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キリスト教の真髄について

カトリック教徒となって久しい私ですが、最近キリスト教の真髄ともいえる「私達の罪のあがないとして、イエスが十字架に掛かって下さった」ことに躓き始めました。未信者の友人に「2千年前の異国のイエスと、現在の我々と、何の係わり合いがある?」と聞かれて、うまく答えられませんでした。 私は、ボーンクリスチャンなので、理屈ではなく、体でキリスト教の空気を吸って育ちました。 なので、友人に聞かれて、初めて「はっ」とさせられました。 毎夜FEBCの放送が私の支えですが、未だ不信仰者の私です。 お恥ずかしいのですが、贖罪のイエスの意味を分かりやすく教えて頂けたら幸いです。

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こんにちは > 贖罪のイエスの意味を分かりやすく教えて頂けたら幸いです。 私は、ボーンクリスチャンではありませんが、若いころにプロテスタントとカトリックの両方のキリスト教に触れ、個人的にキリスト教を信仰している者です。 私なりに理解している贖罪と救いの考えをこれから述べますが、ご参考になれば幸いです。教理を教えるのは責任が伴います。誤った教理では天国へいけなくなるからです。この私の回答をどなたか神父様がご覧になってチェックしていただけると幸いです。 創世記にあるように、人類の始祖にあたるアダムとエバが罪を犯したために、人類は「神との離反」「死」という罰を受けました。 神との離反とは、どんなときでも神とともにいたはずなのに、神を忘れ自分で善悪を云々し始めたことです。「死」は読んで字のごとくですが、、人類は死に始めます。 アダムとエバが犯した罪を「原罪」と呼ばれています。「原罪」のために、人々は神を忘れ、勝手なことをして罪が広がっていきます。「罪」には、罰としてさまざまな迷いや苦しみが与えられます。 イエスは人々の罪を購うために来られました。エバから罪が入って来たたように今度はマリア様から救いが来たのです。(Ave Maria のAveはEvaの逆になっています) 罪の購いの意味を説明しますと、罪には必ず罰が来ます。善行には祝福が来ます。神様は公平な方ですから。購いとは、罪を犯していても罰を与えないということです。そのためには代わりに罰を受ける人が必要です。イエス様は人々の罰を代わりに一身で受けられて、十字架に刑死されたのです。これによって人々の罪は赦され、天国への道が開かれました。但し、モーセが荒野で青銅のヘビを掲げ、このヘビを見たイスラエルの民が助かったように、十字架上の人の子(イエス様)を信仰(罪の赦しがあると信じること)をもってを見る人々の罪は赦されます。さらに、イエス様は死後3日目に復活されました。天国は決して絵空事でなく、現実に存在することを示されました。 長くなるので、これ位で止めます。お役に立てたなら幸いです。

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質問者からのお礼

カトリックでは、ごミサの中で「神の子羊。世の罪を除きたもう主よ」と唱えます。ご回答を拝読して、この言葉を思い出しました。eva と ave…初めて気がつきました。 有難うございました。

