった。《虚構――イエスの大嘘――》を捉え得なかった。  ▼ (出エジプト記 33:21-23) ~~~~~~~~~  21: 更に、主は言われた。    「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。    あなたはその岩のそばに立ちなさい。  22: わが栄光が通り過ぎるとき、    わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、    わたしが通り過ぎるまで、    わたしの手であなたを覆う。  23: わたしが手を離すとき、    あなたはわたしの後ろを見るが、    わたしの顔は見えない。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ というふうに 生前のイエスについては 弟子たちの目は覆われており イエスの正体が分からなかった。死後やっと キリストの背面を見ることが出来た。《顔――真理そのもの――》は 見えない。      (8) というふうに 言わば《ことばの民》にとっては ことば・ことば・ことば・・・として歴史が推移すると捉えられているものと考えられます。    この虚構が なかなか 捨てがたいようだと思われ 受け容れられたのでしょう。どこまで分かったのかを別としても。  (9) ことばを《こと(事・言)の端》として捉える民にとっては このキリスト史観をどのようにあつかうのがよいか?  ・ たぶん 辻褄は合っている。か。  ・ 二千年ものあいだ 語られたコトバを追って 人びとの歴史がいとなまれたと言われても こたえようがない。か。  (10) ユダヤから見て異邦人のあいだに このキリスト史観を共有する人間はいるか?  世界は このキリスト史観を受け容れただろうか?  ただしその実質的な内容は 人びとに元気をあたえること。人びとが元気になること これだけである。