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おおらかさについて

cotikuの回答

  • cotiku
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回答No.6

>日本でカースト制の階級を参考にしたというのは初耳です そうでしょう、言ったのも初めてです。 奈良時代に口分田など戸籍管理をしようとしたのが仏教導入の1つの理由ではないかと思います。学校では大陸で流行っている絢爛たる仏教美術に魅せられたなどと習ったように記憶していますが。 国教として取り入れていた仏教を廃止したのは明治政府ですね。ちょうど、ヨーロッパの工業社会に憬れて、人材を工場に集める必要があって、転居・職業の自由に踏み切ったので、それまで寺社奉行管轄下にあった戸籍管理を役所をつくってそちらに移したため、仏教の必要性はなくなったわけでしょう。仏教が廃れるとともに差別問題も無くなってきました。そう考えると日本の仏教はおおらかとは言えないかも知れません。教えの内容には良いこと言ってるのだとは思いますが。 明治時代には、キリスト教を取り入れる文化人も多かったのですが、治世に利用できないので国を上げて推進することはなかったのでしょう。 ヨーロッパの哲学は人間しか念頭に無いので契約の公平性をつきつめて自由・平等・博愛という言葉になったのでしょうか。 実際には奴隷制度を持たなかったのは日本だけぐらいですね。士農工商のあと西洋の真似をして貴族を作ったりしましたが、敗戦によってそれも無くなって、今がとても平等な時かも知れません。儒教も否定されて親に孝、君に忠なんてことも世界一ルーズになっていますしね。 仏教と儒教を捨てた日本は古代の神道、初詣や入学祈願などだけが残っていて、これがおおらかなんですね。「古事記」なんて子供には読ませませんね。 哲学は政治と関係ありますね。 これからの哲学というとき、これからの政治を考えないわけにはいきません。 中国ではあの窮屈な儒教を公務向きに、おおらかな老荘を私生活向きに使い分けていた時代が多いようです。 使い分けできるように多様な哲学があるのも便利ですね。というと一神教世界にまた何かいわれそうですが。 日本は自宅も会社の社屋も地鎮祭をしましょう。・・・これを世界に広めたいと思うほどの哲学ではありませんが、日本の自然は大陸とは比べ物にならない親しみや味わいがあるのですね。国土と先人に感謝です。

mcqgogo
質問者

お礼

回答ありがとうございます ヒンドゥーを宗教ではなく政治支配の仕組みと言った人がいましたが、宗教と政治は今でも往々にして結びついていますね 宗教は手段としか捕らえない人もいるし、それを解釈する人の立場や都合によって色を変えるので注意が必要でしょう 仏教でも戦国時代のあたりには僧兵などという者がいて結構物騒だったようですし、キリスト教もマリア信仰がなければまだまだ好戦的になっていったかもしれません 話しが宗教や政治のほうにカーブしていってしまいましたが、自然科学の母体となった西洋哲学というのは優れたもので、その自然と向き合う姿勢が今の科学文明を育てていったとも言えるでしょう 優れたものだからこそ「おおらか」に、異質なものとの融合を図る姿勢を持って欲しいと願うのです

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