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キリスト教に付いては門外漢ですが、心の問題には興味があります、信仰心は有りませんが、宗教には興味があります。心の問題において『宗教が関係している。』と考えている者です。 罪の意識『原罪』は何もキリスト教においてだけの事ではないと思います。仏教においては『業』と云う言葉が当てはまります。 原罪も業も、同じ事を言葉を替えて言っているだけと思います。その意味は『生き難い想い』です。心に掛かる圧迫感です、漠然とした不安や、何処から押し寄せているのか分らない、不気味な感覚です。 精神科医などが存在していなかった時代の事です。『訳の分らない漠然とした不安や、湧き上がる恐怖感』の事を言っていると感じます。 湧き上がる不安に対しては、大抵の場合にはその原因が存在しています。お金がない場合では『食べてゆかなくては生きていられないと言う餓死に対する不安です。』身体に付いての場合や健康に関する不安なども『生命を脅かされている事に関しての不安です。』 『生きている間には』数限り無く不安が付きまとっています。ですがその不安の根底に潜んでいるものは、『唯一つだけです。』その原因とは『生と死に対する不安や恐怖』が、自覚出来なくとも『潜んでいる事です。 ですが、死の不安の元を辿ってゆく場合、又一つだけの原因に突き当たります。それは『恐れです。』 その恐れの原因の解消が『宗教の目的として』宗教文化の発展を促してきた事です。 その恐れの原因にまでたどり着いた場合に『全ての恐れが解消できる事』を意味します。それが宗教の目的です。『魂の救いとか、開放』を意味します。 永遠の命を求めていながら、『自分の死を認めなればならない事』が人間の苦しみになっている、と言う意味です。 有限の壁の前で、その壁を乗り越えられないでいる自分が、『全ての原因を作っている存在』と言う意味です。 永遠を嗜好していながら、永遠の存在になれないでいる自分が『人間の苦しみになっている事』を意味します。このジレンマからの開放が『宗教文化として花開いています。』 こういう芸当など出来る筈がないと思う心が『死に対する恐怖感となっています。』 罪の意識が芽生える事は、人間の脳の発達から言うなら当然の事柄です。脳の機能分化から言うならばです。そこで人間の脳の機能を簡単に説明しているものを紹介します。注目するべきは『一人の人間の脳内に、意識が二つ在る事です。』 ”ロジャースペリー 分離脳 ノーベル賞受賞者 受賞年:1981年 受賞部門:ノーベル生理学・医学賞 受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究 ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が 『それぞれ独立した意識』 を持っていることを実証した。” この二つの意識と『罪の意識が関係しています。』天国に一番近い存在が幼子、と言う意味は『未だ脳の機能分化が発達していないために、一つの者として働いているからです。』この状態が『知恵が付かない状態です』裸で何処にも行けて、裸でも恥ずかしいと思わない状態です。 思春期頃から『恥ずかしいことが判り始めます。』悩みも始まります、人と比べたり劣等感を持ったりします。この現象を『失楽園』と表現しています。丁度、中二病といわれる頃です。 この頃から精神疾患も多くなったり、神経症にもなり始めたり、自律神経失調症なども始まる頃です。こういう現象が『失楽園』と言われる由縁です。 又この頃から『自分は何者か?とか人生に付いて深く思考を巡らせたり』し始めます。 自分の心と会話が始まると言う意味です。そうして心が仲違いしたり、矛盾したり、分裂したり、対立を始める事を意味します。 脳の機能を説明するなら『左脳の意識』は自我意識です、或は顕在意識です。言葉で考えて、言葉で全てを処理する機能です。この言葉で全てを理解しようとする機能のために『人間が苦しむ事になります。』 この意味は、言葉を理解する機能では『永遠』は理解出来ないからです。永遠は『計算では割り切れない事柄の総体の別称だからです。』『割り切れない事柄を無限』と読んでいる事からも理解出来ます。 それに対して『右脳に存在する意識は』全ての意識と繋がっている存在です。生命として芽生えた瞬間から働き始めている意識です。細胞分裂でさえ熟知している意識です。 生まれるや否や『泣く事も笑う事も、不安になる事も安心する事も既に知っている意識です。』櫻ならその種としての色や形や匂いまでも体現できる意識です。昆虫でも動物でも『命あるものに既に備わっている意識です。』 お釈迦様が『一切衆生悉有仏性』と言った働きをする意識です。言葉にするなら『命あるものに働く命の働きです。』 右脳の意識が、良く表現出来ている動画がありますので参考にして下さい。注目する事は『右脳からの情報によって』自我意識に感情が湧きあがっている事です。 そうして『自覚出来なくとも、意識の根底では(脳梁の神経線維の中で)二つの意識が絶えず相談しながら、生命活動が維持されている事です。』 脳科学者が脳の障害によって、左脳の意識が出ている場面と、左脳の意識が薄れてゆく様を表現しています。 URL:http://www.youtube.com/watch?v=ldSoKfFYKqM 右脳の意識は『生命維持装置として働いている意識です。』その機能は『身体の生物としての維持装置や植物(ホルモンや神経系統)として働い手いる機能』と そうして『行動する人間としての生命維持装置として働いている機能』と 『思考したり、感情として、湧き上がる心の操作によっての生命維持装置として働いている機能』です。 人間が感じる苦しみには大別した場合には、前記の働きと仲違いを起している場合です。つまり『心の矛盾を』どのように感じているのかが、その人が『自分の心の何と仲違いしているのか?』と言う意味になります。 一番目が『自律神経失調症や、過敏性腸症候群や、難治性の心身症』と云う事です。 二番目が『神経症』になります。自分の身体が自分の云う事を聞かないと錯覚する場合も生じています。 三番目が『心を病む事』になります。この場合も自分の心が、自分の言うことを聞いてくれないと言う錯覚をする場合もあります。 この三つの障害と思われるものは全て『心の矛盾の産物です。』共通項は『漠然とした不安です。』その他の共通項は『全てが検査をした場合では、異常がない事です。』 他の共通項は『意識する事』です。この意識した内容を『症状』と呼んでいます。その意識した状態は『意識地獄です。』 この状態からの開放が『魂の救いです。』 命の働きは『無意識の自分の身体と、行動と、心』を支配しています。簡単な言い方をするなら、『無意識の自分に、任せてもらいない事を』漠然とした不安として訴えています。 自分の『無意識からの無言の抗議が』何処から来るのか分らない漠然とした不安の正体です。 心の矛盾の解消が『宗教の中に存在する理由は』自分自身を知れと云う事になります。禅で言う『見性体験です。』 キリスト教における『神との和解です。』この意味は二つの脳における回路構成の確立です。是以後『二つの意識には争いごとが起きなくなる。』と言う意味になります。 二つの意識の間で『主導権いが起きている事を意味します。』自我意識がその戦いに負けて『自我意識が折れることを』『大死一番』と表現します。もう二度と主導権争いをしなくなると言う意味です。 自我意識が『命の働きの意志』の前に立とうとしない状態を『神の思し召しのままに』と表現しています。キリスト教的な表現方法をするなら『神の僕となる』です。 仏教的な表現方法をするなら、『自分に感情を湧きあがらせていた者に出会う事によって、生死の問題が解決する。』です。 表現方法は違いますが、心的な内容は同じです。共に心の矛盾が解消する事によって、二度と心が騒がない事を意味します。心の中が飽く迄も静まり返って、静寂に満ちた様の事です。この境涯を涅槃と表現しています。 博士のように『右脳に沿った生活の中に』安楽に満ちた安心できる世界があります。

