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戦国時代の火縄銃の威力についての質問

caesar-x2の回答

  • caesar-x2
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回答No.12

何で突撃を阻止することに論点を置くのか意図わかりませんせんが、戦闘は一分でかたがつくわけでなく、銃撃の一回や二回で終わるものでもありません。 火縄銃の力だけで勝つなんて言ってませんし、そもそもそんなことが可能なはずもありません。 諸兵科協同で戦うことは当然でしょう。 それに私は火縄銃が主力武器だなんて書いてませんよ・・。よく読んでくださいね。 それと突撃を阻止できるかどうかは、相手の兵力とこちらの兵力、双方の士気と訓練によるので、武器が鉄砲だろうが槍だろうが、一概には言えません。当然の話ですが。 それから日本では長槍兵がパイク兵のように使われたという実際例は、私が知る限りありません。 鉄砲普及率日本一の島津家では、大将も含めてほとんどの兵士が鉄砲を持っていたわけですが、同時に刀も持っていました。 島津軍の場合は最初に銃撃してその後は抜刀して戦うという方法をとっていました。 日本のほかの大名家の鉄砲足軽も脇差をもっていますが、基本的に日本ではヨーロッパのような隊形戦術は用いていなかったので、突撃を受けた場合に隊列を維持する必要性はありません。 つまりは後退するということです。 白兵戦ではほとんど死傷しないかわりに一進一退があるわけで、大きな会戦をよく調べるとそういう話がいっぱいでてきます。 こういうことからも、防げるか防げないかだけを論じるのは、全くの机上の空論です。 現実的には撃退できなくても隊伍を減らせれば十分に効果はあるわけで、次の白兵戦で防御側に有利に働くのは目にみえています。 防御側有利の原則というのは常識です。 それが弓矢であれ、鉄砲であれ、特殊な状況以外では、会戦において防御側のほうが有利に決まってます。 クレーシーやアジャンクール、耳川、三方ヶ原、長篠の戦いなど戦例に共通するのは、敵を誘い出して攻撃にしむけた側が大勝しているということです。 戦闘とはそういうものなんです。 しかしそれと火縄銃の有効性とは全く次元の異なる話ですよ。 フリントロック式に関するあなたの説明は間違っています。 「点火方式の違い」って意味わかります? フリントロックは、火打石が当たり金にあたってだした火花が点火薬に着火して火門から装薬に達するわけですが、マッチロックは火縄の火種が直接点火薬に接触して着火するもの。 あなたは順々に発明されたと思い込んでいるようですが、実際にはホイールロックは1500年ごろにレオナルド・ダビンチの設計図が残っていることでも有名なくらいで、同時期に存在していたのです。 そしてホイールロックとスナップハンスとフリントロックとミュケレットロックはすべて火打石を使うという共通点があって、基本的に同じ武器といえるものです。 これらは進化したというよりも、各国の職人各人がそれぞれ工夫を凝らして、信頼性と効率を追求して生まれた結果なのです。 だから逆にいうと火打石を使うというアイデアは日本に火縄銃が伝わる頃にはあったということです。 ポルトガル人がもっていた頬撃ち銃は旧式なものだったわけです。 彼らは日本より先にインドや中国で売りました。 日本で爆発的に普及したのは他国が比較的平和だったのに比べ、日本では戦国時代真っ最中だったことが大きいでしょうし、日本の鋳造精錬技術の高さがあったからでもあります。 ちなみにホイールロックは構造が余りに複雑で製造が高価になるのでそもそも普及しませんでした。 マッチロックは1400年頃から、単に火種を押し付けるだけなわけですから、はっきりいえば鉄砲が発明された時点からありましたが、これはバネもつかわず構造がきわめて単純なのでずーーーと使用されつづけたわけです。 スナップハンスとフリントロックとミュケレットロック当たり金を採用しているとうことで同じですが、板バネを使っているという特徴もあるので、引き金が堅くバネの反動もあるので、火縄銃よりも照準はやや難しくなります。 このため19世紀になると狙撃銃にはダブルトリガー方式というものが登場します。これは一つめのトリガーを引いた後、軽く二つ目のトリガーに触れただけでコックが落ちるというものです。 そのぶん構造は複雑になりますが、いくつかの国が採用しました。 意外に思われるかもしれませんが、施線式のアイデアなんかも16世紀には登場していて、後装式もかなり早い段階で登場していました。 産業革命やパーカッション式や、そして金属製実包の改良までかなり時間がかかりましたが、全ての発想はルネッサンスの終わりごろにはあったものだったのです。 それを実現するのに時間がかかっただけです。 また銃の性能は専ら銃身(口径、丈、溝の有無)と発射薬(量、純度、黒色か無煙か)、弾丸(形状、ゆがみがあると弾道はカーブする)によります。 フリントロックと火縄銃では、点火方式(説明しましたよね)と銃床(火縄銃は頬のあてて撃つ、一般的なフリントロック式小銃は肩に銃床をあてて撃つ)の違いしかないわけで、性能にはそれほど差はでません。 だから大差ないといったわけです。 わかりました? 銃剣は実はさほど有効な武器ではないのです。 あれは純然たる心理兵器にすぎません。 隊列に騎馬の突入を防ぐという目的が当初のものですが、細く折れやすい金属でできていたので格闘戦ではあまり役に立ちませんでした。 実際にナポレオン戦争時の銃剣による死傷者は全体の1%にも満たないものであることが、当時の調査報告によってわかっています。 ちなみにいうとこの時代を何度も引き合いにだすのは、軍事や戦闘の結果を科学的に解析するようになった最初の時代だからです。 あと火線防御?も何もないでしょう。「弾丸は綿でできているわけではない」という言葉がありますが、射程が短くキルゾーンが狭くてもその範囲で殺せれば十分。 あなたは突破を完全に防ぐことにこだわりすぎです。戦闘はそんなに簡単じゃないです。 それから皮肉って???? あなた自分でも > 通常鉄砲隊は、2列ないし3列縦隊で使用されます。 って言ってませんか? 一列に並べた長さよりも短ければ、当然、その範囲に収まるような隊形で配置されているとわかりませんでしたか。 1000人があなたの言うように二列三列になるとしたら何メートルになるの。 ま、たとえ話だから詳しくいってもしょうがないとおもって軽く済ませたのですが・・。

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