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質問者からのお礼

ご丁寧なコメント有難うございます。しかし、原罪はおっしゃることと少し違うような気がします。… 参考にさせていだきます。

  • 回答No.9
  • luci529
  • ベストアンサー率38% (54/140)

私はキリスト教徒ではないのですが イタリア人のキリスト教の方に『カインの妻はどこから現れたのか?』と聞いたことがあります イタリア人は笑いながら矛盾だらけだし、間違いだらけだよ、気にするな そのようなことを言っていました 私はその辺がキリスト教の良いところだなと感じました 深く考えると詰む 思想を形成する為に細かな情報を要する人には向かないのかも知れませんね

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質問者からのお礼

信仰は理屈ではないのだな、とは日々感じています。イタリア人のおっしゃることは一理あるかな。さすがラテン系ですね。(笑) 有難うございました。

  • 回答No.8
  • hisya
  • ベストアンサー率22% (65/285)

キリスト教はスケールのでかい宗教です 世界の人々を救うという途方もない物語なんです >「2千年前の異国のイエスと、現在の我々と、何の係わり合いがある?」 と聞かれて、うまく答えられませんでした 普通の人はイエスをただの人と考えるからそうなるのです 科学的に考えたらイエスは死んでおしまいです(当たり前の話です) キリスト教徒はイエスをただの人とは考えません 信仰的に考えたらイエスは復活します(信じるかどうかの話です) 要するにイエスはただの人ではなくてキリスト=救世主なんです しかもスケールがでかくて人類を救う=救世主なんです(神の子) それで、現在のわれわれは人類の一員なんだから係わりがあるのです 原罪=アダムとイブの物語→最初の人間(人類の罪) ↓ 贖罪=イエスの十字架の意味→キリスト=救世主(人類の救い) >「私達の罪のあがないとして、イエスが十字架に掛かって下さった」 キリスト教の成立過程において一番はじめにあったのは イエスの十字架と復活の物語なんです(口語伝承) つまり復活した事実のみがまず伝わったのです その後にイエスの十字架と復活の意味つけが始まります ヨハネのように神の愛を強調する人もいますが 神学的に体系化して論じたのパウロです(学のある人ですね) パウロの原罪説や贖罪説は宗教ではよくある考え方ですが 世界宗教なだけにキリスト教はスケールがでかいのです 原罪説=いろいろな宗教にある先祖の因縁の人類版と考えればいいでしょう ↓ 贖罪説=いろいろな宗教にある生贄や供え物の人類版と考えればいいでしょう

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質問者からのお礼

分かりやすい回答を有難うございます。原罪と贖罪の関係が、今ひとつしっくりいかなくて悩んでいます。参考にさせて頂きます。

  • 回答No.7

 こんにちは。  いくつかの主題に分かれると思います。  論点も多いはずです。  ★ 贖罪のイエス  ☆ という主題は イエスが出たなら もうどうでもよいとわたしは考えるものですが でもこの主題について ふたつの論点と言いますか 重要な事柄を提出します。  ひとつは 《贖罪》論という見方はあるし それとして成り立つと思いますが これを集団としてひとつの決定的な理論として共有するという意味での宗教というものは 要らないという論点です。  要りません。  なぜなら 神は《アブラハムの神 イサクの神 ヤコブの神である》というように 一人ひとり個人にとっての問題であるからです。つまり 信仰の問題であり これは 組織としての宗教とは何の関係もありません。  そもそも《教会》という制度じたいが めちゃくちゃな人為的な産物です。  もうひとつは 次のような見方には何の意義もない。それどころか イエスの意義をころしてしまう宗教的狂気に発する見解だと見ます。  ★ 「私達の罪のあがないとして、イエスが十字架に掛かって下さった」  ☆ もしこのようにイエスが 人類のために死んだというのなら そんなけちなキリスト・イエスはありません。おい おまえたち おまえたちの原罪をあがなってやったのだ ありがたいと思え。なんて 言うわけないでしょう。  ぜんぶそれらは ローマ教会やその後の組織宗教の錯乱せる見解です。    自分で勝手に十字架の磔になるようふるまっただけです イエスは。と言うか キリストはです。

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質問者からのお礼

有難うございます。ひとつの意見として参考にさせて頂きます。 …

  • 回答No.6

家族全員体でキリスト経の空気を育ったカトリックですが、日曜日の礼拝に行っても、コックリクックリ寝てしまう信者です。何か悪いことしたと気がついたらその場で反省、再び繰り返さないように気をつけているので、懺悔もしたこともありません。ミサでもいまだに立つときや座るときも間違います。聖体拝授も、ほぼ強制されるようなときだけです。 真剣にキリスト経の教えも考えたこともなし、深く考えようともしないですが、わたしが死んだときに家族が葬式のしかたでこまらないように、他の宗教には見向きもしません。ロザリオは誰か死んだときの付き合いでしますけど。わたしのまわりの80%くらいはわたしと似たりよったりの程度。  それでも、立派なカトリック信者です。 時々、勧誘にくるエホバの証人の人は聖書を丸暗記しているし、こじつけ理由も上手ですよ。エホバの証人の人に尋ねられたんじゃないですか? 彼らに答えられなくても、立派なカトリック信者です。

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質問者からのお礼

友人はエホバの証人ではありません。 私も不良カトリック信者ですよ。(笑) 教会内の人間関係に躓き、教会を離れた時期もありました。でも、私の魂のどこかで、ぶどうの木の枝としてイエス様に繋がっていたい気持ちがずっとあります。 こんな私でも、憐れんで下さる神様が支えです。

  • 回答No.5
  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2419)

>>贖罪のイエスの意味を分かりやすく教えて頂けたら幸いです。 ○解釈は多少違うと思いますが、「私達の罪のあがないとして、イエスが十字架に掛かって下さった」は本当のことですね。 ここで言う「私達の罪」の「私達」とは2000年前のイエスの弟子達のことです。イエスの弟子たちは自らの主であるイエスを見捨てて逃げた。ここに罪があるのです。特にパウロはイエスを十字架にかける側にいたのです。パウロも後に改心してイエスの伝道者として立派に人生を全うされましたが、救世主を信じるべき弟子が裏切ったという事実が深い罪意識になったのですね。 これは2000年ほど前にあったことですが、いつの時代でも誰にでも同じ状態になりうるということなのです。 イエスは「何故、私の言葉を信じないのか。何時の隣人を愛せよ。愛を与えよ。それを実践する時、我はあなたの傍らにいる。」と言っているだけですね。 イエスを裏切り続けたのは弟子たちなのですね。あなたもその一人にならないようにということなのです。 一方、当時のユダヤの民衆、やローマの執政官がイエスを罪人として十字架にかけたことは事実ですが、彼らに罪意識等なかったことはわかるでしょう。現在でも死刑囚に対する死刑が実行されても誰も気にしてませんね。それと同じです。 当時の民衆などに罪意識等なかったわけですが、イエスは救世主であったので父はお怒りになったのですね。 だからユダヤの民は国を失い2000年の流民となったのですね。救世主を屠った罪は贖ってますね。 イエスの愛の教えは、時代を超え、国を超え不変ですから、イエスの弟子でありたいのなら、愛の教えを実践することですね。それから救世主が現れた時に反対のものにならないことですね。 すでにイエスは現在のクリスチャンに対して現代のパリサイ人、サドカイ人になるなかれ。とおしゃられていますよ。なぜならば、イエスのお考えが私にわかって、あなたたちクリスチャンと称するものにわからないからですね。イエス様は霊的にですがほとんど日本にいるのですよ。その意味では現代の日本は2000年まえのユダヤの国であり、東京は現代のエルサレムですね。

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質問者からのお礼

ご丁寧なコメント有難うございます。 私達の中には、サドカイ人、パリサイ人、イスカリオテのユダ、ペトロ、トマス、そしてサタンも存在するのですね。けれど、 死刑に関しては、私は肯定派です。自分の罪を棚にあげて、情けないクリスチャンですが、死刑に関してはどうしても廃止論を肯定できない理由があります。

  • 回答No.4
noname#155457
noname#155457

『私達の罪のあがないとして、イエスが十字架に掛かって下さった』という考えはとんでもない誤解です。あなたのお友達の言うとおりです。 私はクリスチャンの考えに疑問を持っています。 神のことば、神の戒めを持ってお生まれになったのは誰ですか? イエスキリストですよね。 しかし、クリスチャンはイエスキリストの言葉を無視して、パウロなどのことばを信じているのは一体どういうことでしょうか。 パウロはイエスキリストと反対のことをいっているのですよ。 私はイエスキリストの言葉を第一に信じるべきだと思います。 聖書を読み、ご自分の考えで真理を探究するべきだと思います。 ********************************************** 『狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。』 (新約聖書) ********************************************** ここに書かれているように、簡単に本当のクリスチャンになれるわけではないのです。 牧師・神父・クリスチャンは『まれ』な者ですか。 滅びに至る門からゾロゾロと入っていませんか?

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質問者からのお礼

すみません。エホバの方でしょうか? 私の質問からは逸れていらっしゃるようなので、折角のご丁寧なアドバイスがわかりません。申し訳ありません。

  • 回答No.3

>未信者の友人に「2千年前の異国のイエスと、現在の我々と、何の係わり合いがある?」と聞かれて、うまく答えられませんでした ご友人のご質問はクリスチャンでない方には当然の質問ですが、この質問に対してはだれも彼の望むように理論的に、また学術的に反論されないような論旨を組む立てることはできません。これは信じて始めて答えることができるものと思われますので、ご質問者さんが新たに信仰を回復することにより説明できると思います。 聖書に以下のような記載があります。 世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1章29節) 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」(マルコの福音書2章10節) >贖罪のイエスの意味を分かりやすく教えて頂けたら幸いです。 繰り返すようですが、信仰を回復することがご理解の近道と思いますが、聖書が述べる構図は概ね以下のようなものではないかと思います。 1)アダム以来、人には罪がある。つまり「義人はいない一人もいない」とあるとおりです。 2)罪の苦しみから人類を救うために神はイエスをこの地上に人間として送りました。それは人間を救うためです。イエスはしかし同時に神でも在りました。 3)それは正しい神と人間とを和解させるためでした。しかし人には罪があるために、神との関係が成立しません。 4)そこで罪のないイエスキリストに全人類の罪をかぶせて、人々の身代わりとして十字架でイエスを死なせました。「罪の支払う報酬は死である。」という言葉の通りです。 5)イエスの身代わりにより、神は人々を許すことにしました。 6)従いまして、イエスの身代わりの死を信ずるものはその罪を赦してもらえます。 罪の支払う報酬は死であるならば、私どもは死刑に値するものであると聖書は述べているとも言えます。しかし 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。(ヨハネ黙示録3章20節) 誰でもそのままでイエスを受け入れるならばクリスチャンとして幸いな生涯を送れますよと述べているのが上の聖書箇所です。信仰の回復をお祈り申し上げます。

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質問者からのお礼

「信仰のない私をお助け下さい」と言ったペトロのような私です。紹介下さった御言葉も知っていますが、それでも不信仰な私です。神様が、そんな私を憐れんで下さるように…。 ご丁寧なアドバイスを有難うございます。

  • 回答No.2
  • ri-zyu
  • ベストアンサー率30% (184/611)

  私はクリスチャンでもないですし難しい事はよく判りませんが、判ったからと言って救われるんですかね。。   判らないよりはいいでしょうが、仏教の浄土真宗の方では阿弥陀の救いを信じる事は第一義だと 思っています、教行信証とは歎異抄とか書物はありますが、浄土真宗もキリスト教も他力宗ですが 楽しい時も苦しい時もひたすらキリストを信じる事のような気がしますが。 このカテには知識豊富な方がたくさんいますのでもう少し待たれたら いいご意見が聴けるかも知れませんね。

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質問者からのお礼

理屈ではないと、重々承知の上で、書きました。有難うございます。

  • 回答No.1

自分はクリスチャンではないのですが・・ イエスの贖罪についてはそもそも人間が原罪を抱えているということ。 生まれながらにして罪と共に生まれてくるということですね。 そしてキリスト教における契約です。 イエスは万人の子羊のため その罪の贖罪として これまでとこれから生まれてくる全ての人々の罪を背負って 十字架に自らかけられたということですよね。 それ故にイエスに祈りを捧げ その行いを讃えると共に神と精霊と子の繋がりの証として 自らの信の証明とする。 これがキリスト教におけるイエスに対する祈りであると考えます。 むろん細部は宗派や地域によって違いはあるのでしょうがおおまかには。 何にせよ良く在りたいと思う純粋な心には いかなる宗教教義であろうと 自分はその意思に敬意をはらいます。

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質問者からのお礼

最後のお言葉を読み、嬉しかったです。 参考にさせて頂きます。有難うございました。

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  • キリスト教とエホバの証人との違い

    私は、プロテスタントの信者です。 信者暦は、1年ほどです。 生きていると、いろいろな宗教をお持ちの方に お会いします。不思議ですね。 ところで、私は「エホバの証人」の方にお会いしました。 厳密に言うと、その信者の娘さんです。 ここからが、本題なのですが、「エホバの証人」と私たち「キリスト教(カトリック、プロテスタント)とどこが違うのでしょうか? よく、キリスト教会のHPを見ると⇒(エホバの証人、モルモン教、統一教会とは無関係?)のような、記載がありますよね。 しかも、ウィキペディアで調べたのですが、キリスト教信者にとっては、 彼らは「異端」だと・・・・。でも、彼らにとっては、こっちが「正統」と思っていると、簡単に記載がありました。 宗教者同士の対立は避けたいと思います。 理由:(1)信じることは、大事である。    (2)信仰は、自由である。    (3)信じることに、対立があってはおかしいから     ということで、簡単にご説明願います。

  • キリスト教で言う『神は愛なり』について

    キリスト教では『神は愛なり』と言っていますが、何故そう言えるのか、実感が湧きません。 神が愛であるということが実感できるような具体的な事柄を教えて戴きたいと思います。 人間の罪を購うために、父なる神がその子イエスをこの世に遣わし、イエスが十字架上の死をとげることによって、人間の罪を許したのが、神の愛の証拠だと言われても、信じる人には有難い話かも知れませんが、普通の人間にとっては、全く馬鹿馬鹿しい荒唐無稽の話としか思えません。 もし、神が全能であって、人間の罪を許そうと思うなら、なにもイエスを地上に派遣してイエスを死なせるなどとややこしい小細工をしなくても、いくらでも許せるのではないでしょうか? しかも、この話を信じた者は救われるが、信じない者は救われない、と言うのでは、なおさら、神はえこひいきの神としか思えません。 クリスチャンの方々から見れば、とんでもない、不遜な質問ですが、真面目に悩んでますので、信者さんの信仰告白的な話ではなく、信者でなくても、普通の人間でも神の愛を感じざるを得ないような、具体的な「事実・事柄」を教えて欲しいと思います。 勿論、人によって感じ方の差はあると思いますが、具体的な「事実・事柄」を教えて戴ければ、それを神の愛の表れだと感じられるような人間になれれば幸せだと思っています。

  • 十字架そして復活

    十字架にかかったイエスは個体としての肉体がよみがえったのでしょうか? キリスト教を人に説く方はこれをどのように本当だと思っているのでしょうか? キリスト教を人に説く方は信仰における自己の道での十字架を受ける決心なのでしょうか?

  • 科学と宗教について

    哲学のところでする質問かわからないのですが・・。 科学と宗教を同等のものと見る見方がありますが、納得いきません。 科学信仰なんていう言葉があることさえ理解できません。 科学は宗教と違って、全ての人にとって客観的に、事実として存在するものです。 熱心なキリスト教信者も「イエスは存在します。」と、疑いなく言うでしょうが、それとこれとは違うでしょう?イエスは、そのキリスト教信者の心の中には確かにいると思いますが・・・。 “僕は~教を信じていません。だから僕の中には神はいません。”と言うことは論理的ですが、“~教徒は科学を信じていません。だから彼の中には科学は存在しません。”とは言えません。もしそう言えるならば、彼の乗った飛行機は墜落してしまうでしょう。 (宗教がデタラメだと言う気は全くありません。) どなたか助言をよろしくお願いします。

  • キリスト教の教義について教えてください

    最近友人がキリスト教にはまっています。いわゆる普通のキリスト教なら全然かまわないのですが、話を聞くと少し違和感を感じます。違和感を覚える点をいくつか列挙します。クリスチャンの方の意見を仰ぎたいです。(1)信仰の機会があっても信仰しない人は地獄に落ちる。この点は知恵袋でも様々な意見があってちょっとわかりません。(2)霊魂の話がよく出てくる。善行によって育つものらしいです。この点は僕が抱いていたキリスト教のイメージとだいぶ異なっていて違和感があります。(3)霊魂を育てて神の愛を知るためにそれまで付き合っていた恋人とわかれた。この点が最も心配です。神の愛を理解する前に人間と恋愛関係を築いてはいけないらしいです。 クリスチャンに方にとってこれはどのように感じられるのでしょうか?

  • キリスト教カトリック 入門について

    キリスト教 カトリックの入門について 恐れ入ります。 私はこの春高校二年生になりました16歳の女子です。 簡潔に言ってしまうと題名の通りなのですが、少し詳しくお話します。 私は、自分で言うのもどうかと思いますが、この一年半年、ものすごく辛い日々が続きました。 中三のとき、大きなものではありませんが、二ヶ月ほどいじめに遭いました。 そして昨年の九月、大切な後輩を亡くしました。 そして先月、震災により被災しました。 更に先月末、もともと折り合いの悪かった母と大喧嘩になり、家出を経験しました。この時は本当に辛くて、本気で自殺も考えました。 しかし、そんな時私を救ってくれたのは、聖フランチェスコの祈りであり、賛美歌であり、イエス様のお言葉でした。 どれも偶然テレビなどで見たものでした。それでも、それを目にし、聞いたとき、私は確かに救われました。 そんなことはありましたが、キリスト教への信仰の心は今までありませんでした。(信者の皆様、すみません) ですが、一昨日、自分でも分からないのですが、何故だか突然に、信仰心が目覚めました。 とにかく祈りたい、聖人たちやイエス様の軌跡をもっと知りたい、聞きたい、学びたいと思いました。 今までも、カトリックに対しては結構好意的な意識を持っていましたが、これ程までに強い思いに駆られた事はなく、今とても戸惑っています。 私は罪深い人間です。良い行いばかりしてきたわけではありません。嘘をついたこともあります。心無いことをしたこともあります。 身体が弱いために自己嫌悪に陥ったことも何度もあります。 だからこそ、私は赦しをもとめているのかもしれません。 そこでカトリック信者の方にお尋ねしたいのですが、こういうとき、どうすればいいのでしょうか。 祈りたいという思いがあっても、祈り方が分かりません。ロザリオ(?)の使い方、聖書の手に入れ方もわかりません。 教会に行くのが一番良いのかもしれませんが、私は未成年の子供です。親は絶対、教会に行く事、わたしが宗教に入ることを許しません。そして私のような、にわかに目覚めた者が、神聖なる場所に果たして行ってよいのか・・・。 ですが一度目覚めてしまった信仰心とは恐ろしいもので、一昨日からこのことばかり考えてしまい、宿題が全く手につきません・・・。 どうか、回答お願い致します。長文失礼致しました。